続・無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……✩✩旅を選んだ娘とその竜の物語

タマ マコト

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第4話 『乾いた村と、泣き虫の無力感』

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 エルダーンの城壁が、だんだんと小さくなっていく。

 朝の光を受けて白く浮かび上がる塔の輪郭が、やがてぼやけて、遠くの景色と同化していく。

 その少し上を、白銀の影が滑っていた。

『主』

 背中から聞こえる声は、いつもの低く落ち着いた響きだった。

『あの人間は、本気でついてくるつもりらしい』

「……みたいだね」

 エリーナは、アークヴァンの背で、ちらりと横を見た。

 同じ高度までは来られないから、少し下──街道沿いを走る馬車の屋根の上に、ひょいと腰掛けている黒髪の青年の姿が見える。

 カイ。
 リューン魔導院の研究員で、口が軽くて、目が鋭くて、やたらと人の感情の揺れを拾う男。

 荷台の持ち主である商人と、すっかり打ち解けて話している声が、風の隙間を縫って耳に届いた。

「いやー、助かります。本当に。徒歩でついていくのかと思った」

「さすがに竜の速度に徒歩でついてく自信はないからね。馬車の屋根に乗るくらいは許して欲しいよ」

「うちの荷台、そんな高級な運搬用じゃないんですがねえ……」

 呆れ半分、楽しそう半分。

 世渡りが上手い、と言うべきか。
 肝が据わっている、と言うべきか。

「……ねえ、アークヴァン」

『なんだ』

「まだ、あの提案、やめるって言えるかな」

『どの提案だ』

「“研究としても同行したい”ってやつ」

 そう。
 たしかに今朝、カイはそう言ったのだ。

 エルダーンの宿を発つ準備をしているとき、ロビーで待っていた彼は、いつもより少しだけ真面目な顔をしていた。

『旅の目的、聞いてもいい?』

『世界を見たいから──だっけ』

 そんな会話の後で。

『よかったら、俺も同行していい?』

 あっさりと、そんなことを言ってきたのだ。

『もちろん、“観光”ってだけじゃないよ。魔導院の仕事としても、各地の魔力の分布や天候の異常を調べる必要がある。君たちの旅のルートと、俺の調査ルート、かなり重なるから』

