続・無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……✩✩旅を選んだ娘とその竜の物語

タマ マコト

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第2話 『竜の主、知られてしまった日』

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 異国の市場は、朝から騒がしい。

 エルダーンの大通りは、昨日よりさらに人で溢れていた。
 屋台が増えている気がする。布が増えているし、音楽まで鳴っている。

「……なんか、昨日よりお祭り感増してない?」

 エリーナは、両手で財布の入ったポーチをぎゅっと握りしめながら、きょろきょろと辺りを見回した。

 香辛料の山。
 焼き魚の串。
 甘い蜜をかけた揚げ生地。
 魔導具屋の店先に雑に積まれた水晶やら、よく分からない歯車つきの何か。

 いちいち目を奪われていたら、財布がいくつあっても足りなさそうだった。

(冷静に考えよう。まずは必需品)

 旅の資金を両替したとはいえ、永遠ではない。

 必要なのは──

「簡単な予備の服と、リューン全体の地図と、この街の簡単な地図と……あと、非常用の保存食?」

 指折り数えながらつぶやく。

 昨日、宿を決める前に、結局アークヴァンのいる丘と街を何度か往復する羽目になった。
 方向感覚は悪くないほうだと思っていたのに、異国の街並みは勝手が違う。

(地図、大事。全力で大事)

 まずは、地図屋を探そうと大通りを進んだ、そのとき。

「お嬢さん、旅人かい? 地図ならうちのが安いよ!」

「安くて分厚いよ! 情報ぎっしりだよ!」

「いやいや、字の読める旅人なら、こっちの精密地図にしなさいな!」

 地図屋が三軒並んで、魂を削るような攻防を始めた。

「ひっ」

 思わず一歩下がる。
 その瞬間、「あ、怖がらせた」とでも言うように、三人の店主が同時に笑顔を和らげた。

「おっと、お嬢さん、そんなに警戒しないで。悪いようにはしないよ」

「そうそう。追加料金ちょっと上乗せするくらいだよ」

「今ちょっと自白したよね!?」

 反射でツッコミが出た。

 三人の店主は、顔を見合わせてからケラケラと笑う。

「冗談冗談。で、何がほしい?」

「うーん……」

 エリーナは、目の前に積まれた巻物の山を眺めた。

 大陸全体の粗い地図。
 リューン王国内だけ掘り下げたもの。
 ここエルダーン周辺の詳細図。
 冒険者ギルドの出している「魔物出没マップ」まである。

(全部欲しいけど、さすがにやめよう)

「じゃあ、この国全体のと、この街の細かいやつ、ください」

「はいよ!」

 地図屋のおじさんは、手早く二つの巻物を取り出してくる。
 紙は思ったより質がよく、魔力で防水処理までされているようだ。

「で、お値段が──リューン金貨二枚と銀貨五枚」

「……高くない?」

「防水だし? うちのは正確だし? 文字も読みやすいし?」

 と、早口でまくしたてられる。

 高い、とは断言できない。
 相場が分からないから。

(うう……こういうとき、アストライアの値段と単純に比べられないの、辛い……)

