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第4話 『乾いた村と、泣き虫の無力感』
しおりを挟むエルダーンの城壁が、だんだんと小さくなっていく。
朝の光を受けて白く浮かび上がる塔の輪郭が、やがてぼやけて、遠くの景色と同化していく。
その少し上を、白銀の影が滑っていた。
『主』
背中から聞こえる声は、いつもの低く落ち着いた響きだった。
『あの人間は、本気でついてくるつもりらしい』
「……みたいだね」
エリーナは、アークヴァンの背で、ちらりと横を見た。
同じ高度までは来られないから、少し下──街道沿いを走る馬車の屋根の上に、ひょいと腰掛けている黒髪の青年の姿が見える。
カイ。
リューン魔導院の研究員で、口が軽くて、目が鋭くて、やたらと人の感情の揺れを拾う男。
荷台の持ち主である商人と、すっかり打ち解けて話している声が、風の隙間を縫って耳に届いた。
「いやー、助かります。本当に。徒歩でついていくのかと思った」
「さすがに竜の速度に徒歩でついてく自信はないからね。馬車の屋根に乗るくらいは許して欲しいよ」
「うちの荷台、そんな高級な運搬用じゃないんですがねえ……」
呆れ半分、楽しそう半分。
世渡りが上手い、と言うべきか。
肝が据わっている、と言うべきか。
「……ねえ、アークヴァン」
『なんだ』
「まだ、あの提案、やめるって言えるかな」
『どの提案だ』
「“研究としても同行したい”ってやつ」
そう。
たしかに今朝、カイはそう言ったのだ。
エルダーンの宿を発つ準備をしているとき、ロビーで待っていた彼は、いつもより少しだけ真面目な顔をしていた。
『旅の目的、聞いてもいい?』
『世界を見たいから──だっけ』
そんな会話の後で。
『よかったら、俺も同行していい?』
あっさりと、そんなことを言ってきたのだ。
『もちろん、“観光”ってだけじゃないよ。魔導院の仕事としても、各地の魔力の分布や天候の異常を調べる必要がある。君たちの旅のルートと、俺の調査ルート、かなり重なるから』
言ってることは、筋が通っている。
ただ、その裏に、もうひとつニュアンスがあった。
『エリーナひとりに、“竜の主としての視線”を全部浴びせたくない』
その一言は、ずるいくらい真っ直ぐだった。
『……君が嫌じゃなければ、だけど』
カイはそう言って、こちらに選択権を投げてきた。
アークヴァンは、その会話を黙って聞いていた。
そして今、空の上で、こう言う。
『主はどうしたい』
「……わたし?」
『そうだ』
エリーナは、少しだけ唇を噛む。
「正直に言うとね」
『うむ』
「情報収集の面では、めちゃくちゃ頼りになると思う」
異国の相場。
魔導院から流れてくる最新の情報。
地域ごとの治安。
全部、彼がいたほうが安全だ。
「あと……一緒にいると、ちょっと、心が軽くなる」
『ふむ』
「人の視線浴びるとき、一人で全部受けるより、横に誰かいてくれたほうが、楽だから」
『ならば、連れて行けばいい』
アークヴァンの答えは、あまりにもあっさりしていた。
「……いいの?」
『主が望むことを、なぜ我が止める必要がある』
当たり前のように言う。
『主が“竜とだけ生きたい”と言うなら、人間を遠ざける手を貸す。主が“人間と共に歩きたい”と言うなら、その隣を飛ぶ』
「かっこいいこと言う……」
『事実を言っただけだ』
少しだけ、鼻息が誇らしげだ。
『ただし』
そこで、声の温度がほんの少し変わる。
『主にひどいことをしたり、涙を“面白がる”人間なら、我は容赦せぬ』
「……それは、そうだね」
王宮で、散々見てきた。
誰かの涙を、“娯楽”に消費する視線。
「でも、カイは──」
昨日、川辺で。
「泣きそうになってる君を災厄だとは思えない」と言ってくれた人だ。
あの言葉が、嘘であってほしくない。
「条件付きで」
エリーナは、小さく笑った。
「“竜の主としてのわたし”じゃなくて、“エリーナとしてのわたし”を見てくれる範囲で。……って条件付きで、一緒にいてもらう」
『長い条件だな』
「気にしないで」
そうやって、彼女は自分の中で折り合いをつけた。
◆
「で、条件付きで同行許可、ってことになりました」
