私を追放した王子が滅びるまで、優雅にお茶を楽しみますわ

タマ マコト

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第16話 帰還する聖女

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 朝の色がまだ薄く、石畳の継ぎ目に夜の冷たさが残っていた。静寂の館の梁が一度だけ鳴り、家全体が深呼吸をする。私は窓を三分の一だけ開け、湖の匂いを喉の奥へひと口落とした。最初の湯はニルギリを軽めに。蜂蜜は半匙弱。今日は言葉より息が先だと、胸の針が示している。

「風は湖から王都へ」  セドリックが影だけ置いて言う。 「届く日ね」

 レーネが束ねたタイムを指で撫で、「今日もかわいい」と言う。マリアベルは秤を撫でて「狂ってない」と笑い、ギルバートの鍋が低く、腹を据える音を立てる。ジルは靴紐を結び直し、ハンスは指の関節を一度だけ鳴らす。シモンは紙束の角を揃えた。『順番』『退路』『影から離れる』『香を薄く』。家はいつもどおり、今日の形になった。

「出る前に、ひと口」  私はカップを配り、蜂蜜をそれぞれの喉に落とした。恐れの居場所は喉の奥。届く距離にある。それを繰り返してきた朝の手順で確かめる。

「目標、二つ」  セドリックが短く言う。「御堂の目地の“香を剥がす”。それから——」 「聖女を、戻す」  私が言った。言ってから、自分の声の温度を測る。熱くない。軽くない。よし。



 王都の朝は、拍手のないざわめきで始まった。広場の石に貼られた紙が白く光る。『退路』『順番』。子どもの目線。ハロルドが壁の角度を指で整え、兵は怒鳴らず、目で道を作る。蜂蜜は三口ずつ、確実に舌に落ちる。咳は昨日より二つ少ない。紙では測れない数字が、空気を少し軽くする。

「『お』は?」 「もう言った。今日は『か』を用意する」 「“変わっても怖くない”の『か』だな」  ジルが笑って、すぐ真顔に戻る。笑いは命令の敵で、聞く耳の味方。私は笑いの高さを胸で拾って、御堂の裏庭へ向かった。

 南の礎石は、昨日座り直した顔のままだった。目地に昨夜の“舞台の計算”が薄く残っている。私は手袋をはめ、指先の温度をゆっくり移す。母音は使わない。息だけ。刷毛で油をひと筆。香の薄皮がはがれ、湿った苔の甘さが顔を出した。

「……よし」  セドリックが低く確認する。若い神官がその横で頷き、「聖女は小部屋で息を丸くしています」と教える。鏡のない息。いい。

「戻る準備をするわ」 「護衛は?」 「あなたと——ハロルド」

 その名を出したところで、扉の向こうで足音が止まった。怒鳴らない足。ハロルドだ。灰の外套の男は合図をひとつだけ置き、私を見る。

「聖女を“門”から出す」 「正面で?」 「はい。舞台に背を向けて出る。民の前を通って、小さな礼拝堂へ。『帰還』は、舞台裏じゃなく、道の上で証明する」  “帰還”。その言葉に、胸の針が小さく揺れた。揺れは、決断の前ぶれだ。

「ミゼルの香は?」 「薄い。浮いている。剥がせる」 「殿下は?」 「鏡の部屋にいる。——鏡以外の顔で、退く準備も、ほんの少し」

 私は息をひとつ置いた。「行く。舞台の裏からじゃない。正面から」



 聖堂の小部屋。リリアは椅子に浅く腰掛け、手のひらを膝に置いていた。瞳に眠気は残っているが、水がある。若い神官が窓を少し開け、外の薄い甘さを入れる。私は彼女の前に立った。

「帰ろう」 「どこへ」 「土へ。あなたが最初に祈った場所へ。舞台に乗せられる前の“あなた”に戻る。——“聖女”は、土に帰ってから、街に戻る」  リリアは唇を噛んで、すぐに離した。噛むのをやめられる人間は、強い。 「ミゼルは、止める」 「止めさせない。止まらせない。どっちも大事」 「できる?」 「できる」

 若い神官が彼女にマントをかける。色は灰に近い藍。真珠の髪飾りは外し、布でくるむ。鏡のための光を、土のための布に戻す。リリアは自分でひもを結び、深く息をした。

「行こう」



 扉が開く。聖堂の正面。石段。人々の視線。香は薄い。風は味方。前列の母親が子の手を引き、広場の端へ寄る。兵の壁は“扉”に変わる。ハロルドが視線だけで四箇所に合図を散らし、セドリックが半歩、前。その肩に、私の視線の線が重なる。

