婚約破棄されて捨てられた私が、王子の隣で微笑むまで ~いえ、もうあなたは眼中にありません~

有賀冬馬

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 その日、わたしは朝から孤児院の子たちと一緒に、小さな畑を耕していました。

 「ねー、セシリアおねえさん、こっちの種ってこっちに植えていいのー?」

 「うふふ、それはね、もうちょっと日が当たる場所の方が元気に育つのよ。こっちにしましょうか」

 わたしはしゃがみこんで、土で少しだけ汚れた小さな手を優しく握り直しました。
 子どもたちの笑顔に囲まれて、こうして一緒に作業する時間が――最近では、なによりの幸せになっていました。

 最初は、お貴族様が何しに来たんだ、と警戒していた町の人たちも、今ではわたしを見ると笑顔で手を振ってくれるようになって。

 「ほら、今日も来てるぞ、あの真面目な侯爵令嬢さん」

 「お菓子の差し入れが楽しみでさ、子どもたち大喜びなんだよ」

 ……セシリア・フォン・リヒト侯爵家の令嬢として生まれ、貴族の義務だとか、格式だとか、ずっと気にして生きてきたわたしが。

 今では、泥んこになったエプロン姿で畑にしゃがみこんで、子どもと一緒に笑っている。

 「なんだか、不思議……」

 小さくそうつぶやいたとき、ふいに耳元にふわりと風が吹いて、髪がほどけた。

 「あっ……」

 慌ててまとめ直そうとすると――

 「失礼、髪紐が風に飛ばされていたよ」

 低くてやさしい声がして、振り返るとそこには一人の男性が立っていました。

 凛とした紺の軍服。深い金色の髪。鋭いのにどこか温かみのある青い瞳。

 その姿を見て、わたしは思わず息を呑みました。

 「……あの、貴方は……?」

 「王宮の者だ。名は、アルノルト。第二王子だよ」

 「お、おうじ……さま……っ!?」

 驚いて慌てて立ち上がろうとしたその瞬間、足がもつれて見事に転びました。

 「きゃっ……!」

 「っとと……危ない」

 ふわっと、わたしの腰に手が添えられた。
 目の前に、すぐ近くに、その青い瞳があって――わたしは一瞬、何も言えなくなりました。

 「お怪我は……? 失礼、驚かせてしまったね」

 王子様は、やさしい声でそう言って、わたしをそっと支えてくれました。

 ……なんで、こんな人が……こんな場所に……?