丘の上で合流したとき、エリーナはそう宣言した。
カイは、あからさまにほっとした顔で笑った。
「よかった。断られたらどうしようかと思った」
「断られても一人でついてきそうな顔してたけど」
「それはそれでバレて怒られそうだからね、竜に」
『よく分かっているではないか、人間』
アークヴァンの金色の瞳が、じろりとカイを見下ろす。
『主を泣かせるような真似をしたら、我が先に“研究対象”にしてやる』
「ひどい脅し文句聞いた」
「つまり、“竜の主の研究対象”から“竜に研究される対象”になるってことだからね」
「余計怖い」
カイは苦笑しながらも、一歩も引かなかった。
「気をつけます。エリーナが泣いてたら、原因が自分かどうかまず確認するようにする」
「……泣く前提やめて?」
「今までの出会いの中で、もう三回くらい泣きそうだった人に、二度と泣かないでって言うのは難しいかなって」
「言い返せないのつらい」
そんな冗談交じりのやりとりをしながら、一行は目的地へと向かった。
干ばつが続いていると噂の、小さな村へ。
◆
村は、想像していた以上に、静かだった。
最初に目に入ったのは、ひび割れた畑。
地面の表層が、ぱっくりと口を開けている。
ところどころに残っている作物は、葉が黄色くしおれ、茎は細く、倒れかけていた。
痩せた家畜が、力なく草を噛んでいる。
牛も、羊も、骨ばっていて、目だけがぎょろりと大きい。
井戸の周りには人だかりができていたが、その桶に落ちる水の音は、恐ろしいほど少ない。
「……」
エリーナは、何も言えなくなった。
空の上から見たときも、畑の色が不自然に薄いのは分かっていた。
でも、地面のひびの深さ、家畜の痩せ具合、井戸の底の暗さは、近くに来てみないと分からない。
「ここが……干ばつの村、か」
カイも、眉をひそめる。
『水脈が遠のいておるな』
アークヴァンが、低く呟いた。
『大地の匂いが乾いておる。空気も、妙に軽い』
「……竜から見ても、そうなんだ」
エリーナは、胸の奥をぎゅっと掴まれたような感覚に襲われた。
そこへ、村人の一人が気づいた。
「お、お前たちは……」
警戒心を隠そうともしない目。
旅人。
見慣れない顔。
「旅の者です」
エリーナは、まずそう名乗った。
そして、一呼吸置いてから続ける。
「それと──竜の主です」
村人たちが、一斉にざわりと動いた。
「竜の主……?」
「昨日、エルダーンに現れたっていう……」
「白竜を従えた娘……」
噂は、ここにも届いているようだった。
恐怖。
期待。
羨望。
様々な色が混ざった視線が、エリーナの身体に突き刺さる。
(慣れない……)
慣れないけれど、逃げたらもっと嫌だ。
「水が……足りないんですよね」
エリーナは、井戸のほうへ目を向けた。
村人の一人が、ため息混じりに頷く。
「ああ。雨が、もうずっと降らねえ。去年も少なかったが、今年は特に酷い。井戸も、ほとんど底をつきかけてる」
木桶を覗き込み、縄を引き上げる。
桶の底には、少しだけ濁った水。
村全体で、この量をどう分け合っているのかを想像すると、胃が締め付けられた。
「だからって、俺たちにはどうしようもねえ。雨乞いも、もう何度もやった」
「竜……」
別の村人が、エリーナの背後を見やる。
森の向こう。
姿は見えないが、アークヴァンの気配は確かにそこにある。
「竜の主ってんなら……水を呼べるのか?」
期待。
それは、刃物のようだ。
エリーナは、一度目を閉じた。
浅い返事はしたくなかった。
「……やってみます」
目を開くときには、できるだけ真っ直ぐな目を心がけた。
「できる、とは言えません。でも、“できることがあるかどうか”は、確かめたい」
村人たちの間に、ざわめきが広がる。
「竜の主様が……!」
「本当に、やってくれるのかい!」
希望が、少しだけ灯る。
同時に、その重さがエリーナの小さな背中にずしりと乗る。
(……大丈夫。大丈夫)
自分に言い聞かせるように、胸に手を当てる。
『主』
アークヴァンの声が、静かに響く。
『無理をするな』
「うん」
“無理をしない”ことが、今、一番難しい。
◆
エリーナは、村の外れの少し開けた場所に立った。
広い空。
乾いた土。
遠くに白く霞む山の稜線。