 エリーナが財布をそっと握りしめ、口を開こうとした瞬間。

「その地図でその値段は、“観光客料金”だよ」

 聞き覚えのある声が、背後からふわっと降ってきた。

「……カイ?」

 振り向くと、昨日の青年が、やっぱりどこかラフな格好で立っていた。

 襟のゆるんだシャツに、動きやすそうなズボン。
 腰には魔導院の刻印が入った小さなケース。
 肩からかけた鞄からは、紙と本がのぞいている。

「やあ、エリーナ。偶然だね」

「……ほんとに偶然?」

「まあ、半分くらいはね」

 さらりと言う顔が、ちょっと悪い。

「魔導院からも、市場の物価調査しとけって言われてるからさ。君みたいな“値段の分からない旅人さん”が来ると、いろいろ見えて便利なんだよね」

「便利って言いました?」

「言った」

 悪びれもせずに笑うカイに、エリーナは少しだけムッとした。

 でも、その言葉に救われてもいる。

 「値段の分からない旅人さん」と呼ばれるのは恥ずかしいけど、
 それを笑い飛ばせる空気を先に作ってくれるのは、とても楽だ。

「で、おじさん」

 カイはくるりと店主のほうを向いた。

「その金貨二枚と銀貨五枚って値段、昨日の俺に提示してきた額と違わない?」

「い、いや、そんなことは──」

「覚えてるよ。昨日は“同じ仕様で銀貨三枚”って言ってた」

「ぐ……」

「それに、ほら」

 カイは、懐から一枚の紙を取り出した。

「街の物価の参考資料。この店の平均価格、“国全体+街詳細”で銀貨三枚から四枚ってなってる」

「お、お前……!」

「ね?」

 カイは満面の笑みで、エリーナに振り返る。

「交渉するなら、こういう“比較材料”を持ってると楽だよ」

「……かっこつけてる?」

「ちょっとだけ」

 あっさり認めた。

 店主は、渋い顔で唇を曲げる。

「……ったく、魔導院の連中は数字に細けえな。分かったよ。銀貨四枚」

「三枚半」

「三枚半って単位で扱ってねえよ!」

「じゃあ三枚」

「減ってんじゃねえか!!」

 そんなやりとりを横で見ていると、自然と笑いが込み上げてくる。

 最終的には、銀貨三枚と銅貨数枚というところで手打ちになった。

 店主はぶつぶつ言いながらも、「魔導院に目をつけられるよりマシだ」と折れたらしい。

「はい、お嬢さん」

 巻物を手渡される。

 エリーナは財布から代金を取り出しながら、そっとカイに小声で礼を言った。

「ありがとう」

「どういたしまして。さっきの両替の続き、ってことで」

「両替の続き?」

「俺が口出ししなかったら、今日の宿代が一日分消えてたよ、たぶん」

「……それは、全力で感謝しなきゃいけないやつだ」

「でしょ?」

 カイは、どこか誇らしげに笑った。

 こういうときだけ、ちょっと子どもっぽい。



 その後も、エリーナの「慣れない交渉」はたびたび発生した。

 服屋では、旅装束の値段を見て目を丸くし──

「これ一式で、その値段は高すぎない?」

「耐魔加工に防刃加工に、さらにほら、この縫い目のところに─」

「その加工、魔導院の基準で言うと“中級”だよね。値段は完全に“上級”なんだけど」

「ま、魔導院の人間か!?」

 カイの一言で値段がすっと下がり。

 保存食の店では、干し肉と硬いパンの束を見比べて悩み──

「こっちの干し肉、賞味期限刻印がもう切れてるよ」

「えっ」

「だから、“今日中に食べるなら安くしておくよ”ってやつだね。旅用の保存には向かない」

「お、おじさーん……」

「ひぃ」

 そんなやりとりを繰り返しながら、どうにか必要なものを揃えることができた。

「……カイがいなかったら、今頃わたしの財布スカスカだね」

「まあ、初めて来た国で、ぼったくられないほうが珍しいよ」

「開き直る方向で慰めないで」

「でも、ちゃんと“おかしいな”って顔するから、まだマシ」

「それ褒めてる?」

「褒めてる」

 さらっと言われて、エリーナは頬を掻いた。

 自覚している。
 自分は、お世辞にも交渉上手とは言えない。

 でも、「分からないまま黙って損をする」のは、もっと嫌だ。

(……ちゃんと、学ばないと)

