隣国の皇子に溺愛されましたので、貴方はどうぞご自由にしてください

有賀冬馬

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「エレナ、このレースはこっちでいいの?」「うん、それで大丈夫よ、お母様。ああ、本当に素敵なの!このドレス、きっとあのお嬢様にお似合いになるわ」

私の名前はエレナ。小さな仕立て屋で、お母様と一緒にドレスや洋服を作って暮らしてる。毎日針仕事をしてるんだけど、これが本当に楽しいの。布がどんどん形になって、素敵な服に変わっていくのを見るのが大好きだった。特に、フリルたっぷりのドレスや、リボンがいっぱいのブラウスを作る時は、心が踊るみたいだった。

私たちの仕立て屋は、貴族街からは少し離れた場所にある、庶民向けの小さなお店だった。でも、腕は確かだって評判で、時々、貴族のお屋敷から注文が来ることもあったの。そんな時は、お母様と二人で大忙しだったけど、できあがった服をお客様が喜んでくれる顔を見るのが、何よりの喜びだった。

私の生活は、ごくごく普通の平民の女の子だった。でも、私には誰にも言えない秘密の恋があったの。その相手は、伯爵家の三男、セドリック様。初めて会ったのは、彼が仕立ての注文にうちのお店に来た時だった。彼は、まるで絵本に出てくる王子様みたいに、キラキラと輝いて見えたの。最初はただ見とれてるだけだったんだけど、何度か会ううちに、彼が私に優しく話しかけてくれるようになって。

「エレナ、君の作る服は本当に素晴らしいね。君の手にかかると、どんな布も魔法にかかったみたいだ」

そんな風に、真っ直ぐな目で褒めてくれる彼の言葉に、私の心はドキドキが止まらなくなった。貴族の彼と、平民の私。身分なんて関係ないって、彼は何度も言ってくれた。夜遅くに、仕立て屋の裏口でこっそり会ったり、星空の下で二人きりで話したり。

「いつか、君だけのドレスを作ってあげたいな。世界で一番、君に似合うドレスを」

セドリック様がそう言ってくれた時、私は夢を見ているみたいだった。彼の優しい声、温かい手。全部が私を包み込んでくれて、このままずっと、この幸せが続けばいいのにって、心から願ってた。貴族社会の厳しさなんて、私には関係ないって、そう思ってたんだ。彼がいれば、何も怖くないって。

「ねえ、セドリック様。本当に、私でいいの?私、平民だし…」

不安になって、一度だけ聞いてみたことがある。彼は私の手を優しく握りしめて、言ったんだ。

「エレナ、君がいいんだ。君の優しさも、真っ直ぐな心も、全部が僕にとって大切なんだ。身分なんて関係ない。僕が、君を守るから」

その言葉に、私はどれだけ救われただろう。彼がいれば、どんな困難も乗り越えられる。そう信じてた。あの時は、本当に。


でも、幸せな時間は、泡のように儚く消えていった。

ある日、セドリック様が、お店にやってきた。いつものように、裏口からこっそりと、じゃなくて、堂々と正面から。彼の顔は、まるで別人のようにやつれていて、私を見つめる瞳には、いつもの優しさじゃなくて、見たこともないほど冷たい光が宿っていた。

「エレナ、話があるんだ」

彼の声は、乾いていて、私は心臓がギュッと締め付けられるような気がした。悪い予感がした。嫌な、嫌な予感。

「どうしたの、セドリック様?何かあったの?」

私は震える声で尋ねた。彼はずっと下を向いていて、なかなか顔を上げてくれなかった。そして、しばらくの沈黙の後、絞り出すように言葉を紡ぎ始めた。

「僕…僕、婚約することになったんだ」

その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中は真っ白になった。まるで、世界から音が消えたみたいに、何も聞こえなくなった。目の前が真っ暗になって、立っていられなくなりそうだった。

