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第12話 『魂契約が軋む音』
しおりを挟む山の朝は、空気がやたらと澄んでいた。
冷たい空気を吸い込むと、肺の奥まで透明になってしまいそうで、ちょっとだけ怖くなるくらいだ。
「ふぁ……」
エリーナは寝袋から半分だけ顔を出して、ぐいっと伸びをした。
いつもより、身体が妙にだるい。
寝不足特有の重さというより、感情を使いすぎたあとの倦怠感に近い。
(夢、また……結構えぐかったな)
昨夜見た夢は、赤ではなく、灰色が多かった。
折れた翼。
冷えた風。
土に突き刺さった黒い角。
目覚めたときの脈の速さを思い出して、エリーナは小さく首を振った。
と、その瞬間。
胸の奥が、ぐにゃりと揺れた。
『……ふむ』
脳内で、低い声がひとつ。
「うわっ」
思わず声が漏れる。
言葉ではない。
でも、確かに“アークヴァン側の何か”が流れ込んできた感覚。
「ちょ、ちょっと。いきなり入ってこないでよ」
『いや、今のは我のほうからではない』
「え?」
『主の感情の波が、大きすぎただけだ』
竜の声は、いつも通り落ち着いていた。
『最近、少し“壁”が薄くなっている』
「壁……?」
『我と主の魂契約を包む、膜のようなものだ』
簡単に言えば、ふたりの心を隔てていたカーテンの布地が、やたらと薄くなっている感じ。
「……やっぱ、過去の話、聞きすぎた?」
『そういう面もあるだろうな』
アークヴァンは素直に認めた。
『我のほうも、つい主に“聞かせてしまった”せいで、深いところが揺れている』
「ごめん……」
『謝るな』
ぴしゃりとした声。
『主のせいだけではない。
我も、“主ならばいいか”と、少し甘く見た』
甘く見た、というか、信じたと言うか。
その表現を選ばないのが、竜らしいといえば竜らしい。
『しばらくは、互いの感情が漏れやすくなるだろう』
「漏れやすく……」
エリーナは、その言葉の意味をよく理解しないまま、寝袋を抜け出した。
◆
その「漏れやすさ」を、彼女はその日の午前中だけで嫌というほど実感することになる。
「おはよう」
焚き火のそばで湯を沸かしていたカイが、顔を上げて笑った。
「今日はちゃんと朝だね。昨日みたいに昼まで寝てるかと思った」
「う……言わないで」
「夢、まだ続いてる?」
「まあ……ぼちぼち」
カイは、あえて深くは突っ込まない。
その距離感がありがたくて、同時にちょっと切ない。
(こういうとこ、好きなんだよな……)
思った瞬間。
胸の奥が、ばくん、と跳ねた。
それとまったく同じタイミングで。
『…………』
竜側のほうでも、何かがぐらりと揺れた気配がした。
(え、ちょ、え?)
『主』
微妙に沈黙が長かったあと、アークヴァンの声が落ちてきた。
『今のは、なんだ』
「な、何が?」
『心拍が、さっきまでの二倍近くに跳ね上がった』
「観測やめてってば!」
『いや、主の身体状態は共有される。
……我の胸のあたりまでざわついたのだが』
竜の“胸のざわつき”って表現、なんかレアだな、とどうでもいいところで冷静になる自分がいる。
『敵意でも、恐怖でもない。
だが、“落ち着かぬ”』
「…………」
大変言いにくいのだが。
(それ、多分、恋の副作用です)
と言えるわけもなく。
「えーっと……」
エリーナは、カイのほうをちらりと見た。
湯気の向こうで、彼は真面目な顔でカップを並べている。
寝癖のついた黒髪。
少し眠たげな目。
それでも、笑うときだけはやたらと優しくなる口元。
そこまでを認識した時点で、また心臓が跳ねた。
『……増加』
「増加って言わないで!」
思わず口に出してしまって、カイが怪訝そうに首を傾げる。
「どうかした?」
「な、なんでもない! 朝から心拍数の話してただけ!」
「朝から物騒な会話してるね?」
「ほんとそれな……!」
誤魔化しながら、エリーナは内心で頭を抱えた。
(アークヴァンに、カイのことバレるの時間の問題では……?)
