転生してきた令嬢、婚約破棄されたけど、冷酷だった世界が私にだけ優しすぎる話

タマ マコト

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第7話 泥だらけの笑顔

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領内視察の日は、朝から風が強かった。
窓の外で枝が鳴り、空の雲がちぎれて流れる。
王都なら「天候が悪いので延期」とか言い出しそうな日だ。けれど辺境は、天気の都合で生活を止められない。

「お嬢さま、今日はこれ着ましょう。絶対寒いです」

リリアが持ってきたのは、厚手の外套と毛皮の襟巻き。
王都の貴族外套みたいに“美しさ優先”じゃない。とにかく暖かそう。

「……重い」

「重いのは暖かいです、勝ちます。寒いのは負けです」

リリアの言い切りが妙に頼もしくて、セレフィーナは小さく笑いそうになった。
笑いそうになるのが怖いのに、怖いより先に“面白い”が来る。
その順番が、今の自分には新鮮だった。

屋敷の前庭には馬が並んでいた。
毛並みのいい栗毛。鼻息が白い。蹄で地面を踏み、落ち着かない様子で首を振る。

ユリウスはすでに馬のそばに立っていた。
外套の裾が風に揺れ、彼の髪が少し乱れる。
王都の男たちみたいに髪型を崩さない努力はしない。
崩れても、崩れたまま立っていられる強さがある。

「乗れるか」

いきなり核心。
優しい前置きがない。

セレフィーナは一瞬だけ固まった。
貴族令嬢が馬に乗るのは、王都では“優雅な遊び”としてならある。
でも今日は遊びじゃない。生活の足としての馬。
上手く乗れなかったら、足手まといになる。

「……乗ったことはあります」

「じゃあ大丈夫だ」

ユリウスはそれ以上言わない。
できる、という前提で扱う。
期待ではなく、信頼に近い扱い。

セレフィーナは馬の鐙に足をかけ、身体を引き上げた。
揺れる。視界が一段上がる。
王都の馬場で乗ったときは、周りの視線が怖かった。
失敗したら笑われる、という怖さ。
でもここは違う。
失敗したら転ぶ、という現実の怖さだ。
現実の怖さは、対処ができる。

「お嬢さま、手綱、きつく握らないで。肩、上がってます」

リリアが言いながら、自分も馬に乗る。
侍女なのに、彼女のほうが手慣れている。
王都でこっそり練習していたのかもしれない。
お嬢さまを守るために。
そう思うと、胸がじんとする。

ユリウスが合図を出し、一行は屋敷を出た。
馬の背は想像以上に揺れる。
風が頬を切り、目が乾く。
でも、胸の奥に妙な高揚感があった。
“前に進んでいる”という実感。
王都では、足は動いても人生は同じ場所に縛られていた。

最初の村に着く。
木造の家が並び、煙突から白い煙が上がる。
雪は踏み固められ、泥が混じっている。
綺麗じゃない。
でも、生きている。

「おーい! 伯爵さまじゃん!」

少年たちが走ってきて、泥を跳ね上げる。
髪はボサボサ、頬は赤く、鼻水すらそのまま。
それなのに笑顔は、太陽みたいに眩しい。

「ユリウスさま、来たの?」

女たちが桶を持ったまま手を止める。
老人が杖をついて出てくる。
誰も頭を下げて畏まらない。
礼儀がないわけじゃない。
距離が近いのだ。

ユリウスは馬上から短く言う。
「様子を見に来た。……冬は持ちこたえてるか」

「なんとかねぇ。薪がきついけど、去年よりマシだよ」

返事が軽い。
軽いのに、そこに生活の重さがある。
王都の会話は軽いのに空虚だった。
ここは軽いのに、ちゃんと根が生えている。

セレフィーナは、馬から降りた。
足が少しふらつく。
リリアがすぐに支える。

「大丈夫ですか?」

「……うん。揺れの余韻が残ってるだけ」

村人たちの視線がセレフィーナに向く。
王都なら、ここで“品定め”が始まる。
どんな服か、どんな顔か、どんな噂か。
でも村人の視線は、別物だった。

「……誰だい? 綺麗な子だね」

女が言う。
その言い方が、評価じゃなく観察だ。
人を見ている。

ユリウスが短く答える。
「セレフィーナ嬢だ。しばらくここに滞在する」

村人たちは一瞬だけ静まり、すぐに頷いた。

「そうかい。寒いだろ。中、あったかいよ」
「飯、食ってくか?」
「手ぇ冷たいだろ、火にあたれ」

セレフィーナは戸惑う。
“追放された令嬢”という噂が先に回っていたら、石みたいに冷たい視線を浴びるはずなのに。
ここでは、そういう物語がまだ届いていないのか。
それとも届いても、どうでもいいのか。