 言ってることは、筋が通っている。

 ただ、その裏に、もうひとつニュアンスがあった。

『エリーナひとりに、“竜の主としての視線”を全部浴びせたくない』

 その一言は、ずるいくらい真っ直ぐだった。

『……君が嫌じゃなければ、だけど』

 カイはそう言って、こちらに選択権を投げてきた。

 アークヴァンは、その会話を黙って聞いていた。

 そして今、空の上で、こう言う。

『主はどうしたい』

「……わたし?」

『そうだ』

 エリーナは、少しだけ唇を噛む。

「正直に言うとね」

『うむ』

「情報収集の面では、めちゃくちゃ頼りになると思う」

 異国の相場。
 魔導院から流れてくる最新の情報。
 地域ごとの治安。

 全部、彼がいたほうが安全だ。

「あと……一緒にいると、ちょっと、心が軽くなる」

『ふむ』

「人の視線浴びるとき、一人で全部受けるより、横に誰かいてくれたほうが、楽だから」

『ならば、連れて行けばいい』

 アークヴァンの答えは、あまりにもあっさりしていた。

「……いいの?」

『主が望むことを、なぜ我が止める必要がある』

 当たり前のように言う。

『主が“竜とだけ生きたい”と言うなら、人間を遠ざける手を貸す。主が“人間と共に歩きたい”と言うなら、その隣を飛ぶ』

「かっこいいこと言う……」

『事実を言っただけだ』

 少しだけ、鼻息が誇らしげだ。

『ただし』

 そこで、声の温度がほんの少し変わる。

『主にひどいことをしたり、涙を“面白がる”人間なら、我は容赦せぬ』

「……それは、そうだね」

 王宮で、散々見てきた。

 誰かの涙を、“娯楽”に消費する視線。

「でも、カイは──」

 昨日、川辺で。
 「泣きそうになってる君を災厄だとは思えない」と言ってくれた人だ。

 あの言葉が、嘘であってほしくない。

「条件付きで」

 エリーナは、小さく笑った。

「“竜の主としてのわたし”じゃなくて、“エリーナとしてのわたし”を見てくれる範囲で。……って条件付きで、一緒にいてもらう」

『長い条件だな』

「気にしないで」

 そうやって、彼女は自分の中で折り合いをつけた。



「で、条件付きで同行許可、ってことになりました」

 丘の上で合流したとき、エリーナはそう宣言した。

 カイは、あからさまにほっとした顔で笑った。

「よかった。断られたらどうしようかと思った」

「断られても一人でついてきそうな顔してたけど」

「それはそれでバレて怒られそうだからね、竜に」

『よく分かっているではないか、人間』

 アークヴァンの金色の瞳が、じろりとカイを見下ろす。

『主を泣かせるような真似をしたら、我が先に“研究対象”にしてやる』

「ひどい脅し文句聞いた」

「つまり、“竜の主の研究対象”から“竜に研究される対象”になるってことだからね」

「余計怖い」

 カイは苦笑しながらも、一歩も引かなかった。

「気をつけます。エリーナが泣いてたら、原因が自分かどうかまず確認するようにする」

「……泣く前提やめて?」

「今までの出会いの中で、もう三回くらい泣きそうだった人に、二度と泣かないでって言うのは難しいかなって」

「言い返せないのつらい」

 そんな冗談交じりのやりとりをしながら、一行は目的地へと向かった。

 干ばつが続いていると噂の、小さな村へ。



 村は、想像していた以上に、静かだった。

 最初に目に入ったのは、ひび割れた畑。

 地面の表層が、ぱっくりと口を開けている。
 ところどころに残っている作物は、葉が黄色くしおれ、茎は細く、倒れかけていた。

 痩せた家畜が、力なく草を噛んでいる。
 牛も、羊も、骨ばっていて、目だけがぎょろりと大きい。

 井戸の周りには人だかりができていたが、その桶に落ちる水の音は、恐ろしいほど少ない。

「……」

 エリーナは、何も言えなくなった。

 空の上から見たときも、畑の色が不自然に薄いのは分かっていた。

 でも、地面のひびの深さ、家畜の痩せ具合、井戸の底の暗さは、近くに来てみないと分からない。

「ここが……干ばつの村、か」

 カイも、眉をひそめる。

『水脈が遠のいておるな』

 アークヴァンが、低く呟いた。

『大地の匂いが乾いておる。空気も、妙に軽い』

「……竜から見ても、そうなんだ」

 エリーナは、胸の奥をぎゅっと掴まれたような感覚に襲われた。

 そこへ、村人の一人が気づいた。

「お、お前たちは……」

 警戒心を隠そうともしない目。

 旅人。
 見慣れない顔。

「旅の者です」

 エリーナは、まずそう名乗った。

 そして、一呼吸置いてから続ける。

「それと──竜の主です」

 村人たちが、一斉にざわりと動いた。

「竜の主……?」

「昨日、エルダーンに現れたっていう……」

「白竜を従えた娘……」

 噂は、ここにも届いているようだった。

 恐怖。
 期待。
 羨望。

 様々な色が混ざった視線が、エリーナの身体に突き刺さる。

(慣れない……)

