亡国の草笛

うらたきよひこ

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第十章 休日

第二百三話 休日2

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「客人をお連れしました」
 ドアをノックするリギルの声を聞きながら、エリッツはすっと背を伸ばす。何度訪れても中の間は緊張する。特に今回は休日に自室へ呼ばれたのだ。自室の他に持ち帰った仕事などをする部屋もあるらしい。だからこちらは完全にプライベートな空間というわけだ。そんなシェイルの自室にエリッツはこれまで一度も足を踏み入れたことがなかった。どういうわけか寝室には入ったことがあるが。
 今日、時間のあるときでいいからお茶を飲みに来ませんか、シェイルからそういう誘いがあるとリギルに伝えられ、エリッツはすぐさま支度を整えて、そのままリギルについて中の間を訪れた。会えるなら用事があっても最優先で駆け付ける。昼寝の予定しかないならなおさらだ。
 部屋の中からはまだ返事がない。
 中の間はそんなに広い建物ではない。シェイルの自室は寝室のすぐ隣のようである。その隣は仕事部屋だろうか。こぢんまりとした建物はむしろ過ごしやすそうだ。エリッツにとっての理想の家はレジス城下に来てしばらくの間滞在した小さな森の家だ。中の間は木々が多くて雰囲気が似ている。
 リギルが再度ドアをノックしようと手をあげたそのとき、ようやく中から「どうぞ」というシェイルの声が聞こえた。声だけでエリッツは幸せな気分に満たされる。休日までシェイルに会えるなんて。
 レジスでは特定の宗教が定められているわけではないが、暦は太陽神殿が出しているものを採用している。国内は農耕地帯が多いので、太陽の動きに合わせた暦は都合がいいのだ。そして今日は数日おきにある農作業で疲れた体を休ませるための休日だ。暦にしたがって、農作業ではないが一応城勤めも休みになる。
 リギルはあげた手をそのままドアノブにかけ、「失礼します」と言いながら扉をあけた。しかし、その瞬間にハッとしたように身を固くする。
 エリッツがリギルの背後から中を見ると、シェイルは窓際に腰掛けて何か作業をしていた。窓にはやはり鉄格子がはまっていてエリッツは少し暗い気分になる。外には警備兵もいることだし、窓から逃げるということは現実的に考えにくいが、これもレジス側のロイに対する姿勢の表れであるような気がした。
「随分と早く来てくださったんですね。どうぞ。適当にかけてください」
 格子の隙間からさす夏の光は、中の間の樹木でやわらかくなり、シェイルの手元にゆったりと降りてきている。
 声をかけられてそのままお茶を飲みに来るとは思わなかったのだろう。手にはたっぷりとした布地を持って、猫足の洒落たデザインの小テーブルには細々とした道具類が置かれていた。繕いものだろうか。中の間には使用人たちもいるようだが、シェイル自身がそういった作業をするのは少し意外だった。
 すぐにでも駆け寄りたかったが、前方のリギルがなぜか固まったまま動かない。どうしたのだろう。
「リギル、ここはレジスですよ。客人にお茶をお願いします」
 それでも動けない様子のリギルを見てシェイルは、はっと何か思い出したような顔で手をたたく。「今日は土の眠る日ですね」と言いながら、腰をあげた。暦の上での休日のことだ。必要最低限の農作業しかしないので土もゆっくりと眠って力を蓄えるのだという。リギルも今日はお休みということだろうか。
「め、めっそうもない! すぐにお茶を淹れてまいります!」
 固まっていたリギルは急に悲鳴のような声をあげて、大慌てで部屋をとびだした。「休日なのでリギルも一緒に……」と言いさしたシェイルの声はたぶん届いていない。
 せわしない人だなと思いながら、エリッツはようやく部屋に入ることができた。
「――せまいですけど、どうぞ」と、シェイルは気を取り直したように椅子をすすめてくれる。