現状、心拍数の上下だけで軽くバレかけている。
これで「視線」とか「表情」みたいな要素も加わったら、確実にバレる。
『主』
竜の声が、僅かに低くなる。
『あの人間を見ると、心臓が跳ねるのか』
「質問がストレートすぎる!」
『事実を確認しているだけだ』
「はいそうですその通りですすみませんでした!」
早口で認めてしまった自分を殴りたい。
アークヴァンは、少しだけ沈黙してから、静かに言った。
『……なるほどな』
「なにがなるほどなの?」
『このざわつきの正体が分かった』
「分からなくていいよ!」
『分からぬと、竜魔法にも支障が出る』
真面目な声が、余計に恥ずかしい。
『主が、あの人間を見ると胸が高鳴り、我の胸も落ち着かなくなる』
「そういう実況中継ほんとやめて!」
『ふむ。これは──』
一拍。
『怒りではないが、“何かを獲られた”ような感覚だ』
「……」
それ、もうほぼヤキモチ認定でいいのでは。
「アークヴァン」
『なんだ』
「それ、多分、やき──」
『言うな』
食い気味に遮られた。
竜のプライドは、妙なところで高い。
◆
逆方向の「漏れ」も、同じ日中にやってきた。
昼下がり。
三人と一匹(?)は、山の斜面に腰を下ろして、簡単な昼食を取っていた。
干し肉をかじり、パンをちぎり、カイの淹れた薄い茶を啜る。
そこだけ切り取れば、穏やかなピクニックみたいだった。
けれど、周囲の山々の向こうには、国境の城塞がある。
その事実だけが、空気に少しだけ影を落としていた。
「……魔導院、怒ってるかな」
パンをちぎりながら、カイがぽつりと言った。
「国境城塞ぶち破って逃げたんだもんね」
「言い方やめて。事実だけど」
「事実かぁ」
『我の爪は、まだあの石の感触を覚えている』
アークヴァンが、遠くの空を見ながらぼそりと呟く。
『あの程度の壁であれば、いくらでも──』
そこで、ふっと言葉が途切れた。
竜の視界に、別の「壁」が重なったのだろう。
焼けただれた城壁。
炎に包まれた塔。
崩れ落ちる石。
かつて、自分が“敵として”焼き払った都市。
『…………』
アークヴァンの胸の奥で、古い怒りと後悔が同時にうずいた。
その瞬間。
「っ……!」
エリーナは、胸を押さえて前のめりになった。
「エリーナ!?」
カイが慌てて支える。
胸の内側を、熱い手が鷲掴みにしたみたいだった。
怒りでも、恐怖でもない。
もっと古い、もっと重たい感情。
燃え上がる炎。
焼ける石。
連鎖する崩壊。
それを、上から“見ている”感覚。
(やだ……)
「やだ……!」
口から言葉が漏れた。
やめて。
見たくない。
それ以上、思い出さないで。
『主』
アークヴァンの声が、すぐに降ってくる。
『すまない』
感情の流れを、慌てて絞る気配。
胸を鷲掴みにしていた熱が、少しずつ薄れていく。
代わりに、冷たい静けさが前に出てくる。
エリーナは、息を荒げながら、なんとか膝をついた。
「……っは、は……」
「落ち着いて。深呼吸」
カイが、背中に手を当てながら言う。
「吸って、吐いて。……いつもの、ほら」
「すー……はー……」
