無能令嬢、『雑役係』として辺境送りされたけど、世界樹の加護を受けて規格外に成長する

タマ マコト

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第2話「馬車の窓に揺れる森の影」

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 追放の支度は、驚くほど味気なかった。

「こちらが、お嬢様のお荷物になります」

 淡々とした声と共に、部屋の床に置かれたのは、小さな革の鞄ひとつだけ。
 クレアはベッドの縁に腰かけたまま、それを見つめる。

 質素な灰色のワンピースが二着。
 厚手の外套が一枚。
 履き潰したわけでもないのに、どこか頼りない革靴。
 そして、財布代わりの小さな巾着袋。

 巾着の中には、銀貨が数枚と銅貨が少し。
 それだけ。

「……ずいぶん、軽いのね」

 冗談めかして呟いたつもりだったけれど、自分の声がひどく乾いていることに、自分で気づいてしまう。

「辺境では、あまり荷物が多くても動きにくいでしょうから」

 そう答えた若いメイドの目には、同情も罪悪感も浮かんでいない。
 あるのは、どこかほっとしたような安堵の色。

(ああ、やっと厄介ごとが片付く)

 言葉には出さなくても、そう思っているのが痛いほど伝わってくる。

 クレアは視線を落とし、鞄の中身を指先でなぞる。
 布の感触は粗くて、ぎこちない。
 この家のものとは思えないくらい、安っぽい。

「他に、持っていけるものは……?」

 思わず、そう口にしていた。
 本当に欲しいものなんて、何も持たされていないのに。

「旦那様からは、そのように……」

 メイドがちらりと視線を泳がせる。
 目を合わせたくない、という気持ちが、ありありと滲んでいた。

「そう。ありがとう」

 これ以上なにを言っても無駄だと分かっている。
 クレアはそれ以上追及せず、そっと微笑みで会話を終わらせた。

 そのとき。

「お嬢様、これだけは……持っていかれてはどうでしょう」

 背後から、おそるおそる差し出された小さな影。
 振り向くと、マリアンヌが立っていた。

 彼女の手のひらに乗っているのは、古びた木製のペンダント。
 丸く削られた木片に、うっすらと葉のような模様が刻まれている。
 紐はすり切れかけていて、ところどころ色が抜けていた。

