続・無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……✩✩旅を選んだ娘とその竜の物語

タマ マコト

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第5話 『小さな成功と、旅を肯定する夜』

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 朝の空気は、昨夜より少しだけ柔らかかった。

 薄く雲のベールがかかった空。
 ひび割れた畑の上を流れる風も、どこか冷たさが和らいでいる。

 村の外れの丘に立ち、エリーナは両手をぎゅっと握った。

「……もう一回、ちゃんとやろう」

 誰に聞かせるでもなく、胸の奥につぶやく。

 昨日は、空に手を伸ばした。
 今度は、大地に手を伸ばす番だ。

 後ろから、少し足音が近づく。

「無茶しそうな顔してる」

「おはようの第一声がそれ?」

「おはよう」

「……おはよう」

 振り向けば、カイがそこにいた。
 寝癖はきちんと直されていて、服装もいつも通りラフなのに、端々に“昨日より少し本気”な雰囲気がにじむ。

「体調は?」

「元気。泣いたおかげで、変な重さは抜けた」

「いい泣き方だったよ」

「それは褒め言葉なのかな……」

「褒め言葉。研究者の観点からも」

「研究者はすぐそうやって何でも分析する」

 軽口を交わしながらも、エリーナの視線は畑の向こう──村の井戸に向いていた。

 井戸の周りには、小さな期待の気配が集まっている。

 昨日、森に降った雨が川の水を少し増やした。
 でも、それだけでは足りない。

 井戸の底の暗さは、相変わらず深い。

「ねえ、カイ」

「うん?」

「もう一回だけ、チャレンジしてもいいと思う?」

 自分でも、少し怖くなる質問だった。

 昨日の失敗と、中途半端な成功。
 その直後に、また「やらせて」と言う。

 欲張りだ。
 でも、このまま終わるのは嫌だった。

 カイは、すぐには答えなかった。
 代わりに、エリーナの横に並んで、同じように井戸のほうを眺める。

「“空から水を連れてくる”のは、今の君には負担が大きすぎる」

「うん」

「でも、“すでにある水を探す”なら、話は違う」

 静かな声。

「竜魔法って、“空と大地にアクセスできる”んだよね」

「……うん」

 エリーナは頷く。

「空は、昨日やった。だから今日は、大地のほうに」

 カイは、胸ポケットから紙切れを取り出した。
 昨日の夜、一人で広げていたメモだ。

「この辺りの地形と、川の流れからすると──」

 紙には、簡単な地形図と、深度ごとの水脈の仮説が書き込まれている。

「完全に当たりってわけじゃないだろうけど、“このへんのこの深さに水の層があるはず”っていう見当はつけられる」

「……理論面のサポートは、任せてもいい?」

「任せて。逆に、実際に“大地の中に触れられる”のは君だけだ」

 カイは、エリーナを見た。

「俺たちは目と頭で考えるから。君は、竜と一緒に“感じて”」

 その言葉に、胸が少しだけ軽くなる。

 一人でやるんじゃない。

 空を飛ぶ竜と、地図を読む青年と。
 三人でやるのだ。

『主』

 アークヴァンの気配が、少し近づいた。

『大地のほうなら、我も幾分か手を貸しやすい』

「空のときより?」

『空は風と熱が多すぎる。だが、土と水は、我の爪と翼が覚えておる』

「爪と翼?」

『大昔、谷を穿ち、川を変えたことがある』

「スケールが違う……」

 竜の過去は、やっぱりあまりにも桁違いだ。

「じゃあ、“竜が谷を掘った記憶”のちょっとだけ、貸して」

『よかろう』

 アークヴァンの気配が、胸元の紋章にそっと触れてくる。

 竜の感覚。
 硬い岩の手触りと、その隙間を流れる水のぬるりとした温もり。
 それらが、エリーナの五感に薄く重なる。

(……いける)

 恐怖は、まだある。
 でも、それ以上に、確かな手応えがあった。

「カイ、やろう」

「了解。場所は──」

 彼は、井戸の縁に歩み寄り、ロープと桶を確認する。

「井戸の真下、深度で言うと今までの二倍くらいまで、探ってみて」

「二倍……」

「今掘ってる深さから考えると、あと三、四メートル。人力でなんとかなる範囲ギリギリ」

「ギリギリ攻めるね」

「攻めないと、この村の冬は越せない」

 カイの目が、一瞬だけ鋭く光った。

 研究者の顔でもあり、現場で生きる人間の顔でもある目。

「ただし」

 すぐに柔らかい笑みが戻る。

「さっきも言ったけど、無理はしない。君がしんどくなったら即中止。いいね?」

「うん」

「俺が止める前に竜が止める可能性もあるけど」

「ありそう」

『当然だ』

 すかさずアークヴァンが割り込んできて、エリーナは思わず笑った。

「じゃあ──始めようか」

 深呼吸をひとつ。
 胸の奥の竜の脈動と、自分の鼓動を重ねる。

 竜魔法は、いつもここから始まる。



 エリーナは井戸の縁に片手を置き、もう片方の手を地面にそっと添えた。

 土の冷たさ。
 乾いたざらざら。
 指先に残る、こぼれた水のわずかな湿り気。

(ここから、下へ)