何度か繰り返すうちに、心臓の暴走は、どうにか人間の範囲に戻ってきた。
「ごめ……」
「謝らないで」
今度はカイが遮る。
「今のは、エリーナのせいじゃないでしょ」
『そうだ』
アークヴァンも、低く言った。
『今のは、我の過去が揺れたせいだ。
主の側の膜を、我の感情が強く叩いてしまった』
この数日で、彼自身も薄々気づいていた。
エリーナが夢を見るたび、彼の側の封じられていた記憶も、少しずつ目を覚まし始めていることに。
『……契約の“軋み”だな』
「きしみ……?」
『繋がりが強まりすぎたとき、そこに負荷がかかる。
今は、その音が聞こえ始めている』
魂と魂を結ぶ鎖が、ぎりぎりと悲鳴を上げているイメージ。
強く引きすぎれば、切れる。
でも、手を離しすぎれば、途切れてしまう。
その中間で、どうにかバランスを取ろうとしている状態。
「……いやだな、その音」
エリーナは乾いた笑いを漏らした。
「また、“鎖”の話じゃん」
『これは、王家の鎖ではない』
アークヴァンは、はっきりと言う。
『主と我が、自分で結んだ鎖だ』
「……そうだね」
自分で結んだものだからこそ、雑に扱いたくない。
でも、今のままでは負荷がかかりすぎている。
(どうしたらいいんだろ)
その問いは、その夜の“事件”へと繋がっていく。
◆
夜。
山の風は、昼よりさらに冷たかった。
焚き火の火は小さく、空には薄い雲が流れている。
星は、ところどころで瞬いていた。
「……今日は、眠れるかな」
寝袋に潜り込みながら、エリーナは自分に問いかける。
身体は疲れている。
目も重い。
でも、瞼を閉じることに少しだけ躊躇いを感じる。
(また、赤いのとか灰色のとか、見るのかな)
それでも、眠気には勝てなかった。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
◆
――飛んでいた。
いつもより、ずっと高く。
いつもより、ずっと重く。
風が、翼を叩く。
空気が、熱で歪む。
見下ろすと、そこには都市があった。
石造りの塔。
赤い屋根。
広い広場。
それら全部が、炎に包まれている。
建物の中から人が逃げ出し、広場で膝をついて泣いている。
泣き声は、風にかき消される。
空から降るのは雨ではなく、火の粉と焼けた瓦。
その上を、巨大な影が飛び交っている。
竜。
竜。
竜。
どの影も、炎を吐き、翼で風を煽り、都市を壊していた。
エリーナは叫ぼうとした。
(やめて!)
でも、その声は、喉から出てこない。
かわりに、別の声が喉から溢れた。
『もっとだ』
低く、冷たい声。
『もっと焼け』
(え……)
『この城が積み上げてきたものを、全て灰に戻せ』
その声は、自分のものじゃなかった。
でも、自分の口から出ている。
視界が、自分の意志と関係なく動く。
高く、高く旋回し、炎のうねりを見下ろす。
(やだ……)
エリーナは、必死に視界を逸らそうとした。
でも、視点は変わらない。
変えられない。
まるで自分が、自分ではない誰かの身体に完全に乗っ取られているみたいだった。
(アークヴァン……?)
