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しおりを挟む「もう、限界だよ……」
朝の冷たい空気が、窓から差し込む光といっしょに私の心も冷やす。王宮の高い窓から見える広い庭は、今日も美しく輝いている。でも、私はその美しさを感じる余裕なんて、もうない。
毎日毎日、あの令嬢たちの嫌がらせに耐えてきたけど、もう無理だって。目の前で笑いながら、私の服の裾を引っ張ったり、わざと私が運ぶお盆を倒したり……。
「ねえ、そんなところにいるなら、ちゃんと仕事しなさいよね」
あの声は、貴族令嬢のカミラ。私のことを、いつもバカにしている。彼女の周りには、同じように意地悪な顔をした令嬢たちが何人もいて、まるで彼女を楽しませるために、毎日いじめを繰り返しているみたい。
「……私、もう辞める」
夜のうちに決めていた。目を閉じて何度も言い聞かせてきた言葉。だけど、いざ口にすると、涙が止まらなかった。
部屋の中で小さく震えながら、私はそっと辞表を書いた。書き終わると、手が震えて文字がにじんだけど、もうやり直せない。これは私の決意。
朝、侍女長に会いに行った。
「わたくし、侍女の職を辞めたいのです」
侍女長はびっくりした顔で私を見た。
「どうして? まだ若くて将来があるのに」
「……いえ。私にはもう耐えられません。王太子様のそばにいるのは、幸せなことだけど、それ以上に辛いことが多すぎて」
言葉を選びながら、私は説明した。嫌がらせのこと、孤独なこと、でも自分の弱さを責めたことも。
侍女長は黙って私の話を聞き、最後に小さくうなずいた。
「わかりました。あなたの気持ちを尊重しましょう。今日で終わりにしていいわ」
その言葉が、どれほど私の胸を軽くしたか。
あの重い鎖が、少しずつほどけていくような気がした。
王宮を出る時、振り返った。いつもは煌びやかなドレスに包まれた場所も、今日はただの建物に見えた。
「さよなら、王太子様。さよなら、あの令嬢たち」
でも、私の心はまだざわついていた。
これから、私は何をすればいいのだろう?
これが本当に幸せに続く道なのだろうか?
そう思いながら、私は一歩ずつ、知らない未来へ歩き出した。
王宮を出て、私が最初に向かったのは、以前お世話になった仕立て屋さんの家だった。
王宮に入る前、ほんの少しの間だけ働いていたことがある。そこの奥様が、優しくて、暖かい人で……。私は思い切って手紙を書き、事情を話した。すると、「うちの空き部屋を使いなさい」と言ってくださったのだ。
そこは王都の外れ、少し歩けば市場が見えるような場所。人も道も、王宮のようにきらびやかではないけれど、その分、安心できるにおいがした。
「ここなら、大丈夫。もう、誰も私を笑ったりしない」
そう自分に言い聞かせながら、私は玄関の小さなベルを鳴らした。
奥様が出迎えてくれて、私をぎゅっと抱きしめてくれたとき、私は何も言えなくなった。ただ涙があふれて、止まらなかった。
「よしよし、大変だったのね。よく来たわ、リーゼ」
奥様の言葉は、まるで春の陽だまりみたいに心に染みた。王宮では、誰にも甘えられなかった。どれだけつらくても、「王太子付きの侍女なのだから」と、歯を食いしばって笑っていた。でも、もう頑張らなくていいんだって、やっと気づいた。
案内された部屋は、窓がひとつだけある、質素だけど清潔な部屋だった。白いカーテンと、木でできた小さな机。それから、片隅に置かれたベッド。
「わあ……」
思わず声が漏れた。豪華な装飾も、ふかふかの絨毯もないけれど、なんだか心がほっとする。ここなら、安心して眠れそうな気がする。
「ここで、しばらく暮らしていいの……?」
「もちろんよ。あなたはよく頑張ったんだもの。ここでは、好きなだけゆっくりしていいのよ」
奥様のその言葉に、私は何度もうなずいた。王宮での日々は、本当に大変だった。ひとつ間違えたら、即刻叱られたり、誰かの標的になったり。毎日が戦場みたいだった。
その晩、私ははじめてぐっすり眠れた。ふとんに包まれて、静かな夜風を感じながら、目を閉じる。誰にも呼ばれない。誰にも見張られていない。私は自由なんだ。
*
朝、目を覚ますと、なんだか夢を見ていた気がした。王太子様の夢。あの人の優しい目が、私をじっと見つめていた。
「リーゼ、今日もありがとう。君がいてくれて助かった」
そんな言葉を、何度もかけてくれた。あの人だけは、令嬢たちとは違った。けれど、それでも私は……。
「ダメ。もう、戻らないって決めたんだから」
