転生してきた令嬢、婚約破棄されたけど、冷酷だった世界が私にだけ優しすぎる話

タマ マコト

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第19話 雪の音と、自分の涙

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夜の辺境は、静かすぎて怖い。
音が少ないぶん、自分の心の音が大きくなる。
雪が光を吸い込んで、世界を白い無音にしてしまうから。

セレフィーナは、屋敷を抜け出した。
誰にも言わずに。
言えば止められる。止められたら、息が詰まる。
今夜は、止められずに沈みたかった。

外套を深く羽織り、冷たい空気を吸う。
鼻の奥がつんと痛む。
息は白い。
白い息が闇に溶けて、消える。
まるで、自分の存在も消えそうで――それが妙に落ち着く。

森へ向かう道は、昼よりも黒い。
枝の影が重なって、空の星さえ細くなる。
雪の上を歩く音が、きゅっ、きゅっと鳴る。
その音が、自分の心音みたいに響いた。

きゅっ。
きゅっ。
止まらない。
心は止まらない。
だから、考えも止まらない。

クラウスの「必要だ」という声が、まだ耳の奥に残っている。
王都の布告の文体が、喉の裏に貼りついている。
燃えたはずの書状の灰が、脳の隅で舞っている。

――戻らなければ、多くの人が苦しむかもしれない。

その言葉が、胸の奥で膨らむ。
罪悪感は、息を吸うたびに増える。
吐いても吐いても出ていかない。
罪悪感は、煙みたいに身体の内側にまとわりつく。

セレフィーナは森の奥、泉の近くまで来て立ち止まった。
夜の泉は黒く、でも耳を澄ますと水音がする。
ちょろちょろと、確かに生きている音。

泉は、戻った。
枯れていたものが戻った。
自分がここに来てから、土地は整い始めた。
それが本当なら――自分は、どこかで役に立っている。

その瞬間、胸の奥の“呪い”が顔を出す。

――役に立たなきゃ、愛されない。
――役に立たなきゃ、いていい理由がない。
――役に立てるなら、どこへでも行け。

前世から続く、あの足首に絡む縄。
見えないくせに、重い。
歩くたびに引っ張られる。
引っ張られて、転びそうになる。

「……やめて」

セレフィーナは誰もいない森に向かって呟いた。
やめて、って言ったところで、呪いは笑う。
呪いはいつも、正しそうな顔をしている。

――みんなが困るよ?
――助けられるのに、助けないの?
――それって、冷たくない?

王都がセレフィーナに被せてきた言葉と同じ形。
結局、呪いの言葉はいつも同じだ。
個人の心を潰して、“皆”を盾にする。

セレフィーナは雪の上にしゃがみ込んだ。
膝が冷える。
でも冷えのほうがまだいい。
胸の内側の熱い痛みよりは。

「私が戻れば、救われる人がいるかもしれない」

声が震える。
森の空気は冷たいのに、喉の奥は熱い。
泣きそうで泣けない。
泣けないことに、また罪悪感が乗る。

「でも……戻ったら、また私が壊れる」

その言葉を口にした瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
壊れる。
その単語は、前世の終わりの匂いがする。
眠れない夜、食べられない朝、スマホの通知、誰にも届かない努力。
そして、何も残らなかった心。

セレフィーナは雪を掴んだ。
冷たい。
冷たいのに、痛い。
雪はすぐに指の熱で溶けて、手袋を濡らす。

「私は……どうしたいんだろう」

望み。
望みを持つのは怖い。
望みは奪われる。望みは笑われる。望みは利用される。
でも、望みがないと生きる方向がない。

そのときだった。

背後で、雪を踏む音が増えた。
きゅっ、きゅっ。
一定のリズム。
迷いのない歩き方。
急がない。追い詰めない。
それは、もう聞き慣れた足音だった。

セレフィーナは振り返らなかった。
振り返ると、涙が落ちそうだった。
涙を見られるのが怖い。
でも、見られるのが怖い相手じゃないことも、もう知っている。

「……やっぱり来た」

声が掠れる。
ユリウスが近づき、外套を肩にかけ直しながら、短い言葉を落とす。
火打石みたいに、硬くて、熱を生む言葉。

「一人で行くな」

叱るみたいで、叱っていない。
危ないから、という現実の言葉。

「……眠れなかった」

セレフィーナが言うと、ユリウスは泉の音を一度だけ聞くように目を伏せた。
そして、セレフィーナの少し離れた場所に立った。
近すぎない。遠すぎない。
彼の距離感はいつも、彼女の逃げ道を残す。

