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第17話:最後の危機――信用崩壊寸前
しおりを挟む朝の王都は、いつもより音が多かった。
荷車の軋む音。靴が石畳を叩く音。
それだけなら普通だ。
でも今日は、そこに“呼吸の音”が混ざっている。人が息を吸う音。吐く音。喉が鳴る音。
不安が胸に詰まると、人は呼吸がうるさくなる。
「……聞いたか?」
「銀行が潰れるって」
「金貨が消えるらしいぞ」
誰かが言葉を落とし、誰かが拾う。
言葉は小石みたいに転がって、坂を下るたび大きくなる。
私は馬車の窓から、銀行前の列を見た。
列は蛇のようにうねり、角を曲がっても終わりが見えない。
人が人を押し、肩がぶつかり、怒鳴り声が飛ぶ。
その怒鳴り声は、怒りというより恐怖だ。
恐怖は、金貨の形をしている。
金貨が消える。
それは腹が空くより怖い人がいる。
金は、未来のパンだから。未来の薪だから。未来の薬だから。
馬車が止まる前に、カイが低い声で言った。
「偽情報です」
その一言は断定。
断定できるだけの証拠があるということ。
「出どころは」
私は息を整えながら聞く。
胸の奥がざわつくのに、声は冷やす。
冷やさないと、火が増える。
「旧貴族の残党。侯爵家の周辺にいた連中が、商会に金を握らせて流しています。『中央金庫が空だ』『王家が隠れて金を国外に移した』……そういう筋書きです」
中央金庫が空。
王家が金を国外に。
最悪の組み合わせ。
民衆が一番慌てる“裏切りの物語”。
私は目を閉じ、一瞬だけ頭の中で手順を並べた。
危機対応。
前世のマニュアルが、紙の手触りと一緒に蘇る。
赤字で囲まれた項目。
「初動が全て」
「情報の一本化」
「流動性供給」
「恐怖の鎮圧」
心臓は速い。
でも頭は静かだ。
静かすぎるほど静かだ。
「すぐ動く」
私は目を開けた。
窓の外では列が揺れている。
揺れは今にも崩れる。
崩れたら踏まれる。踏まれたら死ぬ。
信用崩壊の死は、静かじゃない。人を踏み潰す音がする。
王城へ。
私は馬車を走らせ、議会棟ではなく中央金庫へ向かった。
中央金庫は王都の中心、堅牢な石造り。窓は小さく、扉は厚い。
まるで国の心臓が箱に入っているみたいだった。
到着すると、入口にはすでに人が集まっていた。
金庫の門前で叫ぶ者。泣く者。罵る者。
そしてその後ろで、様子を見ている目がある。
“煽り手”の目。火種を投げる目。
私はその目を、見ないふりをした。
見てしまうと怒りが出る。
怒りは今、贅沢だ。
護衛が道を作り、私は階段を上がる。
石の階段は冷たい。
冷たさが足裏から上がってきて、身体を覚醒させる。
中に入ると、金庫長が青い顔で待っていた。
汗が額に光り、書類束を抱える手が震えている。
「公爵令嬢様……! これは一体……」
「取り付け騒ぎ」
私は言い切った。
言い切ると現実になる。現実になった方が対処できる。
「流動性、どれくらい」
「現金は……十分です。ですが、列が増え続ければ——」
「増やす前提で動く」
私はカイを見た。
「宣言を出す。中央金庫が流動性供給する」
金庫長が目を見開く。
「供給……? それは、つまり……」
「銀行に金を回す。引き出しは止めない。止めると火が付く。火が付いたら、全部燃える」
金庫長は唾を飲み、頷いた。
理解というより、従うしかない顔。
私は机に手を置き、指示を落としていく。
「第一。王都内の主要銀行に即時の現金輸送。優先順位は列の長さと立地」
「輸送の護衛は——」
「騎士団を出す。殿下の名で」
カイがすぐに動き、伝令を飛ばす。
私の言葉がそのまま命令になる速度。
速度がなければ負ける。
「第二。公式声明。中央金庫は健全。預金は保護。必要なら追加供給。嘘の噂は法で裁く」
「公爵令嬢様、声明は誰が——」
「私が出す」
金庫長が息を呑む。
私が出せば、また“支配”と言われる。
でも今は、支配と言われてもいい。
火を消す方が先。
「第三。列の整理。怪我人を出すな。押し合いが始まったら終わり」
「衛兵を増やします!」
「増やすだけじゃない。水と毛布。待つ人間が凍えると怒りが増える。怒りは石になる」
前世で覚えた。
炎上は“理屈”じゃ止まらない。
腹と体温が大事だ。
人間はまず動物だから。
金庫長が慌ただしく走り出す。
部屋が一気に戦場になる。
紙が飛び、靴音が増え、インクの匂いが濃くなる。
私は壁際の窓から外を見た。
列はまだ長い。