「これ、どうするつもり?」
少し離れたところで、カイが不安そうに尋ねた。
「竜魔法で雲を引き寄せて、雨雲を作ってみる」
「そんなこと、できるの?」
「理論上は」
笑ってはみたものの、喉がからからだった。
「……訓練では、少しだけ成功したことがあるの。でも、あれはアストライアの森の上で、湿度も高かったし、“すでにある雲”を集めただけで」
「ここは、空っぽの空だ」
カイが空を仰ぐ。
雲は、遠くにうっすら見えるだけで、真上は澄み切っていた。
「足りないものが多すぎるかもね」
「だからって、何もしないで見てるだけは嫌なの」
エリーナは、空を睨むように見上げた。
(できるかどうか、やってみてから悩む)
それが、彼女の悪い癖であり、良いところでもある。
胸元にそっと手を添える。
竜魔法の紋章が、ゆっくりと熱を帯びていく。
「──竜王よ」
昔、書物で見た古い呼びかけの言葉を、試しに口にしてみる。
「空を渡る雲の道を、少しだけ貸して。……ここに、雨を下さい」
竜の血と、竜の魔法と、人の祈り。
それらが、胸の奥で一つに溶け合う感じがした。
アークヴァンの気配が、遠くから静かに寄り添う。
彼の翼が感じている上空の風向き。
彼の鱗に触れる空気の湿り気。
それらが、竜魔法を通じてエリーナの感覚にも流れ込んでくる。
「……来て」
指先を、そっと空に向ける。
遠くの薄い雲が、ぴくりと揺れた。
風の流れが、ほんの少し変わる。
上空の冷たい空気と、地表近くの暖かい空気が混ざり合い、雲が少しずつ厚みを増していく。
「すご……」
カイが、息を呑んだ。
エリーナの額に、汗が滲む。
竜魔法は、普段の魔術とは比べ物にならないほど重い。
しかも今は、広い範囲に影響を及ぼそうとしている。
指先が痺れる。
足元の土が、じんわりと光る。
空が、少しだけ暗くなった。
村人たちが、井戸のほうから空を見上げている気配がする。
(もう少し……)
エリーナは、歯を食いしばった。
空気中の水分を集めて、冷やして、重くして。
雨粒に形を変える。
頭の中で、何度も教本の文章をなぞる。
アークヴァンの感覚も借りながら、雲の位置を微調整する。
(もう、少し──)
そのとき。
風向きが、ふ、と変わった。
薄い何かが切り替わるように、わずかなズレが生まれる。
「あ──」
エリーナの口から、小さな声が漏れた。
集めた雲の塊が、ほんの数十メートル単位で、思っていた位置から外れる。
振り下ろしたい場所から、少し横へ。
村ではなく、その先の森のほうへ。
「……っ」
ぐい、と魔力で引き戻そうとする。
だが、一度動き出した空の流れは、思った以上に重かった。
力を込めれば込めるほど、自分の魔力だけが削られていく感覚がある。
「エリーナ、無理するな!」
カイの声が飛ぶ。
「やめたほうが──」
「もう少し……!」
やめたくなかった。
ここで手を離したら、「やっぱりわたしには無理でした」と宣言するみたいで、それが何より嫌だった。
でも──
『主』
アークヴァンの声が、いつもより強く響いた。
『ここで止めねば、そなたが倒れる』
「…………っ」
限界は、身体のほうが早く知っている。
視界の端が、じわりと白くなった。
足元がふらりと揺れる。
(まずい──)
とっさに、竜魔法の流れを断ち切った。
空に集めた雲は、そのまま惰性で流れていく。
行き先は、村の上空ではなく。
その先の、森のあたり。
ぽつ。
ぽつ、と。
冷たいものが、頬に当たった。
「……雨?」
カイが、空を見上げる。
エリーナも、必死で視線を上げた。
村の上空には、薄い雲と、ぽつぽつとした小さい雨。
地面が濡れるほどではない。
その先の森のほうは──
ざあああああああああ。
遠くから、明らかに違う音が聞こえてきた。
白く煙るような、密度の高い雨脚。
森の木々が、その重さに揺れる。
「……やったぁ!」
村人の中から、小さな歓声が上がる。
「でも、森のほうに……」
「いいんだよ! あの森の川が増えれば、ここにも水が流れてくる!」
「それに、さっきまで全然雲もなかったんだ。ここにちょっとでも雨が降っただけでありがたい!」
井戸のそばで、誰かが空に向かって手を伸ばす。
