続・無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……✩✩旅を選んだ娘とその竜の物語

タマ マコト

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第3話 『異国の視線、竜の主は災いか恩恵か』

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 朝が、少しだけ重かった。

 エルダーンの宿屋の小さな部屋。
 木枠の窓から差し込む光は柔らかくて、空気も、寝心地も悪くない。

 なのに、エリーナの身体は布団に沈み込んだまま、しばらく動けなかった。

(……ああ、そうだ)

 胸の奥が、ずん、と沈む。

 昨日の夜、光の花火。
 胸元の紋章。
 子どもの声。

 ──「竜の主様だ!」

 思い出したくない記憶ほど、鮮明によみがえる。

「…………」

 顔を枕に押しつけて、 くぐもったよう になった声で小さく唸る。

 逃げ出せるなら、逃げ出したかった。
 でも、逃げる先も、逃げたあとの自分も、想像がつかない。

『主』

 頭の奥で、低い声が響いた。

 アークヴァンの気配だ。
 距離が離れていても、竜との契約は、心の奥でつながっている。

『起きているか』

「……起きてる」

 枕に顔を半分埋めたまま、心の中で返事をする。

『ならば、まず飯だ』

「……いきなりそこ?」

『主が空腹でふらつけば、我にも感覚が伝わって気持ち悪い』

「それは本気で申し訳ない」

 ささやかな現実に引き戻されて、エリーナはどうにか布団から身を起こした。

 鏡代わりの磨かれた金属板に映る自分の顔は、見事に寝癖と疲労で崩壊している。

「……ひどい顔」

『昨夜の光とざわめきを浴びたのだから、当然だ』

「慰め方って知ってる?」

『知らぬ』

「正直だなぁ」

 ぶつぶつ言いながらも、エリーナは竜魔法で軽く身だしなみを整える。

 髪を撫でるように白い光を流し、絡まりをほぐし、肌のくすみを少しだけ誤魔化す。
 完全に隠せるわけじゃないけど、それでも何もしないよりはマシだ。

(……よし)

 深呼吸をひとつ。
 胸の中に溜まっていた重たい空気を吐き出し、部屋の扉を開ける。



 宿屋の食堂は、朝から人でごった返していた。

 旅人、商人、地元の職人たち。
 焼きたてのパンとスープの匂い、木製のテーブルにぶつかるカップの音が入り混じる。

 そのざわめきの中で──視線だけが、少し違っていた。

「……あれが」

「昨日の……」

「胸が光ってた子だろ?」

 小さな声が、スープの湯気の向こうから飛んでくる。

 エリーナは、足を止めそうになるのを、どうにか動かした。

(見ない、見ない)

 あえて、誰とも目を合わせないようにして、空いている席を探す。

 給仕の女性が、「おはようございます」といつも通りの笑顔で迎えてくれようとして──一瞬、表情を固くする。

「あっ……」

 エリーナは、笑顔を作った。

「おはようございます」

「……お、おはようございます。こちらどうぞ」

 ぎこちなくも、席に案内してくれる。

 昨日までなら、「旅人って感じね」と軽口を叩いてきたおばさんだ。
 それが、「竜の主」と知った途端に、一歩距離を取る。

 無理もない。

(分かってるよ。頭では)

 王宮を吹き飛ばした。
 白竜と契約している。
 国を揺るがした“当事者”。

 そんなラベルが、彼女の顔の上にべったり貼り付いている。

 パンとスープが運ばれてくる。

「ありがとう、ございます」

「いえ……」

 視線が、少し泳いでいた。

 エリーナは、パンをちぎって口に運ぶ。

 味は悪くない。
 でも、胸の奥に広がる重さのほうが勝って、飲み込むのに時間がかかる。

「あの子が……」

「竜の主、だって……」

「危なくないのかね……?」

 はっきり聞こえる声もあれば、囁き声もある。

 見てくる人もいれば、見ないふりをする人もいる。

(……わかってたよね)

