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第5話 世界の外側へ
しおりを挟む宿場町を出てから、道はさらに細くなった。
雪の白が薄れ、代わりに土の色が増える。
森の木々は背を丸めて風を避け、川は氷の下で低く唸る。
王都の冬が“見せかけの甘さ”なら、こっちの冬はまっすぐだった。
冷たい。痛い。けれど、嘘がない。
馬車が丘を越えた瞬間、景色ががらりと変わった。
空が、広い。
王都では塔や屋根が視界を切り刻んでいたのに、ここでは空がそのまま、どこまでも続いている。
風も、まっすぐに吹く。
回りくどい噂みたいに絡みつかない。
ただ、頬を叩いて、通り過ぎる。
遠くに山が見えた。
黒い背中。雪を肩に乗せた巨人みたいで、黙ってこちらを見下ろしている。
怖いのに、なぜか安心する。
山は人を裁かない。
山はただ、そこにいる。
「お嬢さま……すごい」
隣でリリアが窓に顔を寄せて言った。
息でガラスが曇り、小さな円を描くように拭ってはまた曇らせる。
「王都と、ぜんぜん違う……」
「うん」
セレフィーナはそれだけ返した。
言葉をたくさん並べたら、この広さを汚してしまいそうで。
でも胸の奥では、何かがほどけていくのが分かった。
硬く結んでいた紐が、少しずつ緩んでいく。
馬車はゆっくりと下り坂を進み、谷を抜けた。
その先に、門が見えた。
高い石壁ではない。木と鉄で作られた、実用的な門。
上には紋章が掲げられている。剣と狼――辺境伯グランディス家の印。
護衛の兵士が小さく合図を出し、馬車が止まる。
門番が駆け寄ってきて、護衛と短く言葉を交わした。
「――王都より、セレフィーナ・アルヴェイン嬢をお預かりする」
その一言が、胸にちくりと刺さる。
預かり物。
荷物みたいな言い方。
セレフィーナは一瞬、息が詰まった。
でも次の瞬間、門が開き、風が一気に入り込んできた。
「ようこそ、辺境伯領へ」
その声は、低くて、乾いていた。
感情を飾らない声。
馬車の窓の外に、男が立っていた。
辺境伯ユリウス・グランディス。
背が高い。外套の肩幅が広く、剣を腰に下げている。
髪は黒に近い濃い茶。無造作に見えて、戦場帰りの癖が抜けていない。
目は――鋭い。
穏やかじゃない。優しくもない。
でも、嘘がない。
人は目で分かる。
嘘をつくときの目。
自分を正しく見せたいときの目。
王都の人間は大抵それだった。
ユリウスの目は違う。
ただ、現実を見ている目。
守るべきものと、守れなかったものを、ちゃんと抱えている目。
馬車の扉が開いた。冷たい空気が入り、セレフィーナの頬を刺す。
護衛が手を差し出すより先に、ユリウスが一歩近づいた。
「セレフィーナ嬢」
名を呼ばれる。
王都で呼ばれる名は、いつも“役割”だった。
婚約者。令嬢。氷の女。
でも彼の呼び方は、少し違う。
役割じゃなく、本人に向いている。
セレフィーナはゆっくり立ち上がり、裾を整え、外へ降りた。
雪の上に足が沈む。冷たい。けれど、足元がちゃんとある。
「……グランディス伯様」
「ユリウスでいい。形式は最低限でいい」
最低限。
それは、冷たい言葉にも聞こえるのに、セレフィーナは少しだけ楽になった。
最低限でいい、ということは、無理をしなくていい、ということだから。
ユリウスは一度だけ、深く頭を下げた。
「遠いところを。……無理をしないでください」
それだけ。
歓迎の演説もない。
哀れみの装飾もない。
「可哀想」「大丈夫?」の甘い毒もない。
セレフィーナは、その“何もない”ことに、胸がざわついた。
ざわつきは不安じゃない。
むしろ、慣れない安心だ。
リリアが後ろで息を呑む。
「……グランディス伯様、噂通り、怖い人かと思ってました……」
「声に出さない」
セレフィーナが小さく言うと、リリアは慌てて口を押さえた。
ユリウスは聞こえたのか聞こえていないのか分からない顔で、馬車の荷台を見た。
「荷物はこちらで運ぶ。あなた方は、手を温めて」
手を温めて。
そんな指示、初めて聞いた。
護衛たちが荷物を下ろし始める。
門番たちが黙々と手伝う。
誰も大袈裟にへりくだらない。
過剰に持ち上げない。
淡々としているのに、扱いが丁寧だ。
セレフィーナは、その丁寧さが不思議だった。
王都の丁寧さは、距離を作る丁寧さだった。
ここは、距離を詰めすぎない丁寧さ。
放っておかないけど、踏み込まない。
ユリウスが歩き出す。
「屋敷まで案内する。馬車で行けるが……歩けるか」
問いかけ。
命令じゃない。
「歩けます」
「なら、少し歩こう。馬車は後から来る」
雪を踏む音。きゅっ、きゅっと乾いた音。
空気が澄んでいて、音がよく響く。
遠くで狼が鳴いたような気がした。
気のせいかもしれない。
でも気のせいでいい。
ここはそういう場所だ。
「王都は……雪が綺麗だろう」
ユリウスがぽつりと言う。
唐突で、会話の始め方が下手。
でもその下手さが、妙に人間らしい。
「綺麗です。綺麗で、冷たいです」
セレフィーナが答えると、ユリウスは短く息を吐いた。
笑いではない。
でも否定でもない。
「ここも冷たい。だが、誤魔化しは少ない」
その言葉に、胸の奥で何かが頷いた。
誤魔化しが少ない。
それは、私が一番欲しかったものかもしれない。
屋敷が見えてきた。
想像していたより大きい。けれど、王都の貴族屋敷みたいに“見せびらかす大きさ”じゃない。