恐怖が波になっている。
この波を止めるには、波より早い“安心”を流し込むしかない。
私は中央金庫の玄関へ向かった。
護衛が周囲を固め、カイが一歩後ろに立つ。
扉を開けた瞬間、叫び声がぶつかってきた。
「金を返せ!」
「裏で隠してるんだろ!」
「俺たちの金貨を——!」
言葉が石みたいに飛ぶ。
まだ石は飛んでいない。
でも次は飛ぶ。空気で分かる。
私は一段高い場所に立ち、声を張った。
叫ぶのではなく、届く声で。
恐怖は大声に引っ張られる。
だから私は、恐怖と同じ音量では戦わない。
恐怖より低い声で、確かな言葉を置く。
「中央金庫より声明を出します」
ざわめきが僅かに減る。
“中央金庫”という言葉には、重さがある。
重さは安心の材料になる。
「今、流動性供給を開始しました。主要銀行に現金を輸送しています。引き出しは止まりません。預金は保護されます」
一瞬、沈黙。
沈黙の後、疑いの声。
「嘘だ!」
「信じられるか!」
当然だ。
恐怖は一度味わうと、言葉だけでは溶けない。
私は続けた。
「嘘だと思うなら、見てください」
私は手を挙げ、合図した。
門の内側から、重い箱が運び出される。
金貨ではない。
銀貨、そして兌換の札、封のされた現金袋。
とにかく“重み”が見えるもの。
箱が地面に置かれ、金属が鳴る。
その音が、群衆の喉を一瞬止めた。
音は嘘をつきにくい。
金属の音は、安心の音だ。
「列は整理します。押し合えば怪我をします。怪我をしたら、あなたのお金は戻りません。——落ち着いてください」
落ち着いて。
その言葉は軽い。
でも私はその軽さを、現金箱の重さで支えた。
徐々に、列のざわめきが変わる。
怒鳴り声が小さくなり、代わりに確認の声が増える。
「……本当に来るのか?」
「箱があるぞ」
「輸送って言ってた」
恐怖が“怒り”から“疑い”へ変わる。
疑いは、まだ対話できる。
怒りは燃えるだけだ。
私は最後に言った。
「偽情報を流した者は裁きます。でも今は、あなたたちのお金を守ることが先です」
裁く、と言った瞬間、群衆の端で一瞬だけ動きがあった。
逃げる影。
火をつけた者は、火が消える前に逃げる。
私は追わない。
追うのは後。
今は火を消す。
中に戻ると、金庫長が息を切らして報告してきた。
「輸送隊が出ました! 二隊、三隊……! 銀行側も受け入れ準備を——」
「いい」
私は頷いた。
いい、の一言で、部屋の空気が少し落ち着く。
指揮官の声の安定は、現場の心拍を安定させる。
その瞬間、身体がぐらりと揺れた。
視界の端が白くなる。
月光ではない。
前世の蛍光灯みたいな白。
疲労の白。
睡眠不足の白。
私は机の端を掴んだ。
指先が震える。
震えは、恐怖じゃない。
限界の震えだ。
徹夜続き。
議会、監査、穀物、物流、債権、そして今日の取り付け騒ぎ。
身体は、ただの肉だ。
肉は数字では動かない。
肉は休みを要求する。
でも休めない。
止まればまた誰かが潰れる。
潰れるのは会社じゃない。
この国では、人だ。
パンを買えない人。薬を買えない人。
列に押し潰される人。
カイが私の異変に気づき、すっと近づいた。
「お嬢様、少し——」
「大丈夫」
私は即答した。
大丈夫じゃない。
でも大丈夫と言うしかない。
指揮官が崩れると、現場が崩れる。
私は深く息を吸い、声を整えた。
整えると、心が整う。
心が整うと、身体が一歩だけ動く。
「次。偽情報の経路を切る。商会の掲示板、酒場、診療所の待合。伝令を回して、同じ文言で否定を流す。情報は一本化」
カイが頷く。
「すでに手配しています。ギルドにも協力を要請済みです」
「よし」
私は椅子に座らず、立ったまま紙に目を走らせる。
立っている方が倒れにくい。
座ると眠気が刺さる。
外では、列が少しずつ短くなっていく。
短くなるにつれて、街の呼吸が静かになる。
金貨が消える恐怖が、少しずつ引いていく。
恐怖が引くと、人は疲れに気づく。
私も同じだ。
指先の震えが止まらない。
喉が乾く。
目の奥が熱い。
それでも、私は止まらない。
前世の危機対応マニュアルみたいに、淡々と。
感情を挟まず、手順を守り、優先順位を守り、火を消す。
潰れたくない。
その欲は私を動かす。
でも今は、それ以上に——
潰れさせたくない、が私の背骨になっていた。
私が止まれば、また誰かが潰れる。
だから、止まらない。
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