 自分に向かって、心の中で言う。

 竜と共にある人生を選べば、どこに行っても、こういう視線はついて回る。
 王都を離れたからといって、「普通の旅人」だけを演じ切れるわけじゃない。

 それくらい、分かっていたはずだった。

 でも──

『主』

 アークヴァンの声が、小さく響く。

『耐えられぬか』

「……ううん」

 スプーンを握りしめたまま、心の中で首を振る。

「耐えられないわけじゃない。ただ、ちょっと疲れるだけ」

『人の視線というやつは、風のようでいて、鉛のようだな』

「詩人?」

『主の影響だ』

「責任転嫁された……」

 ひとりで苦笑する。

 笑うことでしか、心が持たない瞬間というものが、確かに存在する。



 食堂を出て、宿の廊下を歩いていると、不意に声をかけられた。

「あのっ」

 振り向けば、小柄な少年が立っていた。
 昨日の夜、紋章を見つけて叫んだ子とは違う。

 洗濯物を抱えたまま、勇気を振り絞ったような顔で、こちらを見上げている。

「えっと……竜の主様、ですか?」

「……そう、呼ばれることが多いかな」

 否定しても仕方がない。
 もう、隠せる段階はとうに過ぎている。

 少年は、ごくりと唾を飲み込んだ。

「あの、ぼ、僕……昨日、花火のとき見ました。胸が光ってて」

「そっか」

「その……竜って、その、町を……」

 途中で、言葉が引っかかる。

 エリーナは、彼が本当に聞きたいことを、何となく察した。

「町を焼いたり、壊したり、しないかって?」

 少年は、びくっと肩を跳ねさせてから、こくりと頷いた。

「お母さんが……昔、竜が暴れた話してて……。怖くて。でも、昨日の花火、きれいで……よく分からなくなって」

 竜は怖い。
 でも、光は綺麗。

 その矛盾を、小さな頭で抱え込んでいる。

「竜はね」

 エリーナは、しゃがんで少年と目線を合わせた。

「怒ったら、本当に怖いよ」

 そこは、誤魔化さない。

「大きいし、力も強いし。王宮の大きな広間だって、吹き飛ばせちゃうくらい」

「……やっぱり、そうなんだ」

 少年が、さらに不安そうな顔をする。

 エリーナは、その表情をまっすぐに受け止めた上で、続けた。

「でもね。うちの竜──アークヴァンは、“守るために”怒るの」

「守る……?」

「大事なものが傷つけられたとき。誰かが踏みにじられたとき。そういうときにだけ、本気で怒る」

 あの夜。
 婚約破棄の言葉。
 王太子の浅い笑み。
 周囲の嘲笑。

 それら全部を、「主の心を砕かれた」と判断して、彼は怒った。

 やりすぎと言えば、やりすぎだ。

 でも、その根っこにあったのは、「守る」という本能だった。

「それでも怖い、って感じるならね」

 エリーナは、少年の目を見ながら言った。

「怖がっていいよ。無理に好きにならなくていい。ただ──」

 言葉を少し探す。

「竜を全部“悪いもの”って決めつけるのも、もったいないなって、私は思う」

「もったいない……?」

「うん。だって、竜の背に乗って空を飛ぶの、すっごく気持ちいいんだよ?」

 少年の目が、きらっと光る。

「高いところから見たらね、町も森も川も、全部“ひとつの絵”みたいに見えるの」

「いいな……」

「いつか、怖くなくなったら。アークヴァンに“背中触ってみたい”って言ってごらん。きっと、ちゃんと挨拶してくれるから」

「竜って、挨拶するの?」

「するよ。“我が名はアークヴァン”って、偉そうに」

 思わず笑ってしまう。

 少年も、少しだけ口の端を上げた。

「……ちょっとだけ、怖くなくなったかも」

「なら、よかった」

 エリーナはそう言って立ち上がる。

「でも、怖くなったら逃げてね。怖いって思う気持ちも、大事だから」

 少年はこくりと頷いてから、「ありがとうございました!」と頭を下げて走り去っていった。

 その小さな背中が曲がり角で消えるのを見届けてから、エリーナは、ふう、と長い息を吐いた。

(……これ、あと何回やることになるんだろう)

