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第3話「辺境村フィルナ、土と煙の匂い」
しおりを挟む馬車が大きく揺れたあと、ふっと速度を落とした。
「……そろそろ、着きますぜ、お嬢さん」
御者の声が頭上から降ってくる。
クレアは背もたれから体を起こし、小さな窓の外を覗き込んだ。
そこにあったのは――
彼女が想像していた「辺境の村」の、さらに一歩先をいく荒れ具合だった。
乾いた土が、風に吹かれて細かい砂煙をあげている。
道らしい道はあるが、ところどころ抉れていて、雨が降ればすぐに泥の川になりそうだ。
井戸の石組みはひび割れ、縄はすり切れている。
家々は低く、屋根は傾き、板壁にはところどころ穴が空いていた。
村の向こう――地平線の少し手前に、黒ずんだ森が口を開けている。
まるで世界の端が腐り落ちて、そのまま固まってしまったみたいな色だ。
(……ここが)
クレアは、喉の奥がきゅっとすぼまるのを感じた。
(私が“役に立つ”かもしれない場所)
そんなふうに言い聞かせないと、ただの絶望として胸に沈み込んできそうだった。
馬車が村の中心で止まる。
御者が扉を開けてくれた瞬間、むっとした空気が流れ込んできた。
土と煙と、少し焦げた油の匂い。それに混じって、獣の毛と、鉄と、汗。
王都の屋敷では決して嗅ぐことのなかった、生の匂いだった。
「降りられますかい?」
「……はい」
クレアはスカートの裾を押さえ、慎重に馬車から降りる。
乾いた土を、靴底がぐっと踏みしめた。
足の裏に伝わるのは、石畳とはまったく違う、不安定な感触。
でも、不思議と嫌ではなかった。
地面と、自分の体がやっと繋がった気がした。
ふと見ると、近くに粗末な柵で囲われた建物がある。
木と石を適当に組み合わせたような作りだが、入口には錆びた槍が数本立てかけられていた。
そこが、この村の駐屯地らしい。
入口の前には、数人の兵士がたむろしていた。
鎧は傷だらけで、ところどころ継ぎ当てがされている。
顔も日焼けと疲労でくたびれきっていた。
「おーい、新しい荷馬車か? ……って、女?」
ひとりが目を細めてこちらを見る。
クレアの姿を上から下までざっと眺め、眉をひそめた。
「まさか、あれが例の“増員”ってやつじゃねえよな」
「知らねえよ。どう見ても戦えそうには見えねえけどな」
兵士同士の会話が丸聞こえで、クレアは苦笑したくなった。
慣れている。こういう「期待されていない目線」には。
御者が気まずそうに咳払いをし、駐屯地の中へ向かって声を張る。
「隊長殿! 王都からの“雑役要員”をお連れしました!」
(雑役要員、ね)
言い方は事務的で、悪意はない。
でも、肩書きみたいに響くその言葉が、胸の奥で小さく刺さった。
建物の奥から、靴音が近づいてくる。
やがて姿を現したのは――
「お前が、クレア・エルフォルトか」
低い声。
クレアは反射的に姿勢を正した。
出てきたのは、短く刈り込んだ黒髪の女性兵士だった。
筋肉質な腕が袖から覗き、日焼けした肌には小さな傷跡がいくつも走っている。
胸当ての革鎧は、簡素だがよく手入れされていた。
眉はきりっと上がり、瞳は鋭い。
けれど、その奥にかすかに柔らかさが見え隠れしている。
「は、はい。クレア・エルフォルトです」
クレアが名乗ると、女性はじろじろと彼女の全身を眺めた。
細い腕、華奢な手首、土に慣れていない足取り。
そして、首元にぶら下がる古い木製ペンダント。
「……ずいぶん、細いな」
第一声がそれだった。
クレアは思わず苦笑する。
「よく言われます」
「そうだろうな」
女性兵士は鼻を鳴らすと、自分の胸を拳でとんと叩いた。
「私はこの駐屯地の小隊長、マリア・グレンダ。ここでは、私の指示に従ってもらう」
「マリア隊長、マリア隊長。俺にも紹介してくれよ」
横から、軽い声が割り込んできた。
振り向くと、そこにはまだ年若い兵士が立っている。
茶色の髪はぼさぼさで、額の真ん中で跳ねている。
目つきは悪いが、どこか子どもっぽい。
腰の剣は使い込まれているが、刃の側面には小さな欠けが残っていた。
「ノエル・ハーシェ。見ての通り、イケメン兵士だ。よろしく」
「自分で言うな」
マリアが容赦なく拳骨を落とす。