 慣れないけれど、逃げたらもっと嫌だ。

「水が……足りないんですよね」

 エリーナは、井戸のほうへ目を向けた。

 村人の一人が、ため息混じりに頷く。

「ああ。雨が、もうずっと降らねえ。去年も少なかったが、今年は特に酷い。井戸も、ほとんど底をつきかけてる」

 木桶を覗き込み、縄を引き上げる。

 桶の底には、少しだけ濁った水。

 村全体で、この量をどう分け合っているのかを想像すると、胃が締め付けられた。

「だからって、俺たちにはどうしようもねえ。雨乞いも、もう何度もやった」

「竜……」

 別の村人が、エリーナの背後を見やる。

 森の向こう。
 姿は見えないが、アークヴァンの気配は確かにそこにある。

「竜の主ってんなら……水を呼べるのか?」

 期待。
 それは、刃物のようだ。

 エリーナは、一度目を閉じた。

 浅い返事はしたくなかった。

「……やってみます」

 目を開くときには、できるだけ真っ直ぐな目を心がけた。

「できる、とは言えません。でも、“できることがあるかどうか”は、確かめたい」

 村人たちの間に、ざわめきが広がる。

「竜の主様が……!」

「本当に、やってくれるのかい!」

 希望が、少しだけ灯る。
 同時に、その重さがエリーナの小さな背中にずしりと乗る。

(……大丈夫。大丈夫)

 自分に言い聞かせるように、胸に手を当てる。

『主』

 アークヴァンの声が、静かに響く。

『無理をするな』

「うん」

 “無理をしない”ことが、今、一番難しい。



 エリーナは、村の外れの少し開けた場所に立った。

 広い空。
 乾いた土。
 遠くに白く霞む山の稜線。

「これ、どうするつもり?」

 少し離れたところで、カイが不安そうに尋ねた。

「竜魔法で雲を引き寄せて、雨雲を作ってみる」

「そんなこと、できるの?」

「理論上は」

 笑ってはみたものの、喉がからからだった。

「……訓練では、少しだけ成功したことがあるの。でも、あれはアストライアの森の上で、湿度も高かったし、“すでにある雲”を集めただけで」

「ここは、空っぽの空だ」

 カイが空を仰ぐ。

 雲は、遠くにうっすら見えるだけで、真上は澄み切っていた。

「足りないものが多すぎるかもね」

「だからって、何もしないで見てるだけは嫌なの」

 エリーナは、空を睨むように見上げた。

(できるかどうか、やってみてから悩む)

 それが、彼女の悪い癖であり、良いところでもある。

 胸元にそっと手を添える。

 竜魔法の紋章が、ゆっくりと熱を帯びていく。

「──竜王よ」

 昔、書物で見た古い呼びかけの言葉を、試しに口にしてみる。

「空を渡る雲の道を、少しだけ貸して。……ここに、雨を下さい」

 竜の血と、竜の魔法と、人の祈り。

 それらが、胸の奥で一つに溶け合う感じがした。

 アークヴァンの気配が、遠くから静かに寄り添う。

 彼の翼が感じている上空の風向き。
 彼の鱗に触れる空気の湿り気。

 それらが、竜魔法を通じてエリーナの感覚にも流れ込んでくる。

「……来て」

 指先を、そっと空に向ける。

 遠くの薄い雲が、ぴくりと揺れた。

 風の流れが、ほんの少し変わる。

 上空の冷たい空気と、地表近くの暖かい空気が混ざり合い、雲が少しずつ厚みを増していく。

「すご……」

 カイが、息を呑んだ。

 エリーナの額に、汗が滲む。

 竜魔法は、普段の魔術とは比べ物にならないほど重い。
 しかも今は、広い範囲に影響を及ぼそうとしている。

 指先が痺れる。
 足元の土が、じんわりと光る。

 空が、少しだけ暗くなった。

 村人たちが、井戸のほうから空を見上げている気配がする。

(もう少し……)

 エリーナは、歯を食いしばった。

 空気中の水分を集めて、冷やして、重くして。
 雨粒に形を変える。

 頭の中で、何度も教本の文章をなぞる。

 アークヴァンの感覚も借りながら、雲の位置を微調整する。

(もう、少し──)