ぽつり、ぽつりと落ちてくる小さな雨粒を、子どもが嬉しそうに掬っている。
「竜の主様が雨を呼んでくれた」と。
(……違う)
エリーナは、心の中で呟いた。
たしかに、さっきより水蒸気は増えた。
森のほうには、恵みの雨が降っている。
村の畑も、何もなかったよりは、少しだけ湿った。
(でも、わたしがやりたかったのは、これじゃない)
空の水を、もっとここに。
井戸を満たすほどに。
土地のひび割れを癒せるくらいに。
そこまでやり切りたかった。
力が足りなかった。
知識が足りなかった。
何より、経験が足りなかった。
『主』
アークヴァンの声が、少しだけ優しくなる。
『これでも、この土地は助けられたのだ』
「……ううん」
エリーナは、首を横に振った。
「“助けた”なんて、言えない」
村人たちが笑っているのが、余計に苦しかった。
「何もないよりはマシだ」と言ってくれる優しさが、胸に刺さる。
足元の土が、じんわりと湿っていく。
それが、「精一杯」です、と突きつけられているみたいで。
「……ごめん、ちょっとだけ」
エリーナは、誰にも聞こえないように呟いた。
「少しだけ、一人にして」
そう言って、村の外れの、小さな茂みの向こうへ歩いていった。
◆
村外れの丘。
ほんの少し高くなった場所から、畑と森の両方が見える。
エリーナは、その中間地点にある大きな石に、どさりと腰を下ろした。
膝を抱えて、額を乗せる。
視界の下のほうで、雨が降っている。
森は潤い、川はきっと増水する。
村の畑には、まだ足りない。
井戸も、一気に満ちるわけではない。
「……中途半端」
呟いた声は、風に溶けるように軽かった。
胸の中は、重いのに。
「中途半端にしか、できない」
王宮を壊したときは、「やりすぎ」だった。
今は、「足りない」。
どちらにしても、「ちょうどいい」なんて言葉からは程遠い。
「“竜の主”って呼ばれてさ」
誰もいない空に、問いかける。
「期待されて、怖がられて、頼られて。……そのくせ、思うようにはできなくて」
王宮の大広間を思い出す。
あの夜、誰もが自分を責めた目で見ていた。
(今度は、“期待したのに”って目、かな)
村人たちの笑顔は、本当に嬉しそうだった。
でも、その裏にある「もっと」という気持ちを、勝手に想像してしまう。
涙が、じわじわと視界を滲ませた。
「あー……もう……」
自分で自分に呆れそうになる。
「泣き虫、なおってない」
袖でごしごし拭こうとしたとき。
「その手、ちょっと待った」
不意に、誰かに手首を押さえられた。
「っ」
びくっとして顔を上げると、そこにはカイがいた。
少し息を弾ませている。
村のほうから、急いで駆けてきたのだろう。
「……見ないで」
「無理」
「即答」
「ここまで走ってきて、“何もしないで帰る”選択肢、俺の頭の中になかったからね」
息は上がっているのに、声はいつもと同じ調子だった。
カイは、エリーナの手から袖をそっと外し、自分のハンカチを差し出した。
「泣くなら、ちゃんとした布で拭きなよ。袖で拭くと、あとで赤くなって痛いから」
「……子ども扱い?」
「そう見えるときもある」
さらっと言う。
「泣きたいときは、泣いていいよ」
「……っ」
その言葉は、妙な重さを持って胸に落ちた。
「泣かないで」でもなく、「泣くな」でもなく。
「泣いていい」。
泣くことそのものを、否定しない言葉。
「泣いたら、また“泣き虫”って言うでしょ」
「言うね」
「やっぱりじゃん!」
「でも、“泣き虫だからダメ”とは言わない」
カイは、真面目な表情で続けた。
「泣き虫でもいいじゃん。泣きながらでも、人のために空に手を伸ばしてるんだから」
「……結果、中途半端なんだけど」
「それでも、“何もしてない人”とは違う」
それは、慰めじゃなくて、事実としての言葉だった。
「干ばつの村を前にして、“自分には関係ない”って通り過ぎる人は、たくさんいる。
魔導院の研究員の中だって、“データだけ見て終わり”って人もいっぱいいる」
彼は、自分自身もその中に含まれているのだと、自覚していた。
「でも君は、“やってみる”って言って、実際に動いた」
その結果が完璧じゃなかったとしても。