ごつん、と鈍い音がして、ノエルは頭を押さえた。
「いってえなマリア隊長! 俺の貴重な脳細胞がまた死んだらどうすんだよ!」
「元から大して詰まってねえだろ。黙って仕事しろ」
言い合う二人のやり取りは、荒っぽいのにどこか親しげで、クレアの頬が緩みそうになる。
ノエルは頭をさすりながら、あらためてクレアを観察した。
「で、本当にこのお嬢さんが新しい雑役ってわけ? 冗談だろ」
「本気だ。本隊からの通達だ」
「いやいやいや、だって見ろよこの腕。俺の剣より細いぞ」
「比べる対象がおかしいのよ、あんたは」
マリアが呆れたように吐き捨てる。
しかし、その声には先ほどよりも少しだけ柔らかさが混ざっていた。
「……わかる。私も、そう思います」
クレアは小さく手を上げた。
「戦うことはできませんし、力仕事も得意ではないです。でも、水汲みや掃除くらいなら、きっと」
「“きっと”ねえ」
ノエルは肩をすくめる。
「まあいいや。倒れても知らないからな」
「倒れたら、あんたが運ぶんだよ」
「マリア隊長、人使い荒すぎ」
二人のやり取りに、クレアの緊張が少しだけ和らぐ。
こういう軽口の飛び交う空気に触れたことが、今までほとんどなかった。
彼女の世界は、いつもひそひそ声とため息ばかりだったから。
「クレア」
マリアが、真面目な声で呼びかける。
「ここは王都とは違う。危険も多いし、物資も足りない。……だからこそ、雑用の一つ一つが馬鹿にできないんだ」
「はい」
「水がなければ喉が渇く。床が汚れれば怪我人が感染する。洗濯をサボれば、鎧が擦り切れて命に関わる。どれも、“ただの雑用”じゃない」
マリアの言葉に、クレアは目を見開いた。
雑役。
王都では「役立たずの行き先」として押し付けられた仕事。
でも、ここでは――
「ここでの仕事は、全部、誰かの命につながってる。
お前がやるのは、そういう雑用だ。……できるか?」
まっすぐな問いかけ。
クレアの喉が、ごくりと鳴る。
自信はない。
体がもつかどうかもわからない。
それでも――
「……やってみたいです」
気づいたら、そう答えていた。
「私、今まで、なにか“ちゃんと役に立った”ことがなくて。
もし、本当に誰かの助けになれるなら……やってみたいです」
自分で言っていて、胸の奥がくすぐったくなる。
そんな自分の願いを、口に出したことなんてなかったから。
マリアは一瞬だけ驚いたような顔をし、それからふっと口元をゆるめた。
「よし。なら決まりだな」
「隊長、甘いなあ。絶対三日でぶっ倒れるって」
「黙れノエル」
ごつん。
再び、ノエルの頭に小気味よい音が響いた。
「いってえ! 今日一日で二回も殴られてんだけど!」
「足りないくらいだよ」
そんなやりとりに、クレアの口元から、小さな笑いが漏れる。
笑った自分に驚いて、慌てて唇を押さえた。
マリアがそれに気づいたのか、ほんの少しだけ優しい目をした。
「とりあえず、荷物を置きに来い。寝る場所は、女用の簡易宿舎を用意してある。……たいしたところじゃないが」
「ありがとうございます」
クレアはぺこりと頭を下げると、馬車から降ろされた小さな鞄を抱え、マリアのあとをついていった。
***
駐屯地の内部は、外から見た以上に質素だった。
広場のようになっている中央スペースには、訓練用なのか、木製の人形や丸太が無造作に並んでいる。
端にはかまどと大鍋。その横には大きな水桶。
兵舎は木造で、壁にはところどころ隙間がある。
だが、その隙間に布が詰められていたり、板が打ち付けられていたりして、誰かが何度も手を入れた痕跡があった。
女用の簡易宿舎と呼ばれた場所は、兵舎の一角に仕切りを作っただけの部屋だった。
二段ベッドが二つ。
薄いマットレスと、洗いざらしのシーツ。
「今は女の兵士は私だけだから、お前と二人で使うことになる。……他に来る予定も当面はないな」
「お世話になります」
「世話ってほどのことはできねえけどね」
マリアは肩をすくめると、部屋の隅を指さした。
「ここが、お前のスペースだ。鞄を置いたら、すぐに動いてもらうぞ。今日は水汲みと床磨きだ」
「今日から、ですか?」
「今日からだ」
即答。
クレアは思わず目を瞬かせる。
「だ、だいじょうぶでしょうか。旅のあとですし……」