 家具は古めかしいが趣味のよいものがそろっている。座り心地のよさそうな数客の椅子とテーブル、裁縫道具らしきものがのせられている小テーブル、それから本棚だけというシンプルさだ。しかし本は多くて妙に落ち着く。何となくあの森の家を彷彿とさせる本棚だ。本の種類が無茶苦茶である。あまりきょろきょろしては失礼かと思ったが、やはり気になった。執務室は仕事関係の書籍と資料ばかりだが、ここの本棚はざっと背表紙を見ただけでも画集や詩歌、小説、難しそうな学術書まであるのがわかる。エリッツの好きな旅行記も少しあった。印象としては持ち込まれた本をとりあえず全部本棚にしまったという感じだ。一応、きちんと分類されているようなので部屋の主人はどういう本なのか把握して所有しているようだ。しかもレジスの本だけではなく、ロイの言葉で書かれているものや、ラインデルの文字、エリッツも知らない異国の文字の本まである。シェイルも本が好きなのだろうか。それとも元々この部屋にあったものなのだろうか。ここまで当人の趣味がわかりにくい本棚というのもめずらしい。エリッツはまだシェイルのことがよくわかっていないのかもしれない。
「気になる本があったらお貸ししますよ。エリッツの気にいるものがあるかもしれないと思って、ここへ呼んだんです」
 シェイルは作業をしていた布を丁寧に折りたたんで作業用らしきテーブルを片付けている。
「刺繍をしていたんですか?」
「ええ。そうです」
 なぜか苦笑いをしている。アレックスもロイの刺繍に興味津々だったし、アルヴィンもシェイルに刺繍してもらった服をことさら自慢げに着ていた。ロイにとって刺繍というのは大事なものなのだろうが、これまで実際に刺繍をしているロイを見たことがない。そのことを告げると、シェイルはたたんだばかりの布地を少し広げて見せてくれる。窓からの光に光沢のある糸がきらきらと輝いて美しい模様を浮かびあがらせていた。エリッツは思わず吐息をもらす。
「ロイでは主に家長がまじないとして刺繍をします。なのであまり家の外の人にその姿を見せるものじゃないんですよ。まじないですからね」
 だからリギルはあんな見てはならないものを見てしまったというような反応だったのか。それにしては大袈裟だった気もしたが。
「レジスでは別になんということもないでしょう」
「そうですね。針仕事は女性がやっているイメージがありますが、男性でもやりますし、人前でどうとかは全然気にしたことがないです」
 実際ゼインなんかは針仕事が得意だと聞くし、見たいと頼めば文句を言いながらも目の前でもやってくれそうだ。
 エリッツの言葉にうなずいて、シェイルは手のひらで再度椅子をすすめてくれる。素直に腰かけたエリッツに微笑み「リギル、ちょっと様子が変だったでしょう」と口を開いた。
「それです。気になってたんです。なんであんなにびっくりしてたんですか?」
「それはわたしが、刺繍をしている途中でエリッツを部屋に入れようとしたからですよ。言ったでしょう、人前ですることじゃないんです」
 シェイルは笑っているが、エリッツにはいまいちピンとこず「はぁ」と曖昧な声をもらした。人前で刺繍をしないというのはそんなに大事な決まりごとなのだろうか。
「ロイの女の人は刺繍はしないんですか?」
 その問いにはなぜかシェイルは少し気まずそうな顔をして黙ってしまう。男の人の仕事だと決まっていることが不思議だったのだが、変なことを聞いてしまったのだろうかと不安になりはじめたところで、ようやくシェイルが口を開く。
「女性でも家長であれば刺繍をすることがあります。まじないは気候が厳しいロイでは欠かせないものでしたから、家の誰かがやらなければなりません。それにこの刺繍のパターンは家によって違うんです。小さな村であれば、袖の刺繍である程度どこの家の人間かわかるんですよ。これは王家の刺繍パターンのひとつです」
 アレックスが欲しがるのもわかる。本当に素晴らしい刺繍だ。蔦のような植物の地紋の中に剣や盾、熊のような勇ましいモチーフが並ぶのはいかにも王家らしい。しかしよく見ると小動物や虫だと思えるものもある。その凝ったデザインと複雑な模様は、どうやって針を入れているのかもよくわからない。アルヴィンの袖に入っていた刺繍もきれいだったが、全然雰囲気が違うように思えた。