壁は厚く、窓は小さめで、風を通さない構造。
屋根には雪止め。
生きるための家だ。
門が開き、使用人たちが出迎える。
人数は多くない。
でも動きが揃っていて、無駄がない。
「セレフィーナ様、お部屋へご案内いたします」
執事――年若い男性が頭を下げる。
王都の執事のような冷たい完璧さではなく、現場の空気を吸っている感じの声。
名前はエドガーというらしい。
屋敷に入った瞬間、セレフィーナは息を止めた。
暖かい。
暖炉の火が複数箇所で燃えていて、廊下まで熱が届いている。
床は冷たくない。
壁には薬草が吊られ、ほんのりと清潔な香りが漂う。
ミントとラベンダーの中間みたいな、落ち着く匂い。
王都の香水の甘さと違って、鼻が疲れない。
「……整ってる」
思わず漏れた言葉に、リリアが頷きまくる。
「お嬢さま、ここ……すごいです。あったかい……!」
エドガーが少し誇らしげに言う。
「辺境は寒いので、屋敷の維持は生命線です。火が落ちると、人が落ちます」
言い方が、容赦ないほど現実。
でも現実は、優しい。
現実は、嘘をつかないから。
部屋に案内される。
扉を開けると、ベッドがある。
寝具が柔らかい。
枕が高すぎない。
窓辺には厚手のカーテン。
暖炉がすでに燃えている。
「……準備してたの?」
セレフィーナが思わず言うと、エドガーが頷いた。
「辺境伯様の指示です。『無理をさせるな』と」
ユリウスの顔が脳裏に浮かぶ。
穏やかじゃない目。
でも嘘のない目。
無理をさせるな。
その一言が、セレフィーナの胸を少しだけ温めた。
荷物を置き、リリアが手早く身の回りを整える。
セレフィーナは暖炉の前に立ち、火を見つめた。
火の音がぱちぱち鳴る。
その音が、心臓の音と重なる。
――ここは、本当に追放先なの?
ふと、怖くなる。
優しさに慣れたら、また失う。
この暖かさも、いつか奪われる。
王都はそうだった。
前世もそうだった。
夕方。
部屋にユリウスが訪れた。
ノックは短く、躊躇いがない。
「入る」
「どうぞ」
ユリウスは部屋に入り、暖炉の火を一度だけ確かめる。
火があるか。温度は足りるか。
確認の仕方が、兵士のそれだった。
守るべき対象がいる人間の動き。
「部屋は問題ないか」
「……はい」
セレフィーナは少し迷ってから、言った。
言わないほうが楽なのに。
でも、ここで言わなかったら、この場所の意味がなくなる気がした。
「……私、追放されたのよ」
声が小さかった。
火の音に溶けて消えそうだった。
それでも言ってしまった。
自分がどんな立場でここに来たのか、確認したかった。
自分の傷を、傷として置いておきたかった。
ユリウスは、首を振った。
否定の仕方が乱暴じゃない。
静かで、確実だ。
「ここでは、そういうラベルは役に立たない」
ラベル。
王都で彼女を縛っていた言葉。
冷たい令嬢。愛なき氷。追放者。哀れな女。
「役に立たない、って……」
ユリウスは目を細める。
その目に、やっと少しだけ柔らかさが混じる。
柔らかさというより、理解しようとする影。
「あなたはあなたでいい。……それだけだ」
それだけ。
たったそれだけなのに、セレフィーナの胸の奥が震えた。
涙が出そうになって、慌てて瞬きをする。
泣いたら終わる気がする。
でもここなら、泣いても終わらないのかもしれない。
その可能性が、怖い。
ユリウスは咳払いをした。
気まずいのかもしれない。
彼はたぶん、人の感情の扱いが得意じゃない。
「夕食は食べられるか。無理なら、スープだけでも」
「……食べます」
「そうか」
それだけ言って、ユリウスは去った。
長居しない。
踏み込まない。
でも放っておかない。
扉が閉まった後、リリアが小さく息を吐いた。
「……お嬢さま。辺境伯様……優しいですね」
「優しい、というより……不器用」
「それ、優しさですよ」
リリアの言葉に、セレフィーナは笑いそうになった。
笑うのが怖いのに、笑いが喉の奥でくすぐる。
夕食は質素だけど、温かかった。
肉の煮込み。根菜。黒パン。
食べると、体が“生きる”方へ寄っていくのが分かる。
王都では、生きることより“見られること”が優先だった。
ここは、生きることが優先だ。
夜。
部屋に戻ると、寝具は柔らかく、暖炉の火は弱められていた。
薬草の香りが、ふっと鼻をくすぐる。
落ち着く匂い。
眠ってもいい匂い。
セレフィーナはベッドに横になった。
毛布が重くて、心地いい。
重さが、身体を地面に繋ぎとめてくれる。
――眠れるかな。
そう思った瞬間、意識が沈み始めた。
抵抗する暇もない。
久しぶりだ。
こんなふうに、眠りに引きずり込まれるのは。
まぶたが落ちる。
暖炉の火が遠くなる。
リリアが何か言った気がする。
でも言葉は水の中みたいにぼやけた。
眠りの底で、予感が揺れる。
世界が、彼女にだけ寄り添い始めた理由。
まだ名前のない、輪郭のない感覚。
それは恐ろしくて、でも少しだけ甘い。
砂糖菓子みたいな甘さじゃない。
火のそばで飲むスープみたいな、じんわりした甘さ。
セレフィーナは、深く眠った。
夢の中で、黒い山が黙って見守っていた。
風はまっすぐで、空は広くて、
世界の外側は――思ったより、あたたかかった。
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