 そのとき。

 風向きが、ふ、と変わった。

 薄い何かが切り替わるように、わずかなズレが生まれる。

「あ──」

 エリーナの口から、小さな声が漏れた。

 集めた雲の塊が、ほんの数十メートル単位で、思っていた位置から外れる。

 振り下ろしたい場所から、少し横へ。

 村ではなく、その先の森のほうへ。

「……っ」

 ぐい、と魔力で引き戻そうとする。

 だが、一度動き出した空の流れは、思った以上に重かった。

 力を込めれば込めるほど、自分の魔力だけが削られていく感覚がある。

「エリーナ、無理するな!」

 カイの声が飛ぶ。

「やめたほうが──」

「もう少し……!」

 やめたくなかった。

 ここで手を離したら、「やっぱりわたしには無理でした」と宣言するみたいで、それが何より嫌だった。

 でも──

『主』

 アークヴァンの声が、いつもより強く響いた。

『ここで止めねば、そなたが倒れる』

「…………っ」

 限界は、身体のほうが早く知っている。

 視界の端が、じわりと白くなった。

 足元がふらりと揺れる。

(まずい──)

 とっさに、竜魔法の流れを断ち切った。

 空に集めた雲は、そのまま惰性で流れていく。

 行き先は、村の上空ではなく。
 その先の、森のあたり。

 ぽつ。
 ぽつ、と。

 冷たいものが、頬に当たった。

「……雨?」

 カイが、空を見上げる。

 エリーナも、必死で視線を上げた。

 村の上空には、薄い雲と、ぽつぽつとした小さい雨。
 地面が濡れるほどではない。

 その先の森のほうは──

 ざあああああああああ。

 遠くから、明らかに違う音が聞こえてきた。

 白く煙るような、密度の高い雨脚。
 森の木々が、その重さに揺れる。

「……やったぁ!」

 村人の中から、小さな歓声が上がる。

「でも、森のほうに……」

「いいんだよ! あの森の川が増えれば、ここにも水が流れてくる!」

「それに、さっきまで全然雲もなかったんだ。ここにちょっとでも雨が降っただけでありがたい!」

 井戸のそばで、誰かが空に向かって手を伸ばす。
 ぽつり、ぽつりと落ちてくる小さな雨粒を、子どもが嬉しそうに掬っている。

 「竜の主様が雨を呼んでくれた」と。

(……違う)

 エリーナは、心の中で呟いた。

 たしかに、さっきより水蒸気は増えた。
 森のほうには、恵みの雨が降っている。

 村の畑も、何もなかったよりは、少しだけ湿った。

(でも、わたしがやりたかったのは、これじゃない)

 空の水を、もっとここに。
 井戸を満たすほどに。
 土地のひび割れを癒せるくらいに。

 そこまでやり切りたかった。

 力が足りなかった。
 知識が足りなかった。
 何より、経験が足りなかった。

『主』

 アークヴァンの声が、少しだけ優しくなる。

『これでも、この土地は助けられたのだ』

「……ううん」

 エリーナは、首を横に振った。

「“助けた”なんて、言えない」

 村人たちが笑っているのが、余計に苦しかった。

「何もないよりはマシだ」と言ってくれる優しさが、胸に刺さる。

 足元の土が、じんわりと湿っていく。

 それが、「精一杯」です、と突きつけられているみたいで。

「……ごめん、ちょっとだけ」

 エリーナは、誰にも聞こえないように呟いた。

「少しだけ、一人にして」

 そう言って、村の外れの、小さな茂みの向こうへ歩いていった。



 村外れの丘。

 ほんの少し高くなった場所から、畑と森の両方が見える。

 エリーナは、その中間地点にある大きな石に、どさりと腰を下ろした。

 膝を抱えて、額を乗せる。

 視界の下のほうで、雨が降っている。
 森は潤い、川はきっと増水する。

 村の畑には、まだ足りない。
 井戸も、一気に満ちるわけではない。

「……中途半端」

 呟いた声は、風に溶けるように軽かった。

 胸の中は、重いのに。

「中途半端にしか、できない」

 王宮を壊したときは、「やりすぎ」だった。

 今は、「足りない」。

 どちらにしても、「ちょうどいい」なんて言葉からは程遠い。

「“竜の主”って呼ばれてさ」

 誰もいない空に、問いかける。

「期待されて、怖がられて、頼られて。……そのくせ、思うようにはできなくて」

 王宮の大広間を思い出す。
 あの夜、誰もが自分を責めた目で見ていた。

(今度は、“期待したのに”って目、かな)

