転生してきた令嬢、婚約破棄されたけど、冷酷だった世界が私にだけ優しすぎる話

タマ マコト

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第18話 必要という言葉の刃

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王都から、クラウス本人が来た。
雪を踏みしめて。
護衛を連れて。
“正しい王子”の衣装をまとったまま、辺境の現実の中へ。

知らせが入ったのは昼前だった。
エドガーがいつもより速い足取りで食堂へ来て、声を落とす。

「だんな様。王都より――王太子殿下が到着されました。屋敷の門前に」

その瞬間、スプーンが皿に触れて、かすかな音がした。
セレフィーナの指先が冷える。
あの金色の空気が、ここまで来た。
胸の奥で、古い傷がかさぶたごと動く。

リリアが顔を青くする。
「殿下が……本人で……?」

ユリウスは立ち上がった。
立ち上がり方が、戦場のそれだ。
急がない。けれど、逃がさない。

「通すな」

エドガーが一瞬、息を呑む。
王太子を門前で止める――それは王都の常識なら死刑だ。
でもユリウスは、王都の常識で生きていない。

「……しかし、王太子殿下は正式な訪問として――」

「正式なら、正式に通告しろ。……今日は通さない」

ユリウスの言葉は短い。
短いのに、重い。
セレフィーナはそれを聞いて、胸が少しだけ楽になった。
でも同時に、逃げたい自分と、見届けたい自分が胸の中でぶつかる。

逃げたら、また“悪役の椅子”に座らされる。
見届けたら、また傷が開くかもしれない。
そのどちらも怖い。

セレフィーナは自分の掌を握りしめた。
掌には、疫病の村の熱の記憶が残っている。
泉の冷たさも残っている。
鹿の涙も残っている。

「……会う」

言葉は小さかったが、ユリウスには届いた。

ユリウスが一瞬だけこちらを見る。
目が言っている。
“本気か”と。
でも確認だけで、止めない。
止めるのは王都のやり方だ。
ユリウスは、選ばせる。

セレフィーナは頷いた。
「私が決める。……私の選択」

ユリウスの目がわずかに細くなる。
「……分かった。だが、俺がいる」

その言葉が背中の骨になる。
怖さが消えるわけじゃない。
でも立てる。

応接間へ向かう廊下は、いつもより長く感じた。
薬草の香りが薄く感じる。
心が王都へ引っ張られそうになる。
でも、足音が二つある。
セレフィーナの足音と、ユリウスの足音。
それが今の世界のリズムだ。

門の前庭は、雪がまだらに残っていた。
そこに、王都の一団が立っている。

クラウス・フォン・エーベルハイン。
王太子。
髪は整えられ、外套は上質で、金の刺繍が光る。
護衛たちも揃いの装備。
一目で分かる“格”。

でも、辺境の道は格を選ばない。
靴の先が泥で汚れている。
外套の裾に跳ねた黒い点。
あの衣装は高価でも、現実の泥がつく。
それが、妙に滑稽で――そして、妙に安心した。

現実は身分を選ばない。
王都の舞踏会では、現実は床の下に隠されていた。
ここでは隠せない。

クラウスは門の前で、まっすぐセレフィーナを見た。
距離はあるのに、視線だけが先に届く。
あの夜と同じ視線。
評価の視線。
正しさの視線。

でも今日は、その視線に揺れがある。
完璧な自己肯定の光が、薄く濁っている。

セレフィーナは、その濁りを見てしまった。
人の濁りは、弱さだ。
弱さは、利用される。
王都の彼は弱さを見せない人だった。
なのに今、弱さが見える。

クラウスが一歩前へ出る。
雪を踏む音が、きゅっと鳴る。
護衛が制止しかけるが、彼は手で止めた。

「……セレフィーナ」

呼び方が、昔のままだ。
婚約者を呼ぶ声。
所有の残り香がする声。

セレフィーナは息を吸った。
冷たい空気が肺を洗う。
辺境の空気が、彼女の中の震えを現実に繋ぎとめる。

「お久しぶりです、殿下」

敬語。
距離を作るための敬語。
敬語は刃にもなる。
王都では敬語は鎖だった。
今は盾だ。

クラウスの喉が動いた。
言葉が詰まる。
彼は、想像していたセレフィーナを見つけられなかったのだろう。

痩せていない。
弱っていない。
むしろ、目に光がある。
生きている光。
誰かに見せるためじゃない、自分の呼吸の光。

クラウスは、その光に打たれて黙った。
黙るのは珍しい。
彼は演説で黙らない男だ。
黙らないことで正しさを作ってきた男だ。

「……戻ってくれ」

やっと出た言葉が、それだった。
そして続ける。

「君が必要だ」

必要。
その二文字が、セレフィーナの胸を最も傷つけた。

熱ではなく、冷え。
鋭い冷えが胸に刺さって、息を奪う。
必要とされることは、救いだと信じていた。
前世の自分は、それを求めて壊れた。
今世の王都でも、必要とされない女は簡単に捨てられた。

