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第1話「追放の朝、凍る息と決まっていた未来」
しおりを挟むその朝、息を吐くたびに、胸の奥がきゅっと凍るみたいだった。
白い天蓋のカーテンに、朝日が薄く滲んでいる。
いつもなら、その光だけで頭が割れそうに痛くなって、まぶたを開けることすらできないのに――今日は違った。
「……あれ?」
クレア・エルフォルトは、ゆっくりと上体を起こした。
いつもの、あの鉛みたいなだるさがない。関節の内側に刺さっていた棘みたいな痛みも、喉を焼く熱も、引いている。
肌に触れるシーツは冷たくて、さらさらしていて、やけに現実的だった。
部屋の中は、いつも通り“病人用”に整えられている。
窓は分厚いカーテンで閉ざされ、光は上から落ちてくるだけ。
棚には、飲み切れないほどの薬瓶。乾いた薬草の匂いが、クレアの人生そのものみたいに染み付いている。
(……珍しい)
自分でも驚くくらい、頭が冴えていた。
夢と現実の境目が溶けたような感覚もない。
ただ、胸の真ん中がひゅうひゅうと空っぽで、風が通り抜けていくみたいに寒い。
ノックもなく、部屋の扉が開いた。
「お嬢様。お目覚めでしたか」
入ってきたのは、クレア付きの侍女、マリアンヌだ。四十を過ぎた細身の女性で、眼差しはいつも静かだが、最近はどこか諦めの影が濃くなっている。
「今日は、顔色が……よろしいですね」
「そう、見える?」
「はい。……長いこと、こんなお顔は拝見しておりませんでした」
マリアンヌはほんの少しだけ、口元を緩めた。
それが、「よかったですね」と言う代わりなのを、クレアは知っている。
「少し、歩けそう?」
「ゆっくりなら、きっと」
「……じゃあ、起きるわ」
クレアがそう言うと、マリアンヌは無言で肩を差し出す。
細い足を床に降ろす瞬間、身体はかすかに震えたが、すぐに慣れた。何度も何度も発熱のあとで試した動作だ。転ばない歩き方だけは、嫌でも覚えている。
白い寝間着から、落ち着いたクリーム色のドレスへ。
鏡の中の自分は、病人らしい血の気のなさと、エルフォルト家の娘らしい整った造りを同時に抱えていた。
長い金の髪は、いつも一つにまとめられている。飾りもない。ただ“邪魔にならないように”。
瞳だけが、父譲りの深い緑色だった。
「……変わらないわね」
思わず、独り言が口から零れる。
どれだけ熱にうなされても、どれだけ社交界から外されても、顔だけは“使いものになる”のだと、母はよく嘆くように笑っていた。
マリアンヌが、何か言いかけたとき。
「クレアお嬢様。旦那様がお呼びです」
扉の外から、若い使用人の声がした。
クレアとマリアンヌは、同時に目を見張る。
「……お父様が?」
「ええ。“支度ができ次第、執務室へ”とのことです」
父――エルフォルト家当主、ガイウス・エルフォルト。
彼は家のこと、国のことに忙しくて、クレアの部屋に来ることなどほとんどない。呼び出されるのも、年に一度あるかどうかだ。
それが、「支度ができ次第」だなんて。
(なにか、あったのかしら)
胸の奥で、ちいさな不安が膨らむ。
だが同時に、ほんのわずかだけ、期待にも似たものが混ざっていることに気づき、クレアは自分で自分に驚いた。
(もしかして、やっと……社交界の準備をするとか。
体調が安定してきたから、外に出してもいいって――)
「行きましょうか、お嬢様」
「ええ」
マリアンヌに軽く手を添えられながら、クレアは部屋を出る。
久しぶりに歩く廊下は、妙に長く感じた。
真紅の絨毯。壁には先祖たちの肖像画。
取り替えたばかりの燭台が、黄金色に光っている。
すれ違う下働きの使用人たちは、一様に驚いた顔でクレアを見た。
その視線の中に、「まだ生きてたんだ」という感情が混ざっているのを、彼女は敏感に感じ取ってしまう。
視線が刺さるたびに、胸のあたりがひやりと冷える。
それでも足は止めない。
ゆっくり、ゆっくり。
「旦那様は、きっとお嬢様のことを案じて――」
マリアンヌが、気を遣うように言いかけた。
クレアは、小さく笑って首を振る。
「……いいの。分かってるから」
案じているなら、とっくに会いに来ている。
そうじゃないからこそ、今まで扉は閉ざされたままだった。
それでも、どこかで。
“いつか変わるかもしれない”という淡い期待を、手放しきれないまま大人になってしまった。
執務室の前に立つと、扉の前には執事の老人が控えていた。
