転生してきた令嬢、婚約破棄されたけど、冷酷だった世界が私にだけ優しすぎる話

タマ マコト

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第16話 燃える書状、残る呼吸

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その日、辺境の空は妙に高かった。
雲が薄く、風が乾いていて、木々の枝先がきしむ音だけが遠くに響く。
穏やかなはずの午後なのに、屋敷の中だけがざわついていた。

「王都より、公式の布告が届きました」

エドガーが持ってきた筒は、いつもの封書より重そうに見えた。
紙の重さじゃない。
言葉の重さ。
“国”を背負ってくる言葉の重さ。

封蝋は王家の紋章、金。
その金は、今のセレフィーナには光ではなく、錆びた鎖みたいに見えた。

食堂の暖炉は燃えている。
スープも湯気を立てている。
でも指先が冷える。
王都の匂いは紙に染みる。
手に取る前から、息が浅くなる。

リリアが唇を噛む。
「お嬢さま……読むんですか」

読まなければ、王都は“読まなかった”を罪にする。
読めば、王都は“受け取った”を利用する。
どちらにしても鎖。
だからセレフィーナは、自分のために読むことにした。

「読む。……私が、私のために」

そう言って筒を受け取り、封を切った。
紙が擦れる音が、やけに大きく聞こえる。
文字は丁寧で、形式は完璧で、句読点まで品がいい。
王都の文章は、いつもこうだ。
きれいな字で、人を殺す。

セレフィーナは音読しない。
目で追うだけで、胸が冷えるから。

『――王国は現下の国難を厳粛に受け止め、国民の安寧のため、ここに宣言する。
 セレフィーナ・アルヴェインの帰還なくして、国難は乗り越えられない。
 国の安定と民の救済のため、当該人物は速やかに王都へ戻り、必要な協力を行うこと。
 これを拒む場合、国民の不安を増大させ、国政を混乱させた責を免れない――』

宣言。
国民の安寧。
民の救済。
責を免れない。

丁寧な言葉の中に、命令と脅しが混ざっている。
優しさの顔をした、硬い手。
王都がやり慣れているやつ。

セレフィーナは紙を持つ手が震えるのを感じた。
怒りじゃない。
怒りなら熱が出る。声が出る。
これは、虚しさだ。
氷みたいに体温を奪っていく虚しさ。

――国の総意。
そう見せたいだけ。
本質は責任転嫁。

“彼女が戻らないから苦しい”という物語を作れば、
自分たちが婚約破棄し、追放し、噂で叩き、脅してきた罪が薄まる。
彼女は原因。
原因がいれば、彼らは無罪。
いつもの結論。
いつもの逃げ。

セレフィーナは紙の一番下まで目を滑らせ、そこで視線を止めた。
署名が並んでいる。
王家、大神殿、貴族評議会。
一枚の紙に、権威がぎゅうぎゅうに詰まっている。

“皆”の顔をした暴力。
彼女の心は、その“皆”のどこにもいない。

セレフィーナは息を吐こうとして、吐けなかった。
喉の奥が固まっている。
言葉が出ない。

「……結局、私を人として見てない」

やっと出た声は、びっくりするほど小さかった。
小さいのに、食堂の空気を切った。
暖炉の火がぱちりと鳴る。

リリアが泣きそうな顔で首を振る。
「そんな……そんなの、お嬢さま……」

セレフィーナは笑えなかった。
泣けもしなかった。
ただ、虚しかった。

前世もそうだった。
「君がやらないと皆が困る」
「みんなのために」
そう言って人を動かし、壊れたら知らん顔。
壊れた人間の代わりはいくらでもいると、目が言っていた。