「…え?」

やっと出た声は、自分でも信じられないくらいか細かった。彼は、まるで私の存在を否定するかのように、冷たい視線で私を見下ろした。

「悪いが、君とはもう会えない。これは貴族としての義務なんだ。君のような平民との関係は、これ以上続けるわけにはいかない」

「ま、待って…!嘘でしょう?だって、あなたは…私を守るって、言ってくれたじゃない!」

私は必死に訴えた。彼の腕を掴もうとしたけれど、彼はそれを振り払った。まるで汚いものに触れたくない、とでも言うように。

「君とのことは、僕にとってただの一時の戯れだったんだ。正直、平民にしては上出来だったと思うよ。だが、それだけだ。これで、終わりにする」

「平民にしては上出来だった」…その言葉が、私の心臓にナイフのように突き刺さった。私の、私たちの愛は、彼にとって「上出来」程度のものだったの?ただの「戯れ」だったの?信じられない。信じたくない。

「嘘よ…っ、嘘でしょう!?セドリック様…!」

私の目から、止めどなく涙があふれ出した。頬を伝う涙が、熱い、熱い。彼に渡した、私が初めて作った刺繍入りのハンカチ。夜中にこっそり彼に贈った、手作りの小さな花束。全部、全部、無意味だったの?

セドリック様は、私の涙を見ても何の感情も示さなかった。ただ、冷たい目で私を見て、そして、一言も謝ることなく、背を向けて去っていった。まるで、最初から何もなかったかのように。

彼の後ろ姿が、どんどん小さくなっていく。私の世界は、音もなく崩れ去った。心臓が張り裂けそうだった。もう、何も考えられなかった。ただ、目の前が涙で滲んで、彼の背中が霞んでいくのが見えただけだった。

「…うそ…」

私はその場に座り込み、声にならない嗚咽を漏らした。彼との思い出が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。優しい言葉、温かい手、そして、裏切りの言葉。耳から離れない。


セドリック様が去ってから、私は何も手につかなくなった。針を持つ手は震えて、布を見るたびに彼の冷たい言葉が蘇る。お客様の笑顔も、輝いて見えたドレスも、もう私には何の感動も与えてくれなかった。

お母様は、私の様子がおかしいことにすぐに気づいた。私が何も話さなくても、きっと何かを察していたんだと思う。ただ、何も言わずに、私の好きな温かい紅茶を入れてくれたり、抱きしめてくれたりした。その優しさが、かえって私の心を締め付けた。

この場所にいたら、きっと私はずっと彼のことばかり考えてしまう。この街のどこかで、彼が幸せそうにしている姿を想像するだけで、呼吸が苦しくなる。もう、ここにいるのは無理だ。

ある夜、私は決心した。この街を、この場所を、離れよう。どこへ行くのかも、これからどうなるのかも分からなかったけれど、ただ、ここから遠くへ行きたい。彼のいない場所へ。

「お母様…私、旅に出ます」

突然の私の言葉に、お母様は驚いた顔をしたけれど、すぐに寂しそうな、でも力強い目で私を見つめた。

「…そうかい。わかったよ、エレナ。あなたがそう決めたなら、お母さんは何も言わないよ。ただ…気をつけてね」

お母様は、手作りのお守りの袋と、旅に必要なわずかなお金をくれた。それから、私が着ていた服の中から、セドリック様が初めてお店に来た時に私が着ていたワンピースを見つけ出し、そっと箱に仕舞い込んだ。

「これは、いつかきっと、あなたが心から幸せになった時に、また着るのよ」

お母様の言葉は、まるで魔法みたいだった。私の胸の奥に、ほんの少しだけど、温かい光が灯った気がした。

大きな荷物はない。ただ、私の持っている布で作った小さなリュックサックと、お母様が持たせてくれたお守り。そして、心に深く刻まれた、彼の冷たい言葉だけ。

夜が明ける前に、私はそっと家を出た。慣れ親しんだ街の景色が、少しずつ遠ざかっていく。振り返ることはしなかった。もう、二度とこの場所に戻らないかもしれない。そんな覚悟を持って、私は一歩を踏み出した。新しい世界へ。セドリック様がいない、私だけの世界へ。
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