「森には、はっきりとした雨雲ができてる。川が増水すれば、ここにも水が流れてくる。畑だって、さっきより湿ってる」
「……“それでも何もないよりはマシだ”って、村の人も言ってた」
「うん」
エリーナは、膝に顔を押し付けたまま、笑いとも泣きともつかない声を漏らした。
「それが、余計つらかったんだよね」
「そうだろうね」
「“マシ”って言葉、優しいけど、残酷でもあるから」
「十分」ではなく、「マシ」。
それは、「完璧じゃない」と突きつける言葉でもある。
「“マシ”で満足できるような、心の余裕、今はないや」
「じゃあ、一回ちゃんと不満に思えば?」
「え?」
「“足りない”って、ちゃんと悔しがればいい」
カイは、そこだけはきっぱりと言い切った。
「“これでよかったんだ”って無理に納得しようとするから、心のどこかで歪むんだよ。……悔しいなら、悔しいって言っていい」
「……悔しい」
ぽろりと、言葉がこぼれた。
「すっごく、悔しい」
「うん」
「もっとできたはずなのに、って思うの、ほんとは分かってる。でも、その“はず”が身の丈に合ってないのも分かってて」
涙が、ぽたぽたと膝に落ちる。
「“竜の主”って呼ばれるから、“全部ちゃんとできなきゃ”って勝手に思っちゃって。
でも、実際の私は、やってること半分くらい失敗してて」
「うん」
「“全部ちゃんとやらなきゃ”って自分を追い詰めるくせに、現実には全然届いてなくて。
そのギャップに、毎回胸がぎゅってなって、泣きたくなって」
「うん」
「だから、今も泣いてるんだけど」
「うん。知ってる」
「……もー」
自分で言って、自分でツッコんで、自分で泣く。
忙しい。
「ねえ、カイ」
「うん」
「カイは、わたしが泣いてるの、嫌じゃないの?」
「……嫌じゃない、って言ったら嘘になるかな」
カイは少し考えてから、正直に言った。
「君が泣いてるの見ると、胸が痛くなる」
エリーナは、思わず顔を上げる。
「じゃあ──」
「でも、“泣くこと”そのものを止めたいとは思わない」
カイは、ゆっくり言葉を重ねた。
「泣くのって、“我慢の限界”とか、“心がちゃんと感じてる証拠”だから。……それまで自分で抱えてたものが、あふれ出してるだけで」
「…………」
「泣きたいときに泣ける人のほうが、たぶん、今後ちゃんと立ち上がれる」
「それ、どこ情報?」
「観察と経験と、ちょっとだけ文献」
「文献出た」
「竜魔法の研究資料にも、“竜の主は感情の出力が大きいほど安定している”って一節があってね」
「そこに学術的根拠持ってくるの、ずるい」
涙で滲んだ視界の向こうで、カイが小さく笑った。
「だから、さ」
彼は、ハンカチをそっとエリーナの目元に当てた。
「泣きたいときは、泣いていい」
繰り返される、その言葉。
「誰も見てないところで我慢して、限界越えて暴走するより、ここで泣いて、また村に戻って、“次は何ができるか”考えればいい」
「……暴走」
王宮の夜が、頭をよぎる。
「もう、あんなふうに暴れたくないんだよね」
「君が暴れたんじゃないでしょ。竜が怒ったんでしょ」
「一緒だよ」
エリーナは苦笑する。
「わたしが、あのとき“壊してしまえばいい”って思ったのも、事実だから」
「……そうかもね」
カイは否定しなかった。
「でも、そのときの君と、今ここで“中途半端だ”って泣いてる君は、違うよ」
「違う?」
「うん。あのときの君は、多分、“全部どうでもよくなってた”」
それは、記録から読み取った推測であり、今目の前にいる彼女から逆算した結論でもある。
「でも、今の君は、“どうでもよくない”から泣いてる」
畑のひび割れも、村人の期待も、自分の未熟さも。
全部どうでもよくないから、こんなに胸が痛い。
「だったら、その涙は、“災厄の涙”じゃなくて、“ちゃんと守りたい人の涙”なんじゃない?」
「……言い方」
「研究者だからね。ラベリングにはうるさいよ」
軽い冗談を挟んでから、カイは静かに続けた。
「エリーナが今、ここで泣くのは、俺は嫌じゃない」
「…………」
「むしろ、“泣かないふり”して無理して笑ってたら、そっちのほうが嫌だ」
その言葉に、エリーナの喉の奥で、何かがきゅっと締め付けられた。
――泣かないふり。
王宮では、いつもそうだった。