 王宮で、「お金の話は下品」とされていたのが、今は嘘のようだ。

 旅人にとって、現実的な数字と物の値段は、生きるための「命綱」なのだと、痛感する。



「そういえば」

 ひと通りの買い物が終わったところで、カイがふいに言った。

「エリーナは、どこから来たの?」

「どこから……」

 その質問は、避けて通れないものだと分かっていた。

 でも、実際に聞かれると、やっぱり心臓がきゅっとなる。

「アスト──」

 また、危うく王国の名前を出しそうになる。

 カイは、エリーナの唇が一瞬止まったのを見逃さなかった。

「アスト……?」

「……あの、その、ちょっと田舎のほうから」

「田舎のほうの、“アストなんとか”?」

「ねえ、今の聞き取り能力高くない?」

「魔導院で鍛えられてるからね」

 カイは冗談めかして笑う。

 でも、その目は少しだけ真面目だった。

「アストライア王国から?」

「…………」

 言葉が、喉につかえる。

 否定すれば、いくらでもごまかせるだろう。
 「たまたま地名が似ているだけ」とも言える。

 でも、目の前の青年は、何度も自分を助けてくれた人だ。

 あからさまな嘘を重ねるのは、胸が苦しい。

「……一応」

 観念して、エリーナは小さく頷いた。

「アストライアから、来ました」

「へえ」

 カイは、少しだけ目を見開き、それからすぐに笑った。

「じゃあ、やっぱり“外に出ないほうの国”からだ」

「“ほうの”ってつけるのやめて」

「事実でしょ?」

 事実だから困る。

「で、そのアストライアから、なんでまたこんなところまで?」

「さっき言った通りです。世界を見てみたくて」

 それは、嘘ではない。

 けれど、その裏には──
 婚約破棄の夜。
 王宮崩壊。
 竜の咆哮。
 そんなものが連なっている。

 その全部を、この人にいきなりぶつける勇気はない。

「家の人は?」

「反対されました。そりゃあもう、盛大に」

 苦笑いしながら言う。

「でも、最終的には“生きて帰ってこい”って送り出してくれました」

「いい家族じゃないか」

「そう思います」

 その記憶を思い浮かべると、自然と顔が柔らかくなってしまう。

 カイは、それを興味深そうに見つめた。

「竜は?」

「…………」

 空気が、一瞬で固くなった気がした。

 エリーナは、反射的に胸元を押さえそうになり、何とか手を抑え込む。

「……竜?」

「うん」

 カイは、そこまで強い口調ではない。
 ただ、本当に不思議そうに聞いているだけだ。

「エリーナ、さっきから時々“空のほう”を気にしてる。それに、荷物の量に対して、移動手段の話が出てこない」

「えっ」

「馬車の話も出ないし、徒歩の苦労話も出ない。普通、“世界を見たい旅人”って言ったら、真っ先にそこ触れると思うんだけど」

「た、たしかに……」

(やばい、この人観察眼が鋭い……)

「それに──」

 カイは、少し声を落とした。

「アストライアから来た旅人で、最近噂になってる人がいるんだよ」

 心臓が、一拍遅れて動いた。

「“白竜を従えた娘が、王宮を吹き飛ばした”ってね」

「…………」

「ま、噂話だけどね」

 そう言って、カイは笑う。

「そんな大事件の当事者が、こんな街をふらふら歩いてるとは、普通思わないし」

 エリーナは、無理やり口角を上げた。

「……ですよね。そんな、“王宮を吹き飛ばすような人”が、こんなところで地図と干し肉買ってたら、ちょっとシュールですよね」

「うん。だから違うんだろうなって思ってる」

 その言葉に、胸がちくりと痛んだ。

 信じたい、というより。
 信じたくない、のほうに近い。

 彼の中の「常識」が、「目の前の普通っぽい旅人」と「王宮を吹き飛ばした怪物じみた存在」を結びつけるのを拒んでいるのだ。

(……違わない、んだけど)