ユリウスが小さく顎で示す。
「毛布」

護衛が荷袋から毛布を取り出し、セレフィーナの腕に渡す。
昨夜、彼女が自分から言ったわけでもないのに用意されていた。
ユリウスは、言葉にしない優しさが多い。
それがむしろ、刺さるほど嬉しい。

セレフィーナは毛布を抱え、老人の方へ歩いた。
老人は肩をすぼめ、手を擦っている。
寒さで関節が痛むのだろう。目尻が深い皺で刻まれている。

「……これ、使ってください」

セレフィーナが差し出すと、老人は「おう」と言って受け取った。
過剰な感謝はない。
泣いて拝むような反応もない。
ただ、当たり前みたいに。

「助かるよ」

それだけ。
それだけなのに、セレフィーナの胸がくすぐったくなる。
くすぐったいのに、痛い。
痛いのに、暖かい。

王都なら「ありがたき幸せ」と大げさに言われるか、
あるいは「当然」と見下されるか。
どちらにしても“立場”が先に来る。
ここでは、“人”が先に来る。

セレフィーナは自分でも気づかないうちに、小さく頷いていた。
「……よかった」

その言葉が自然に出たことに、彼女自身が驚く。
“よかった”なんて、王都では言う必要がなかった。
相手のためじゃなく、世界のために動く場所だったから。

村の奥では子どもたちが走り回っている。
泥だらけで、転んで、笑って、また走る。
その生命力が眩しい。
自分が遠い昔に置き忘れたものみたいで、胸がきゅっと締まる。

次の村へ。
馬に揺られ、森を抜け、川を渡る。
視察は続く。

村によって表情が違う。
ある村は薪が足りず、家の中まで寒い。
ある村は食糧の備蓄が薄く、子どもの頬がこけている。
ある村は医師が来ず、薬草だけで冬を越そうとしている。

セレフィーナは帳簿の数字が、今は顔になって見えることに気づいた。
“死者三名”が、ただの文字じゃなくなっていく。
それが怖い。
怖いけれど、目を逸らしたくなかった。
ユリウスに言われた“見る”という行為が、今の彼女を支えている。

夕方、空が紫に染まり始めたころ、一行は森の端で野営をすることになった。
屋敷まで戻るには遠い。
辺境ではこういう判断が当たり前にされる。
王都なら「危険だ」と騒ぎ立て、責任の所在を探して終わるところだ。

焚き火が起こされる。
薪がぱちぱちと爆ぜ、火の粉が夜へ飛ぶ。
肉が焼ける匂い。湯が沸く音。
護衛たちが無駄なく動き、リリアも手伝う。
セレフィーナは火のそばに座り、手をかざした。

火は、優しい。
ただ暖かいだけで、何も要求しない。

「疲れたか」

隣にユリウスが腰を下ろした。
彼も火に手をかざす。
火の光が彼の横顔を照らし、戦場の影を落とす。
目の下の薄い影。頬の小さな傷。
近くで見ると、彼は想像以上に“削れている”。

「……少し」

セレフィーナが答えると、ユリウスは「そうか」とだけ言った。
それ以上、慰めない。
慰めの言葉は、ときに相手を弱者にする。
彼はそれを本能的に避けている気がした。

沈黙が落ちる。
焚き火の音だけが響く。
でもその沈黙は、王都の沈黙と違う。
王都の沈黙は、詰問の前の沈黙だった。
ここは、ただ“言わなくていい”沈黙だ。

セレフィーナが火を見つめていると、ユリウスがぽつりと言った。

「戦場では、泣く余裕がない」

セレフィーナの指先が止まる。
不意打ちの言葉だった。

ユリウスは火を見たまま続ける。
「泣いたら死ぬ。泣いてる間に仲間が死ぬ。……だから、泣かない。泣けない」

彼の声は低く、乾いている。
でも、乾いている分だけ重い。

「あなたの沈黙は、それに似ている」

その一言で、セレフィーナの胸の奥が凍った。
理解された。
理解されるって、こんなに怖いのかと思った。
心の奥まで見られそうで、逃げ場がなくなる感じ。

「……似てない」

反射的に言い返してしまった。
否定。拒絶。
怖いから。

ユリウスはセレフィーナを見ない。
見ないことで、彼女の逃げ道を残す。
その優しさが、さらに怖い。

「似てるよ」

短い言葉。
でも強い。
戦場の男の確信。

セレフィーナは喉が詰まって、言葉が出ない。
沈黙が、自分を守ってきた。
沈黙は鎧だった。
鎧の内側を見られたら、私は何で立っていればいい?