自分に言い聞かせるように、私は小さくつぶやいた。
朝ごはんは、奥様が作ってくれたあたたかいスープとパン。それを食べながら、私は少しだけ未来のことを考えた。
これから、どうやって生きていこう。もう侍女ではないし、王宮にも戻らないつもり。でも、私はまだ若い。働かなくちゃ、生きていけない。
「また仕立て屋の仕事を、お手伝いさせてもらおうかな……」
昔、奥様の店でリボンを巻いたり、ボタンを並べたりしていた頃が懐かしい。王宮のような緊張感はなく、そこには優しさがあった。
その日から、私はまた少しずつ手を動かすようになった。ミシンの足を踏んだり、糸を巻いたり。慣れた仕事に、心が落ち着いていくのがわかった。
市場に行くと、町の人たちは明るく声をかけてくれる。
「仕立て屋のお嬢さん、元気だった?」
そう言われて、私は少し照れくさく笑う。王宮にいたなんて、誰も知らない。それがかえって、心地よかった。
*
それでも、心のどこかで、王宮のことを思い出してしまう。
たとえば、窓から差し込む陽射しの角度。市場で見かけた金色の刺繍の入ったハンカチ。ふとした瞬間に、王太子様のことがよぎる。
あの人は、今、どうしているんだろう。
私が辞めたこと、知っているのかな。いや、知ってるはずない。あの人は、いつも忙しくて、私のことなんて……。
でも、どうしてあんなにも私に優しかったんだろう。たくさんの侍女の中で、私だけを特別に扱った。言葉の端々に、何かを隠していたような気がして……。
「……考えるの、やめよう」
私は顔を横に振って、自分を戒めた。あの人は、王国の王太子。私はただの侍女だった。身分が違いすぎる。たとえどんなに優しくされたとしても、それがすべてじゃない。
それに、今の私はもう、誰かの庇護のもとにいるわけじゃない。これからは、自分の力で生きていくんだ。
そう思った瞬間、ふいに心がぐっと引き締まった。私は弱くない。王宮であれだけ耐えてきたんだから、これから先だって、きっと乗り越えられる。
だけど、その夜――。
私は眠りにつく前、ベッドの上でひとつの夢を見た。
それは、あの人が私の名を呼ぶ夢。
「リーゼ……帰ってきて……」
切なげな声。涙を浮かべた瞳。私の手を、必死に掴むあの人の姿が、夢の中にあった。
目を覚ましたとき、胸がどきどきしていた。心臓の鼓動が、耳の奥でうるさいほど響いている。
「なんで……あんな夢……」
夢は夢。でも、あまりにも現実みたいで、心が落ち着かなかった。
まさか、あの人が――私のことを、本当に……?
そんなわけ、ないよね。だって私は、ただの侍女だったんだから。
私は、胸の中にわきあがる不思議な気持ちを押し込めて、また目を閉じた。
その日、私は朝から仕立て屋の店先で、リボンの整理をしていた。真っ赤や空色、淡いミントグリーンのリボンをきちんと巻き直して、棚に並べる作業。単純な仕事だけど、私の心は穏やかだった。
「やっぱり、私はこういう静かな時間が好きなんだなぁ」
ぽつりとつぶやいて、ふっと微笑んだ。王宮では、こんな風にのんびりする時間なんてほとんどなかった。誰かの目を気にして、言葉に気を使って、身だしなみ一つであれこれ言われて……。
でもここでは違う。誰も私を責めないし、無理に笑う必要もない。私は私らしく、ただ穏やかに、静かに暮らしていける。そう思っていた――その瞬間までは。
「……リーゼ。ちょっと、玄関に……すごいお客さんが来てるのよ」
奥様の声が、少し震えていた。私は首をかしげて、手に持っていたリボンをそっと机の上に置いた。
「お客さん……? どなたですか?」
「えっと……それが……」
奥様は言い淀んだまま、私を手招きする。まるで言葉にできない何かを前にしたような顔をしていた。その様子に、私の心臓は急に高鳴り始めた。
私はゆっくり玄関に向かった。そして、その扉の前に立ったとき、奥様がそっと私の腕を握った。
「驚かないでね。……あの方、あなたに会いに来たって言ってるの」
「え?」
私は扉に視線を移す。そこには――信じられない姿があった。
深紅のマントに金の刺繍、丁寧に磨かれた黒いブーツ。整った顔立ちと、見間違えようのない蒼い瞳。
「王……王太子様……?」
言葉が口からこぼれる前に、彼が一歩、私の前に進み出た。
「リーゼ……! 見つけた……!」
彼の声は震えていた。そして、信じられないことに、その蒼い目に、涙が浮かんでいた。
私の頭は真っ白になった。なぜ? どうして? どうしてこんなところに、王太子様が……? 私を、探していたの……?