「大丈夫じゃなきゃ困る。ここでは、“慣れるまで様子を見る”なんて甘えは通用しない」
言葉はきつい。
でも、その言い方には、「やれる」と信じている響きが、ほんのわずかに含まれている気がした。
クレアは小さく息を吸い込み、頷く。
「……やってみます」
「よし。じゃあノエル!」
マリアが兵舎の外に向かって声を張ると、すぐにノエルが顔を突っ込んできた。
「へいへい、分かってますよマリア隊長。新入りの雑役ちゃんに仕事を教えりゃいいんだろ」
「その言い方やめな。クレアだ。名前で呼べ」
「へいへい、クレアちゃんね」
「“ちゃん”もいらないと思います」
思わず口を挟むと、ノエルが「お、言うじゃん」とニヤリと笑った。
「じゃあクレア。まずは水汲みだ。井戸までついてこい」
***
村の中央にある井戸は、近くで見るとさらにひどかった。
石組みには大きなヒビが入り、ところどころ欠けている。
縄は擦り切れ、木製の滑車は軋んだ音を立てていた。
「うわぁ……」
思わず声が漏れる。
ノエルは肩をすくめた。
「だろ? でも、これでもまだマシなほうなんだぜ。この前までは、縄の代わりにボロ布結んでたし」
「それは、さすがに危ないのでは……」
「危ないよ。でも、他にないから使うのさ。ここはそういう場所」
ノエルは慣れた手つきで桶を縄に結びつけ、ひょいひょいと井戸に降ろしていく。
ごつごつした木の桶が石の内側に当たって、鈍い音が響いた。
「はい、次はクレアの番」
「わ、私が?」
「当たり前だろ。“雑役”なんだから」
そう言われると、なにも言えなくなる。
クレアはおそるおそる桶を受け取り、縄を握った。
「力任せに引っ張ろうとすると手の皮が剥けるから、こう、腕全体を使えよ。腰も一緒に」
「こ、こう?」
「そうそう。お、意外と筋がいいじゃん」
ノエルが軽く驚いたように言う。
クレアは自分でも驚いていた。
たしかに重い。
腕がぷるぷると震える。
けれど、思っていたほど「無理」とは感じなかった。
いつも部屋のベッドから起き上がるだけで息が切れていたのに、今は――
(もしかして、私、動けてる?)
桶を地面まで引き上げる。
水面が揺れ、太陽の光を跳ね返してきらりと光った。
「よくやったな。ほら、次はこれを運ぶんだ」
「えっ、これを持って、ですか?」
「当たり前」
ノエルがあっさり言う。
クレアは桶の取っ手を両手で掴み、持ち上げてみた。
「……っ」
予想以上の重さに、腕がビリビリと痺れる。
でも、持てないわけじゃない。
腰を落として、前かがみになれば、なんとか運べる。
「無理なら言えよ? ほら、倒れて水ぶちまけられても困るし」
「……大丈夫、だと思います」
本当は大丈夫かどうか分からない。
でも、「できません」と言うのはもっと怖かった。
一歩。
また一歩。
土の上を歩くたび、靴底の下で砂がずりっと滑る。
水面がちゃぷんと揺れ、冷たい雫が指に跳ねる。
腕が焼けるように熱くなっていく。
肩も痛い。
息も上がる。
それでも。
(熱じゃない)
胸の奥で、クレアは驚いていた。
これは、あの寝込むときの熱じゃない。
体の奥が焼けただれるような、内側から溶けていくようなあの熱とは違う。
今、腕と肩を満たしているのは、「使っている」感覚だ。
ちゃんと、ここにいる。
ちゃんと、動いている。
(こんな、当たり前のことが、こんなに……変な感じ)
汗が額を伝う。
風がそれを撫でて、ひやりと冷やしていく。
駐屯地の水桶までたどり着くと、ノエルが「おつかれ」と言って桶を支えてくれた。
「思ってたよりやるじゃん。途中でぶっ倒れるかと思ってたけど」
「……ひどい前提ですね」
「いや、だってさ。最初見たとき、本気で“ここまで来る間に死ななかったの奇跡じゃね?”って思ったし」
「それは……否定できません」
冗談のつもりで言ったのに、クレアの返事は妙に真面目で、ノエルは一瞬きょとんとしたあと、苦笑した。
「マジかよ……王都って怖いとこだな」
「王都のせい、なんでしょうか」
「さあな。でも、少なくともここよりは守られてるだろ。魔獣も出ねえし、瘴気もねえし」
ノエルが顎で指し示した先、遠くの森が黒く口を開けていた。
さっきよりも近くに見える。
その黒さは、目に入れるだけで心臓が冷えるようだった。
