無能令嬢、『雑役係』として辺境送りされたけど、世界樹の加護を受けて規格外に成長する

タマ マコト

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第4話「“無能”じゃなかったかもしれない、ささやかな違和感」

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 辺境での生活に、日数だけはそれなりに“積み重ね”ができてきた。

 といっても、華やかな意味ではない。
 水汲みの回数、床を磨いた面積、洗った洗濯物の山の高さ――そんな数字が、静かに増えていっているだけだ。

 それでもクレアにとっては、すべてが新記録だった。

 朝、まだ空が淡く白んでいるうちに起きる。
 固いマットレスから身体を起こすと、あちこちがぎしぎしと軋む。
 筋肉痛は相変わらずで、特にふくらはぎと腕は毎日抗議している。

(……今日も、ちゃんと動ける)

 それが、目覚めのたびに最初に確認することになっている。

 かつては、その日の体調が“生きるか死ぬか”レベルで変動していた。
 今日は無理、と言われて寝かされる日も多かった。

 ここでは、痛いけれど、動ける。
 それが、不思議で、嬉しくて、少しだけ怖い。

 顔を洗って簡単に髪をまとめると、宿舎の外に出る。
 朝の空気は冷たくて、肺の奥まで一気に入ってくる。

 土と煙と、湿った木の匂い。
 村のどこかから、早起きな鶏の鳴き声が聞こえる。

「おはようございます」

 訓練場の隅でストレッチしていたマリアに頭を下げると、彼女は片手を挙げて応えた。

「おう。今日も生きてるな」

「生きてます」

「上出来だ」

 それで会話は終わり。
 でも、その短いやり取りが、クレアには妙に安心できるものになっていた。

 ノエルはというと、たいていはもうどこかの仕事場に放り出されているか、逆にギリギリまで寝ていてマリアに怒鳴られているかのどちらかだ。

 この日は、怒鳴られているほうだった。

「ノエル! 朝の見回りはお前の当番だって昨日言ったよな!」

「言いましたねえ……言いましたけど……俺は言われたことをすぐ忘れる病気なんですよ……」

「そんな都合のいい病気、聞いたことない!」

 宿舎の奥から聞こえてくる怒声と情けない悲鳴に、クレアは思わず笑いを噛み殺した。

 こういう賑やかさも、昔の自分の生活には一切存在しなかったものだ。

 ***

 その日、クレアに任された仕事のひとつは、「壊れた桶の修理」だった。

「修理って……私にできるんでしょうか」

 壊れた桶と工具箱を前に、クレアは不安げに眉を寄せる。

 桶は、底板と側面の板の境目が割れていて、水を入れるとそこからだだ漏れする状態だった。
 木も乾ききっていて、ところどころささくれている。

「完璧に直せとは言わねえよ」

 マリアはしゃがみこんで桶を指で叩きながら言った。

「使えるようになればそれでいい。新しいのを買う金なんてないんだから、自分たちでなんとかするしかない」

「ですよね……」

「とりあえず、板を合わせてみろ。隙間が少なくなれば、布や樹脂でごまかせる」

 そう言って、マリアは立ち上がり、「私は表の見回りに行ってくる」と去っていった。

 残されたクレアは、桶と向き合う。

(板を、合わせる……)

 工具箱の中には、釘や金槌も入っている。
 けれど、どれをどう使えばいいのか、正直よく分からない。

 とりあえず、割れて隙間のできた部分にそっと触れてみる。
 木の感触は、ペンダントとどこか似ている。冷たくて、ざらざらしていて、その奥に薄いぬくもりがあるような、変な感覚。

「ええと……こうして、こう……?」

 クレアは、割れた板を両手でそっと押し合わせてみた。
 無理に力を入れるというより、「そこに戻って」と頼むようなつもりで。

 すると。

 ――ぴたり。

 板と板の継ぎ目が、信じられないくらい綺麗に噛み合った。

「え?」

 思わず手を離す。
 普通なら、また隙間が開くはずだ。
 ところが、桶の側面は、そのままの形を保っている。

 隙間は消え、表面はなめらかな一本の線になっていた。

「……あれ?」

 クレアは慌てて水を少し汲んできて、桶に注いでみる。
 底のほうから漏れてくる水を覚悟して、じっと見つめる。

 一滴も、こぼれてこなかった。

「嘘、でしょう……?」

 信じられなくて、指でなぞる。
 板と板の境目はある。けれど、その隙間はまるで古い傷跡のように薄く閉じていて、とても“さっきまでひび割れていた”とは思えない。

 釘も打っていない。
 樹脂も、布も使っていない。

 ただ、手で押し合わせただけ。

 胸の奥が、ひゅっと冷たくなる。

(いやいやいや、たまたま、もともと直しやすい状態だっただけで……)