長年この家を支えてきた男、ハロルド。
「……クレアお嬢様。お入りなさい」
その声は丁寧だったが、微妙に距離があった。
期待と不安を胸いっぱいに吸い込んで、クレアは扉をノックし、中へ入る。
豪奢な執務室は、相変わらず広すぎて落ち着かない。
大理石の床、壁一面の本棚、重たそうな机。
その背後に座る父の姿は、昔より少し老けて見える気がしたが、厳格さは変わらない。
そして、その隣には――
「お姉様。ごきげんよう」
完璧に着飾った、エルフォルト家の次女、リーゼが座っていた。
肩までのふわりとした金髪に、ピンク色のリボン。
淡い水色のドレスは彼女の白い肌をいっそう引き立てている。
口元には、いつもの“余裕の笑み”。
クレアの心臓が、一瞬止まりかけた。
「お父様、お呼びでしょうか」
喉が、ひどく乾いている。
声を出そうとすると、砂を噛んでいるみたいにざらつく。
アルベルトは机から視線を上げ、じっとクレアを見た。
「……立っている姿を見るのは、久しぶりだな」
「はい。今日は、少し体調が良くて」
「そうか」
短く、感情のない返事。
心配でも喜びでもない。ただ事実を確認しただけの声音。
その冷たさに、クレアは胸の奥がひゅっと縮こまるのを感じた。
が、それを悟られないように、きゅっと口角だけを持ち上げる。
「で、本題に入る」
父の指先が、机の上の一枚の書類を軽く叩いた。
それは、王都の紋章が押された公式文書のように見える。
「エルフォルト家として、王都に協力することが決まった」
「協力……ですか?」
クレアが問い返すより早く、リーゼが嬉々として口を挟む。
「お父様、私に説明させてくださいませ」
「……好きにしろ」
アルベルトが軽く頷くと、リーゼは椅子から立ち上がり、くるりとクレアの方へ向き直った。
「お姉様。簡単に言うとですね、エルフォルト家から“人員”を王都に送ることになりましたの。
魔獣の被害が増えているでしょう? 辺境の駐屯地に、支援を出す必要があるんですって」
「辺境……」
その単語に、クレアの胸がざわつく。
王都から遠く離れた土地。危険で、荒れていて、物資も乏しいと聞く場所。
「それで、ね」
リーゼは、わざとらしく残念そうな顔を作った。
「本来なら、私が貴族として正式に赴くべきなのでしょうけれど……ほら、私には王都での役目がたくさんありますでしょう? 社交界や、婚約の話や……」
彼女は指先で、ドレスの裾をなぞる。
淡い香水の匂いが、部屋の空気を甘く上書きしていく。
「だから、お姉様が行ってくださることになりましたの」
「…………え」
言葉の意味を理解するまで、数秒かかった。
理解した瞬間、胸の中で何かがどさりと音を立てて崩れる。
「クレア」
アルベルトが、淡々と告げる。
「お前は、王都の役には立たない。体も弱く、社交の場にも出せん。
だが、まったく無用というわけにもいかんのだ」
「…………」
「辺境の駐屯地で、雑役として働け。
掃除でも洗濯でも、できることはあるだろう。
お前のような者でも、人手が足りない場所なら使い道がある」
それは刃物だった。
よく研がれた刃を、当たり前のように胸に突き立てる言葉。
(王都の役には、立たない)
何度も頭の中で反響する。
分かっていたはずだ。
自分が、家にとって「厄介」でしかないことくらい。
でも、どこかで。
いつか、体調が良くなれば。
少しは認めてもらえるかもしれないと、子どもみたいな夢を捨て切れずにいた。
「……私、は」
喉の奥が焼け付くように熱くなる。
それでもなんとか声を搾り出そうとする。
「もし……もし、王都に残って、なにか、別の――」
「クレア」
アルベルトの声が、低く遮った。
それは、議論の余地などないと告げる音。
「これは決定事項だ。お前に選択権はない」
す、と視線が切り捨てるように冷たい。
父の瞳は、自分と同じ色をしているのに、どうしてこんなにも遠いのだろう。
横でリーゼが、わざとらしく心配そうな顔を作る。
「お姉様、でも、これはきっとお姉様のためにもなりますわ。
ここにいても、ずっとお部屋にこもったままでは退屈でしょう? 辺境で体を動かせば、健康にもいいですし」
「リーゼ」
クレアは、妹の言葉にかぶせるように、やっとのことで口を開いた。
「それは……本気で言っているの?」
「もちろんですわ」
リーゼはにこりと笑う。
その笑顔の中に、うっすらとした嘲りが見えたのは、きっと気のせいではない。
「お姉様は、昔から優しいから。家のためになることなら、何でもしてくださるでしょう?