 村人たちの笑顔は、本当に嬉しそうだった。

 でも、その裏にある「もっと」という気持ちを、勝手に想像してしまう。

 涙が、じわじわと視界を滲ませた。

「あー……もう……」

 自分で自分に呆れそうになる。

「泣き虫、なおってない」

 袖でごしごし拭こうとしたとき。

「その手、ちょっと待った」

 不意に、誰かに手首を押さえられた。

「っ」

 びくっとして顔を上げると、そこにはカイがいた。

 少し息を弾ませている。
 村のほうから、急いで駆けてきたのだろう。

「……見ないで」

「無理」

「即答」

「ここまで走ってきて、“何もしないで帰る”選択肢、俺の頭の中になかったからね」

 息は上がっているのに、声はいつもと同じ調子だった。

 カイは、エリーナの手から袖をそっと外し、自分のハンカチを差し出した。

「泣くなら、ちゃんとした布で拭きなよ。袖で拭くと、あとで赤くなって痛いから」

「……子ども扱い?」

「そう見えるときもある」

 さらっと言う。

「泣きたいときは、泣いていいよ」

「……っ」

 その言葉は、妙な重さを持って胸に落ちた。

 「泣かないで」でもなく、「泣くな」でもなく。

 「泣いていい」。

 泣くことそのものを、否定しない言葉。

「泣いたら、また“泣き虫”って言うでしょ」

「言うね」

「やっぱりじゃん!」

「でも、“泣き虫だからダメ”とは言わない」

 カイは、真面目な表情で続けた。

「泣き虫でもいいじゃん。泣きながらでも、人のために空に手を伸ばしてるんだから」

「……結果、中途半端なんだけど」

「それでも、“何もしてない人”とは違う」

 それは、慰めじゃなくて、事実としての言葉だった。

「干ばつの村を前にして、“自分には関係ない”って通り過ぎる人は、たくさんいる。
 魔導院の研究員の中だって、“データだけ見て終わり”って人もいっぱいいる」

 彼は、自分自身もその中に含まれているのだと、自覚していた。

「でも君は、“やってみる”って言って、実際に動いた」

 その結果が完璧じゃなかったとしても。

「森には、はっきりとした雨雲ができてる。川が増水すれば、ここにも水が流れてくる。畑だって、さっきより湿ってる」

「……“それでも何もないよりはマシだ”って、村の人も言ってた」

「うん」

 エリーナは、膝に顔を押し付けたまま、笑いとも泣きともつかない声を漏らした。

「それが、余計つらかったんだよね」

「そうだろうね」

「“マシ”って言葉、優しいけど、残酷でもあるから」

 「十分」ではなく、「マシ」。

 それは、「完璧じゃない」と突きつける言葉でもある。

「“マシ”で満足できるような、心の余裕、今はないや」

「じゃあ、一回ちゃんと不満に思えば?」

「え?」

「“足りない”って、ちゃんと悔しがればいい」

 カイは、そこだけはきっぱりと言い切った。

「“これでよかったんだ”って無理に納得しようとするから、心のどこかで歪むんだよ。……悔しいなら、悔しいって言っていい」

「……悔しい」

 ぽろりと、言葉がこぼれた。

「すっごく、悔しい」

「うん」

「もっとできたはずなのに、って思うの、ほんとは分かってる。でも、その“はず”が身の丈に合ってないのも分かってて」

 涙が、ぽたぽたと膝に落ちる。

「“竜の主”って呼ばれるから、“全部ちゃんとできなきゃ”って勝手に思っちゃって。
 でも、実際の私は、やってること半分くらい失敗してて」

「うん」

「“全部ちゃんとやらなきゃ”って自分を追い詰めるくせに、現実には全然届いてなくて。
 そのギャップに、毎回胸がぎゅってなって、泣きたくなって」

「うん」

「だから、今も泣いてるんだけど」

「うん。知ってる」

「……もー」

 自分で言って、自分でツッコんで、自分で泣く。

 忙しい。

「ねえ、カイ」

「うん」

「カイは、わたしが泣いてるの、嫌じゃないの?」

「……嫌じゃない、って言ったら嘘になるかな」