 ひとつひとつの会話は、そんなに嫌じゃない。
 むしろ、救われる瞬間も多い。

 でも、積み重なっていくと、確実に心のどこかをすり減らしていく。

『主』

「なに?」

『さっきの言葉、我にも聞かせてもらいたかったな』

「どの言葉?」

『我が背に乗るのが、とても気持ちいいというやつだ』

「そこ?」

『誇らしい』

 声音が、ほんの少しだけ嬉しそうで、エリーナは苦笑する。

「……あとで直接言ってあげる」

『約束だ』

 小さな会話が、わずかに心を支えてくれる。



 一方そのころ、エルダーンの魔導塔の上層階では、別の空気が漂っていた。

「──昨日の光の反応、本当に“竜紋”か?」

 重厚な机の向こうで、白髪混じりの男が資料をめくる。

 リューン魔導院エルダーン支部の院長、グレン・ハルド。
 四十代半ば、眼鏡越しの視線はいつも冷静で計算高い。

「観測陣の記録では、間違いありません」

 報告するのは、若い魔導士。
 彼の後ろには、黒髪の青年がひとり立っていた。

 カイ・レイシア。

 昨夜から何度も同じ質問をされ、同じ答えを返している。

「位置は?」

「エルダーン中央広場、光の祈り祭の会場上空。時間は、花火のクライマックス直後です」

「人物特定は?」

「……大方、目星はついています」

 グレンが、ゆっくりと視線を上げる。

「カイ」

「はい」

「昨夜、一緒にいた娘だな?」

 ごまかす余地はない。

 カイは、静かに頷いた。

「エリーナ、と名乗りました」

「姓は?」

「……言いかけて、飲み込まれました」

 正直に言う。

 あの瞬間の、彼女の迷いと躊躇を思い出す。

 カル──まで出かかった音。
 その先に続くのは、きっと。

「アストライア王国カルヴェルト伯爵家の令嬢、“エリーナ・カルヴェルト”の可能性が高いと考えています」

 そう言った瞬間、部屋の空気が少しだけ重くなった。

「王太子の元婚約者、か」

 グレンは、軽く舌打ち混じりに言う。

「王宮崩壊事件の中心人物のひとり」

「はい」

「そして──白竜アークヴァンの“竜の主”」

 そう。
 そこが、何よりも厄介なポイントだ。

「確認しておきたいのだが」

 グレンは、指で机をとん、と叩いた。

「彼女は、“本当に”竜の主なのか?」

 カイは、一瞬だけ言葉を選ぶ。

 昨夜、光の花火の下で見た紋章。
 彼女の胸元に浮かんだ白い輝き。
 そして、彼女がふと空を見上げたときの、遠くにいる誰かとつながっているような表情。

「……はい。契約紋の反応、魔導塔の観測データ、全て一致しています」

 嘘をつくこともできたかもしれない。

 でも、ここで嘘を積み重ねれば、もっと大きな危機を呼ぶ。

 それは、カイの感覚としても、研究者としての直感としても、明らかだった。

「竜の名前は?」

「直接聞いたわけではありませんが、“アークヴァン”という名を口にしていました」

「白竜アークヴァン。アストライア王家の守護竜だった存在だ」

 グレンの声に、わずかな驚きと興奮が混ざる。

「竜魔法の波長も、かつて記録されたアークヴァンのものとほぼ一致している」

 竜魔法。
 竜と人の契約から生まれる特殊な魔力。

 平時の魔導師たちは、竜がいない以上、その理論だけを机の上でこね回すしかなかった。

