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しおりを挟むエルド様を応接室に残し、イザーク様と私は庭園を歩いた。
私の心は、もう波立っていなかった。
彼に対する憎しみも、怒りも、後悔も、何もかもが、もう遠い過去のことのように感じられた。
代わりに、私の心を満たしているのは、イザーク様の温かい手と、彼がくれる穏やかな愛情だけだった。
「これで、もう彼は君に近づくことはない」
イザーク様は、静かに言った。
「え……?」
私が問い返すと、彼は微笑んだ。
「彼は、君の父親に、この国の魔導王に娘を返せと、訴え出ると言っていた。そして、私と君の仲を、王族に告発するとも」
私は、思わず息をのんだ。
そんなことをされたら、イザーク様が、大変なことになってしまう。
私が、彼に迷惑をかけてしまった。
そう思ったとき、イザーク様は私の手を優しく握り、安心させるように言った。
「心配いらない。彼の最後の悪あがきだ」
その日の夜、私はイザーク様の書斎にいた。
彼は、大きな机に向かい、何やら書類を広げている。
私が「お手伝いしましょうか?」と声をかけると、彼は振り向いて、微笑んだ。
「大丈夫。もうすぐ、すべてが終わる」
彼の言葉の意味が、私にはわからなかった。
でも、彼の瞳は、とても穏やかで、私を安心させてくれた。
次の日の朝。
イザーク様は、私を連れて、王都へ向かった。
馬車の中で、私は緊張していた。
王都へ戻るのは、婚約破棄以来のことだったから。
エルド様と、侯爵令嬢が、私のことを噂しているかもしれない。
そんな不安を、イザーク様は察したのだろう。
彼は、私の手をそっと握ってくれた。
「君は、君らしく、堂々としていればいい」
その言葉に、私の心は落ち着いた。
王宮の謁見の間。
国王様が、私たちを待っていた。
その隣には、エルド様と、私の父様が、青ざめた顔で立っていた。
エルド様は、私を見るなり、何かを叫ぼうとした。
「国王陛下! この男は、私の元婚約者を誘拐し――」
だが、その声は、国王様の鋭い視線に遮られた。
「静まれ、エルド」
国王様は、静かに言った。
「お前が、この魔導王様を、私に訴え出るなど、愚かなことだ」
どういうことだろう。
私は、戸惑いながら、イザーク様を見た。
イザーク様は、静かに国王様に頭を下げた。
「王よ、彼が頼みにしていた後ろ盾は、もう力を失っている」
イザーク様は、淡々と、そう告げた。
国王様は、深く頷いた。
「そうだ。エルド、お前が頼りにしていた侯爵家は、数か月前から、私の勅命によって、あらゆる権力を失っている。お前の不正が明るみに出たのも、偶然ではない」
その言葉に、エルド様は、信じられない、という顔をした。
彼の顔から、血の気が引いていくのがわかった。
すべて、イザーク様が仕組んだことだった。
エルド様が不正を働いたことを知り、彼は静かに、しかし確実に、彼の後ろ盾を潰していったのだ。
エルド様は、もう、誰も頼れない、ただの無力な男になっていた。
「そんな……! まさか、こんな地味な女のために……!」
エルド様は、絶望の叫びをあげた。
その醜い姿に、私はもう、何も感じなかった。
彼は、自分の犯した罪の報いを、今、受けているのだ。
イザーク様は、そんなエルド様を、憐れむように見下ろしていた。
そして、静かに、一言告げた。
「もう、私の前に現れるな。さもなくば……」
その声は、氷のように冷たかった。
エルド様は、恐怖に顔を歪ませ、その場から逃げ去るように去っていった。
彼の背中には、もう、誇りも、何も残っていなかった。
謁見の間を出た後、イザーク様は私を庭園に連れて行ってくれた。
私は、胸がいっぱいだった。
彼は、私のためだけに、これほどのことをしてくれた。
私のために、彼の力を使い、私を傷つけた男を、静かに、しかし確実に破滅させてくれた。
それは、見返すことの爽快さよりも、もっと深い、温かい気持ちだった。
「イザーク様……ありがとうございます」
私は、震える声で言った。
彼は、私の顔を両手で包み込み、優しく言った。
「ロザリン、君は、もう誰にも、何も恐れることはない。これからは、私が、君を、この手で守っていく」
そして、彼は、私に、静かに、でもはっきりと、想いを告げてくれた。
「ロザリン。君の、ありのままの姿が、私にとって、何よりも美しい。君の穏やかさが、私の心を救ってくれた。君を、心から愛している」
その言葉は、私の心を、愛で満たした。
私は、もう、地味な私ではない。
誰にも見向きもされなかった、可哀想な私ではない。
イザーク様に、心から愛されている、特別な私だった。
私の瞳から、涙があふれた。
それは、悲しみの涙ではなく、幸福の涙だった。
私は身を躊躇なく彼の胸へと投げ出した。
足元の世界が一瞬揺らぎ、次の瞬間には彼の腕がしっかりと私を受け止めていた。
抱きしめられた瞬間、周囲の音は遠のき、空気はふっと静まり返る。
彼の胸の温もりが直に伝わり、その温度は冬に差し込む柔らかな陽だまりのように私の全身を包み込んだ。
