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第19話 『恐怖が希望に変わる瞬間』
しおりを挟む夜の終わりは、いつもよりずっと長く感じた。
揺れは、明け方近くになってようやくおさまった。
けれど、村人たちの心は、まだぐらぐらと揺れたままだった。
壊れた家。
傾いた柵。
土に半分埋もれた畑。
焚き火の代わりに、あちこちで篝火が焚かれている。
村人たちは、家の中に戻ることを怖がって、広場や丘の上で夜を明かした。
白竜の姿も、夜明け前にはいったん姿を消した。
アークヴァンは「日の出と共に完全に消える」と思われたくなかったのか、村から少し離れた山の陰に身を潜め、「呼べばすぐ届く距離」にだけ留まった。
◆
朝。
空は、昨日の夜とはまるで別の顔をしていた。
雲ひとつない青。
洗い流されたみたいに澄んでいる。
地面はまだところどころひび割れていて、土埃の匂いが強く残っているのに、空だけはやけに清々しい。
「……なんか、腹立つくらい良い天気だよね」
エリーナは、丘の上に腰をおろしながら、空を見上げてつぶやいた。
全身、ひどい倦怠感。
魔力はすっからかん。
ちょっと立ち上がるだけで足が笑う。
「天気に八つ当たりするの、珍しいね」
隣で、カイが苦笑する。
「人間相手に八つ当たりする元気もないんだもん」
「それはそれで心配なんだけど」
実際、エリーナの顔色はひどかった。
昨夜、一度完全に意識を手放しかけて、アークヴァンとカイが二人がかりで運んだくらいだ。
「ねぇ、カイ」
「なに」
「正直な話していい?」
「いつもわりと正直だけど?」
「昨日の途中で、一回だけ、“あ、これ死ぬかも”って思った」
「やめろ心臓に悪い」
カイは、わざとらしく額を押さえた。
「何でそんなさらっと言うかな君は」
「いや、今こうして生きてるから、もう“過去の話”ってことで」
「過去の話でもダメなものはダメなんだよ」
そんな軽口を叩き合いながらも、ふたりとも分かっていた。
あの夜、ほんの少し何かが違っていたら──
本当に、誰かの名前が石碑に刻まれていたかもしれない。
エリーナ自身の名前も、そこに並んでいたかもしれない。
だからこそ。
「……行かなきゃね」
エリーナは、自分の膝をぽん、と叩いて立ち上がろうとした。
足がふらつく。
カイが反射的に腰を支える。
「え、ちょ……大丈夫?」
「大丈夫じゃないけど、行く」
「その宣言やめて」
「むしろ正直でしょ」
「正直さにも限度ってものがある」
文句を言いながらも、カイは彼女の腕を支えたまま離さなかった。
「村長さんたちが、広場に集まってるって。
“話がしたい”って」
「……うん」
その言葉に、エリーナの表情が少しだけ引き締まる。
昨夜、「竜が家を守った」という事実は確かにここにある。
でも同時に、「竜がこの村の上空にいた」こともまた事実だ。
恐怖と感謝が、ぐちゃぐちゃに混ざったまま、村人たちの胸の中で一晩を明かした。
(怖がられるの、嫌だな……)
胸の奥がきゅっとなる。
あの中年女性の、「竜の主なんて、二度とこの土地に足を踏み入れないで」という言葉が、まだ心に刺さったままだ。
それでも。
(……それでも、逃げるほうが嫌)
昨日、泣きながら決めたことだ。
「行こう」
エリーナは、ぎゅっと拳を握った。
「ちゃんと、名乗る」
◆
村の広場には、ほとんどの村人が集まっていた。
壊れた家の片付けの手を、一度止めて。
応急処置が済んだ人たちが、包帯の巻かれた腕を抱えながら並んでいる。
泣き疲れて眠っている子どもを抱いた母親。
夜通し祈り続けたのか、声が枯れている老人。
顔は、どれも疲れ切っていた。
その前に、エリーナは立った。
足元の土は、まだところどころひび割れている。