 とは、とても言えない。

 喉の奥で何かが詰まって、言葉にならない。

 カイは、その詰まりを敏感に感じ取ったのか、それ以上追及してこなかった。

「ま、とりあえず」

 空気を切り替えるように、手を叩く。

「今は“ただの旅人のエリーナ”ってことでいいよ」

「……いいの?」

「うん。少なくとも俺の前ではね」

 さらっと言われて、胸の奥に温かいものが広がる。

 彼がそう言ってくれる限り、自分はここで「普通の旅人」でいられる気がした。



「ところで」

 昼下がり、広場近くのベンチに腰掛けて休憩していると、カイがふと思い出したように言った。

「今日、この街、お祭りなんだけど」

「お祭り?」

「“光の祈り祭”。年に一度、魔導塔と連携して夜空に光の魔術花火を上げる日」

「まじで?」

「まじ」

 エリーナの目が、一気に輝いた。

「見たい……!」

「だろうと思った」

 カイは苦笑いしつつ、指で時間を示す。

「日が落ちる少し前に、またここ集合する? 案内するよ。観光客案内も、魔導院の仕事のうちだから」

「いいの?」

「うん。仕事。仕事だよ」

 横目で見れば、彼の表情はどう見ても「半分は純粋に楽しそう」だった。

 エリーナは、胸の奥がくすぐったくなるのを感じながら、こくりと頷いた。

「じゃあ、お願いします」

「任された、旅人のエリーナ」

 そう呼ばれるたびに、自分が少し軽くなる。



 夕暮れが街を染めるころ、エルダーンの空気は昼よりさらに賑やかになっていた。

 紙で作られた灯籠が、通りに沿って吊るされている。
 手のひらサイズの魔力石が埋め込まれた小さなランプが、ふわふわと宙に浮かんでいる。
 人々の服装も、どこかいつもより華やかだ。

「うわ……すごい」

 エリーナは、思わず足を止めた。

 光が、空気の中に増えていく。
 日が沈むにつれて、魔術の灯りが街を満たし始める。

「光の祈り祭ってね」

 隣で、カイが説明を始める。

「昔、この国が大きな戦争に巻き込まれたとき、魔導塔が“この街だけは守る”って言って、夜通し上げ続けた光の魔法が由来なんだって」

「へえ……」

「だから、ただの観光イベントってだけじゃなくて、“生き延びたことを祈る日”でもある。まあ、最近は半分以上お祭りモードだけど」

 そう言って歩くカイの足取りは、いつもより少し軽い。

 この街と、この祭りが好きなのだ、と分かる。

 カイは、階段の前に差しかかると、自然な動きで手を差し出した。

「段差、暗くなると見えづらいから。慣れない石畳でこけると痛いよ」

「……ありがとう」

 エリーナは、少しだけ迷ってから、その手を取った。

 温度は、人間のそれだ。
 竜とは違う、柔らかくて少しだけ頼りない体温。

 手のひらと手のひらが触れ合った瞬間、心臓がきゅっと縮んだ。

(なにこれ)