「――なので簡単に真似をされては困るというのもその理由ですね」
 エリッツはそこでぽんと手を叩いた。
「だから家長が家族以外には見られないように刺繍をする文化があるんですね」
「ええ、まあ、そういうことです」
 それに対してシェイルはなんとなく奥歯にものがはさまったような相槌を打つ。
「王家の刺繍パターンは種類がいろいろあるんですか?」
 エリッツはものめずらしくて、シェイルの手元をのぞきこんだ。
「これは式典に使用する正装用のパターンです。高価な糸をたくさん使うので少し贅沢ですね。普段着はもっとシンプルですよ。それに女性の袖にいれる刺繍はまた違ったりもします」
 ほほうとエリッツは息を漏らした。エリッツが旅行記などを好んで読んでいるのには、こういった異国の文化を知るのがおもしろいからでもある。
「アルヴィンの袖のパターンはどうやって考えたんですか? 王家のものではないんですよね」
 蝶や小動物がすっきりとデザインされていたアルヴィンの刺繍は今見せてもらっているものとは全然違う。普段着っぽさがあり、モダンでおしゃれな感じだった。
「そうですね。アルヴィンが両親の袖にリスが刺繍されていたらしいことを知っていたんで、そこからパターンを考えました。見る人が見たらわたしが刺繍したことがわかるかもしれません」
「え、そんなことわかるものなんですか?」
「若い人は気にしないのかもしれませんが、ロイの老人は他人の刺繍を本当によく見ていますからね。功績のあった者は王家から刺繍の絵柄を下賜されることもあるんです。そういうこともあって、昔は刺繍の美しい家に娘を嫁がせようと、親たちは男の袖に目を光らせていたと聞きます。もしかしたら今もそうかもしれませんけど、わたしは長くロイの人々からは離れて過ごしていますからね。そういう話であればダフィットの方が詳しいかもしれません」
 とても興味深い話だ。ダフィットにも聞いてみたいが、あまり好かれてはいないのでアルヴィンに聞いた方がいいかもしれない。アルヴィンは若いのにロイの古い文化にも詳しいのだ。
「ダフィットは怖いのでアルヴィンに聞きますね」
 休日のゆるんだ雰囲気にのせられて、つい考えていたことをそのまま言ってしまう。
 シェイルは小さく笑いながら「ダフィットは子供が嫌いですからね。わたしも子供の頃、蹴られたりしましたし」と、さらりとすごいことを言う。シェイルを蹴るダフィットは全然想像できない。
「子供を蹴るんですか。それはかなり重症ですね……。いや、あの、おれは子供じゃないんですけど」
 エリッツの反論にシェイルはまた楽しそうにくすくすと笑った。エリッツもつられてにこにこしてしまう。このくつろいだ空気がいつまでも続けばいいのに。やはり休日は素晴らしい。
「とにかく刺繍の上手な男の人はロイではもてるということですね」
 もう少し刺繍のことを聞きたくて話を戻したエリッツだったが、シェイルの反応は微妙だ。 
「――そうですね」
 言いながらするりと目をそらす。先ほどから何かはぐらかされているような感じがする。ロイの刺繍にはまだ深い意味が隠されているのだろうか。
「そういえばエリッツ、今日は少し雰囲気が違いますね。私服だからでしょうか」
 エリッツは恥ずかしくなって頭をかいた。
 先日、兄がとうとう服を送ってきたのだ。兄の家の使用人らしき男が数名、大量の服を持って訪ねてきたので、エリッツはあわてるやら、困惑するやら、恥ずかしいやらで散々だった。もちろん兄の気づかいはありがたいのだが程度というものがある。
 エリッツはベッドと日用品を置く棚くらいしかない寮の部屋を見せて、どうがんばってもたくさんの服は収まらないことを理解してもらった。普段着に使えそうな服を数着受け取って、さらに使用人たちが兄に叱られては気の毒なのでエリッツが一筆したため、ようやく帰っていただいたという次第だ。
「お兄さんが?」
「はい。なんかおれの服をやたらと仕立てる癖があるみたいで……」