 そこに今、突然「本物」が目の前に現れたのだ。

「研究資源としては、喉から手が出るほど欲しい存在、というわけだな」

 グレンは、あからさまに口の端を吊り上げた。

「ですが」

 別の魔導士が、慎重な口調で口を挟む。

「アストライアとの政治問題もございます。王家との関係が切れているのかどうか」

「そこだ」

 グレンは、視線をカイに向けた。

「カイ。彼女はアストライア王家と、今どんな関係にある?」

「……旅先で出会ったばかりで、そこまで深い話は」

「嘘は要らん」

 グレンの声が鋭くなる。

「君の性格は分かっている。観察した範囲での“推測”でも構わん。言え」

 カイは一瞬だけ目を伏せ、それから覚悟を決めて口を開いた。

「彼女は、“王家に縛られない道を選んだ”と言っていました」

「ほう」

「王都を離れ、この国に来たのも、自分の意思。少なくとも、今の彼女はアストライア王家の命令では動いていないと思われます」

「王家とは決裂している、と?」

「そこまで断言はできません。ただ、少なくとも“守護竜としての立場”からは、完全に外れているはずです」

 白竜アークヴァンが激怒し、王宮の一部を吹き飛ばした夜。
 その結果として、王太子は廃太子になり、エリーナは婚約者の身分を失った。

 その一連の事件を、カイは報告書と噂でしか知らない。

 けれど、昨夜、光の下で見た彼女の表情は、簡単な言葉では片付けられなかった。

(あれは……“王家の道具”の顔じゃなかった)

 自分の足で立とうとしている顔だった。

 揺れながら、迷いながら。

「ふむ」

 グレンは腕を組んで、しばし考え込む。

「アストライア王家と切れているなら、なおのこと好都合だが……早計は危険だな」

 彼は机の上の書類を指先で弾いた。

「竜魔法の研究対象として、これ以上の存在はない」

 欲望を隠そうともしない言葉。

「だが、下手に拘束でもすれば、“他国の竜を拉致した”と見なされる可能性もある」

 政治。
 国際関係。
 魔導院もまた、王国という巨大な生き物の一部なのだ。

「カイ」

「はい」

「君は、彼女と直接会話ができる立場にいる。……そうだな?」

 グレンの目が、静かに射抜いてくる。

「はい」

「ならば、こうしよう」

 グレンは、軽く咳払いをした。

「エリーナ・カルヴェルト“と思しき娘”との接触を続けろ。行動範囲、竜魔法の使用頻度、性格傾向、政治的な発言……観察できるものは全て観察し、定期的に報告しろ」

 簡単に言えば、「監視」。

「ただし」

 そこで、グレンの声がわずかに低くなる。

「彼女に、魔導院としての“圧力”を感じさせるな」

「圧力……」

「竜の主は繊細だ。追い詰めれば、竜のほうが牙を剥く」

 王宮の例を、彼らも知っている。

「あくまで、“旅先で出会った友人”として接しろ。その範囲で得られる情報だけで十分だ」

「……了解しました」

 カイは、一拍置いて頷いた。

 命令は、理解できる。

 竜魔法は危険でもあり、同時に有益でもある。
 それを見極めるために、魔導院が「目」を向けるのは、ある意味当然だ。

 それでも。

(……彼女を、“研究資源”としてだけ見られるほど、器用じゃない)