「それは?」

「屋敷の奥の収納で、ずっと眠っていたものです。
 誰のものなのか、記録も残っておりませんでしたが……」

 マリアンヌは言葉を選ぶように、少し息を飲む。

「なぜか、処分の指示だけは一度も出なくて。
 何度も整理の対象になったのに、なぜか、手が止まってしまって……。
 なんとなく、お嬢様に似合う気がしたのです」

「似合う、なんて」

 クレアは苦笑しながらも、そのペンダントを受け取る。
 木の冷たさが、指先にすっと染み込んだ。

 よく見ると、葉の模様はただの装飾ではない。
 細い線が絡まり合い、小さな樹のような形を描いている。

 触れているうちに、ほんのかすかに、胸の奥が温かくなった気がした。

「……勝手に、もらってしまっていいの?」

「誰のものか分からない以上……今さら持ち主が現れることもないでしょう。
 それに――」

 マリアンヌは、少しだけ視線を伏せる。

「お嬢様が、なにかひとつでも“自分のもの”を持って行かれた方が、よろしいと思いまして」

 その言葉に、胸がきゅっと締め付けられた。

 この部屋にあるものは、すべて「エルフォルト家の所有物」だ。
 ベッドも、机も、書棚も。
 クレアがこれまで見てきた景色は、すべて“借り物”だった。

 自分のものだと言えるものなんて、一つもない。

 だから、“誰のものでもない”とされているこのペンダントが、逆に愛おしく思えた。

「……ありがとう、マリアンヌ」

 クレアは、慎重にペンダントを首にかける。
 木の丸みが鎖骨の間に収まって、ひんやりとした重みが心地いい。

 その瞬間、風が窓を軽く叩いた。
 まるで、小さな祝福みたいに。

 マリアンヌはそれに一瞬だけ目を向けるが、すぐにクレアへ視線を戻し、小さく微笑んだ。

「いつか、また戻ってこられると信じておりますよ」

「……そうね」

 戻ってくる場所が、ここであるのかどうかは分からない。
 それでも、「また会える」と言ってくれる人がいることが、今はただ嬉しかった。

 ***

 出立の日は、想像していたよりもあっさりとやってきた。

 朝から空は薄曇りで、冷たい風が庭を撫でている。
 玄関前には、黒い馬車が一台。荷台にクレアの小さな鞄が乗せられている。

 玄関ホールには、最低限の人しかいなかった。
 父アルベルトは姿を見せず、リーゼも「今日は大事なお茶会がありますの」と笑顔で欠席した。

 代わりに、執事のハロルドと、数人の使用人だけが並んでいる。

「クレアお嬢様。道中のご無事をお祈りしております」

 ハロルドが形式的な挨拶を述べる。
 その言葉に、特別な温度は感じられなかった。

 使用人たちは、それぞれ微妙な表情でクレアを見ている。
 哀れみとも違う。
 かといって、完全な無関心でもない。

 その中に、一人だけ、ほっとしたように肩の力を抜いているメイドの姿が目に入った。

(ああ、やっぱり)

 心の中で、静かに納得してしまう。
 自分がこの家にいることは、ずっと「負担」だったのだ。

 迷惑をかけている自覚は、ずっとあった。
 病室に運ばれる薬代、医師の診察、付きっきりの世話。
 元を辿れば、この馬車だって、誰かの手間と時間を奪っている。

(じゃあ、私がいなくなれば、みんな楽になるんだわ)

 そう考えてしまえば、少しだけ息がしやすくなる気がした。

 マリアンヌだけが、列の端で目を赤くしていた。
 彼女と目が合うと、クレアは小さく笑って頷く。

「今まで、ありがとう」

「お嬢様こそ……どうか、ご自愛くださいませ」

 言葉を交わす時間は、それだけだった。
 長く話せば、泣いてしまいそうで怖かった。

 御者が「そろそろ」と促す声をかける。
 クレアは深呼吸をひとつしてから、馬車へと乗り込んだ。

 重く閉じられる扉。
 車内は、予想以上に狭かった。座席は固くて、背中に木の感触がじわりと伝わってくる。

 窓は小さなガラス窓がひとつ。
 そこから見えるのは、屋敷の正面階段と、石畳の庭だけだ。

 御者台のほうから、馬を叩く鞭の音がした。

「出発します!」

 馬車がごとりと揺れ、ゆっくりと前へ進み出す。
 クレアの身体も、揺れに合わせてわずかに跳ねた。

 石畳を抜け、鉄の門が遠ざかっていく。
 あの門の向こう側に、一度も自由に出たことのない庭園があって、そのさらに向こうに街と世界がある。

 今日はじめて、自分の意思ではないにせよ、その外側へと運ばれていく。

 窓の外を、じっと見つめる。
 門が小さくなっていく。
 屋敷の白い壁が、視界の端へと追いやられていく。

 胸の奥が、じんわりと痛んだ。

(これまで見てきた空より、今日一日で見る空のほうが、きっと多い)