――ね?」
その「ね?」に、逆らってはいけない圧が込められている。
クレアは、ぎゅっと拳を握りしめた。爪が掌に食い込む感覚が、やけに鮮明だった。
(家の、ため)
何度も聞かされてきた言葉。
熱で倒れていても、薬で朦朧としていても、「家のために」「恥をかかせるな」と言われ続けてきた。
でも、本当にそれは“家のため”だったのだろうか。
ふと、そんな疑問が頭をよぎる。
すぐに、胸の奥からもうひとりの自分がささやく。
(考えても、無駄よ。だって、決まってしまったんだから)
何度も繰り返してきた、自分を守るための諦めの呪文。
「……わかりました」
クレアは、ゆっくりと顔を上げた。
喉は焼けるように痛いのに、声は不思議と淡々としていた。
「辺境へ、行きます。
私にできることがあるなら、やってみます」
アルベルトは満足げでもなく、ただ当然のことのように頷いた。
「そうか。出立は三日後だ。必要な荷物は、侍女にまとめさせろ」
「はい」
「リーゼ、お前は引き続き王都での務めを果たせ。エルフォルト家の顔はお前だ」
「ええ、お父様。お任せくださいな」
リーゼは嬉しそうに微笑むと、クレアの方へ視線を向ける。
「お姉様。辺境でも無理はなさらないでくださいね。……あ、でも、あまり早く倒れて死んだりしないでくださる? せっかく手間をかけて送り出すのですから」
冗談めかした声音。
けれど、その言葉は、クレアの心臓に冷たい針を刺す。
「……努力、してみるわ」
それがやっとの抵抗だった。
リーゼはくすりと笑い、「では、私は支度がありますので」と言って部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
「行ってよい」
アルベルトが、書類に視線を戻したまま言う。
クレアはぎこちなく礼をし、背を向けた。
執務室の扉に手をかけたとき、ふいに背後から声が飛ぶ。
「クレア」
足が止まる。
振り返ると、父の瞳がほんの少しだけ細められていた。
「……家の名に恥じぬように振る舞え。それだけだ」
「……はい」
それは、精一杯の“父らしさ”なのかもしれない。
けれど、クレアの胸には何も届かなかった。
扉を閉めると同時に、心の中で何かがすとんと落ちる音がした。
廊下に出た瞬間、足元がふらりと揺れる。
マリアンヌが慌てて支えた。
「お嬢様!」
「……ごめんなさい。大丈夫、ちょっと、力が抜けただけ」
笑おうとしたけれど、頬の筋肉がぴくりとも動かない。
代わりに、胸の奥がひゅうひゅうと音を立てる。
決まってしまった。
生まれた家からも、王都からも、静かに切り離される未来が。
窓の外には、庭園の木々が並んでいる。
その枝葉が、さっきからずっと、ざわざわと落ち着きなく揺れていることに気づいた。
風が、異様にうねっていた。
カーテンの隙間から吹き込む風が、クレアの髪を撫でる。
その感触が、ひどく優しくて、苦しい。
(ああ、やめて)
心の中で、誰にともなく呟く。
(そんなふうに優しくしないで。
もう、期待なんて、したくないのに)
だけど、風はやまない。
まるで、彼女の無理な微笑みに抗議するみたいに、部屋の中をぐるりと一周して、また窓の外へと駆け抜けていった。
誰も、その小さな異変を気に留めなかった。
エルフォルト家にとって、その朝の重要な出来事は「役立たずの長女を辺境に送る」という一点だけだったから。
その決定が、世界の風向きを変え始めていることに――このときはまだ、誰も気づいていなかった。
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