 昨夜、花火の下で怯えたように胸元を押さえた顔。
 少年に竜の話をするときの、少しだけ困った優しい表情。

 その全部が、カイの中に、単なる観察対象以上の何かを刻み始めている。

「カイ」

「はい」

「私情は挟むなよ」

 グレンが、まるで心を読んだかのように言った。

 カイは、一瞬だけ目を逸らし、それから苦笑する。

「努力します」

「努力でどうにかしろ」

 会話はそこで切られた。



 エリーナは、街の広場にいた。

 何か特別な用事があったわけではない。
 じっとしていると、余計にいろんなことを考えてしまいそうで、わざと人の多い場所に出てきただけだ。

 広場の一角では、いつものように物売りたちが声を張り上げている。

 その少し離れたところで──別の声が飛び交っていた。

「だから言ってるだろう!」

 怒鳴り声。

「竜が来れば、この土地は豊かになるんだ!」

「何を根拠にそんなことを!」

「古い伝承だ。竜が空を飛んだ土地は、実りがよくなるって」

「古い伝承なら、竜に焼き払われた村の話だってあんだろ!」

 近づいてみると、広場の真ん中で、数人の男たちが向かい合っていた。

 一方は、首から竜を模した小さなお守りを下げている。
 竜信仰の一派だろう。

 もう一方は、竜の話をすると顔をしかめる、明らかな反竜派。

「昨日、見ただろ!」

 竜信者の男が指を天に突きつける。

「白竜の主が現れたんだ! あれはきっと、この街に恵みをもたらすために──」

「王宮を吹き飛ばした災厄だぞ!」

 反竜派の男が遮る。

「アストライアの王宮がどうなったか知らねえのか! 城壁を壊され、王太子は廃太子になったんだ!」

「それは、王太子が愚かだったからだ!」

 別の声が割り込む。

「竜を怒らせたのは人間だ! 竜は悪くない!」

「人間を守るために作られた王宮を壊しておいて、何が“悪くない”だ!」

「竜の主だって人間だろう! あの娘がどんな思いで──」

「思いで城は立たねえよ!」

 言葉が、ぶつかり合う。

「竜が来れば土地は豊かになる!」

「竜が来れば土地は焼ける!」

「竜の主は恩恵だ!」

「竜の主は災禍だ!」

 どちらの言葉も、エリーナの胸に刺さる。

(わたしは……)

 あの日。
 王宮を吹き飛ばしたのは事実だ。

 誰かに傷つけられて。
 それを見て、竜が怒って。
 結果として、一国の中心を半壊させた。

 それが、「災い」だと言われれば、否定できない。

 でも。

(干ばつの村を、少しだけ救えたのも事実で)

 あの水の笑顔は、確かに「恵み」だった。

(わたしは、恩恵なのか。災いなのか)

 そんな極端な言葉で、割り切れる存在じゃない。

 でも、世界はいつだって、分かりやすいラベルを欲しがる。

 白か、黒か。
 善か、悪か。
 祝福か、災厄か。

 そのどちらにも属しきれない曖昧さが、エリーナの胸をチクチクと痛ませる。

「──あ」

 誰かが、自分のことを指さした。

「竜の主だ!」

 人々の視線が、一斉にこちらを向く。

 竜信仰の男も、反竜派の男も。

 エリーナは、足を止めた。

 逃げることもできずに、そこに立ち尽くす。

「お、お前が……」

 竜信仰の男が、血走った目で彼女を見る。

「あの白竜の主か!」

「……はい」

 否定はしない。

 否定できるほど、器用じゃない。

「どうなんだ!」

 男が一歩詰め寄る。

「この街に、“恵み”をもたらしに来たのか!? 竜の主として!」

「それとも!」

 反竜派の男が、負けじと前に出る。

「アストライアでやったみたいに、この街も壊しに来たのか!」

「やめろよ!」

「いや、聞かせろ! どっちなんだ!」

 どっちかなんて。

 そう簡単に言えるものじゃない。

 なのに、世界は簡単な答えを求めてくる。

“はい”か“いいえ”で答えられる形に、無理やり押し込もうとしてくる。

「私は──」

 喉が、乾いていた。

 言葉を出そうとすると、舌がうまく動かない。

(なんて──)

 なんて言えば、いい?

 どんな言葉なら、この人たちの期待と恐怖を、少しは軽くできる?