「王都のことか」

「うん」

一文字の返事で、胸がきゅっとなる。
言葉が少なくても、分かってくれる。
分かってくれることが、怖いほど嬉しい。

ユリウスは少しだけ息を吐き、言った。
短い言葉を選べない男が、今夜はさらに短い。
でも短いほど、刺さる。

「あなたが壊れたら、土地も壊れる」

セレフィーナの肩が震えた。
自分が壊れたら、土地も壊れる。
それは責任に聞こえるのに、違う。
責めていない。
彼の声には、責める温度がない。
あるのは“守れ”の温度だ。

ユリウスは続ける。
「……あなたがあなたを守れ」

その一言で、セレフィーナの目から涙が落ちた。
ぽと、と雪に落ちる。
涙はすぐに冷えて、形を失う。
でも消えない。
消えたように見えて、雪の中に染みる。

誰かのためじゃない。
自分のために泣く涙。
それがこんなに痛いなんて思わなかった。
痛いのに、胸の奥が少し軽くなる。
体の乱れが、正しい位置に戻るみたいに。

「……守るって、どうやるの」

声が震える。
情けない声。
でもこの情けなさは、ここでは罪じゃない。

ユリウスは一拍置いて、頷く。
言葉で説明するのが苦手な男の、頷き。
それが、答えの半分。

「壊れそうなら止まれ。……止まるのも戦いだ」

止まるのも戦い。
戦場の人間の言葉。
でも、その言葉は彼女の前世にも刺さる。
止まれなかったから壊れた。
止まればよかった。
誰かが止めてくれればよかった。
でも、止めてくれる人はいなかった。

セレフィーナは袖で涙を拭おうとして、やめた。
拭くと、泣くことを否定するみたいで。
今夜は泣いていい。
泣いてもいい世界にいる。

「私……私の人生を、私が選んでいいんだよね」

言いながら、胸が怖くなる。
選ぶということは、責任を持つということ。
責任は重い。
でも、責任は鎖とは違う。
鎖は誰かに握られる。
責任は自分で背負う。
背負うなら、自分の背骨で背負える。

ユリウスは頷いた。
その頷きは、世界のどんな称号よりも重く、優しい。
王太子の言葉より、王家の紋章より、聖女の涙より。
ずっと確かで、ずっと現実だ。

「……選べ」

それだけ。
短い。
でもその短さが、彼の誠実さだ。
余計な装飾がない分、逃げ道も言い訳もない。
ただ、彼女が生きるための道だけが残る。

セレフィーナは雪の上に座り込んだまま、何度も息を吸った。
冷たい空気が涙の熱を冷やし、肺を洗う。
泉の音が、心臓の音と重なっていく。
森の闇は怖いのに、ユリウスの影があると怖さが薄れる。

「……戻らないって決めたのに」

セレフィーナが言うと、ユリウスは即答しない。
少しだけ間を置く。
彼はいつも、言葉で急がせない。
急がせれば人は壊れると知っているから。

「決めても揺れる。……揺れるのは生きてる証だ」

その言葉は意外だった。
ユリウスがそんな言い方をするとは思わなかった。
不器用なはずの男が、今夜だけ少しだけ柔らかい。

セレフィーナはまた涙を落とした。
雪の上に、ぽと、ぽと。
涙は冷えて消える。
でも消えたように見えるだけで、確かにそこにある。
彼女の痛みも同じだ。
消えたふりをしていただけで、ずっとそこにあった。

「私、ずっと……役に立たなきゃって思ってた」

「知ってる」

短い返事。
でも、見ていた返事。

「役に立てば、捨てられないって思ってた」

「……捨てるやつは、捨てる」

ユリウスの声が少しだけ冷える。
怒りの冷え。
彼女を捨てた世界への怒り。

セレフィーナは笑いそうになって、笑えなかった。
捨てるやつは捨てる。
残酷で、でも真実。
真実は痛い。
痛いけど、嘘よりは治る。

セレフィーナは立ち上がった。
足が少し痺れている。
でも立てる。
立てることが、今夜の小さな勝利だった。

「……帰ろう」

ユリウスが頷く。
「送る」

二人で屋敷へ戻る。
雪を踏む音が二つになる。
きゅっ、きゅっ。
心音が二つになったみたいで、胸が少しだけ温かい。

森を抜けると、屋敷の灯りが見えた。
暖炉の煙が細く上がっている。
そこに帰れる。
帰っていい場所がある。

セレフィーナは思った。
罪悪感はまだある。
呪いもまだ足首に絡んでいる。
でも、絡んでいる縄を「縄だ」と言えるようになった。
それだけで、少しずつほどけていく。

自分のために泣いた涙が、雪に染みた。
その染みは、冷たい土の中でいつか春の水になる。
そう信じられる夜が、ようやく来た。
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