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第1話 砂糖菓子の冬
しおりを挟む王都の冬は、砂糖菓子みたいに見た目だけ甘い。
空から降る雪は白くふわふわで、街路樹の枝先をレースみたいに飾って、灯りの下では宝石みたいにきらきらする。
でも、近づけば冷たい。触れた指の感覚を奪って、芯まで凍らせる。
王城の廊下は、とくにそうだった。
香水の匂いが重ね塗りされ、蝋燭の甘い煙が天井へ薄く伸びる。磨き上げられた床は鏡みたいに光るのに、足元だけはいつも冷える。
冷えは、立場の差みたいに、じわじわと上へ這い上がってくる。
セレフィーナ・アルヴェインは、その冷えに慣れきっていた。
「……今日も、きれいな冬ね」
自分の吐息が白くなるほど寒いわけじゃないのに、言葉だけが白く浮いた気がした。
窓の外の中庭には、雪を踏み固めた道。そこを行き交う侍従たちの背筋は、完璧に伸びている。完璧であるほど、あたたかさが遠い。
セレフィーナは十七歳。
銀に淡い影を落とした髪を、きっちりと結い上げている。前髪は目の上できれいに切り揃えられ、薄紫の瞳は、感情の波を立てない湖みたいに静かだ。
――感情を立てない、じゃない。立てないようにしている。
そうしないと、この場所で息ができないから。
前世の記憶がある。
深夜のコンビニコーヒー。苦いのに甘くて、気持ちだけは「まだ大丈夫」って錯覚させる味。
鳴り止まない通知。
「急ぎで」「念のため」「今日中に」。
誰にも褒められない努力。誰かのために走って、誰かのために削れて、最後は「あなたの代わりはいるよ」で終わる。
だから今世では、学んだ。
期待しない。
求めない。
望まない。
それが一番、長生きする。
「お嬢さま、こちらを」
侍女のリリアが、白い封筒を銀盆に乗せて差し出した。封蝋には王家の紋章。金色が、冷たい光を跳ね返す。
「舞踏会の……招待状です。明後日の夜」
リリアの声は丁寧で、丁寧すぎて、どこか怯えている。
王太子の婚約者の侍女は、ほんの少しの失言でも人生が終わる。そういう“世界”だ。
「ありがとう」
セレフィーナは受け取って、指先で紙を撫でた。
柔らかい。上質な紙だ。けれど、そこに刻まれた金文字は刃物みたいだった。
きれいで、鋭くて、簡単に人を切る。
リリアが小さく息を吸う。
「お嬢さま……今回の舞踏会、王太子殿下が、なにか発表をされると……」
「噂?」
「はい。皆さま、そう……」
リリアは言い淀んだ。
“ざわついております”と言いかけて、飲み込む。
ざわつきの中心が誰かを言わなくても、この城の空気は、セレフィーナを見ている。
セレフィーナは、微笑む練習をやめた口元を、ほんのわずかに持ち上げた。
笑顔じゃない。社交用の“形”だ。
「大丈夫よ。噂はいつも、真実より先に走るものだから」
「……お嬢さまは、怖くないのですか」
怖い。
怖いに決まっている。
ただ、怖いと言ったところで、世界は何も変えてくれない。
セレフィーナは窓の外を見た。
冬の光が薄く、どこか遠い。
「怖い、って言うと……誰かが守ってくれるの?」
リリアの肩が小さく震えた。
「……いえ。そんなことは……」
「でしょう」
セレフィーナの声は静かで、氷のように温度を落としていく。
そうしないと、自分の中の脆いものが割れてしまうから。
「だから私は、怖いって言わない。言わないほうが、楽なの」
リリアが唇を噛む。
「お嬢さま……でも、せめて私にだけは……」
「リリア」
名を呼ぶだけで、彼女は黙った。
この世界では、名を呼ばれること自体が“命令”になる。
セレフィーナは封筒を胸の前に抱えた。
その紙の薄さが、逆に怖い。
こんな薄いものひとつで、人の立場も人生も変わる。
――婚約。
王太子クラウス・フォン・エーベルハイン。