 考えれば考えるほど、胸の奥がきゅっと締め付けられる。

「エリーナ!」

 そのとき。

 聞き慣れた声が、ざわめきを割った。

 カイが、人混みを縫って駆け寄ってくる。

 さっきまで魔導塔にいたはずなのに。
 服の裾が少し乱れている。

「ここ、ちょっと空気悪いから。移動しよう」

 彼は、反論の余地も与えない速さで、エリーナの手首を掴んだ。

「ちょっ──」

「すみません、この人ちょっと体調悪いんで!」

 人々の間に、さらりと嘘を投げる。

「昨日の花火で魔力酔いしてるんですよ。質問はまた元気なときに!」

「待て!」

「魔導院の人間として言いますけど、“魔力酔いしてる竜の主”を揺さぶるの、本気で危ないんで!」

 その言葉に、周囲が一瞬ひるむ。

 “危ない”という言葉は、どんな場でも強い。

 カイは、そのわずかな隙を逃さず、エリーナを半ば引きずるようにして広場から連れ出した。

 石畳の上を走る。
 人々の視線が背中に突き刺さるのを感じながら。

 走って、走って。

 広場の喧騒が、少しずつ遠ざかる。



 辿り着いたのは、川辺だった。

 エルダーンの外れを流れる川。
 昼間は洗濯や水汲みで賑わうが、今は少し時間帯をずらしているからか、人影はまばらだった。

 カイは、そのうちの一角──大きな岩がいくつか並ぶ場所にエリーナを連れていき、ようやく手を放した。

「はぁ……はぁ……」

 エリーナは、膝に手をついて息を整える。

 心臓が暴れているのは、走ったせいだけじゃない。

「……ごめん」

 小さく呟いた。

「いきなり連れてきて」

「ううん。ありがとう」

 エリーナは、まだ少し乱れた呼吸の合間に、かすかに笑った。

「助かった」

「助けになってたなら、よかった」

 カイは、少し離れた岩に腰を下ろし、川面を見つめた。

 静かな水の流れ。
 光が反射して、きらきらと揺れる。

「……さっきの」

 しばらくして、エリーナがぽつりと言った。

「聞いてた?」

「どこから?」

「“竜が来れば土地は豊かになる”とか、“竜の主は災いだ”とか、その辺」

「広場の入り口くらいからかな」

 カイは、正直に答える。

「どっちも、本気で言ってたよ」

「うん」

 分かってる。

 というように、エリーナは小さく頷いた。

「どっちも、きっと少しずつ正しいんだと思う」

 川面を見ながら呟く。

「竜は、豊かさをもたらすこともあるし、破壊もする。……わたしも、そう」

 王宮を吹き飛ばした。
 干ばつの村の井戸を救った。

 どちらか一方だけに塗り替えることはできない。

「で、“竜の主は恩恵か災いか”って話になって──」

 エリーナは、苦笑した。

「多分、そうやって話してる人たちは、“どっちに押しつけるか”決めたいんだろうね」

「押しつける?」

「“自分たちの暮らしが変わる理由”を、竜のせいにするか、竜のおかげにするか」

 竜が来たから豊かになった。
 竜が来たから壊れた。

 どちらにせよ、「全部竜のせい」にしておけば、自分の選択の責任からは逃げられる。

「わたしも、そのほうが楽だったのかもしれないけど」

 エリーナは、自分の胸元を、そっと押さえた。

「わたし、あの夜、本当に王宮を吹き飛ばした」

 その言葉は、驚くほど静かだった。

「アークヴァンの怒りを、止められなかった。……止めるどころか、心のどこかで“壊れてしまえばいい”って思ってしまった」

 婚約破棄の言葉。
 人々の嘲笑。
 王太子の冷たい眼差し。

 その全部に、ずっと耐えてきた。

「だから、“全部竜のせい”には、したくない」

 声が少し震える。

「わたしの中にも、壊したいっていう黒い気持ちがあったから。……そこからは、逃げたくない」

 涙は、まだこぼれていない。

 こぼれないように、ぎりぎりで踏みとどまっている。

「でもね」

 そこで、ふっと笑った。

「“全部わたしのせいだ”にも、したくない」

「…………」

「竜がいたから、守れたものもあるから」