 意識を、ゆっくりと沈めていく。

 普段、竜魔法を使うときは、「外」に向かって力を放つ。
 光を出し、風を呼び、炎を生む。

 でも今は逆。
 魔力を外に押し出すのではなく、細い糸にして、大地の中へと垂らしていく。

「……竜脈探査(ドラグ・サーヴェ)」

 小さく呟く。

 大地の中には、“竜脈”と呼ばれる見えない魔力の流れがある。
 水脈もまた、その影響を受けて走っている。

 土の層を、一枚一枚めくるような感覚。
 砂。
 粘土。
 小石。

 それぞれの硬さが、指先の内側に、別々の触覚として返ってくる。

『もう少し力を抜け』

 アークヴァンの声が、頭の奥に響く。

『今の主は、土を“押し込もう”としている。そうではなく、“撫でる”のだ』

「撫でる……」

『人の髪をとかすときのようにな』

「なんでそこで具体例が出てくるの……」

『主の髪は、丁寧にとかさなければ絡まるからな』

「観察されてるのが恥ずかしい」

 でも、“髪をとかすように”という例えは、意外と心にすっと入ってきた。

 竜魔法の糸を、ぎゅうぎゅう押し込むのではなく、そっと滑らせていく。

 土の粒ひとつひとつに、軽く触れて通り過ぎるイメージ。

 すると──感覚が、変わった。

 硬い層が柔らかくなる。
 ざらざらの砂の下に、粘り気のある泥が広がる。

 そして、そのさらに下。

 冷たい。
 でも、乾いていない層。

(……ここだ)