「趣味がいいですね。よく似合ってます」
 言葉はやさしいがなぜか無表情だ。エリッツが意味をとりかねてぼんやりしていると、シェイルは「脱いでください」と、真顔で言った。
「え? いいんですか?」
 いいながらエリッツはめずらしく素早い動きを見せる。
「エリッツ、待って。上着だけです」
 シェイルはあわてたように言いそえる。
「上着だけ脱いでも何もできません!」
 エリッツは真剣な顔で反論するが、シェイルは少しあきれたように「刺繍ができますよ」とほほえむ。エリッツはぴたりと手をとめた。すでに上半身は裸だが。
「刺繍をしてくれるんですか」
「凝ったものだとすぐにはできませんが、簡単なものなら大丈夫ですよ」
「おれ、ロイじゃないけどいいんですか?」 
「刺繍は別にロイだけのものではありません。何かの感謝の印に他国の人へ贈ったり、村を訪れたよき旅人を送り出すときに、魔除けとして入れてあげることもあります」
 言いながらシェイルは脱ぎ捨ててあるエリッツの上着を拾いあげて膝にのせた。
「両袖に小さなモチーフを入れましょう」
 そう言うや否や、早くも針を入れている。エリッツは服を着ることも忘れて見入ってしまった。
 そのときちょうどリギルが戻ってきたようで、ドアがノックされる。シェイルはなぜか笑いを含んだ声で返事をした。何がおかしいのだろうか。
「困りました。リギルは意外と堅物ですからね」と、つぶやく。
 入ってきたリギルは先ほどと同様にドアノブに手をかけたまま固まっている。
「シェイラリオ様、そ、それはあまりに破廉恥です」
 エリッツは自分が上半身裸だったのを思い出して「すみません!」と、あわてて脱ぎ捨てた服をかき集める。リギルの方もなぜか焦って茶器を持ったまま部屋を出ていってしまった。
 二人がばたばたとあわてているのを見てシェイルは耐えかねたように笑い出す。こんなに笑っているのは初めて見る。
「ね。言ったでしょう」
 エリッツはぽかんとしたままその場にたたずんでいた。エリッツは下心丸出しで脱いでいたので確かに破廉恥だが、リギルは何をそんなにあわてていたのかいまいちわからない。
「片方できましたよ」
 笑いながらも手は進めていたらしい。シェイルの手元を見ると、金色の蔦のような模様が袖を半周するように刺繍されていた。とてもシンプルだが、袖の手のひらの側に体を伸ばした猫が隠れている。蔦と伸びた体、丸くカーブを描く尾が一連の流れになっていて、よく見ないと猫がいることに気づけない。小さな秘密を手に入れたみたいで心がわき立った。
「エリッツは猫が好きみたいなので。気に入ってもらえましたか」
「もちろんです!」
 しかしなぜ手のひらの側なのだろうか。逆側なら何かするごとに刺繍が視界に入って幸せなのに。これでは手を持ちあげて見ようとしないと見ることができない。まぁ、ことあるごとに見ればいいのだが。
 エリッツはシェイルがもう片方の袖に刺繍を入れ終わるまでじっと見ていた。シェイルは本を読んでいてもいいとすすめてくれたが、作業を見ていたかったのだ。職人のように無駄のない手つきはずっと見ていても、ちっとも飽きない。あの美しい手がやわらかな光の中、銀の針と金の糸を操っている様子は、何にもかえがたくすばらしかった。
「本当にずっと見ているだけでしたね」
 シェイルは糸を切りながら少しあきれたようにつぶやいた。それから上着を広げてエリッツに着せかけてくれる。
「アルヴィンに自慢します」
 エリッツがひとしきり喜んでいるところに、またドアがノックされる。そういえば、リギルは何をしていたのだろうか。
 入室の許可を得たリギルは「お茶を淹れ直してきました」と、そろそろと部屋に入ってくる。エリッツは思わずリギルをじっと見てしまった。
 着替えている。
 いつもリギルは城勤めの事務官と同じような服装なのだが、今はロイの伝統的な袖の長い黒い服を着ていた。袖にはきちんと成人である証の刺繍が入っている。よく見せてほしいが、ちょっと頼みにくい。
「はじめて見ました。よく似合っていますね」
 シェイルも少し驚いたように口を開く。 