 白竜の背に乗っていなければ、あの干ばつの村には、きっと辿り着けなかった。

「あの夜、王宮が崩れたのも事実だけど。……わたしが王宮から出てこなかったら、“竜の主として”旅に出なかったら、あの村の子どもたちは今頃どうなってたんだろうって」

 その答えは、誰にも分からない。

 でも、エリーナは、空へ飛んだ。

 竜を選んだ。
 旅を選んだ。

「だから、“全部竜のせい”でも、“全部わたしのせい”でもなくて」

 エリーナは、自分の足元の土を見つめた。

「“一緒にやらかした”ってことにしておきたいの。わたしと、アークヴァンで」

「一緒に……」

 カイは、その言葉を反芻した。

「王宮を吹き飛ばしたのも一緒。村を救ったのも一緒。これからなにか壊しちゃったら、それも一緒。……守れたら、それも一緒」

 それは、どこか子どもっぽい理屈だ。

 でも、彼女の中で、それは真剣な答えだった。

「そしたら、“恩恵か災いか”なんて、簡単に切り分けられないでしょ?」

 評価されるために、救っているわけじゃない。
 誰かのラベルに合わせて、行動しているわけでもない。

「わたしは、“わたしの選んだこと”として、ちゃんと抱えていきたい」

 自嘲とも、決意ともつかない笑顔。

「……そんなこと言っても、怖いものは怖いんだけどね」

 そこで、ようやく少しだけ自分を甘やかす。

「“災いだ”って言われるたびに、胸がチクチクするし。
 “恩恵だ”って言われるのも、それはそれでプレッシャーだし」

 王都でも、王宮でも。
 今もこうして異国でも。

 彼女は、期待と不安の両方の視線を浴び続けている。

「ねえ、カイ」

「うん」

「カイから見て、わたしって……」

 言いかけて、言葉に詰まる。

 自分で自分に突きつけた問いを、他人に投げるのは、ずるいことかもしれない。

 それでも、聞きたかった。

「“災厄”に、見える?」

 静かな川辺に、その言葉が落ちる。

 カイは、少しだけ目を細めた。

 昨夜。
 光の花火の下で紋章が光った瞬間、エリーナの横顔を見た。

 そこには誇りも傲慢もなく、ただ、怯えと戸惑いがあった。

 さっき広場で、二つの意見に板挟みになって立ち尽くしていた背中も。
 人々の視線を浴びながら、逃げることも反論することもできずにいた足元も。

 全部、脳裏に焼き付いている。

(災厄、ね)

 王宮を吹き飛ばした。
 竜の主。
 白竜の契約者。

 どれも、恐れられて当然の肩書きだ。

 でも──

「少なくとも」

 カイは、ゆっくりと口を開いた。

「目の前で泣きそうになってる君を、“災厄”だとは、俺は思えない」

「…………」

「王宮を吹き飛ばしたかどうかなんて、まだ俺は“話”でしか知らない」

 報告書と噂と、記録された魔力波形。

「でも、今俺の目の前にいるのは、“両替で損しそうになって本気で焦る旅人”で、“干し肉の値段に絶望する女の子”で」

「言い方」

「さっき広場で、小さな子に竜の話をするとき、ちゃんと怖さも伝えながら、それでも竜のいいところを話そうとしてた人で」

 そこは、見逃していない。

「そんな人を、“災厄”って言うなら」

 カイは、川面から目を離して、エリーナを見た。

「世の中、災厄だらけだよ」

「…………」

 エリーナは、一瞬言葉を失った。

 胸の奥に、小さな灯りが、ともしびのように揺れる。

 大きな火ではない。
 世界を変えるほどの力もない。

 でも、冷え切った胸の真ん中で、確かに暖かい。

「そもそも俺は」

 カイは、少しだけ照れくさそうに笑った。

「“王宮を吹き飛ばした”って話を聞いたときは、正直、“危ない人だな”って思ってたよ」

「正直だね」

「でも、昨日今日一緒に過ごした限りだと──」

 彼は、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「泣きそうになりながらも、“自分のせいだ”とも“全部竜のせいだ”とも言い切らないで、ちゃんと“一緒にやらかした”って言える人は、少なくとも俺の知る“災厄”とは違う」