その上に、靴裏をぎゅっと押しつける感覚を確かめながら、彼女は深呼吸をひとつした。
(怖い)
正直な気持ちだ。
視線が痛い。
中には、明らかな憎しみを乗せている目もある。
それでも──
「おはようございます」
エリーナは、少し掠れた声で言った。
ざわ、と、微かなざわめきが広がる。
誰も返事をしない。
ただ、その場の空気が、彼女のほうへ少しだけ傾く。
「……わたしは、エリーナ・カルヴェルトといいます」
まず、自分の名前を名乗る。
「リューン王国から来た、ただの旅人だと、そう言いました。
でも、本当は──」
一拍置く。
喉が、ひゅ、と鳴る。
「本当は、“竜の主”です」
広場の空気が、一瞬で凍った。
誰かが、息を呑む音。
誰かが、杖を握りしめる音。
「あなたたちが怖がっている“竜”を、連れてきたのは、わたしです」
逃げ道を潰すように、自分で言う。
ざわざわ、とざわめきが大きくなる。
「やっぱり……!」
「あの白い竜は、この娘の──」
「竜の主を、この村に入れたってことか!」
怒りと恐怖が、音になって広がる。
エリーナは、そのひとつひとつを、逃げずに受け止めた。
「……うん」
小さく頷く。
「そうだよ」
「おまえのせいで、山が──!」
昨日、エリーナの手を叩き落とした中年の女性が、叫んだ。
目は赤く、頬はひどくやつれている。
「おまえが竜を連れてきたから、また大地が怒ったんだ!」
「昨日の揺れは、竜のせいじゃない」
カイが、思わず一歩前に出る。
だが、エリーナは、その袖をそっと掴んで止めた。
「カイ」
「でも──」
「わたしが言う」
震える手を、ぎゅっと握り直す。
「……地震は、竜のせいじゃないです」
静かに言葉を置く。
「この国の大地が、ずっと前から抱えていた傷のせいです。
わたしは、それを竜の力で“視て”、一部を変えようとしました」
「禁じられた力で、地面をいじったのか」
別の男が、怒りを含んだ声で言う。
「それが、どれだけ危険か分かってるのか」
「分かってます」
エリーナは、目を逸らさない。
「だから、本当は、ここで竜魔法を使うべきじゃなかった。
それでも、使ったのは──」
喉の奥で、言葉が引っかかる。
「だって」とか、「だって放っておけなかった」とか、
子どもの言い訳みたいな言葉が、舌の上で暴れる。
その全部をいったん飲み込み、深く息を吸った。
「……この村が、また何かを失うのを、見たくなかったからです」
それしかなかった。
言葉は、簡単だ。
理由としては、幼い。
でも、あの瞬間、本当にそれしかなかった。
「竜を連れてきたのも、わたしです。
竜に、この村を守らせたのも、わたしです」
責任の所在を、はっきりさせるように。
「そのせいで、あなたたちにこんな恐怖と混乱を与えた。
それは、本当に、ごめんなさい」
頭を下げる。
村人たちの間で、またざわめきが起きる。
「謝ったって──」
「謝って済む問題じゃ──」
責める声。
抑えきれない怒り。
その中で。
「でも!」
別の声が、震えながら割り込んだ。
「竜が、いなかったら──」
抱いていた子どもを、ぎゅっと抱きしめる若い母親だった。
昨日、土砂の流れに巻き込まれかけた子どもを、アークヴァンの翼が直接庇った。
あの時、白い翼が家の壁をえぐり、その反動で土砂が逸れた。
壁は壊れた。
でも、子どもは、潰されずに済んだ。
母親は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で叫んだ。
「あの白い翼が、うちの子を守ってくれたんです!」
その声に、場の空気が揺れた。
「家の壁は壊れました。
机も、棚も、めちゃくちゃになった。
でも──」
腕の中の子どもを、もう一度ぎゅっと抱き寄せる。
「この子は、生きてる!」
その一言に、誰も反論できなかった。
「竜が怖いのは、わたしだって同じです!