 喉の奥で、息が止まる。

 そこには、明らかに違う“匂い”があった。

 水の匂い。
 土と混ざった、重たい甘さ。

「……見つけた」

 小さく呟く。

「井戸の今の底から、三……いや、四メートル下。岩の層のすぐ上に、水が溜まってる」

「本当かい?」

 すぐそばで聞いていた村長が、身を乗り出す。

 カイが、エリーナの顔色を確認しながらも、真剣な目で問いかけた。

「感覚、確か?」

「うん。“たぶん”じゃなくて、“ある”って感じがする」

 竜の感覚が、背中を押してくれる。

『水の音が聞こえる』

 アークヴァンが、静かに言った。

『遠い昔、この手触りの大地を穿ったことがある。間違いない』

「竜のお墨付きも出ました」

「それは心強い」

 カイが、ほっと息を吐いた。

「じゃあ、あとは人の仕事だね」

 彼は、村人たちに向き直る。

「井戸を、今より四メートル……最低でも三メートル半、掘り下げたいです」

「そんなにか……?」

「今の深さからなら、まだいける。危険がないように支えの木材を増やしながら掘れば、なんとか」

 カイは、自分の荷物を漁り、小さな折り畳み式のスコップを取り出した。

「魔導院のフィールド調査員はね、こういうのも持ち歩いてるんだ」

「スコップ研究員」

「悪くない二つ名だね」

「かっこよくはないかな……」

 でも、頼もしさはある。

 村の男たちも、スコップやツルハシを持って集まってきた。

「竜の主様が水の場所を教えてくれたんだ。あとは、俺たちの腕の見せどころだな!」

「若ぇもんは井戸ん中だ! 腰やってるやつは上でロープ捌け!」

「おう!」

 いつの間にか、空気が活気に満ちていた。

 ただの絶望だった干ばつの村に、「やること」が生まれたのだ。



 井戸掘りは、想像よりずっと体力を使った。

「うわ、狭……!」

 最初に井戸の中に降りたエリーナは、思わず声を漏らした。

 石で囲まれた円筒。
 内側はところどころ欠けていて、足場になる突起も少ない。

「大丈夫かい?」

 上から、カイの声がする。

「大丈夫。竜魔法で足場の強度、見ながら行くから」

 井戸の内側の石壁にそっと手を添え、小さな光を流して状態を確認する。

 崩れやすそうな部分には印をつけ、あとで補強してもらう。

「まさか竜の主様が、自分で井戸の中に……」

 上から聞こえてくる村人の声に、エリーナは笑った。

「竜の主の前に、手が空いてる人間ですから」

「そこ、ちょっと格好つけてる」

 カイのツッコミが、ロープを通じて降ってくる。

 そんなやり取りをしながら、少しずつ井戸の底を掘り下げていく。

 土を崩し、バケツに入れて上へ。
 上では村人たちがそれを受け取り、別の場所へ運ぶ。

 単純な作業のはずなのに、竜魔法で硬さを確認しながら進むと、頭も使う。

「ここ、固い……」

「岩?」

「岩の手前の、固い土。……その下に、水の層がある」

 竜の感覚が、そこまで見せてくれる。

 汗が額を伝う。
 土埃が喉に張り付く。

 腕が重い。
 でも、不思議と嫌な疲れではなかった。

(“竜の主”とか、“旅人”とか、関係ないな)

 今この瞬間、自分はただのひとりの人間だ。

 村人と一緒に汗をかき、土を掘る人。

 そう思うと、胸の奥の緊張が少しずつほどけていく。

「エリーナ、手貸して」

 上から、カイの声。

「何?」

「バケツ引き上げるの、ちょっとロープ詰まりそうでさ。位置調整したくて」

「うん」

 エリーナが両手でバケツを支えようとした瞬間、上から伸びたカイの手と指先が重なる。

「っと、ごめん」

「だ、大丈夫」

 指先の温度が、竜の鱗とはまったく違う。

 柔らかくて、少しだけ頼りなくて、でもちゃんと熱を持っている。

(……なんで、こんなに気になるんだろ)

 エリーナは、自分の胸がくすぐったくなるのを感じて、慌てて視線をそらした。

「やっぱり手、冷たいね」

「え、わたし?」

「うん。土触ってたから」

「カイのほうがあったかいよ」

「健全な人間ですから」

「健全って何」

 意味の分からない会話でごまかしたけれど、心のどこかで、別の言葉がうっすらと浮かぶ。

(これが、恋……?)

 まだ、はっきりとは言えない。

 でも、彼の手が自分の指に触れるたび、心臓が微妙に忙しくなるのは事実だった。



 どれくらい時間が経っただろう。

 エリーナは、井戸の底でスコップを動かしながら、土の感触の変化に集中していた。

 乾いた土。
 湿った土。
 そして──

 ぐじゅ。

 鈍い、でも明らかに違う感触。

「……あ」

 スコップの先から、冷たい感触が伝わってきた。

 泥水。
 じわり、と足元に染み出してくる。

「待って、待って……!」

 エリーナは慌ててスコップを置き、両手を地面に当てる。

 竜魔法の糸を、そっと広げる。

 そこには、確かに「層」があった。

 岩の少し上に、横に広がる冷たい水の帯。

 土の隙間から、少しずつ滲み出してくる。

「カイ!」

 見上げて、声を張る。

「水、あった!」

「本当か!?」

 上から、村人たちの声が一斉に返ってくる。

「足元、冷たい!」

「……証言が雑だな」

 カイの呟きが聞こえたが、その声にも興奮が混ざっていた。

「でも、上げすぎると崩れる。ゆっくり、少しずつ広げるね」

 エリーナは、慎重に土を掘り、周囲を固めていく。

 アークヴァンの感覚が、「ここは削りすぎるな」「この岩は支えに使え」と指示してくれる。

 やがて、小さな水たまりが、足元に広がった。

 濁っているけれど、確かに水だ。

「ロープ、降ろして!」

 エリーナの声に、上から桶が降りてくる。

 恐る恐る水を汲み、地上へ。

 最初は泥混じりの濁水。
 でも、何度か汲み上げるうちに、少しずつ透明度が増していく。

「おお……!」

 村長が、井戸の縁から身を乗り出した。

「色が、違う……!」

「今までの、底の水とは……」

「全然違う……!」

 村人たちが、桶の中の水を覗き込む。

 光を反射して、きらりと揺れる透明な面。

 砂をこして、そっと口に含む。

「……冷たい」

 誰かが呟いた。

「冷たい……!」

「ちゃんとしてる水だ!」

 歓声が、井戸の周りに広がる。

 子どもたちが、桶の周りをぴょんぴょん跳ねている。

「竜の主様が、水を──」

「いや、俺たちも掘ったぞ!」

「そうだ、そうだ!」

 笑い声が弾ける。

 エリーナは、井戸の底でその声を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。

 疲労は、限界に近い。
 腕も足も、鉛みたいに重い。

 でも、胸の奥は、不思議と軽かった。

(……届いた)