今世も同じ。
立場が違うだけで、手口は同じ。
王都は、言葉で人を道具にする。

ユリウスが書状を無言で受け取った。
彼は一度だけ目を通し、眉ひとつ動かさない。
その無表情が怖いほど静かだ。
怒りは燃えているのに、表に出さない怒り。

「……燃やす」

ユリウスはそれだけ言った。

「え」

リリアが声を漏らす。
セレフィーナも瞬きをした。
燃やす?
国の布告を?
そんなこと、王都なら首が飛ぶ。

でもここは辺境だ。
辺境は、首が飛ぶ前に生きる。
生きるために、余計な鎖を切る。

ユリウスは暖炉の前へ歩き、火箸で薪を少し動かした。
赤い火がふわりと息をする。
火が大きくなる。
まるで“来い”と手招きするみたいに。

ユリウスは書状を、迷いなく火に投げ入れた。

紙が一瞬、白く光る。
次の瞬間、赤い縁が走る。
火は文字を舐め、署名を食べ、権威を黒い灰に変えていく。
紙が縮む音がする。
ぱちぱちと、乾いた音。
きれいな字が、焦げて歪む。
“国の総意”が、ただの燃料になる。

火は赤く、紙は黒くなる。
そして黒は灰になり、灰は軽い。
あれほど重かった言葉が、こんなに軽い。

セレフィーナはその光景を見て、胸の奥の凍りが少しだけ割れた。
割れたところから、息が入る。

ユリウスが火を見つめたまま言う。
「見てないなら、見せる必要もない」

短い言葉。
でも剣より鋭い。
斬るのは相手じゃない。
彼女を縛る鎖だ。

セレフィーナは、喉の奥が熱くなるのを感じた。
涙が出そうで、出ない。
出ないけど、目が痛い。
痛みは、虚しさが溶け始めている証拠かもしれない。

「……でも」

言葉が、やっと出た。
「王都はきっと、これで終わらない」

ユリウスは火から目を離さず、淡々と言う。
「終わらせないだろうな。……だから終わらせる準備をする」

終わらせる準備。
戦場の言葉だ。
先手を取る言葉。
逃げるためじゃなく、守るための言葉。

リリアが必死に言う。
「お嬢さま、怖いですよね……。でも、ここにいていいんです。ここに――」

「うん」

セレフィーナは頷いた。
怖い。
怖いのに、ここにいたい。
ここで息をしたい。
その望みが、前よりはっきりしている。

燃え尽きた書状は、灰になって暖炉の底に落ちた。
灰は風が吹けば散る。
権威は、散る。
散って、土になる。
土は、芽を育てる。

セレフィーナはふと、思った。
自分の加護が“調律”なら、
王都の歪みはどれほど大きいのだろう。
そして、自分はそれを整える責任があるのだろうか。

“皆が救われる”
あの言葉の中に、自分は入っていない。
入っていないなら、救う義務もない。
それが分かっているのに、胸の奥が少しだけ痛むのは――
自分がもう、“誰か”を顔として見てしまったからだ。
数字ではなく、噂ではなく。
人を。

その痛みが、王都の鎖に似てしまうのが怖い。
でもユリウスが、そこに線を引く。

「セレフィーナ」

名前を呼ばれる。
役割ではなく、本人の名。

「ここで生きろ。王都の言葉に、呼吸を奪われるな」

セレフィーナは目を閉じて、息を吸った。
薬草の香り。
薪の匂い。
森の冷たい匂い。
辺境の匂い。

「……うん。奪わせない」

答える声が、少しだけ強い。
強いと言っても、叫びじゃない。
静かな強さ。
土の中で根を張る強さ。

ユリウスは頷いた。
そして、火の前から少し離れ、椅子に戻る。
何もなかったみたいにスープを口に運ぶ。
その“普通”が、救いになる。
王都なら、ここで大事件になる。
でも辺境は、必要なことをして、食事を続ける。
生きることを止めない。

セレフィーナは、暖炉の火を見つめた。
赤い火が、静かに揺れる。
燃えた紙の灰が、薄く光る。
あれほど彼女を縛っていた言葉が、ただの灰になった。

虚しさはまだ残っている。
でもその虚しさの中に、確かな呼吸がある。
呼吸がある限り、彼女は選べる。

――結局、私を人として見てない。
なら、もう見せない。
見られるために生きない。
必要と言われるために動かない。

セレフィーナは、スプーンを握り直し、温かいスープを口に運んだ。
喉を通る熱が、胸の奥へ落ちる。

燃える書状の赤は、
彼女の中の何かを焼き払い、
その代わりに、戻らないと決めた呼吸を残していった。
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