あんな大きな影、二度と見たくないって思うくらい怖かった!」
それでも、と、彼女は続ける。
「でも、昨日、あの竜は、“壊す”んじゃなくて、“庇う”ほうに翼を広げたんです!」
震える声。
「ちゃんと見てました!」
昨日、「竜の主なんて」と罵倒した中年女性は、唇を噛みしめたまま、何も言えないでいた。
その両脇から、「俺も見た」「うちの納屋の上も、岩がそれた」といった声が、ぽつぽつと上がり始める。
「竜が山を押し返してた……」
「亀裂の上で、光が走ってた……」
「家は壊れたけど、全部持ってかれる前に止まった……」
昨夜、恐怖のあまりまともに見られなかった人たちも、「見てしまった断片」を思い出し始めていた。
「“竜のせいでこんなことに”って言いたいです。
言いたいけど……」
若い母親は、ぐしゃっと顔を歪める。
「竜がいなかったら、もっと酷いことになってたのも、事実なんです」
その言葉が、広場の真ん中に落ちた。
恐怖は、消えない。
憎しみも、簡単には溶けない。
ただ──そこに、「助かった」という実感だけが、静かに積もり始める。
◆
エリーナは、村人たちの視線が変わっていくのを、肌で感じていた。
昨夜までの視線は、「純粋な恐怖」と「一方的な憎悪」だった。
今は違う。
「分からない」と「揺れている」が混ざっている。
「竜を憎みたい自分」と、「竜に助けられた自分」が、胸の中で取っ組み合いをしている。
“完全な悪”としての竜の主から──
“何かよく分からないけど、少なくとも命は助けた存在”くらいに変わりつつある。
(グレーだ)
黒でも白でもない。
どろっとした、曖昧な色。
それは、とても居心地が悪い。
けれど同時に、「真っ黒ではない」という事実だけが、彼女の心にほんの少しだけ酸素を送り込む。
「恐怖は、一瞬じゃ消えない」
隣で、カイがぽつりと呟いた。
「一晩で信頼に変わるなんて、さすがにファンタジーがすぎるよ」
「ファンタジーの国の住人に言われたくないなぁ」
「自覚はある」
彼は、少し笑ってから、真面目な表情に戻った。
「でも、“助かった”って実感が、恐怖の上に薄く重なっていく。
それは、確かだと思う」
救われた命。
逸れた土砂。
庇われた子ども。
そういう具体的な形で「助かった」が積み重なれば、いつか「竜=災厄」という図式に亀裂が入る。
「今日、完全に理解してもらおうとしなくていい。
“あの夜、竜が家を守った”って記憶が、ここに残れば、それで今は十分だよ」
「……うん」
エリーナは、震えそうになる唇を噛んで頷いた。
◆
村の外れ。
崩れた斜面の向こう、少し離れた岩場の上で、アークヴァンは村の様子を見下ろしていた。
白銀の鱗は、朝日に照らされて、少し霞んだ光を纏っている。
巨大な身体を縮めているとはいえ、近くまで行けば、子どもたちの目には十分「おそろしい存在」に見えるはずだ。
それでも──
『……主よ』
竜は、遠くから、村の気配を感じ取っていた。
『泣きながら、よく言ったな』
自分で自分を追い詰めるように、名乗って。
謝って。
それでも逃げなかった。
その姿が、竜の胸に、不思議な熱を残している。
「ねぇ、あれ……」
岩陰の手前で、子どもの声がした。
村の子どもたちが、数人、恐る恐る岩場の影から顔を出している。
大人たちには「近づくな」と言われている距離。
でも、好奇心には勝てなかったらしい。
「……こわい」
「うん、こわい……」
小さな声。
でも、その中に──別の色も混じっている。
「……きれい」
ぽつり、と、誰かが言った。
白い翼。
朝日に透ける薄い膜。
ひび割れた山肌の上で、そこだけが雪のように光っている。
「光ってる……」
「きれい……」
子どもたちの「きれい」は、まだ恐怖の上に乗っかった薄い膜みたいなものだ。
それでも、「竜=怖い」だけじゃなく、「竜=きれい」という別のタグが、今ここで増えた。
『……我を恐れぬ子どもが増えるのか』
アークヴァンは、小さく息を吐いた。
それは、竜の笑いに一番近い音だった。
◆
村を去る前に、エリーナは再び広場に立った。
今度は、昨日ほど目立つ怒号は飛んでこない。
ただ、疲れた静けさの中で、「聞いている」という空気だけが漂っている。
「……ここを、出ます」
エリーナは、素直に言った。
「この国に、“竜の主”が長居するのは、きっと良くないから」
竜を禁じる国。
竜の影が、古い傷を揺らす国。
あまり長くいるのは、彼女自身にも、村の人たちにも良くない。
「でも」
そこで、一度息を吸う。
「でも、もし──」
言葉を選ぶ。
「もし、また何かあったら」
竜の力を必要とするような何か。
地震でも、山崩れでも、別の災厄でも。
「呼んでください」
自分の胸を指差す。
「わたしは、竜の主です。
あなたたちが怖がる“竜”を連れてきたのも、わたしです」
その事実は、変わらない。