 頭が混乱している中、アルノルト王子は小さく笑って、言いました。

 「少し前から、視察に来ていたんだ。市井の暮らしや、孤児院の実情を見ておきたくてね。……でも、正直な話、驚いたよ」

 「……え?」

 「侯爵令嬢が、こんな場所で、泥にまみれて子どもたちと一緒に笑っている。
  その姿が、あまりに誠実で……あまりに、まぶしかった」

 心臓が、どきん、と跳ねた。

 「そ、そんな……わたしは、ただ……自分にできることをしているだけで……」

 言いながら、自分の格好を見た。
 土で汚れた服。ほつれた袖。
 貴族の娘が着るような服ではない、働き手の姿。

 恥ずかしくて、下を向きかけたわたしに、王子様は優しい声で続けました。

 「君のような人を、尊敬する。地位に縛られず、人を助け、愛されている。……本当に、強い人だ」

 「……っ」

 なぜだろう。
 あんなに、婚約者だったエドガー様に否定されたのに。
 こんなふうに、誰かに“認められた”って思った瞬間、胸の奥がじんとあたたかくなる。

 そのあと、アルノルト王子は、孤児院の中まで案内してほしいとおっしゃり、わたしは緊張しながらも、一つひとつ丁寧に説明して回った。

 「この子はケーキが好きで、でもお腹をこわしやすいんです。だから牛乳は少なめに……」

 「ふふ、なるほど。君は本当に、よく子どもたちを見ているんだな」

 そんなふうに、王子様は何度もわたしに優しい言葉をかけてくださった。

 まるで、世界がひとつだけ変わったような一日だった。

 * * *

 その夜、部屋で一人になったとき。
 わたしは、王子様の言葉を何度も思い返していた。

 「……あんなふうに……言ってもらえるなんて……」

 うれしくて、信じられなくて。
 でも、わたしの胸の中には、確かに小さな自信の芽が、そっと芽吹いていた。

 エドガー様に言われた「地味で退屈」という言葉が、まるで別の世界のもののようだった。

 「……わたしにも……できることが、あるのかもしれない」

 ベッドに横たわりながら、そっとつぶやいたその声が、夜の静けさに包まれていった。

 外はもうすっかり暗く、窓の外に小さな星がまたたいている。

 その光が、どこかで未来を照らしてくれているような――そんな気がしたのです。








 その知らせを聞いたのは、少し肌寒い秋のはじまりでした。

 「……エドガー様が、破産ですって……?」

 あまりにも突然で、わたしは思わず立ち止まってしまいました。
 町の市場で買い物をしていたとき、顔見知りのご婦人がそう話しているのが耳に入ったのです。

 「そうそう、あのお騎士様よ。ほら、最近公爵令嬢と婚約したって、豪華な馬車で騒いでたじゃない?」

 「あらまあ。あの人、いっつも偉そうにしてたけど……まさか、そんなことに」

 「なんでも、あの公爵令嬢がとんでもない浪費家だったらしくてね。お屋敷の改装だの、ドレスだの、舞踏会だの、毎週開いてたんですって」

 「貯金どころか借金まみれだったって話よ。しかも最近は浮気までされてたとか。あらまあ、お気の毒に……」

 わたしは静かに、その場を離れました。

 ――エドガー様が……。

 あれほど自信満々で、華やかで、自分が一番偉いような顔をしていたあの人が。
 婚約を破棄したとき、「地味で退屈なお前なんて、俺には釣り合わない」って、そう言い放ったあの人が――

 どうして、こんなことに……。

 いえ、違う。
 それはもう、どうでもいいことなのかもしれません。

 * * *

 数日後、わたしは孤児院への寄付の手続きのために、王宮へ向かうことになりました。
 王子――アルノルト殿下が手配してくださったのです。

 護衛の兵士たちに見守られながら、馬車の窓から外の景色を見ていると、胸が少しだけどきどきしました。

 こんなふうに、堂々と自分の足で未来に向かって歩けるなんて――あの頃のわたしからは、想像もできなかったから。

 けれど、王宮の門の前で、思いもよらない人影が目に入りました。

 「……あっ……」

 ……それは、見る影もなく痩せこけて、ボロボロの外套を着た、エドガー様でした。

 「……セシリア……!? セシリアじゃないかっ!!」

 汚れた手を伸ばして、必死に駆け寄ってくる姿。
 その姿に、わたしは思わず目を見張ってしまいました。

 「お、お待ちください、殿下のお連れの方に近寄っては――!」

 護衛の騎士が彼を制止しようとしますが、エドガー様はその手を振り払って、必死にわたしの名前を呼びました。

 「お願いだっ! もう一度、やり直せないか!? あの女とは別れたんだ、もう……っ、俺にはお前しかいないんだよ……っ!」

 ――なんて、都合のいい話なのでしょう。

 以前のわたしなら、きっと胸を痛めたかもしれない。
 でも今は違います。

 「……もう遅いですわ」

 わたしは、まっすぐエドガー様を見て、はっきりと言いました。

 「あなたが私を捨てたとき、私はたしかに地味で、不器用だったかもしれません。けれど、それでも……私の中には、優しさも、覚悟もあったのです。あなたには、それが見えなかっただけ」

 「ちがっ……! 俺が間違ってた! 許してくれ、頼む、セシリア……!」

 必死にすがりついてくるその姿に、どこか滑稽さすら感じてしまいました。

 ――これは、彼自身が選んだ道の果て。
 わたしを見下して、華やかさだけを追いかけて。
 結果、何もかも失ったのです。

 「……王子殿下がお待ちです。失礼しますわ」

 わたしはそれだけ告げて、彼に背を向けました。

 「ま、待ってくれ! セシリアァァァ!!」

 後ろで、必死に名前を叫ぶ声が聞こえました。

 でも、もう振り返りませんでした。

 その声は、わたしの人生にはもう必要ないものだから。

 * * *

 王宮の中庭で、アルノルト殿下が待っていてくれました。
 澄んだ瞳で、やさしく微笑んで。

 「大丈夫だった?」

 「はい……大丈夫です。むしろ、すっきりしました」

 そう答えたわたしに、殿下は優しく手を差し伸べてくれました。

 「君のような人が、報われない世界ではいけない。
 どうか、これからの人生を、私と共に歩んでくれないか」

 ……まるで夢のような言葉。

 わたしはそっと、殿下の手を取りました。

 「……はい。よろしくお願いいたします、殿下」

 そうして――わたしは、ようやく本当の幸せに向かって、歩き出したのです。
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