 カイは少し考えてから、正直に言った。

「君が泣いてるの見ると、胸が痛くなる」

 エリーナは、思わず顔を上げる。

「じゃあ──」

「でも、“泣くこと”そのものを止めたいとは思わない」

 カイは、ゆっくり言葉を重ねた。

「泣くのって、“我慢の限界”とか、“心がちゃんと感じてる証拠”だから。……それまで自分で抱えてたものが、あふれ出してるだけで」

「…………」

「泣きたいときに泣ける人のほうが、たぶん、今後ちゃんと立ち上がれる」

「それ、どこ情報?」

「観察と経験と、ちょっとだけ文献」

「文献出た」

「竜魔法の研究資料にも、“竜の主は感情の出力が大きいほど安定している”って一節があってね」

「そこに学術的根拠持ってくるの、ずるい」

 涙で滲んだ視界の向こうで、カイが小さく笑った。

「だから、さ」

 彼は、ハンカチをそっとエリーナの目元に当てた。

「泣きたいときは、泣いていい」

 繰り返される、その言葉。

「誰も見てないところで我慢して、限界越えて暴走するより、ここで泣いて、また村に戻って、“次は何ができるか”考えればいい」

「……暴走」

 王宮の夜が、頭をよぎる。

「もう、あんなふうに暴れたくないんだよね」

「君が暴れたんじゃないでしょ。竜が怒ったんでしょ」

「一緒だよ」

 エリーナは苦笑する。

「わたしが、あのとき“壊してしまえばいい”って思ったのも、事実だから」

「……そうかもね」

 カイは否定しなかった。

「でも、そのときの君と、今ここで“中途半端だ”って泣いてる君は、違うよ」

「違う?」

「うん。あのときの君は、多分、“全部どうでもよくなってた”」

 それは、記録から読み取った推測であり、今目の前にいる彼女から逆算した結論でもある。

「でも、今の君は、“どうでもよくない”から泣いてる」

 畑のひび割れも、村人の期待も、自分の未熟さも。

 全部どうでもよくないから、こんなに胸が痛い。

「だったら、その涙は、“災厄の涙”じゃなくて、“ちゃんと守りたい人の涙”なんじゃない?」

「……言い方」

「研究者だからね。ラベリングにはうるさいよ」

 軽い冗談を挟んでから、カイは静かに続けた。

「エリーナが今、ここで泣くのは、俺は嫌じゃない」

「…………」

「むしろ、“泣かないふり”して無理して笑ってたら、そっちのほうが嫌だ」

 その言葉に、エリーナの喉の奥で、何かがきゅっと締め付けられた。

――泣かないふり。

 王宮では、いつもそうだった。

 婚約者に侮辱されても。
 侍女たちに陰口を叩かれても。
 魔力がないと笑われても。

 笑って、飲み込んで、何事もなかったように振る舞ってきた。

 その結果が、あの夜だった。

「……そう、だね」

 か細い声で呟く。

「じゃあ、ちょっとだけ」

 エリーナは、ハンカチを握りしめた。

「ちょっとだけ、泣く」

「うん。好きなだけどうぞ」

「“ちょっとだけ”って言ったのに」

「言葉の綾」

「もう……」

 もう、と言いながら。
 エリーナは、堰を切ったように泣いた。

 ぽろぽろと、静かに。
 声を殺して、肩を震わせながら。

 カイは、その隣で、黙って座っていた。

 何も言わず、何も急かさず。

 ただ、彼女が泣いているあいだ、そこに「いる」ことだけを選んだ。



 少し離れた丘の上。

 白い影が、じっと二人を見下ろしていた。

『……主は、よく泣く』

 アークヴァンは、目を細める。

 主の涙は、決して好きではない。
 心が苦しくなる。

 でも今は、その隣に、一本の細い柱が立っている。

 黒髪の青年。

 その肩に、エリーナが少しだけ体重を預けている。

『その人間に寄りかかることも、主の選択か』

 竜は、人と人の距離感に、まだ慣れていない。

 主と自分の間に、別の存在が入り込むことへのざらつきも、確かにある。

 けれど──

『……悪くはないな』

 主の涙が、ひとりで流れなくて済むのなら。

 その肩を貸す人間がいるのなら。