問いかけると、返ってくるのは、重たい沈黙と、どろどろした感情の塊。
怒り。
絶望。
諦め。
どうしようもない虚しさ。
その全部が、胸の中で混ざっている。
都市の外壁が崩れる。
塔が折れる。
叫び声が、空まで届く。
『守れと言ったのは、誰だ』
声が、胸の奥で鳴る。
『戦えと言ったのは、誰だ』
誰も、答えない。
もう、その“誰か”は、この世界にはいないのかもしれない。
『我は、ただ飛んだだけだ』
風を切って、空を駆けた。
炎を吐けと言われれば吐き。
敵と指さされたものを、焼き払った。
『それでも、最後に残ったのは』
視界が、燃え残った広場に降りる。
倒れた兵士。
泣き崩れる子ども。
崩れた塔の影で、小さく丸まって動かない人影。
『“守れなかった”という感覚だけだ』
その言葉は、どこまでも静かで、どこまでも深くて、どこまでも冷たかった。
『我は、もう誰も守れなかった』
その瞬間、エリーナの心臓が潰れた。
胸の内側が、ぎゅう、とひしゃげる。
(やめて……)
(そんなふうに、言わないで)
(“守れなかっただけの存在”みたいに、自分のことを言わないで)
叫ぼうとしても、声は外に出ない。
叫びは、そのまま内側に折り返して、自分の心を切り裂いた。
視界が、赤から黒に塗りつぶされていく。
落ちていく。
どこまでも、どこまでも。
(やだ──)
◆
「――っ、っ、は……!」
身体が跳ね起きた。
肺が、空気を求めて暴れる。
喉が、ひゅうひゅうと苦しげな音を立てる。
目の前が、霞んで揺れている。
視界の端が暗くなっていく。
(息が、できない)
頭が真っ白になった。
空気はあるのに、届かない。
「エリーナ!」
名前を呼ぶ声が、遠くで聞こえた。
誰の声か、考える余裕もない。
「エリーナ、こっち見て!」
両肩を掴まれて、ぐいっと前を向かされる。
視界の真正面に、黒い瞳。
いつもより、少しだけ大きく見えるカイの顔。
「ゆっくり、吸って。……そう、すうーって」
彼は、自分自身の呼吸を大げさに見せてくれた。
「見て、真似して。……すうー……はぁー……」
エリーナは、必死にその通りにしようとする。
肺に空気が触れる。
胸の奥に、冷たい風が入ってくる。
「そう、その調子」
カイが、片腕でエリーナの背中を抱き寄せた。
もう片方の手で、彼女の指をぎゅっと握る。
「今は、“呼吸することだけやって”」
難しいこと、考えなくていい。
過去も、夢も、罪も、災厄も、全部あとでいい。
今はただ、生きるための動作だけ。
「すー……」
「……はー……」
何度も、何度も、繰り返す。
少しずつ、世界の輪郭が戻ってくる。
暗かった視界の端に、焚き火の光が滲み、岩肌の影が浮かび上がる。
カイの体温が、背中から伝わってくる。
彼の胸の鼓動が、耳元で微かに響く。
「……っは」
ようやく、深い息がひとつ入った。
それと同時に、張り詰めていたなにかがぷつんと切れる。
涙が、一気に溢れた。
「っ……ひ、ぐ……」
「大丈夫、大丈夫」
カイは、何度もそう繰り返す。
言葉自体に魔法はないけれど、声の震えのなさが、一番の魔法だった。
『主』
アークヴァンの声が、頭の奥で震えている。
『主、すまない……』
いつもの落ち着きが欠片もない。
『我の記憶が、主を襲った』
「……アークヴァンの、せいじゃない」
涙としゃくり上げでぐちゃぐちゃになりながらも、エリーナはどうにか声を出した。
「“見たい”って言ったの、わたしだもん」
『だが』
「だって──」
喉が詰まりそうになる。
「“守れなかった”って、自分のことそんなふうに言うの、やだもん……」
夢の中で聞いた言葉が、まだ胸に刺さっている。
「アークヴァン、“守れなかっただけの竜”なんかじゃないよ」
『…………』
「森で、わたしのこと助けてくれたでしょ」
血を流した卵。
冷たい土。
ひとりぼっちで、凍えそうだった幼い自分。