婚約者に侮辱されても。
侍女たちに陰口を叩かれても。
魔力がないと笑われても。
笑って、飲み込んで、何事もなかったように振る舞ってきた。
その結果が、あの夜だった。
「……そう、だね」
か細い声で呟く。
「じゃあ、ちょっとだけ」
エリーナは、ハンカチを握りしめた。
「ちょっとだけ、泣く」
「うん。好きなだけどうぞ」
「“ちょっとだけ”って言ったのに」
「言葉の綾」
「もう……」
もう、と言いながら。
エリーナは、堰を切ったように泣いた。
ぽろぽろと、静かに。
声を殺して、肩を震わせながら。
カイは、その隣で、黙って座っていた。
何も言わず、何も急かさず。
ただ、彼女が泣いているあいだ、そこに「いる」ことだけを選んだ。
◆
少し離れた丘の上。
白い影が、じっと二人を見下ろしていた。
『……主は、よく泣く』
アークヴァンは、目を細める。
主の涙は、決して好きではない。
心が苦しくなる。
でも今は、その隣に、一本の細い柱が立っている。
黒髪の青年。
その肩に、エリーナが少しだけ体重を預けている。
『その人間に寄りかかることも、主の選択か』
竜は、人と人の距離感に、まだ慣れていない。
主と自分の間に、別の存在が入り込むことへのざらつきも、確かにある。
けれど──
『……悪くはないな』
主の涙が、ひとりで流れなくて済むのなら。
その肩を貸す人間がいるのなら。
それは、“竜の主”にとっても、“竜”にとっても、悪いことではないのかもしれない。
『人間よ』
アークヴァンは、誰にも聞こえない高さで、空に問いかけた。
『そなたはどこまで、主の隣にいられる』
答えは、まだない。
ただ、風だけが白銀の翼を撫でていく。
◆
泣き疲れて、少しだけ目が赤くなったエリーナが村に戻ったとき。
村人たちは、彼女を責めなかった。
「おかえりなさい、竜の主様」
そう言って迎えてくれた。
「森に降った雨のおかげで、川の水が増え始めたよ」
「畑も、ほら。さっきより土が柔らかくなってる」
太陽の光が、少しだけ和らいでいる気がする。
エリーナは、胸の奥に残っていた重さを、ひとつ息と一緒に吐き出した。
全部は、救えない。
でも、「何もない」よりは、確かにマシになっている。
その“小さなマシ”を、どう積み重ねていくか。
それが、これからの旅の課題だ。
「また、水の様子、見に来てもいいですか?」
エリーナがそう尋ねると、村長らしき老人が、しわだらけの笑顔で頷いた。
「もちろんだとも。竜の主様が来てくれた、ってだけで、うちの村は当分自慢ができる」
「……自慢?」
「“竜の主様はここにも来てくれたんだぞ”ってな」
老人は、冗談めかして笑う。
「あんたが来てくれたこと自体が、わしらには希望だよ」
その言葉に、エリーナの胸がじん、と熱くなった。
(……希望、か)
自分が、そんなふうに呼ばれることがあるなんて、少し前の自分には想像もできなかった。
完璧じゃなくても。
中途半端でも。
それでも、「来てくれた」という事実だけで、誰かが顔を上げられることがある。
「また、来ます」
エリーナは、はっきりとそう言った。
「今度は、“中途半端じゃない”って胸張って言えるくらいになって戻ってきたいから」
村人たちが笑う。
カイが、その隣で小さく頷く。
アークヴァンの影が、遠くから静かに村を見守っていた。
こうして、“干ばつの村”は、エリーナの旅の中に刻まれた。
それは、彼女にとって、「力があってもすぐに全ては救えない」という現実を突きつける場所であり。
同時に、「それでも寄り添ってくれる人がいる」という、恋の芽生えの場所でもあった。
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【完結】断罪された悪役令嬢は、本気で生きることにした
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失われた名誉、隠された真実、そして予期せぬ恋。断罪された「悪役令嬢」が、自分の物語を自らの手で紡いでいく、爽快復讐ファンタジー。
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