 それは、“竜の主”にとっても、“竜”にとっても、悪いことではないのかもしれない。

『人間よ』

 アークヴァンは、誰にも聞こえない高さで、空に問いかけた。

『そなたはどこまで、主の隣にいられる』

 答えは、まだない。

 ただ、風だけが白銀の翼を撫でていく。



 泣き疲れて、少しだけ目が赤くなったエリーナが村に戻ったとき。

 村人たちは、彼女を責めなかった。

「おかえりなさい、竜の主様」

 そう言って迎えてくれた。

「森に降った雨のおかげで、川の水が増え始めたよ」

「畑も、ほら。さっきより土が柔らかくなってる」

 太陽の光が、少しだけ和らいでいる気がする。

 エリーナは、胸の奥に残っていた重さを、ひとつ息と一緒に吐き出した。

 全部は、救えない。

 でも、「何もない」よりは、確かにマシになっている。

 その“小さなマシ”を、どう積み重ねていくか。

 それが、これからの旅の課題だ。

「また、水の様子、見に来てもいいですか?」

 エリーナがそう尋ねると、村長らしき老人が、しわだらけの笑顔で頷いた。

「もちろんだとも。竜の主様が来てくれた、ってだけで、うちの村は当分自慢ができる」

「……自慢?」

「“竜の主様はここにも来てくれたんだぞ”ってな」

 老人は、冗談めかして笑う。

「あんたが来てくれたこと自体が、わしらには希望だよ」

 その言葉に、エリーナの胸がじん、と熱くなった。

(……希望、か)

 自分が、そんなふうに呼ばれることがあるなんて、少し前の自分には想像もできなかった。

 完璧じゃなくても。
 中途半端でも。

 それでも、「来てくれた」という事実だけで、誰かが顔を上げられることがある。

「また、来ます」

 エリーナは、はっきりとそう言った。

「今度は、“中途半端じゃない”って胸張って言えるくらいになって戻ってきたいから」

 村人たちが笑う。
 カイが、その隣で小さく頷く。

 アークヴァンの影が、遠くから静かに村を見守っていた。

 こうして、“干ばつの村”は、エリーナの旅の中に刻まれた。

 それは、彼女にとって、「力があってもすぐに全ては救えない」という現実を突きつける場所であり。

 同時に、「それでも寄り添ってくれる人がいる」という、恋の芽生えの場所でもあった。
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【完結】断罪された悪役令嬢は、本気で生きることにした

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帝国随一の名門、ロゼンクロイツ家の令嬢ベルティア・フォン・ロゼンクロイツは、突如として公の場で婚約者であるクレイン王太子から一方的に婚約破棄を宣告される。その理由は、彼女が平民出身の少女エリーゼをいじめていたという濡れ衣。真実はエリーゼこそが王太子の心を奪うために画策した罠だったにも関わらず、ベルティアは悪役令嬢として断罪され、社交界からの追放と学院退学の処分を受ける。 全てを失ったベルティアだが、彼女は諦めない。これまで家の期待に応えるため「完璧な令嬢」として生きてきた彼女だが、今度は自分自身のために生きると決意する。軍事貴族の嫡男ヴァルター・フォン・クリムゾンをはじめとする協力者たちと共に、彼女は自らの名誉回復と真実の解明に挑む。 その過程で、ベルティアは王太子の裏の顔や、エリーゼの正体、そして帝国に忍び寄る陰謀に気づいていく。かつては社交界のスキルだけを磨いてきた彼女だが、今度は魔法や剣術など実戦的な力も身につけながら、自らの道を切り開いていく。 失われた名誉、隠された真実、そして予期せぬ恋。断罪された「悪役令嬢」が、自分の物語を自らの手で紡いでいく、爽快復讐ファンタジー。

竜の国のカイラ~前世は、精霊王の愛し子だったんですが、異世界に転生して聖女の騎士になりました~

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