 中途半端じゃない、と胸を張れるかは分からない。

 でも、少なくとも、「何もしなかった」わけではない。

 自分の力と、竜の力と、村人の腕と。
 それら全部を合わせて、「ひとつの井戸」を深くした。

 その事実が、胸にじんわりと広がる。



 井戸から上がったあと、エリーナはしばらくその場にへたり込んだ。

「お疲れ様」

 カイが、水の入った木のコップを差し出してくる。

「これ、さっきの?」

「うん。第一号の“新しい井戸の水”」

「なんか、もったいないね」

「ちゃんと飲んで。君にも飲む権利ある」

 コップの縁を唇に当てる。

 ひんやりとした冷たさが、じんと歯にしみた。

 口の中に広がるのは、透明な味。

「……おいしい」

「だろう?」

 カイも同じ水を飲んで、目を細めた。

「研究室の蒸留水とは大違いだよ」

「比べる対象がおかしい」

 笑い合う声を、村長が見守っていた。

 老人は、少し離れた場所で、井戸の水を両手ですくい、そっと顔を洗っていた。

 深い皺の間を流れる水が、光を反射してきらきらと光る。

「これで……」

 老人が、ぽつりと言った。

「これで、この冬は越せる」

 その言葉に、エリーナの胸がきゅっとした。

「そんな、大げさな……」

「大げさじゃない」

 老人は首を振る。

「この村にとって、水は命だ。井戸が枯れれば、村ごと移るしかない。老人や子どもは、移動に耐えられん」

「…………」

「だから、この井戸を深くしてくれたことは、“命を繋いでもらった”のと同じだ」

 老人の目に、じわりと涙が滲む。

「ありがとう、竜の主様」

 エリーナは、言葉を失った。

「こちらこそ……」

 なんとかそう絞り出す。

(本当に、よかったんだ)