「退路を残せ」  誰かが言った。誰かは聞きとめられない。けれど広場が、一語で呼吸をそろえる。リリアは石段を一段ずつ下りる。拍手はない。代わりに、“お”の息の輪がいくつか生まれる。『驚かない息』。驚くなら、喉が潰れない方向で。

 ミゼルが現れた。黒衣の列。袖の中の節が短く、乱暴だ。彼は声を整え、しかし温度を持たない。 「聖女。儀は正午。御身は“鍵”」 「鍵は土が決める」  リリアが静かに返す。声は小さいが、言葉は折れない。

「殿下がお待ちだ」 「私は民を待たせたくない」  そのやり取りに、人の気配が波紋を作る。波紋は怒鳴りにくい形だ。怒鳴り声は刃。刃は礼儀を壊す。

「道を空けて」  私が言う。命令ではない。順番の提案。ハロルドが壁を“扉”に組み替え、兵の足が半拍だけ引く。ジルとハンスが角を押さえ、シモンが紙を貼り直す。『退路』『順番』。子どもの目線。リリアは人の間を通って、広場の端へ。香が追いかける前に、風がそれを解す。

 新影の若い足が二人、前に出る。顎が上向き。〈退路不要〉の印が体に貼りついている。旧影の男が左右の距離を測り、顎をわずかに引く。〈退け〉。若い足は迷う。迷う間に、礼儀が戻る。それが狙い。

「ミゼル」  私は真正面から言った。「香は薄く。道は太く」 「あなたは舞台を嫌う」 「舞台の“喰い方”を嫌う」 「詩人だ」 「職人に言われる筋合いはない」

 彼は笑わない。笑わない男の沈黙が刃になる前に、ハロルドが低く挟む。「殿下の命は『民のため』。民が望むのは、道だ。鏡ではない」  ミゼルの袖が短く震え、私たちはその震えが計算の狂いだとわかった。聖女は、正面から“帰還”を始めた。舞台の外で。



 行列にならない行列が、王都を南へ流れた。拍手はない。代わりに母音の輪がいくつか浮き、蜂蜜の匂いが風に混ざる。退路の紙が交差点ごとに白く揺れ、兵が怒鳴らず、店主が戸口で水を煮る。子どもが『お』を言い、老人が『う』を息でなぞる。路地の陰で、青い花がひとつだけ咲いていた。レーネの指の匂いがする。

「ここ」  若い神官が立ち止まる。小さな礼拝堂。リリアが幼い日に歌っていた場所。床の木目は薄く擦り減り、窓ガラスは歪んでいる。香はない。代わりに、古いパンの匂いがする。

 扉を開けると、空気が冷たく、良かった。冷たい空気は、息の輪郭を正しくする。リリアは中央に立ち、椅子に座らない。壁に鏡はない。祈りの言葉は置かない。息だけを、ひとつ。ふたつ。みっつ。母音はまだ口に乗せない。息で部屋の間取りを思い出させる。

「帰ってきた」  彼女が小さく言った。帰還の声は、たいてい誰の耳にも届かない。届かないかわりに、土に届く。床板がきしまず、窓が鳴らず、音が吸われる。いい吸い方。

 私は祈らない。祈るのは彼女の仕事だ。私の仕事は、道に紙を貼り、退路の角度を守り、香を薄くする。セドリックは扉に影を置く。ハロルドは外で人の流れを“扉”にし、若い神官は膝の位置で息の高さを測る。ジルとハンスは怒鳴らない。シモンは紙を貼り、レーネはタイムを指で弾き、マリアベルは蜂蜜を三口ずつ配る。家が、ここに引っ越してくる。

 やがて、リリアは母音を一音だけ置いた。「あ」。驚きの前の「あ」。部屋の木がひと息つき、外の子どもが真似をする。『あ』から『お』、『う』へ。輪が重なって、薄い鐘のない“鐘の感覚”が礼拝堂に満ちた。

「聖女」  扉の外から、別の声。アレクシスではない。老宰相の走りだ。小封。青い蝋。私は受け取り、開ける。

『帰還の行列、民が“道”と呼ぶ。殿下は鏡の間を出たり入ったり。祈祷師は香を重ねられず。——“退路”が倉の裏に一本通る。今夜、二本目を。順番は、民→水→影。』

 私は紙を胸にしまい、リリアを見る。「あなた、帰ってきた」 「うん」 「じゃあ、街へ戻ろう。今度は、土のままあなたで」



 礼拝堂の扉が開き、日差しが斜めに入る。外で待っていた人々の肩が、目に見えるほど落ちた。誰も拍手をしない。拍手は舞台の空気を増やす。代わりに、『か』の練習が始まった。「か……」。変わっても怖くないの『か』。子どもが噛むように言い、母が笑って、すぐ真顔になる。笑いは命令の敵で、聞く耳の味方。何度でも確認する。