「あれが、“瘴気の森”……」
「そう。最近、あいつがどんどん近づいてきてる。だから俺たちはここにいる」
ノエルの横顔が、一瞬だけ引き締まる。
いつも軽口ばかり叩いている彼にも、ちゃんと“兵士の顔”があるのだと分かる。
クレアはその森から目を離せなかった。
見ているだけで胸がざわざわする。
怖いはずなのに、不思議と目を逸らせない。
「……なんか、感じるのか?」
「え?」
「森見てるときの顔。なんか、変だったぞ。怖いだけじゃなさそうっていうか」
「そ、そんな顔してました?」
「してた」
即答されて、クレアは慌てて視線を下に落とした。
「ただ、あの黒さが……気になっただけです。すみません、変なこと言って」
「いや、別に謝ることじゃねえよ。あの森は、誰が見ても変だから」
ノエルは笑ってそう言うと、「さ、次いくぞ」と手を打った。
「水汲みはまだ終わらねえし、そのあと床磨きが待ってるからな。地獄の一丁目へようこそ」
「地獄って言っちゃうんですね……」
「現実から目を逸らすなってマリア隊長の教えだ」
そんな他愛ない会話をしながら、クレアの「初日の雑役」は続いていった。
水汲み。
かまどの灰の処理。
兵舎の床磨き。
洗濯物を干して、取り込んで、畳む。
ひとつひとつは、特別な仕事ではない。
でも、彼女にとってはすべてが初めての連続だ。
バケツを運ぶたびに腕が悲鳴を上げる。
床を磨き続けると、膝がじんじんと痺れてくる。
洗濯物を持ち上げるたび、手のひらの皮が擦り切れそうになる。
それでも――
(まだ、倒れてない)
太陽が傾き始めた頃、クレアは自分の体に驚いていた。
息は上がっている。
汗もかいている。
全身が痛い。
でも、あの、体の奥が焼け切れるような熱は、どこにもない。
幼い頃から、少し無理をするだけで、すぐに高熱を出して寝込んでいた。
階段を二階ぶん上るだけで、呼吸が苦しくなっていた。
それが今は。
井戸まで何往復もして、床を一面磨いて、それでも――なんとか、立っていられる。
(どうして)
理由は分からない。
分からないけど、この村の空気と土と風が、自分の体を少しずつ変えているような気がした。
もしくは。
胸元のペンダントをそっと握る。
木の丸みが、じんわりと温かい。
(……この森が)
遠くで、黒ずんだ森が揺れている。
光の加減か、さっきよりも少しだけ、黒さが柔らかくなった気がした。
「クレア」
背後から呼ぶ声に振り向くと、マリアが立っていた。
手には、大きなマグカップが二つ。
「初日からよくやってる。飲め。薄いけど、温かいスープだ」
「ありがとうございます」
マグカップを受け取ると、ふわりと湯気が立ち上った。
野菜と塩と、少しの肉の匂い。
決して贅沢な匂いではないのに、心の奥まで届くような温かさがある。
ひと口飲むと、舌が驚くほど喜んだ。
こんなに身体に染みる味があるのかと、目がじんと熱くなる。
「……おいしいです」
「だろ。ここでの唯一の楽しみだからな、それ」
マリアは自分のマグカップをあおりながら、じっとクレアを眺める。
「倒れてないな」
「はい。自分でも、驚いています」
「王都から来た“虚弱のお嬢様”って聞いてたから、どうなることかと思ってたが……意外と根性あるじゃないか」
「虚弱なのは、本当ですよ」
クレアは苦笑する。
「でも、ここだと、まだ大丈夫みたいで」
「……そうか」
マリアはそれ以上何も言わず、ただ「ふん」と鼻を鳴らした。
その横で、ノエルが口を挟む。
「まあ、今日一日は勢いで乗り切れても、本当の勝負は明日からだからな。筋肉痛地獄の二日目ってやつ」
「ノエル、脅すな」
「事実じゃん」
わちゃわちゃとやり合う二人を見ていると、クレアの胸の中の緊張が少しずつ解けていく。
(ここで、私は――)
ペンダントを握る手に、力が入る。
(もしかしたら、本当に……“なにか”になれるのかもしれない)
エルフォルト家の長女としてではなく。
王都の「病弱な厄介者」としてでもなく。
ただのクレアとして。
遠くで、黒い森がまたざわめいた。
その気配は、夕暮れの赤と混ざり合いながら、彼女の背中を、そっと押しているようだった。
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