民の前では“正しい王子”。演説はうまく、握手も完璧で、笑顔は誰の視線にも平等に見える。
裏でも、自分が正しいと思える道しか歩かない。だから厄介だ。
正しいと思い込んだ瞬間、彼は迷わない。迷わない人間は、誰かを踏む。
「お嬢さま、殿下が……」
廊下の向こうから、別の侍女が駆けてくる。声が震えている。
セレフィーナは視線を上げた。
そこに現れたのはクラウスだった。
淡い金の髪。整った顔立ち。瞳は澄んだ青で、晴れた日の空みたい――と言えば聞こえはいいけれど、実際は“曇りを許さない”青だ。
周囲の空気がぴんと張る。
侍従も侍女も、息の仕方を忘れたみたいに動きを止める。
王太子が通る廊下は、それだけで道になる。
「セレフィーナ」
彼は、セレフィーナの名を呼ぶ。
それは、甘い呼び方でも、親しい呼び方でもない。
“確認”みたいな声だ。存在を数えるみたいに。
「殿下」
セレフィーナは礼をする。動作は完璧。
完璧であるほど、心が遠い。
クラウスは立ち止まり、彼女を見た。
見た、というより“測った”。
「明後日の舞踏会、準備は整っているか」
「はい。招待状も、先ほど」
「そうか」
たったそれだけ。
会話の温度が、最低限の手続きみたいに乾いている。
それでも周囲は、二人が言葉を交わすだけで息をのむ。
“王太子と婚約者”。そこに愛があるかどうかなんて、誰も気にしない。
形式があれば、それが物語になる。
クラウスの視線が一瞬だけ、セレフィーナの口元に落ちた。
笑っていない。
彼はいつも、そこを気にする。
「……相変わらずだな」
「何が、ですか」
「感情が読めない」
言われ慣れている言葉。
冷たい、怖い、愛がない。
刺は浅いのに、同じ場所に刺さり続けて、そこだけ皮膚が薄くなる。
「私が笑わないのは、笑えないからです」
口にした瞬間、自分で驚いた。
言い訳みたいだ。説明みたいだ。
一番したくなかったこと。
クラウスは眉をひそめる。
彼は、理由が欲しいふりをして、結論を変えない。
「笑えない、か。王太子妃になる者が?」
「……」
「君は理解される努力をしない。僕は、国民の前で君を紹介する立場だ。誤解を招く」
“誤解”。
その言葉が、セレフィーナの胸を薄く切った。
誤解されないように、努力しろ。
そう言われて、努力した先に何がある?
理解される努力をした者が、必ず理解されるなら、前世の私は壊れていない。
セレフィーナは目を伏せた。
「承知いたしました」
クラウスは満足したように頷く。
自分の正しさが保たれると、彼は安心する。
「明後日、よろしく頼む」
そう言って、彼は去っていく。
侍従たちが一斉に道を作り、香水と蝋の匂いの上を、王太子の存在が滑るように遠ざかっていく。
残された廊下は、急に寒くなった。
リリアが小さく駆け寄る。
「お嬢さま……今の、殿下のお言葉……」
「気にしないで」
気にするな、は嘘だ。
気にするな、と言い聞かせないと、気にしてしまうから。
セレフィーナは招待状を見下ろした。
明後日の夜。舞踏会。発表。噂。
砂糖菓子みたいに甘い見た目のイベントほど、中身は冷たい。
この城の冬はいつもそうだ。
それでも、彼女は歩く。
静かに、滑らかに、立場の靴音を鳴らして。
期待しない。望まない。求めない。
そうすれば傷は浅い。浅い傷は、死なない。
――でも。
胸の奥で、ひどく小さな声がした。
「ほんとは、誰かに、分かってほしい」
言葉にした瞬間に消えてしまいそうな、息より軽い願い。
セレフィーナはその願いを握りつぶすように、招待状を指先で撫でる。
紙は柔らかいのに、金文字は刃物みたいだった。
そして彼女は知っている。
刃物はいつだって、笑顔の中で振るわれる。
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