 昨日の「中途半端」な心の刺が、少しずつ溶けていく。



 夕方、村は小さな宴の準備に入った。

 といっても、豪華な料理が並ぶわけではない。

 いつもより少しだけ多めのパンとスープ。
 井戸の水で煮た野菜。
 それに、森から手に入れた香草をひとつまみ。

 それだけでも、十分なご馳走だった。

 村の真ん中に小さな焚き火が焚かれ、周りに粗末なベンチが並べられる。

 アークヴァンの姿も、村人たちの了承を得て、少し離れた丘に呼んであった。

 村の子どもたちが、こそこそと丘のほうを見ては、「行っていいかな」と目で聞いてくる。

 最初の一人が、おそるおそる近づく。

「あの……」

『なんだ』

 低い声に、子どもがびくっとする。

「さ、さっき、竜の主様が、“挨拶したら頭を撫でさせてくれるかも”って……」

 エリーナは、盛大にむせた。

「言ったっけそれ!?」

『言っていたな』

 アークヴァンは、面倒くさそうにため息をつきながらも、頭を少し下げた。

『我はアークヴァン。主の主にして、空を渡る者だ』

「なにその名乗り、かっこつけてる」

『名乗りとは、かくあるべきものだ』

 子どもが、おずおずと白い鱗に手を伸ばす。

 指先が触れた瞬間、目を丸くする。

「ひんやりしてる……!」

『表面はな』

 アークヴァンは、わずかに喉を鳴らした。

『中は熱い』

「ふふっ」

 エリーナは、その光景を焚き火のそばから眺めていた。

 村人たちは最初こそ竜を遠巻きにしていたが、子どもたちが楽しそうに触れているのを見るうちに、警戒を少しずつ解いていく。

「……すごいな」

 隣に座ったカイが、ぽつりと呟いた。

「昨日まで、“竜は怖い”って言ってた人たちが」

「今も、怖いとは思ってるよ、多分」

 エリーナは、パンをちぎりながら答える。

「でも、“怖いけど、それだけじゃない”ってことを、ちょっとだけ知ったんだと思う」

 竜の頭は、ちゃんと撫でられる。
 竜の鱗は、冷たくて、すべすべしている。
 竜の目は、思ったよりよく人を見ている。

 そういう、教科書には載らない情報。

「わたしも、そうだったし」

 あの日、森で。
 血を流した卵を抱きしめて泣いたあの日。

 竜は怖い存在だった。
 でも、それ以上に、ひとりぼっちの子どもには、温かくて、心細さを埋めてくれる存在だった。

「……旅に出て、よかった、のかな」

 焚き火の火が、ぱち、と弾ける。

 その火の粉を見つめながら、エリーナはぽつりと言った。

「王宮にいたら、こんな景色、知らないままだったと思う」

 干ばつの村の、ひび割れた土。
 井戸の底の冷たい水。
 竜の背を恐る恐る撫でる子どもたちの顔。

「“竜の主”であることも、“王太子の元婚約者”であることも関係なくて」

 焚き火の熱が、膝にじんわりと染みる。

「ただのひとりの人間として、誰かの役に立てる場所があるって──」

 喉の奥が少し詰まる。

「それを知れただけで、旅に出た意味、あったのかなって」

「“かな”じゃなくて、“ある”でいいんじゃない?」

 カイの声が、すぐそばから聞こえた。

「君がエルダーンを出て、この村まで来て、空に手を伸ばして、地面を掘ったから、この井戸は深くなった」

「……手伝ってくれたからでしょ」

「それは、お互い様」

 カイは、パンをちぎってスープに浸しながら笑う。

「俺一人でここに来ても、たぶん“干ばつの原因調査報告書”を書いて終わってたよ」

「研究者……」

「でも、君がいたから、“じゃあ井戸掘ろう”って話になった」

「わたしだけじゃ、できなかった」

「だから、“君が旅に出てくれてよかった”って、少なくとも俺は思ってる」

 さらっと言われる。

 心臓が、また忙しくなる。

「……カイはさ」

「うん?」

「どうして、そこまでしてくれるの?」

 先日出会ったばかりの旅人に。
 干ばつの村で、汗をかいてまで。

 魔導院の命令だけなら、もっと距離を置いて接する選択肢もあったはずだ。

 カイは、少しだけ悩むような顔をしてから、笑った。

「さあね」

「なんでそこで誤魔化すの」

「誤魔化してるわけじゃなくて、“まだ言葉にならない”ってだけ」

 灰色の瞳が、焚き火の光を映して揺れる。

「ただ──」

 彼は、焚き火越しに村人たちと竜を眺める。

「“泣き虫で諦めが悪い竜の主”が、どうやって世界を変えていくのか、ちょっと見てみたいだけかもしれない」

「そのラベリングやめて」

「事実でしょ?」

「泣き虫は余計」

「でも、“諦めが悪い”は褒めてる」

 カイは、まじめな声で付け足した。

「君が諦めてたら、この村はきっと、“何もないよりマシ”で終わってた」

「……それでも、村の人たちはきっと、“マシ”で喜んでくれたと思う」

「うん。でも、“マシ”で満足しなかったからこそ、“今の井戸”がある」

 エリーナは、言葉を失った。

「諦めが悪い君だから、この村は助かった」

 カイは、焚き火を見つめながら、冗談めかして言う。

「だから、泣き虫で諦めが悪い君の旅に、俺はついていこうかなって」

 耳まで、熱くなった。

「……急にそういうこと言うの、反則じゃない?」

「え?」

「え、じゃない」

 俯いて、パンをちぎる。
 指先が、少し震えているのを自覚する。

(こんなの、ずるい)

 胸の奥が、ふわふわと落ち着かない。

 焚き火の熱のせいにするには、ちょっと温度が高すぎる。

『主』

 アークヴァンの声が、頭の奥でくすりと笑った。

『顔が赤いぞ』

「うるさい……!」

『火の熱か、人間の言葉のせいか』

「どっちもだよ!」

 思わず心の中で怒鳴り返して、余計に恥ずかしくなる。

 隣で、カイが首を傾げる。

「どうしたの?」

「なんでもないです」

「竜と喧嘩してる?」

「なんで分かるの」

「顔がさっきよりさらに赤いから」

「見ないで!」

 焚き火のぱちぱちという音と、村人たちの笑い声が重なる。

 星が、少しずつ空に増えていく。

 白竜の鱗が、遠くの丘で淡く光っていた。

 エリーナは、アークヴァンの背に軽く寄りかかりながら、夜空を見上げる。

(……旅に出て、よかった)

 ようやく、その言葉を、心の底から思えた。

 王宮を吹き飛ばした夜から続いていた、罪悪感と後悔の靄が、少しだけ晴れていく。

 世界は広い。
 怖いことも、苦しいことも、きっとまだたくさんある。

 でも、その向こう側に、こういう夜があるのなら。

 泣いて、悔しがって、肩を貸してもらって。
 小さな成功を、誰かと分かち合える夜があるのなら。

「……もうちょっとだけ、諦め悪くてもいいよね」

 自分に問いかける。

『もちろんだ』

 竜が、即答した。

「いいと思うよ」

 青年も、同じタイミングで答えた。

 エリーナは、噴き出して笑った。

 竜と人と、自分の声が重なって。

 その重なりが、たまらなく愛おしい夜だった。
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