だから“必要”は、愛の代わりにならないと知っている。
必要は便利な言葉だ。
必要は、道具を呼ぶ言葉だ。

セレフィーナは一歩も動かなかった。
動けなかったわけじゃない。
動かないと決めた。

「私が欲しかったのは、必要とされることじゃない」

声は震えていた。
でも、震えは弱さじゃない。
生きている証だ。

「理解されたかっただけ」

その言葉は、胸の奥にずっとしまっていた。
王都で言ったら笑われると思っていた。
理解なんて甘えだと切り捨てられると思っていた。

でも今は言える。
ここには、理解の土台があるから。

クラウスの顔が歪む。
理解したいのに、理解できない顔。
自分が与えられると思っていたものが、実は与えられていなかったと知った顔。

「……僕は」

クラウスは一歩、さらに近づこうとして止まった。
ユリウスが、間に入ったからだ。

ユリウスは剣に触れない。
触れずに、立つ。
その立ち方が一番怖い。

「ここは辺境伯領だ。許可なく踏み込むな」

クラウスは唇を噛む。
王太子としてのプライドが疼く。
でも泥が靴を汚している。
現実が、彼のプライドを冷やす。

クラウスは、突然、膝を折った。
雪の上に。
高価な外套が汚れる。
護衛がざわつく。
王都なら、ありえない光景。

「……セレフィーナ。すまなかった」

謝罪。
形は謝罪。
でもセレフィーナは分かる。
謝罪の奥に、“取り戻す”がいる。
彼はまだ、彼女を取り戻せば自分の正しさも取り戻せると思っている。
依存が、謝罪の皮を被っている。

「僕は……君を傷つけた。あの夜の拍手が、正しいと思っていた。……でも違った」

クラウスの声が震える。
震えが本物か演技か、セレフィーナには分からない。
分からないけれど、分かってしまうことがある。

彼は今も、“自分がどう見えるか”を気にしている。
謝っている自分。
悔いている自分。
それを彼自身が見て、救われようとしている。

「戻ってくれ。君がいないと、国が――」

また必要。
また国。
また“皆”。

セレフィーナは目を閉じた。
虚しさが、胸の奥で波になる。
王都の言葉はいつも同じ場所を踏む。
彼女の心を踏まない場所を選んで踏む。
だから安全に踏めるのだ。
彼女の心は、最初から数に入っていないから。

目を開けると、クラウスが膝をついたまま見上げている。
その姿は惨めで、でも同時に、少しだけ人間に見えた。
人間に見えることが、怖い。
情が動くから。
情が動くと、また鎖が生まれるから。

セレフィーナは、自分の声を整えた。
調律するみたいに。
心の乱れを、正しい位置に戻すみたいに。

「殿下。私はここで生きています」

それは宣言。
そして境界線。

「私を必要と言うなら、また道具にしようとしているだけです」

クラウスの瞳が揺れる。
否定したい。
でも否定すると、矛盾が露わになる。

「違う……! 僕は――」

セレフィーナは静かに首を振った。
「違わない。少なくとも、私にはそう聞こえる。……私は、もうそれに戻れない」

ユリウスが淡々と告げる。
「帰らない。彼女の選択だ」

短い。
それだけで、場が決まる。
剣よりも強い線が引かれる。

クラウスは膝をついたまま、雪を握りしめた。
白い雪が、指の熱で少し溶けて黒い泥と混ざる。
現実が、手のひらに残る。

「……セレフィーナ」

彼は彼女の名を呼ぶ。
その呼び方から、所有の匂いが薄くなる。
でも、まだ消えない。

セレフィーナは答えなかった。
答えられなかったのではない。
答えたら、王都の物語がまた始まる気がしたから。
彼女の沈黙は、拒絶ではなく、自分を守るための境界線だ。

そして不思議なことに。
この沈黙は、昔の沈黙と違った。
諦めの沈黙ではない。
選択の沈黙だ。

クラウスがゆっくり立ち上がる。
膝の雪を払う。
高価な衣装は、もう完璧ではない。
完璧ではない姿が、彼を少しだけ現実に引き戻す。

「……分かった、とは言えない」

クラウスはかすれた声で言った。
正直だ。
正直さが、遅すぎる。

「でも……僕は、もう一度来る。君に――」

ユリウスが遮る。
「来るな。次は通さない」

クラウスは唇を噛み、護衛に視線を送った。
護衛たちは戸惑いながらも、隊列を整える。
王太子は引く。
引くことが、今日は敗北に見えた。

でも、セレフィーナは思う。
敗北でもいい。
王都の勝ち負けに、自分の人生を乗せない。

クラウスが去っていく背中は、雪の中で少し小さく見えた。
王都の塔の下では大きく見える背中が、ここではただの一人の背中になる。

セレフィーナは胸に手を当てた。
痛い。
必要という言葉の刃が刺さったまま。
でも、その刃に慣れない。
慣れない自分がいる。
それは、ここで心が生き返った証拠だ。

ユリウスが隣で短く言った。
「よく耐えた」

「耐えた、というより……選んだ」

セレフィーナが答えると、ユリウスは一拍置いて頷く。
「……そうだな」

その返事が、彼女の中の震えを正しい位置に戻す。
世界はまだ揺れている。
王都はまだ燃えている。
でも彼女の足元は、ここにある。

そして彼女はもう知っている。
“必要”という言葉に縛られない生き方があることを。
理解されるために、まず自分を理解していいことを。
その土台の上で、彼女は今日も息をする。
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