 ふと、そんな考えが浮かぶ。
 今までの人生は、天蓋越しのぼやけた光と、閉ざされた窓から漏れ込む青さだけだった。

 今、窓の向こうには、まっすぐな道と、遠くまで続く空がある。

 気づいたら、指先でペンダントを触っていた。
 木の感触が、さっきより少し温かい。

「クレアお嬢様!」

 突然、遠くから声が飛んできた。
 驚いて窓の外を覗くと、玄関前に置かれていたはずのマリアンヌが、走って追いかけてきていた。

 年齢を考えれば無茶な速度だ。
 息を切らしながら、必死でスカートを握りしめている。

 御者が気づいて、馬車の速度を少し落とした。
 ほんの一瞬、マリアンヌと目が合う。

「……!」

 クレアは思わず窓ガラスに手を押し当てた。
 声を出したいのに、喉がうまく動かない。

 マリアンヌは、なにかを叫んでいる。
 けれど、距離と馬車の軋む音にかき消されて、言葉は聞こえない。

 それでも、その表情だけははっきりと見えた。

 泣きそうで、それでも笑おうとしている顔。

 クレアの視界が、じわりと滲んだ。

 やがて、マリアンヌの姿は小さくなり、完全に見えなくなった。
 それでもしばらく、クレアは窓から目を離せなかった。

 ***

 屋敷を離れると、街道沿いの景色が流れていく。
 王都の石造りの建物はすぐに途切れ、麦畑が広がるのどかな風景に変わった。

 馬車はガタガタと道の凹凸を拾い、そのたびにクレアの身体も揺れる。

 もしこれが、憧れの旅立ちだったなら。
 胸を躍らせて、この揺れすら楽しく感じられたのだろうか。

(……ないわね)

 自嘲気味に息を吐く。
 現実は、そんな甘いものじゃない。

 追放。
 辺境送り。
 雑役係。

 どれも、聞くだけで胃が重くなるような言葉だ。

 窓の外の青空は、やけにまぶしい。
 見上げれば、限りなく広がっているのに、自分の未来はあまりにも狭く感じた。

「……不思議」

 ぽつりと、言葉が零れる。

 これほどの距離を、外の世界を、これまで一度も自分の足で歩いたことがなかったなんて。

 窓の外を流れていく景色に目を凝らすと、色々な匂いと音が、想像だけで鮮明に感じられる気がした。

 刈り取られた麦の、乾いた香り。
 遠くで鳴る牛の鳴き声。
 畑仕事をしている人々の、笑い声。

 全部、自分には縁のない世界だったはずなのに。

 やがて、麦畑も減り、低い丘と疎らな森が増えていく。
 空が少しずつ曇り始め、風が冷たくなってきた。

 森が近づくにつれて、クレアの耳に妙な感覚がまとわりつく。

(……耳鳴り?)

 最初は、そう思った。

 きいん、と高い音がするわけではない。
 むしろ、さわさわと木々が揺れる音が、耳の奥で増幅されていく感じ。

 葉擦れの音が幾重にも重なって、波のように押し寄せてくる。

「うっ……」

 こめかみを押さえる。
 頭がずきずきと痛み始めた。

 馬車の揺れが酷くなったわけではない。
 酔ったのとも違う。
 ただ、何かが脳の内側からノックしている感覚だけが、どうしようもなく気持ち悪い。

 額に汗が滲む。
 背中に冷たいものが伝う。

「やっぱり……無理、だったのかしら」

 思わず弱音が漏れる。
 部屋から一歩も出られなかった体が、こんな旅に耐えられるはずがないのだと、諦めかける。

 そのときだった。

 ざあっ、と。
 馬車の外で、大きな風の音がした。

 窓の外に目を向けると、道の両脇に広がる森の木々が、一斉に揺れていた。
 ただ揺れているだけじゃない。
 まるで、なにか合図でも送るように、同じリズムでざわざわと。

(……なに、これ)