「王宮の夜も、わたしの心が壊れそうになったとき、怒ってくれたでしょ」
怒りの刃は確かに激しすぎたけれど。
「干ばつの村だって、一緒に井戸探してくれたじゃん」
『それは……』
「“守れなかったこと”ばっかり数えないでよ」
涙でぐしぐしになりながら、エリーナは言った。
「ちゃんと“守れたこと”もあるんだよ。
……わたしだって、その“守られた側”だよ」
『主……』
アークヴァンの声が、ほんの少しだけ震える。
カイは、そんなエリーナの言葉を聞きながら、背中を撫でる手を止めなかった。
呼吸は、もう落ち着いている。
でも、感情はまだ、夜の底で波立っている。
(これ以上、深く繋がったら)
カイの胸の中で、別の恐怖が芽生えた。
(エリーナの心が壊れる)
今の悪夢は、明らかに“深すぎた”。
視点も、感覚も、感情も、ほとんど完全にアークヴァン側に乗っ取られていた。
このまま進めば、いずれ境界がなくなる。
エリーナがエリーナである部分が、薄まってしまう。
「アークヴァン」
カイは、夜空に向かって言った。
『なんだ、人間』
「契約を……弱めることって、できないんですか」
真正面からの問い。
『弱める?』
「今、多分、繋がりが強まりすぎてる。
エリーナが、あなたの過去を、感情ごと浴びてる」
彼女の精神は、人間の器だ。
竜の時間と記憶をそのまま注ぎ込めば、どこかで破綻する。
「これ以上深く繋がったら、多分エリーナのほうが先に壊れる」
『…………』
アークヴァンは、しばし沈黙した。
『契約を“切る”術はある』
静かな声。
『だが、“弱める”術は、我も知らぬ』
「切る……」
エリーナの身体が、びくりと反応した。
「や、だよ」
『言っておらぬ』
アークヴァンは、すぐに否定した。
『今ここで切るという話ではない。
ただ、“そうすれば主は竜の夢から解放される”という選択肢があるというだけだ』
選択肢があるのは、救いでもあり、脅しでもある。
「でも、それは──」
「嫌だ」
エリーナは、顔を上げた。
涙の跡を拭いもせず、夜空を睨む。
「アークヴァンとの契約、切りたくない」
『主』
「だって、ひとりにしないでってお願いしたの、わたしだよ?」
『ああ』
「今さら、“やっぱつらいから繋がるのやめます”とか、そんな裏切りみたいな真似、したくない」
胸がまだ痛い。
過呼吸の余韻も残っている。
それでも、その痛みの中で出てきた言葉は、妙に澄んでいた。
「だから──」
エリーナは、両手をぎゅっと握りしめた。
「ひとりで抱え込まないで」
『……主』
「辛いなら、わたしも一緒に見るから」
それは、ふつうなら軽はずみに言っていい言葉ではない。
誰かの過去の傷。
長い悪夢。
その全部を、「一緒に見よう」と言うことは。
恋人に、「辛い過去ごと愛する」と告げるような言葉であり。
竜にとっては、「魂を完全に重ねる覚悟」とも取れてしまう言葉だった。
『……一緒に、見る』
アークヴァンが、ゆっくりと繰り返す。
『主よ』
声が、深いところで揺れた。
『それは、“我になる”ということだ』
「え?」
『我と主の境をなくし、互いの魂を完全に重ねること。
それは、“ひとつの存在”になることを意味する』
「…………」
そこまでの覚悟を、エリーナはまだ持っていない。
でも、言葉はもう出てしまった。
「そ、それは──」
エリーナが言い淀むより早く。
「俺は、嫌だな」
カイが、ぽつりと呟いた。
その声には、冗談は一切混じっていない。
「エリーナが、“エリーナじゃなくなる”のは嫌だ」
静かな宣言。
エリーナが、カイのほうを見る。
彼は、真剣な目で夜空を見上げていた。
「アークヴァン。あなたの過去を共有したいって言ったのは、多分本心だろうけど」
『ああ』
「でも、“完全に同じ存在になる”ってことは、エリーナの中の“人としての部分”が薄くなっていくってことでもある」
『そうなる可能性はある』
「俺は、それが怖い」