「私の沈黙は……」

声が震える。
焚き火の音に飲まれそうな声。

「私の沈黙は、ただ……怖いだけ。泣いたら嫌われる気がして。怒ったら捨てられる気がして。だから、何も言わないだけ」

言ってしまった。
言ってしまったことに、今さら気づく。
こんな言葉、誰にも言ったことがない。
前世でも。今世でも。

ユリウスは、そこで初めてセレフィーナの方を見た。
目が合う。
彼の目は穏やかじゃない。
でも嘘がない。
そして、哀れみもない。

「怖いのは、同じだ」

ユリウスは言う。
「戦場でも、怖い。……怖いから、泣けない。泣く余裕がないって言ったが、正確には……泣くと壊れる」

その言葉が、セレフィーナの胸を撃った。
泣くと壊れる。
それは、彼女が舞踏会の夜に思ったことと同じだ。
泣いたら終わる気がする。

セレフィーナは息を吸った。
冷たい夜気が肺に入る。
涙が出そうで、出たらどうしようと思う。
出たら、壊れる?
それとも、壊れた殻が落ちて、もっと楽になる?

分からない。
分からないことが、怖い。
でも、怖いのに目を逸らしたくない。

「……ユリウス様は、泣いたことある?」

セレフィーナが小さく聞くと、ユリウスは少しだけ目を伏せた。
火の光がまつげに影を作る。

「ある。……戦場の外で」

「……それは、いつ?」

「帰ってきた夜。……誰もいない部屋で」

その答えが、あまりに生々しくて、セレフィーナの胸が痛んだ。
英雄でも、伯爵でも、結局は一人で泣く。
泣く姿を見せる場所がない。
それは、彼女と似ている。

沈黙がまた落ちる。
でも今度の沈黙は、少しだけ柔らかかった。
焚き火の熱が二人の間を温め、言葉の代わりになっている。

リリアが少し離れたところからこちらを見ている。
心配そうに。
でも今は来ない。
来ないでくれることが、ありがたい。

ユリウスが最後に言った。

「俺は、あなたを“冷たい”とは思わない」

セレフィーナの胸が、きゅっと縮む。
王都で何度も投げられた言葉が、ここでは否定される。
でも否定されると、逆に自分のアイデンティティが揺らぐ。
冷たい令嬢として生きてきたから。
それが唯一の防御だったから。

「……じゃあ、私は何」

ユリウスは少し困った顔をした。
本当に困った顔。
戦場で剣を振るう男が、言葉の前で困る。
そのギャップが、妙に人間らしい。

「……強い人だ」

「強くない」

「強い。……強くないなら、もう壊れている」

その言い方が、乱暴で、優しかった。
壊れていない。
生きている。
それだけで強い、と言われた気がした。

セレフィーナは火を見つめた。
火の向こうで、闇が揺れる。
闇は怖い。
でも火があるから、闇を全部怖がらなくていい。

沈黙を理解されるって、こんなに怖い。
心の奥まで見られそうで、裸にされるみたいで。
でも同時に、理解されるって、こんなに温かいのかとも思った。
温かいからこそ、怖い。
温かいものを失うのが、怖い。

セレフィーナは、焚き火の熱を両手で抱え込むようにして言った。

「……今日、村の人たちが、私を“人”として扱ってくれた。嬉しかった。でも、それが怖かった」

ユリウスは頷く。
「分かる」

分かる。
その短い返事が、世界のどんな慰めより効いた。

夜が深まる。
星が増え、風が少し静まる。
セレフィーナは毛布にくるまりながら、眠気が来るのを感じた。

王都の眠気は、疲労で殴られて倒れる眠気だった。
ここは、火のそばで自然に落ちる眠気。

眠りに落ちる直前、セレフィーナは思った。
沈黙は、鎧だった。
でも鎧は、いつか重くなる。
誰かがその重さを理解してくれるなら、鎧を少しだけ脱いでもいいのかもしれない。

焚き火の音が、遠くなる。
泥だらけの子どもたちの笑い声が、夢みたいに残る。
そしてユリウスの言葉が、胸の奥で静かに燃え続けた。

――あなたの沈黙は、それに似ている。
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