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第20話「焔の果てのティータイム」
しおりを挟む夕暮れが、山の縁に薄い蜂蜜を流したみたいに滲んでいた。工房裏の斜面には干し網がひとつ、風に鳴り、すのこの上で鉄片が転がって音を立てる。炉は休み、口を閉じた獣のようにおとなしい。青い灯は山裾の街に点々と芽吹き、宵の脈に合わせて小さくふくらんでは、すぐ細くなった。
木卓には二客のカップと、小さなティーポット。私の手帳は紐でとめられ、角がすこし毛羽立っている。表紙の内側には、消せる鉛筆の線で「赦しの設計図」とあり、余白が広い。余白は、息の居場所。私はそこへ今日の息を置くつもりで、ペン先をひた、と墨に浸したような気持ちで鉛筆の芯を舐める。
「淹れるね」
アシェルが言う。彼の掌は昼の熱をまだ残していて、ポットから落ちる湯の音が、工房で金床を叩く前の合図みたいに耳にやさしい。私は湯気に顔を近づけ、茶葉の渋みと果肉の甘さの間を鼻で渡る。失くした記憶は、香りの名前に穴を開けた。けれど、穴が風を通し、香りに新しい道ができている。
「どう?」
「“今”の味。……前の言葉を忘れても、今日の舌はある」
「それで十分だ」
彼は笑い、指先で火をつくる。爪の先ほどの青炎。破壊ではなく、再生の温度。炎は音を出さず、ただ空気の粒をぎゅっと引き寄せ、私のカップの腹に触れて一度撫でた。陶器が小さく鳴る。内側から、温い。
「もう誰も焼かなくていいね」
彼が言う。言葉は問いではなく、確認でもない。今日の、街の温度を測った後の、結論の形。
「ええ、でも時々、私自身を温める火は要る」
「自分を?」
「冷やしすぎると、針が止まる。止まる手前で、青い炎を一匙。……こうして」
私はカップを両手で包み、鼻先で湯気を吸う。心臓が、静かに背骨の裏で拍を打ち、骨の弁が一つだけひらいて閉じる。儀式の代償で抜いた記憶——朝の回廊の光の帯の端、復讐を定義した夜の温度の半分——その空洞の縁はもう痛まない。痛まないかわりに、すこし風が通り、通った風が紙をめくる。
手帳を開く。鉛筆の線が、過日の自分の筆圧と少し違う。違いは誤りじゃない。別の呼吸の跡。私は四角を描き、その中に小さな円を四つ置く。“条件”“手順”“見える化”“やめ方”。昨日までに書いた文字のいくつかが、ぼんやりと薄い。薄さは怖くない。消すための鉛筆で書いたのだ。私は線を足し、欠けた語尾を他の言い回しで埋める。
「“恥のない助け方、入口は低く、段は小さく。——座る石のそばに窓口”」
「いい」
アシェルが頷き、指で斜面を指す。山の下、街の灯が増えてきた。青い点が、川沿いに折れ、橋の上で二度、呼吸を合わせ、広場の白布は新しい縁取りで夜の色をほどよく吸っている。今日の昼に届いた報告——“教範二版配布完了”“耳と目の当番、空き枠なし”“義肢返却、次の先頭へ”——私はいくつかの文言を思い出せない。けれど、仕組みは息をしている。息の音は、忘却の隙間にも入ってくる。
「ねえ、あの子、わかった?」
「“最後の先頭”の少年?」
「うん。今日、“最初の最後”だって言ってた」
「順番の遊び、広がってる」
「順番で笑える街は、丈夫だ」
アシェルが私のカップの縁にもう一度、青炎を通す。指先の火はちいさく、だが芯が強い。私はその温度で、文字を早く動かし、止める。手帳に、細かな注釈を散らす。“拍手は白紙、笑いは鉛筆”“義肢の貸出簿に『歌』欄を追加”“市警の影置き試験、座る石で実施”。そして、ページの片隅に、小さく書く。“私はトップではない。設計者である”。書きながら、ほんの一瞬、空洞が疼いた。壇に立ち、降り、隣に座る——その順序を、明日また忘れるかもしれない。忘れたら、図を見ればいい。図は嘘をつかない。図を嘘にするのは人のほうだ。だから、皆で見える場所に貼る。
「記憶、痛む?」
「空洞に触ると、少しだけ。……でも、痛みより前に湯気が来る。湯気で縁が柔らかくなる」
「湯気、増やす?」
「足りてる。——ねえ、あなたのほうは?」
「昼に三本、義足の調整。一本は踵が軽すぎた。笑いで埋めて返した」
「笑いを返す……新しい通貨ね」
「価値の変動が激しいけどな」
笑い合う。笑いの後、私は手帳の別のページをめくる。そこには「赦しの帳簿——暫定」とあり、古城の日付に“無血”の二文字が墨で濃く置かれている。墨は消えない。墨だけが、骨に永久の重さを渡す。私はその行に小さく印をつけ、隣に“拍手、控えめ”“足拍、良好”“恥、薄め”と鉛筆で追記する。鉛筆の線は、風が強ければ飛ぶ。飛んだら、また書く。それでいい。