「まさか……こんな所に、突然来られて……」
戸惑いと驚きと、そしてほんの少しの期待が、胸の中でぐるぐると渦を巻いた。
「どうして、ここに……?」
やっとの思いでそう問いかけると、彼は深く息を吐き、小さくかぶりを振った。
「君が辞めたと聞いたとき、信じられなかった。いや、信じたくなかった。まさか、本当に王宮を……あんな風に……」
王太子様は、そこで言葉を詰まらせた。彼がこんなにも感情を見せる姿を、私は見たことがなかった。いつも堂々としていて、誰よりも冷静で、指示も的確で――そんな彼が、今、目の前で苦しそうに息をしている。
「私は……私はただ、限界だったんです。王宮での生活も、あの人たちの態度も。毎日が、辛くて、怖くて……」
気づけば、私は自分の胸の内を吐き出していた。言葉が止まらなかった。ずっと押し込めていた想い。誰にも言えなかった本音。涙が頬を伝って、ぽたぽたと落ちていく。
「ごめん……!」
その瞬間、彼が私の肩を抱きしめた。広くて、温かくて、でもとても震えていた。
「ごめん、リーゼ……私が……もっと早く、君を守るべきだったのに……!」
彼の言葉に、私は目を見開いた。
守るべき、だった?
それって、どういう意味?
混乱する頭の中で、私は彼の言葉を反芻する。
「王太子様……どうして……私なんかを、こんなに……?」
すると彼は、私の顔をまっすぐ見つめた。
「君じゃなきゃ、ダメなんだ。私は……君がいないと……息ができないんだ」
その言葉は、私の心を突き刺した。うれしさと信じられなさと、不安と――いろんな感情が一気にあふれてきて、私は何も言えなくなってしまった。
王太子様は、ゆっくりと私の前にひざをついた。そして、小さな箱を取り出して、ふたを開けた。
中には、美しい指輪が入っていた。金色の台座に、小さな青い宝石がちょこんと乗っている。まるで、彼の瞳みたいだった。
「リーゼ。どうか、私と結婚してほしい。王妃になってくれ」
私の時間が、止まった気がした。
*
「……え?」
言葉が出ない。まさか、そんなことを言われるなんて、夢にも思っていなかった。
王太子様が、私に……?
「どうして、私なのですか……? 私はただの侍女で、身分も、家柄も、何もないのに……」
「そんなの、関係ない。君がどれだけ優しくて、強くて、誰よりも真面目に働いていたか、私はずっと見ていた」
「……でも……」
「私の気持ちは、本物だ。今さらなんて、言わせない。遅すぎるなんて、言わせたくない。君を失って、やっと気づいたんだ。私にとって、君は……一番大切な人だったって」
私は、信じられない気持ちで、彼の瞳を見つめた。真剣な表情。私にだけ向けられる、深くて熱いまなざし。
王宮での日々。そっとかけてくれた言葉。さりげない気づかい。そして、時おり見せてくれた、ふっとした笑顔。
もしかして、あれは全部――。
私の胸が、ぎゅっとなった。
でも、すぐには答えられなかった。驚きが大きすぎて、心がついていかなかった。
「……ちょっとだけ、考えさせてください」
彼は、少し悲しそうに微笑んで、うなずいた。
「もちろん。答えを急かすつもりはない。……でも、私は君を諦めない」
そう言って、彼は静かに立ち上がった。そして、もう一度だけ私の手を握って、そっとキスを落とした。
「必ず、迎えに来る」
その言葉を残して、彼は扉の向こうへと去っていった。
*
私は、しばらくその場から動けなかった。夢みたいな出来事だった。まさか、王太子様が、自分の足で私を迎えに来て、そして――プロポーズまでされるなんて。
奥様がそっと肩に手を置いてくれた。
「よかったね、リーゼ。……こんなこと、まるでおとぎ話みたいだけど」
私は、ゆっくりと小さくうなずいた。でも、心はまだ、ぐるぐると揺れていた。
これが、本当に幸せの始まりなのか。
それとも――もっと大きな嵐の前触れなのか。
でもひとつだけ、はっきりしていた。
私の人生は、もう「侍女のリーゼ」じゃなくなった。
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