 ミゼルは現れなかった。香の層が薄く、彼の計算がどこかで立て直しを強いられている。代わりに、新影が二人、路地の角に立ち、紙を剥がす手を空中に止めたまま、旧影の顎の角度を探している。エナスがそこへ歩いていき、剥がす手の近くで『退路』の紙をもう一枚、重ね貼りした。彼の指が震えないのを、私は横眼で見た。

「帰り道は?」  ハロルドが尋ねる。私は首を振った。 「帰らない。戻る。——街のまま居る」

 リリアが頷き、広場の端に立った。仮設の壇は低く、今は空っぽだ。彼女は壇に上がらない。壇の下で、短く言う。 「息を、先に」  それだけ。拍手は起きない。代わりに、井戸のほうから笑い声が薄く来る。煮立つ音。蜂蜜の匙の音。『順番』の紙が白く揺れる。街が、生きている。

 アレクシスが遠くからそれを見ていた。鏡のない顔。彼は何も言わなかった。言わなかったことが、今日の彼の“退路”だと、私は理解した。退路は、王にも必要だ。



 夕方、静寂の館。扉を開けると、家がいつもの温度で迎えた。マリアベルが「おかえり」と言い、ギルバートが鍋の蓋を叩き、レーネが吊るしたタイムを指で弾く。シモンが新しい紙束を置き、ジルとハンスは椅子を引いて座り、セドリックは窓を三分の一だけ開ける。ハロルドは外套を椅子の背にかけ、若い神官は窓の方角を確かめた。リリアは戸口で一度だけ深呼吸して、笑わない笑いをした。

「ようこそ、土の側へ」  私が言う。リリアは頷き、「ただいま」と言った。帰還の言葉は、短いほど強い。

「報告」  セドリックが言い、私は頷く。

「御堂の目地、香を剥がした。聖女、礼拝堂に帰還。広場で“壇の下”に立つ。拍手なし。息だけ。——北の倉、退路一本通過。今夜、二本目。順番は民→水→影」 「殿下は」 「鏡の間に戻り、出て、戻った。——退路を探している顔だった」

 ギルバートが塩のスープを配り、マリアベルが蜂蜜をひと匙ずつ落とす。レーネが青い花を卓の端に置き、シモンが『か』の紙を二十枚、子どもの字で書いて見せた。ジルが「怒鳴らない」とぼそりと言い、ハンスが「石を見る」と短く続ける。ハロルドは「扉を作る」とだけ言って、椅子の背もたれに外套をかけ直した。若い神官は「祈らない祈りを教える」と言った。エナスは立ったまま、「退路を守る」と繰り返した。繰り返せる言葉は、強い。

 私はカップに最後の一杯を注ぎ、喉の奥に落とす。今日の渋みは印。甘さは赦し。塩は現実。全部が、ここにある。

「怖さは?」  セドリックが問う。私は喉の奥を指でさわり、「届く」と答えた。届く距離にある限り、間に合う。

 窓の外、王都の屋根に夕方の薄い甘さが残り、御堂の壁はきしまず、礼拝堂の木が静かに呼吸する。鏡の部屋の灯りが小さく揺れて、すぐに落ち着く。誰かの手が、鏡から少し離れたのだろう。離れた手の位置は、退路の最初の目印だ。

 私は胸元のペンダントに指を置き、石の温度を確かめる。おとなしい。賢い子。門柱の看板は今日も薄く温い。家が、帰還を受け止める。

「——王子が滅びるまで、私は紅茶を楽しむ」

 唇だけで言う。呪いでも祈りでもない、境界線。白く、細く、まっすぐ。線のこちら側に、帰還した聖女、壇の下のひと言、剥がれた香、座り直した目地、退路の紙、蜂蜜の半匙、そして“扉”の角度がある。線の向こうに、鏡の前の笑い、買われた倉、結果だけを欲しがる節、そしていずれ終わる舞台がある。紅茶は流れ、時間は一分だけ止まる。止めた一分が、明日を整える。帰還は終わりでなく始まりだ。ここから、土のやり方で守る。息で整える。順番を貼る。私たちのやり方で。

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