 自分の心臓なのに、自分で驚く。

 王宮では、婚約者として王太子の手を取ることもあった。
 舞踏会で騎士と踊ることもあった。

 なのに、今この瞬間のほうが、よほど胸が騒がしい。

「大丈夫?」

「だ、大丈夫です!」

「そんなに緊張しなくていいのに」

「してない、してないです!」

 全力で否定したけれど、声が裏返っていた。

 カイは笑いを堪えるように口元を押さえた。

「……エリーナって、分かりやすいよね」

「えっ」

「泣きそうになったときも、嬉しいときも、すぐ顔に出る」

「なっ……」

「さっき両替のときも、干し肉の値段見たときも、“やばい”って顔してた」

「それは……」

 否定できない。
 表情に出ないように気をつけているつもりでも、どうやら全然隠せていないらしい。

「でも、嫌いじゃないよ。そういうところ」

 さらっと言われて、今度は耳まで熱くなる。

「……カイって、意外と、からかうよね」

「意外と?」

「もっと静かで、本と数字相手にしてるイメージだった」

「そういうとこもあるよ。でも、“旅人と一緒のお祭り”なんて、珍しくて楽しいんだって」

「……そっか」

 楽しい。
 その言葉を聞くだけで、自分まで楽しくなる。

 市場の喧騒の中で、「普通の少女」として笑えている自分が、確かにここにいる。

 王宮でもない。
 竜の背の上でもない。

 エルダーンの、とある祭りの日の夕暮れ。

 ただの、旅人としての時間。



 露店をひとつひとつ覗きながら歩く。

 甘い蜜をかけた揚げ菓子をひとつ買って、カイと半分こする。

「これ、おいしい……!」

「ここ来たら、これ食べないとね」

 揚げたての生地は外がカリッと、中はふわふわ。
 そこにとろりとかかった蜂蜜と、ほんの少しの柑橘の皮。

 舌の上で溶ける甘さに、思わず頬がゆるむ。

「アストライアには、こういうのないの?」

「似たようなのはあるけど、味付けが全然違う。香りが強い」

「それが“世界の違い”ってやつだよ」

 カイは、そう言って自分の分をぱくりと口に運ぶ。

「こういうとき、“見に来てよかった”って思わない?」

「……うん」

 素直に頷いた。

 家族と別れて、王宮とも決裂して、竜と一緒に空を飛んで。

 その全部の先に、この一口の甘さがあると思うと、少しだけ報われる気がした。

 広場の真ん中では、音楽隊が演奏を始めている。

 弦と笛と、打楽器のリズム。

 人々が自然と輪になって踊り始める。

「踊る?」

「えっ」

 不意に手を引かれて、エリーナは一瞬足をもつれさせた。

「こういうのは、参加しないと損だよ」

「見てるだけでも楽しいよ!」

「見てるだけだと、“観光客用の壁”が残るでしょ」

 カイは、そう言ってエリーナの手を軽く握る。

「大丈夫、ステップそんな難しくないから」

「で、でも──」

 抵抗してみるものの、音楽が身体を勝手に揺らしてくる。

 輪の中の人々は、みんな笑っていた。

 見知らぬ人と手を繋ぎ、リズムに合わせて足を踏み鳴らす。
 老いも若きも、男も女も、関係なく混ざり合う。

 エリーナも、恐る恐る足を動かした。

 最初はぎこちなく。
 次第にリズムが身体に染み込んでくる。

 カイが、さりげなく彼女の歩幅に合わせて調整しているのが分かる。

「ほら、できてる」

「……なんか、浮いてない?」

「浮いてない浮いてない。“ちょっと不慣れな旅人”に見えてるだけ」

「それは浮いてるのでは……」

 そんな会話を交わしながら、エリーナは笑った。

 気づけば、頬が痛くなるくらい笑っていた。
 あの夜会のあと、こんなふうに無防備に笑ったことがあっただろうか、とふと思う。

(……楽しい)

 純粋に、そう思った。

 竜の主でもなく。
 誰かの婚約者でもなく。

 ただ、自分としてここにいる。



 やがて、空が完全に暗くなった。

 灯籠の光だけが、柔らかく街を照らしている。

「そろそろ、だね」

 カイが、空を見上げながら言う。

「何が?」

「光の祈りの“本番”」

 その言葉とほぼ同時に、街の中央にある魔導塔の先端が、ふわりと光り始めた。

 青白い光が、点から線へ、線から面へと広がっていく。

 塔全体が、一本の巨大な光の柱になり──
 次の瞬間、その光が夜空へと放たれた。

「わ……!」

 エリーナは思わず息を呑む。

 光の筋が空高く伸びていき、ある高さでぱん、と弾けた。

 その瞬間、夜空に花が咲いた。

 音はない。
 爆発音の代わりに、細かな鈴の音のような響きが、空気の中を満たす。

 光の花弁がひとつひとつ落ちてきて、街灯りとは違う、冷たい光で人々を照らす。

「これが……魔術花火……」

「うん」

 カイも、少し首を仰いで空を見ている。

「魔力と祈りを束ねて、一晩だけ空を飾る。戦争が終わった日から、ずっと続いてる」

 次の光が上がる。
 紅い花、黄金の輪、緑の帯。

 夜空に描かれる模様は、どれも儚くて、美しかった。

 胸の奥で、何かがそっと震える。

(……アークヴァンにも、見せてあげたいな)