肩から伝わる力強さ、背中に沿うその腕の圧力は安全の証であり、私は自然と息を整え、力を抜いてその安らぎに身を委ねた。
彼の心臓の鼓動が、私の耳元でゆっくりと伝わってくる。
規則的で確かな鼓動は、私の内側に巣食っていた不安や迷いを一つずつ押し流してくれるようだった。
彼の髪から漂うかすかな香り、洗い立ての衣服の匂い、そして温かい体温——それらが混ざり合って、私の記憶に新しい安穏の刻印を押していく。
私は彼の首筋に顔を埋め、小さく目を閉じた。
瞼の裏にはこれまでの苦悩や孤独の断片がふっと通り過ぎていき、代わりに満たされる感情の波が広がっていった。
彼の腕は決して強引ではなく、むしろ慈しむように、丁寧に私を抱きしめてくれた。
指先が私の背中をそっと撫でるたびに、胸の奥にある傷が撫で癒されるような感覚があり、私は思わず涙が滲んだ。
しかしその涙さえも彼は否定せず、抱きしめる力を少しだけ強めて、私がすべて吐き出せるように促してくれた。
言葉はいらない。触れ合いの中にある静かな約束と無言の理解だけで、私たちは互いの存在を確認し合っていた。
世界はゆっくりと、しかし確かに柔らかな色合いを取り戻していく。
外の喧騒や心配事は遠のき、ここにあるのはただ二人の呼吸と温もりだけだ。私は彼の胸元で深く息を吸い込み、満たされた心で小さな笑みを浮かべた。
その笑みは、過去に抱えていた孤独や絶望への答えであり、今ここにある幸福への感謝の印でもあった。
彼の腕の中にいると、自分が守られているという確信が胸の奥底から湧き上がる。
未来に何が待ち受けていようとも、今この瞬間、この温かさがある限り乗り越えられる——そんな力強い確信が私を満たした。
私は彼の胸に顔を寄せたまま、静かに目を閉じ、これから紡がれる日々の一つひとつを、彼と共に刻んでいくことを心に誓った。
「私も……私も、イザーク様を、愛しています」
そう告げると、彼は、安堵したように、私を抱きしめる腕に力を込めた。
私は、この、新しい人生の始まりを、心の底から喜んだ。
エルド様を見返した、あの瞬間の爽快さだけが、私を満たしたのではない。
この、イザーク様から与えられた、深く、穏やかな愛こそが、私の心を、本当に満たしてくれたのだ。
私は、彼の隣で、穏やかに微笑んだ。
もう、過去を振り返ることはない。
私の人生は、イザーク様と共に、ここから新たに歩み始めるのだ。
彼の隣に立つことで、私は過去の自分をそっと胸の奥に収め、新しい役割と責任を受け入れる覚悟を得た。
朝の柔らかな光の中で交わすささやかな会話も、夜に肩を寄せ合って交わす沈黙も、すべてがこれから紡がれる日々の一場面となるだろう。
私たちは互いの長所を認め合い、欠けた部分を補い合いながら、笑いと祈りと労働で生活を満たしていくつもりだ。
領地の人々の幸せや安寧を守るという重さも、二人で分かち合えば恐れることはないと、私は信じている。
未来にはたくさんの試練が待っているかもしれないが、それらは二人で乗り越えるべき試練であり、その先にある日常こそが私の望む場所なのだ。
だからこそ、私の人生は今、イザーク様と共にここから本当に始まるのだ。
私は、新しい愛に満たされていた。
心はまるで長い旅路の果てに辿り着いた静かな港のように安らぎ、日々の些細な出来事さえも愛おしく映った。
彼と手を取り合って過ごす朝の光、ふとした仕草に混じる笑い声、交わす言葉の一語一語が私にとって宝物となり、胸の奥は温かさでいっぱいになっていった。
過去の痛みや孤独は遠くへと流れ去り、代わりに穏やかな確信とやさしい期待が根付き始めていた。
その愛は、私を世界でいちばん幸せな女性に変えてくれた。日常の景色が色鮮やかに輝き、ありふれた時間が特別な記憶へと変わっていく。
彼の存在は私に自信を与え、笑顔は自然に増え、私の歩幅は軽やかになった。
人々の何気ない祝福や、領地の子どもたちのはしゃぎ声も、すべてが私たちを祝福する旋律のように感じられた。
愛に満ちた暮らしは私の内側から世界を照らし、毎日を幸福で満たしてくれた。
私は、彼と永遠の愛を誓った。
厳かな式場の静けさの中で、言葉は真っ直ぐに胸へ届き、指輪が互いの指にそっとはめられた瞬間、時間が穏やかに流れを変えた。
誓いの言葉は決して軽くはなく、約束は二人でこれから紡いでいく未来への誓約であった。
たとえ嵐が来ようとも、喜びが舞い込もうとも、互いを支え、尊重し、共に老いていくことを固く胸に刻んだのだ。
その日から、私たちの暮らしは愛と責任と優しさによって満たされていった。小さな困難も寄り添って乗り越え、祝いごとは共に分かち合い、日々の何気ない瞬間にさえ感謝を見出す。永遠という言葉はまだ遠い未来の約束かもしれないが、私の胸には確かな希望と揺るがない信頼が宿っている。私は彼の腕の中で、穏やかな笑みを浮かべながら、これから続く日々を静かに迎えていた。
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