「でも、“怖い竜の主”のままでは、終わりたくないんです」
声が、少しだけ震える。
「今度呼ばれたときは、“最初から怖がられない竜の主”でいられるように──」
自分で言って、思わず苦笑した。
そんなことが可能なのか、自分でも分かっていない。
「……いや、それはちょっと欲張りすぎですね」
自虐気味に笑う。
「じゃあ、せめて、“前よりはちょっとだけマシな竜の主”になれるように、頑張ります」
不器用すぎる宣言。
堂々とした英雄の言葉じゃない。
世界を救う救世主のポーズでもない。
ただの、泣き虫な旅人の、ささやかな決意。
それでも──
「……ふむ」
村長が、ひとつ咳払いをした。
歳を重ねた男の声が、静かに広場に落ちる。
「大仰なことは言わん」
彼は、石碑のある丘のほうをちらりと見やりながら続けた。
「わしらにとって、“竜”という言葉は、長い間、“大災厄”の別名だった」
竜=怪物。
竜=破壊。
竜=喪失。
「だがな」
村長は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「いつか、竜のことを、子どもたちに“完全な怪物”としてではなく──」
視線を、前方の白竜がいた空のほうへ向ける。
「“あの夜、家を守ってくれた存在がいた”と、そう語れる日が来れば良いと思う」
静かな声だった。
赦しでも、歓迎でもない。
けれど、それは確かに、「憎しみだけで蓋をし続けるのをやめる」方向に、ほんの少しだけ舵を切る言葉だった。
エリーナの視界が、一気に滲む。
「あ……」
堪えようとしたけれど、無理だった。
喉の奥から、しゃくり上げるような声が漏れる。
「ごめ、さい……」
謝る必要のないところで、また謝ってしまう癖。
それでも、涙は止まらない。
石碑。
昨夜の土砂。
あの中年女性の悲鳴。
その全部が、胸の奥でぐしゃぐしゃになって、ようやく出口を見つけたみたいに、ぽろぽろとこぼれ出てくる。
その涙を、カイがそっと拭った。
「……泣き虫で諦めが悪い君じゃなきゃ」
昨日も聞いた言葉を、もう一度、彼は繰り返す。
「この村は救えなかった」
「……」
「マジで」
今度は、冗談抜きで。
エリーナは、目元を押さえながら、くしゃっと笑った。
「……うん」
泣きながら笑う顔は、ひどく不格好で、でもどこか晴れやかだった。
◆
村を離れるとき、子どもたちがこっそり丘の上までついてきた。
大人たちは、「あまり近くまで行くな」と言う。
それでも、好奇心と昨夜の「きれい」の残像が、彼らの足を止めない。
遠くの空に、白竜の影が浮かび上がる。
エリーナが手を挙げ、アークヴァンを呼んだのだ。
翼が広がる。
風が巻き起こる。
「……こわい?」
一番小さな子が、隣の子にひそっと聞く。
「こわい……」
「でも」
ちょっとだけ間を置いて。
「きれい」
その「恐怖」と「きれい」が同居した一言に、世界の色がわずかに変わった。
エリーナは、その声を背中で聞きながら、アークヴァンの背にまたがる。
カイも後ろに乗り込む。
『主』
竜が、問いかける。
『この国は、嫌いか』
「……分からない」
少し考えてから、エリーナは答えた。
「怖がられて、嫌われて、拒絶されるのは、やっぱり痛い」
『うむ』
「でも、石碑を見て、あの人たちの顔を見て、“それでも理解しろ”って押しつけるのも違うって思う」
『うむ』
「だから……」
空を見上げる。
「いつか、“この国の子どもたちに、竜を完全な怪物として教えなくてもいい世界”になったらいいなって思う」
『主は、また遠くを望む』
「“世界を選ぶ者”にしては、小さいほうじゃない?」
『……十分大きい』
アークヴァンが、小さく鼻を鳴らした。
『だが、悪くない』
「でしょ」
エリーナは、笑った。
下のほうで、村長が静かに手を挙げるのが見えた。
さよならの挨拶。
感謝とも、警戒ともつかない、曖昧な手振り。
でも、それだけで十分だった。
「行こう」
エリーナは、竜の首筋にそっと手を置く。
「まだ、行かなきゃいけない場所、いっぱいあるから」
『了解した、主』
白い翼が、大きくひと打ちされた。
風が唸り、村の子どもたちが「わぁ」と声を上げる。
恐怖と憧れが混じった、その声を背に受けながら──
竜と竜の主と、それにくっついて行く一人の青年の旅は、また次の空へと向かっていく。
恐怖が、すぐに希望に変わるわけじゃない。
でも、「あの夜、竜が家を守った」という記憶が、この国のどこかに残り続ける限り。
それはきっと、いつか誰かの物語を、少しだけ優しい方向へ傾ける。
エリーナは、頬を伝う涙を風に預けながら、前を見た。
泣き虫で、諦めが悪い。
それでも、少しずつ世界の「グレー」を、許せる色に変えていくために。
白竜の翼は、今日も空を裂いて進んでいく。
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