 ふと、そんなことを考えた。

 遠く離れた丘の上で、彼もきっとこの光を見ているのだろうか。

『主』

 ──呼んだか、とでも言うような声が、一瞬だけ頭の中を掠めた気がした。

 錯覚だろうか。
 でも、竜との契約がある限り、遠く離れていても気配は届く。

 光の花が、さらに高く上がる。

 その中に、一際強い光があった。

 塔の先端から放たれた光が、夜空の一点で収束し、白に近い眩しさを帯びる。

「これが、クライマックス」

 カイが、ぽつりと説明する。

「最初の祈りの魔法を再現したやつ。街全体の“ありがとう”と“これからも”を込めて上げるんだって」

「“これからも”……」

 エリーナは、胸元を押さえたくなるのを我慢した。

 光が、弾ける。

 眩しくて、一瞬目を閉じる。

 その瞬間──

 胸の奥で、なにかが鳴った。

 どくん。

 とても重い、竜の鼓動。

 心臓の少し上に刻まれた紋章が、熱を帯びる。

「っ……」

 息が詰まる。

 胸の内側から、白い光がじわりと広がった。

 光の魔術花火と、竜魔法が共鳴する。
 外の光と、内側の光が、似た波長で揺れている。

「エリーナ?」

 隣で、カイが小さく呼ぶ。

 エリーナは、慌てて両手で胸元を押さえた。

(やばいやばいやばい)

 竜魔法の暴走ではない。
 ただ、外部の強い魔力に反応して、契約の紋章が刺激されているだけ。

 理屈は分かる。
 でも──

 白い光が、服の布地越しに、うっすらと滲み出ていた。

 ぱ、と。

 ほんの一瞬。

 でも、祭りの灯りに照らされたその白は、予想以上に目立った。

「……っ!」

 エリーナは反射的にマントを引き寄せる。

 隠そうとして。
 見せまいとして。

 しかし、その動きは遅かった。

 彼女の正面にいた、小さな子どもが。

 ぽかんと口を開けたまま、エリーナの胸元を凝視していた。

「……いま、ひかってた」

 その子が、小さな声で呟く。

 そして──

「竜の紋章だ!」

 その声は、思った以上に通る声だった。

「竜の主様だ!!」

 時間が、一瞬止まる。

 次の瞬間、一気に動き出した。

「え? 今、竜って──」

「竜の主?」

「アストライアの……?」

「王宮を吹き飛ばしたって噂の……?」

 ざわり、と空気が揺れる。

 視線が集まる。
 光の花火よりも鋭い光が、エリーナの胸元に突き刺さる。

 エリーナは、呼吸を忘れた。

 喉がきゅっと締まる。

(……あ)

 隣で、カイが小さく息を飲んだ気配がした。

 彼の視線も、エリーナの胸元と顔の間を往復している。

 そこにあるのは、隠しようのない「印」。

 白竜アークヴァンとの魂契約の紋章。
 アストライア王宮を吹き飛ばしたとき、世界に刻まれた「証」。

 その一瞬の沈黙の中で──
 どこか遠くから、誰かの声が聞こえた気がした。

『主』

 それは、竜の声だったのか。
 自分の心の悲鳴だったのか。

 判別がつかない。

「──竜の主だ!」

 誰かが繰り返す。

「本物だ!」

「どうしてリューンに?」

「危険じゃないのか?」

「王宮吹き飛ばしたって……」

「でも、干ばつの村を救ったって話も──」

 噂話が、瞬く間に形を変えながら飛び交う。

 エリーナの耳には、その全てが刺さる。

 “王宮を吹き飛ばした竜の主”。
 “災厄を連れた娘”。
 “白竜の主”。

 それらの言葉が、彼女の肩に一気に降り積もる。

「エリーナ」

 小さく名前を呼ばれて、はっと顔を上げた。

 カイが、すぐ隣にいた。

 その目は動揺している。
 けれど、それ以上に強い何かが宿っていた。

 彼は、エリーナと群衆の間に、ほんの少しだけ身体を滑り込ませる。

 彼女を庇うように、半歩前に出る。

 そのささやかな動きだけで、エリーナの胸は少しだけ呼吸を思い出した。

(……ああ)

 分かっていたはずなのに。
 いつかこうなるって、覚悟していたはずなのに。

 それでも今、心臓はみっともなく暴れている。

 光の花が、最後のひとつを咲かせて消えていく。

 その余韻の中で、エルダーンの夜に新しい噂が生まれた。

 ──アストライアの“王宮を吹き飛ばした竜の主”が、異国の祭りの空の下にいた、と。

 その噂は、光の魔術花火よりも早く、街中へ駆け抜けていく。

 まだ、誰も知らない。
 それが、この先の旅路の空気を、どれだけ変えてしまうのかを。
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