「……災厄に詳しいの?」

「研究者だからね。記録上の“災厄”はいくつも読んできた」

 彼は、肩をすくめる。

「“災厄”って呼ばれるものには、もっと自分を正当化したがる傾向があるよ。“全部あいつのせいだ”とか、“自分は被害者だ”とか」

「……耳が痛い人たちがいっぱい出そうな話だね」

「かもね」

 少しだけ冗談を混ぜて、空気を和らげる。

「だから、まあ」

 カイは、川の流れに視線を戻した。

「俺にとっては、君は“竜の主”で、“ちょっと泣き虫で、でも諦めが悪い旅人”かな」

「長い」

「いいでしょ。正式名称」

 エリーナは、しばらく黙っていた。

 川の音だけが、二人の間を流れる。

 やがて。

「……ねえ、カイ」

「うん」

「今の、もう一回言って」

「どこから?」

「“目の前で泣きそうになってる君を、災厄だとは思えない”ってとこから」

「照れるからやだ」

「ケチ」

 そこまで来てようやく、エリーナの目尻に、うっすらと涙が浮かんだ。

 涙は、ぽろりとは落ちない。
 ぎりぎりのところで、まつ毛にとどまっている。

「……ありがと」

 小さな声で、そう言った。

「少しだけ、楽になった」

「少しだけ?」

「うん。“全部”楽になるには、まだ時間がかかりそう」

 エリーナは、空を見上げた。

 昼の空は、花火の夜とは違う色をしている。
 でも、どこか同じ青さを持っていた。

「でも、“少しだけ”でも、灯りがついたら。
 また、諦めずに歩ける気がするから」

「それなら、よかった」

 カイは、すこしだけ照れ隠しのように視線を逸らした。



 そのころ。

 エルダーンから遠く離れた魔導塔の一室で、ひとつの魔導器が起動していた。

 円形の水晶盤。
 周囲には複雑な魔術文字が刻まれ、その中心に、淡い光の揺らぎが映し出されている。

 “結界眼”。

 離れた場所の魔力の流れと、輪郭だけを映し出す観測器だ。

 光の中に、ふたつの人影が映っている。

 川辺に座る少女と青年。
 少女の胸元には、薄く、白い紋章の輪郭。

「……これが、竜の主」

 低い声が呟いた。

 声の主の姿は、薄闇の中に隠れている。
 ただ、その瞳だけが、水晶盤の光を反射して冷たく光っていた。

「そして、その隣にいるのが──」

 視線が、黒髪の青年に移る。

「魔導院の若い研究員、カイ・レイシア、か」

 唇の端が、わずかに持ち上がる。

「面白くなりそうだ」

 囁きと共に、結界眼の光がゆらりと揺れた。

 竜の主と白竜の契約は、もう王都だけの問題ではなくなっている。
 その波紋は、静かに、しかし確実に、世界のあちこちで広がり始めていた。
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王立錬金研究所の研究員であった元貴族ケントは政治家に転向するも、政争に敗れ左遷された。 左遷先は領民のいない呪われた大地を抱く廃城。 この瓦礫に埋もれた城に、世界で唯一無二の不思議な銀眼を持つ男は夢も希望も埋めて、その謎と共に朽ち果てるつもりでいた。 しかし、運命のいたずらか、彼のもとに素晴らしき仲間が集う。 彼らの力を借り、様々な種族と交流し、呪われた大地の原因である未踏遺跡の攻略を目指す。 その過程で遺跡に眠っていた世界の秘密を知った。 遺跡の力は世界を滅亡へと導くが、彼は銀眼と仲間たちの力を借りて立ち向かう。 様々な苦難を乗り越え、左遷王と揶揄された若き青年は世界に新たな道を示し、本物の王となる。

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辺境で暮らす孤児のカイラは、人には見えないものが見えるために悪魔つき(カイラ)と呼ばれている。 同じ日に拾われた孤児の美少女ルイーズといつも比較されていた。 16歳のとき、神見の儀で炎の神の守護を持つと言われたルイーズに比べて、なんの神の守護も持たないカイラは、ますます肩身が狭くなる。 そんなある日、魔物の住む森に使いに出されたカイラは、魔物の群れに教われている人々に遭遇する。 カイラは、命がけで人々を助けるが重傷を負う。 死に瀕してカイラは、自分が前世で異世界の精霊王の姫であったことを思い出す。 エブリスタにも掲載しています。

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