 リギルは何か思い詰めたような表情で粛々とテーブルに茶器を並べている。
「ありがとうございます」
 シェイルはそんなリギルにほほえみかけ、お茶のカップを手にした。そういえばのどが乾いている。刺繍に見入ってしまって気づかなかった。エリッツもリギルに礼を言って目の前のカップを持ちあげる。
「リギルも一緒にどうですか?」
 シェイルが空いている席を指してすすめたが、リギルは黙ったままだ。どうしたのだろうと、エリッツはシェイルと顔を見合わせた。
「あの!」
 リギルが突然口を開くので、エリッツはびっくりして腰が浮いてしまう。
「私の袖にも刺繍を入れていただくことはできないでしょうか!」
 普段物静かで、どちらかというと気弱な様子のリギルが大声を出すので、シェイルも目を丸くしている。
「でもそれは、リギルのお父上の……」
 シェイルはリギルの袖を指差して戸惑ったような声をあげるが、それを遮るようにリギルが「見てください」と、両袖をシェイルにつきだした。
「ああ、これは……」
 まるで懐かしむようにシェイルはリギルの袖に触れる。袖に銀糸で冬空のすじ雲のような軽やかな地紋がほどこされ、黒紫の糸で細身の犬が影絵のように配されている。よく見ないとモチーフの存在に気づけない。シンプルなのに凝ったデザインだ。しかし服は上等な布であることはわかるものの、全体的にくたびれているように見える。
「父の……アルサフィア王の手によるものですね」
「はい。私は早くに父を亡くしました。王は父のことをかなりかってくれていましたが、帝国の調査に出て、その後遺体で戻りました。王は、私と母に『申し訳ない』と頭を下げられたのです。そして私の後見人となると約束してくださいました。そして私が十四になった年に本当にこれを、王自ら袖に刺繍を入れてくださったのです」
「それは……知りませんでした」
 シェイルはかみしめるようにうなずいた。
「少しでいいのです。出先で何かあったとき、アルサフィア王の魂とシェイラリオ様のことを想えれば慰めとなります」
 なんだか重いことを言いはじめた。シェイルも少し困ったような表情だ。
「リギル。あなたが命を賭してアルサフィア王に仕えたお父上のことを誇りに思っているのはわかりますが……」
 シェイルはそこで小さくため息をこぼす。
「わたしが何も知らないと思ってるんですか。昼間に何をしているかは報告をもらっていますが、あなたは夜も……。今後あまり危険なことはしないと約束してくださるなら、刺繍を請け負います」
 リギルははじかれたように顔をあけた。いつも通り困ったような顔をしている。
「わたしはあなたの作る食事がないと困るんです」
 シェイルがそう付け足すと困った顔がさらにゆがんだ。そして絞り出すような声で「はい。お約束します」と、言った。

「リギルさん、危険なことって何ですか?」
 エリッツは夕食までごちそうになり、固辞したにもかかわらずリギルに寮まで送ってもらっていた。危険なことなどはないが、中の間というのは特殊な場所だ。出入りする際にいろいろと不都合な状況にみまわれることもあるらしい。確かに王族の住まうような城の奥から下っ端の事務官がひょっこり出てくるのを目撃されたら、場合によっては大惨事である。
「シェイラリオ様にもバレていましたしね。――言ってしまえば、ちょっとした調べ物をしていたんです。はじめはガルフィリオ様のことを調べていました」
 いつも通りの困り顔でリギルは訥々と話しはじめた。ガルフィリオ様はシェイルの叔父にあたるちょっと変なおじさんだ。
「レジスがガルフィリオ様についての不都合な事実を隠している疑いがあったので。しかし結局何も見つかりませんでした。ただそれが『ない』ことを証明するのは難しいのです。レジス王や王子たちのあずかり知らぬところで、ガルフィリオ様が殺害された可能性も含めかなり徹底的に調べたのですが、結局何も出ませんでした。シェイラリオ様が危険といったのはその後のことです。私はその延長線上でレジス内部の情報も集めはじめました。シェイラリオ様の処遇やロイの保護に関して都合の悪い取り決めがされては困るんです。シェイラリオ様はいまだレジスの捕虜という扱いになっていますから」