カイは拳を握りしめた。
「だって、俺が好きなのは、“竜の主”としてのエリーナじゃなくて、“エリーナ・カルヴェルト”だから」
「…………っ」
あまりにも真っ直ぐな言葉に、エリーナの心臓が跳ねた。
アークヴァンの胸の奥でも、同じように何かが震えた。
『人間』
竜の声が、低く響く。
『お前は、我と主の間に線を引くのか』
「引きますよ」
カイはためらわない。
「あなたとエリーナを繋ぐ鎖が大事なのは分かってる。
でも、その鎖が強くなりすぎて、エリーナそのものが消えてしまうなら──」
彼は、エリーナの肩を引き寄せた。
「俺は、その鎖に少しくらいブレーキかける」
『……ブレーキ』
「そう」
竜の力に対して、あまりにも人間臭い比喩だ。
「エリーナが“全部一緒に見る”って言っても、俺は横で“全部は見るな”って文句言い続けるから」
それは、宣言であり、約束であり、わがままだった。
「だから、アークヴァン」
カイは、夜空を見上げたまま言う。
「エリーナの心が壊れるような共有は──俺が嫌だ」
竜と人の、真正面からのぶつかり合い。
その場の空気が、ぴん、と張りつめる。
やがて。
『……分かった』
アークヴァンが、折れるように息を吐いた。
『主』
「うん」
『“一緒に見る”という言葉、我は嬉しかった』
その正直さが、逆に胸を打つ。
『だが、人間の言う通りだ。
我の全ては、今の主には重すぎる』
「……ごめん」
『謝るなと言った』
竜は、もう一度繰り返した。
『主の“ひとりで抱え込まないで”という願いは、聞き届けよう。
だが、“完全に重なる”のは、まだ早い』
「今は、“端っこだけ一緒に見る”くらいで我慢するんだね」
『そういうことだ』
カイの言葉に、アークヴァンは小さく頷いた。
『人間』
「はい」
『お前が“ブレーキ”になるというのなら、ちゃんと踏め』
それは、宣戦布告にも、信頼にも聞こえる言葉。
「もちろん」
カイは、迷いなく答えた。
「踏みすぎて、怒らないでくださいね」
『それは、考えておく』
竜らしい、曖昧な返事。
でも、その曖昧さの中に、少しだけ柔らかさが混ざっていた。
◆
その夜。
エリーナは再び眠りについた。
アークヴァンの過去の夢は、相変わらず断片的に流れてくる。
炎。
血。
墜ちる翼。
でも、そこに、別のものが薄く混ざるようになった。
白い森。
幼い自分の泣き声。
竜の温もり。
そして──
もっと、奥のほう。
自分とアークヴァンの魂が触れ合う、そのさらに底。
そこには、暗い海のような空間が広がっていた。
光も、音も、ほとんどない。
ただ、重たい気配だけが満ちている。
その中心に、何かがいた。
輪郭は、よく見えない。
巨大すぎて形が分からない、というほうが近いかもしれない。
山よりも大きく、空よりも古く、時間よりも深い“影”。
その影が、ゆっくりとこちらを見た気がした。
見られた瞬間、背筋がぞくりとする。
視線だけで、魂の奥までえぐられるような感覚。
(誰……)
問いかける声は、音にならない。
それでも、返事のようなものが、どこかから響いた。
『……竜の主』
言葉とも、咆哮ともつかない、重い響き。
『世界を選ぶ者』
以前、竜骨の森で聞いた言葉と、どこか似ている。
影は、少しだけ形を変えた。
無数の翼。
無数の眼。
無数の角。
それら全部が、ひとつの存在に収束しているような“何か”。
(……古竜王)
頭のどこかで、そういう言葉が浮かんだ。
それは、誰かに教えられた名前ではない。
魂が、勝手にそう呼んでいた。
古竜王の影は、ただ、エリーナを見ていた。
何をするわけでもなく。
何を言うわけでもなく。
ただ、静かに。
まるで、「次はどうするのか」と問うように。
エリーナが、その視線の意味を理解する前に。
夢は、そこでぷつりと途切れた。
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