 言葉にならない違和感が、背筋を撫でる。
 風の音は、だんだんと“音”ではなく“意味”を持ち始める。

 耳鳴りだと思っていたざわめきが、形を変えて、頭の中に直接流れ込んでくる。

『――――』

 最初は、聞き取れなかった。
 節のない旋律のようで、ただの感覚の塊のようで。

 それが少しずつ、輪郭を得ていく。

『――ようこそ』

「え?」

 聞き間違いかと思った。
 だが、森の奥から吹き上がる風が、今度ははっきりと。

『――おかえり』

 ぞくり、と肌が粟立つ。

 誰かの声に聞こえた。
 それも、一人ではない。
 何十人、何百人という囁きが重なり合って、一つの言葉になっている。

 あまりにもありえない感覚に、頭が追いつかない。

「……熱、かな」

 自分に言い聞かせるように呟く。
 そうだ。熱がぶり返したんだ。
 だから、幻聴が聞こえているだけ。

 こめかみを強く押しすぎたせいで、視界が少し揺れた。
 ペンダントの木が胸元でカツンと鳴る。

 それでも、風の囁きはやまない。

『こっちへ』『まっていた』『やっと』『やっと』

 言葉になりきらない感情の波が、胸の奥をかき回す。

 息が苦しい。
 けれど、不思議と“嫌な苦しさ”ではなかった。

 どちらかといえば――

(懐かしい、ような)

 ありえない、と思う。
 森になんて来たこともない。
 外の世界は、窓越しに見た記憶しかないのに。

 それでも、このざわめきに触れていると、胸の一番奥の、ずっと小さく縮こまっていた部分が、じんわりと温まっていく気がする。

「……気のせい。きっと気のせい」

 そう言い聞かせて、目をぎゅっと閉じる。
 馬車の揺れに身を預け、深く息を吸い込む。

 薄く鼻をくすぐる匂いが変わっていることに気づいた。
 薬草の匂いではない。
 朝露を含んだ土と、湿った樹皮と、枯れ葉の、複雑な混じり合い。

 生きているものと、朽ちていくものの匂いが、同じ空気の中で呼吸している。

 それが、妙に心地よかった。

 屋敷の中では、そんな匂いは一度も嗅いだことがない。
 あの家には、いつも乾いた香水と、磨かれた床と、薬草の匂いしかなかった。

 馬車が、少し速度を落とした。
 御者がぼそっと何かを呟く声が聞こえる。

「この辺りから、森が深くなっていきますんでねぇ……」

 たぶん、誰にともなく言った独り言。
 それでも、クレアの胸には、ひどく強い意味を持って刺さった。

 森が深くなる。
 世界が変わる。

 窓の外を見つめる。
 さっきまで遠くに見えていた木々が、今はすぐそこまで迫ってきていた。
 道の両脇を挟むように、ぎっしりと。

 枝と枝が絡まり合って、ところどころ空を遮る。
 けれど、その隙間から差し込む光は柔らかく、森の中を淡い緑に染めていた。

 木の幹には、ところどころ苔が生えている。
 その緑は、クレアの瞳の色とよく似ていた。

 風が、また、窓ガラスを軽く叩く。

『――ようこそ』

 さっきよりも、はっきりと。
 まるで歓迎の合唱みたいに。

 クレアは、そっと胸元のペンダントを握りしめる。
 木の感触と、風の囁きと、自分の心臓の鼓動が、ひとつに混ざり合っていく。

 頭痛は、いつのまにか薄れていた。
 代わりに、胸のあたりがじんじんと熱を帯びる。

(……なんなの、これ)

 怖い。
 でも、怖いだけじゃない。

 なにか、とても大切なものに、少しずつ近づいているような――そんな予感。

 馬車は、ゆっくりと、しかし確実に森の奥へ進んでいく。

 クレアは窓から目を離せなかった。
 揺れる木々の影を、ひとつひとつ、確かめるように追いかける。

 その瞳に映る世界は、もう“病室から眺めるだけの景色”ではない。

 まだ何も知らない。
 この先、自分がどんなものを見ることになるのかも、どんな役割を背負わされることになるのかも。

 それでも――

(もしかしたら、あの家の外にも、“私の場所”って、あるのかな)

 ふと浮かんだその考えに、クレアは自分で驚いた。

 知らない世界は怖い。
 でも、“知っているはずの世界”が、あれほど恐ろしかったのだから。

 馬車の外で、木々がざわめく。
 その音は、もう耳鳴りには聞こえなかった。

 ようこそ。
 おかえり。

 風が、何度も何度も同じ言葉を重ねてくる。

 クレアは、それを幻聴だと決めつけながらも――心のどこかで、その言葉に救われている自分を、どうしても否定できなかった。
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