携帯の砂時計が、卓の端でゆっくり落ちる。アシェルがそれを横に倒し、砂の流れを止める。止まった砂は、今夜の“延長”の許可証だ。私はペン先——いや、鉛筆の芯——を置き、手帳をとじ、両手でカップを抱えた。茶の表面に、青炎の残り光が揺れている。焔の果て、という言葉を、今だけ、好んで受け入れる。
「怒り、どうしてる?」
「水にした。布の上から刃を洗えるくらいには」
「また研ぐ日が来る?」
「来るかも。来ないかも。来たら、あなたの針目の荒い布も借りる」
「いつでも」
指先の火がほどけ、彼は拳を握って消す。夕闇がいっそう深くなり、虫の声が合奏を始める。遠くで足拍の練習の音が、石を柔らかく叩く。座る石に座る呼吸が、谷を渡って届く。街の灯は、今日に限って、少しだけ高い位置で点滅した。高い灯は、風に弱いが、希望に強い。
「セレス」
「なに」
「——よく、戻ったな」
言葉は短く、重さは深い。私は返事をせず、紅茶を一口、口に含む。喉を通る液体は甘いが、べたつかない。骨の内側まで、とろりと滑って、怒りの残り水と混ざる。混ざったところは、澄む。澄んだところに、私は一本、線を引く。手帳ではなく、心の壁に。“戻る場所”。焼き場の棚の“最後の先頭”の皿。掲示板の余白。青い灯の呼吸。——そして、この卓。
「ねえ」
「うん」
「“誰かの上に立つより、隣に立つ街を”って、あの一行。……明日には、私が言ったことを忘れてるかもしれない」
「忘れたら、皆が言う。子どもでも言う。『隣に立つ』ってさ」
「頼もしいわね」
「お前が設計したから」
「みんなで設計したの」
「そうだった」
私たちは、同じ湯気を二度吸う。温度を確かめ、互いの呼吸を重ねる。言葉は少なく、沈黙は濃く、けれど重くない。沈黙の底で、街の歌が“おやすみ”の旋律に落ちていくのがわかる。配管は、もう軋まない。井戸は、もう苦くない。教範は、余白を残して棚に戻り、義肢の貸出簿の端には「歌」の欄に笑い声が一つ分だけ記されている。
「私、時々怖くなるの」
「何が」
「図が、私の手を離れて、どこまでも行ってしまうこと。——でも、それが正しい。怖いけど、正しい」
「手を離しても、見張れる。耳も目も、分散した」
「そう、分散。網にした。網は、落ちる人を受け止めて、絡めとらない」
「お前らしい定義だ」
「あなたの“まあよし”も、含めて」
アシェルが肩で笑う。笑いに粉の匂いが混じる。私はその匂いを吸い、目を閉じる。瞼の裏に、失くした場面は現れない。現れないかわりに、今朝見た少年の足の線、昼に貼られた新しい“座る石”の配置図、夕方の“ぬるめ”の砂時計の落ち方、夜のランタンの背伸び——細々とした今が、鮮明だ。代償に譲った記憶と引き換えに、今をくっきり手に入れているのだとしたら、それは損ではない。
「セレス」
「うん」
「終わったな」
「終わった。……だから、始めよう」
彼は頷き、私のカップの底に残った茶を覗き込む。青炎の残光はもうない。代わりに、星の屑を映す薄い闇。私は手帳の最後のページを開き、鉛筆でごく小さく書く。“——“物語は終わり、そして始まる””。書いて、線を引いて、日付を入れる。日付の横に、誰の名も入れない。名は分配した。物語は共有だ。
工房の屋根から落ちる夜露の音がひとつ、ふたつ。遠くの広場の端で、子どもが誰かにおやすみを言い、誰かが「明日は“最初の最後”だぞ」と応じる。私たちは立ち上がり、カップを流しに運ぶ。水の音が、緩やかに、街の脈に溶ける。背後で、山裾の灯がいっせいに息を合わせた。ひとつの街の呼吸。焔の果てに、確かな温もりだけが残る。
「——帰ろう」
「どこへ」
「隣へ」
「了解」
私たちは互いの影の間に足を入れ、影が少しだけ重なることを確かめる。重なりは、束縛ではない。寄り添いの、証拠。青い灯が瞬き、座る石は夜露で冷え、掲示板の余白は明日の鉛筆を待っている。私は手帳を胸に抱え、アシェルの横顔を横目に入れ、山道を降りた。
下りながら、私は思う。怒りも私。赦しも私。設計も私。忘却も、私。どれも“私”で、どれか一つだけじゃ、長く持たない。だから、それでいい。足もとには、子どもが並べた小石が二列。小さな“列”に足拍で挨拶すると、石が返事をしたように乾いた音を出した。
街が近づく。青い灯が一つ、また一つ、私たちの歩幅に合わせてふくらみ、やがて細くなる。呼吸の合奏が、夜の底に沈んでいく。私は胸の弁をひとつだけ開け、冷えすぎないように内側へ青炎の気配を点す。——私自身を温めるための、小さな火。誰も焼かず、ただ、私を“今”に繋ぐ火。
紅茶の香りが遅れて戻り、喉の奥で小さく丸くなった。私は呟く。「まあよし」。アシェルが笑う。「上等」。街の灯が穏やかに瞬き、風が紙の余白をめくり、見えない物語の次のページが、静かに、しかし確かに、新しい一行を待っていた。
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