 調べるということはつまりマリルやゼインたちと同じようなことをしているということだろうか。エリッツはまじまじとリギルを見てしまった。失礼かもしれないが、そういった切れ者という雰囲気は感じられない。
「――あの、気を悪くしないんで欲しいんですが、アルメシエの騒動のときに……」
 全部は言わせてもらえなかった。
「あれは最初から最後までレジス王の気まぐれです! 調べたところで何も出ませんでした。あれをやられてはこちらはお手上げです」と、常に控えめな様子のリギルにしてはめずらしく言葉をかぶせてくる。シェイルを危険な目に遭わせてしまったことが、よほど悔しかったらしい。 
 先日、突然シェイルが城から消えた一件ではリギルもエリッツたちと一緒になってオロオロしていた。あのゼインですらシェイルに何があったのかわからないといったくらいだ。本当にどうにもならなかったのだろう。逆にどんなにリギルがシェイルを守ろうとしても、陛下の気まぐれでどうとでもされてしまうということになる。エリッツは思わず身震いをした。
「そうだ、刺繍のことを聞いてもいいですか?」
 嫌な想像が膨らんでいく前にとエリッツは話題を変える。しかしリギルの方はさらに困った顔になる。
「ロイにとって刺繍をする姿を見られるというのは、そんなによくないことなんでしょうか」
 リギルは「ここはレジスですから」と自分に言い聞かせるようにつぶやいてから口を開く。
「ロイで刺繍針は男性器の象徴になります」
 エリッツはすぐには意味をとりかねてぽかんとしてしまう。
「運針により刺繍を生み出すというのは、つまり性行為のようなものですね。人前ではやらないでしょう。一人前の男が人前で刺繍するとなると、『自分はそれが上手い』とアピールするような意味になります。あまり上品な行為ではありません」
 どうしよう。たくさん見せていただいてしまった。いまさらどきどきしてきた。もしかしてあのまま全裸になってもよかったのではないか?
「あの、この刺繍、手のひらの側に入れてもらってるんですけど、これは何か理由があるんですか?」
 リギルは瞬きをしながら、エリッツの袖の猫の刺繍をじっとみる。もともと下がりがちな眉がさらに下がった。
「ロイの特殊な刺繍パターンということではありませんが、考えられるとしたらあなたが向き合っている人に見せつけるためではないでしょうか」
「え? どういうことが全然わかりません」
「――つまりですね」
 リギルはまた戸惑ったように言葉を詰まらせる。
「向き合ってお茶を飲んだり、食事をとったりすると、腕を持ちあげるたびに相手からその刺繍がよく見えるんです。成人の刺繍とはまた違いますから、この人には袖に刺繍を入れるような人物が後ろについているという、そういう意味になるんじゃないでしょうか。しかも見る人が見ればシェイラリオ様の手による刺繍とわかります。おいそれとあなたに余計な手出しはできないしょうね。しかしそれはロイにしか伝わらないでしょうから、真意は分かりかねます」
 よくわからないが、そこはかとなくうれしい。
「アルサフィア王の手ほどきがあったのでしょう。あんな短時間で仕上げたとは思えない。見事な腕前です」
 リギルはエリッツの袖をじっと凝視している。
「リギルさんのも楽しみですね」
 リギルははっとしたようにエリッツの顔を見ると、めずらしく満面の笑顔で「はい」とはにかんだような声をもらす。
 シェイルはすぐにリギルの刺繍に取りかかるといっていた。アルサフィア王が入れた刺繍の邪魔をしないように細めのモチーフを袖口ぎりぎりに入れていくつもりだとリギルに説明していた。エリッツもでき上がりを見るのが楽しみである。
 ロイの伝統的な文化に触れ、リギルの意外な「仕事」も知ってしまった。何よりシェイルと一日のんびりした時間を過ごせて幸せである。
 エリッツは大満足で眠りについた。
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