 自分で自分に言い聞かせる。
 そうじゃないと、この状況の説明がつかない。

「マリア隊長に見せたら、どう思うだろ……」

 少し迷って、クレアは桶を抱えて駐屯地の入口まで運んだ。
 ちょうどそこに、見回りを終えたマリアが戻ってきたところだった。

「マリアさん! あの、桶、直ったみたいで」

「お、もうやったのか。意外と器用だな」

「いえ、その……」

 どこまで説明したものか迷っていると、ノエルが横から顔を突っ込んできた。

「何々? クレアが桶直したって? へえ、そんな芸当できるのか」

 興味津々で桶を覗き込むノエルと、素早く状態を確認するマリア。

 マリアが、水を少し注いで確かめる。
 漏れない。
 再度、桶の側面をぐるりとなぞる。
 継ぎ目は固い。

「……きれいに直ってるな。釘は?」

「打ってません」

「樹脂は?」

「使ってません」

「布も?」

「布もです」

「……どうやった」

 真顔で問われる。
 クレアは、少し怯えながらも正直に説明した。

「触ってみて、押してみて、“ここにいたほうがいいと思う”って、なんとなく……」

「なんだその説明」

 ノエルがツッコミを入れる。

「“ここにいたほうがいいと思う”って、板の気持ちになってどうすんだよ」

「だって、本当にそんな感じだったんです……」

 クレアがしどろもどろになると、マリアはふっと肩をすくめた。

「まあ、いい。偶然だろうがなんだろうが、使えるようになったならそれでいい」

「……偶然、ですかね」

「だろ」

 マリアはあっさりと言い切る。

「たまたま木目の噛み合いが良かったとか、そういうやつだ。世の中には、そういうこともある」

「そういうものですか」

「そういうものだ」

 彼女がそう言うなら、そうなのかもしれない。

 それでも、胸のどこかの小さな部分が、「本当に?」と首をかしげている感じが残った。

 ***

 桶の件だけなら、まだ“偶然”で片付けられたかもしれない。

 だが、似たようなことが、少しずつ増えていった。

 たとえば、放牧地の柵。

 ある日、村の子どもが駆け込んできて、「柵が壊れてる!」と大騒ぎしたことがあった。
 放っておけば、家畜が抜け出し、最悪、瘴気の森のほうへ迷い込んでしまうかもしれない。

 マリアが現場に向かい、ついでに雑役のクレアも呼ばれた。

「ノエルは?」

「別の仕事で手一杯だ。こっちはこっちでなんとかする」

 放牧地の柵は、想像以上にボロボロだった。

 丸太と枝を無理やり組み合わせた柵は、土台から傾き、一本が完全に折れている。
 そこから、羊が頭を突き出して「めえ」と鳴いていた。

「……ごめんなさい」

 羊に謝ってどうする、と思いつつ、クレアの口から謝罪の言葉が漏れる。
 マリアはその様子に苦笑した。

「謝る相手が違うだろ。ま、直せば済む話だ」

 予備の木材も、釘も、決して十分ではない。
 それでも、やれる範囲でなんとかするしかなかった。

「細かいところは私がやる。クレアは、ここに枝を差し込んで、隙間を塞いでくれ」

「は、はい」

 クレアは、指示された通りに折れた棒の代わりになりそうな枝を集めてくる。
 長さや太さを合わせて、ぽっかり開いた穴に差し込んでいく。

 枝の向きを変えたり、少し削ったりしてみるが、なかなかぴったりはまらない。
 ほんの少しの隙間が空いてしまう。

(どうしたら……)

 枝に触れた指先が、妙に敏感だった。

 木の繊維が、どっちに曲がりたがっているのか。
 どの角度なら、無理なくそこに収まるのか。
 そんなことが、なんとなく分かる気がした。

「……こっち、かな」

 クレアは、試しに枝の向きを少し変えて、押し込んでみた。
 すると、驚くほどすんなりと柵の隙間に収まる。

 その周囲に、さらに小枝や葉を詰めていくと――ぽっかり空いていた穴は、ほとんど見えなくなった。

「おお」

 マリアが感心したように唸る。

「器用だな。初めてにしては上出来だ」

「本当ですか?」

「ああ。家畜が通り抜ける隙間はない。……私の仕事がひとつ減った」

 その言い方がなんだか嬉しくて、クレアは頬を緩めた。

 そして、そのときだった。

 ふと、足元の草が視界に入る。

 さっきまで、放牧地の地面は踏み荒らされ、ところどころ土がむき出しになっていた。
 乾いて、色もくすんでいる。

 ところが、

(……あれ?)

 柵の隙間を塞いだあたりだけ、草がわずかに色を取り戻していた。
 薄い緑が、土の茶色の上に滲んできている。

 風が吹いたわけでも、雨が降ったわけでもない。
 なのに、そこだけ、ほんのりと“生きている”感じが強い。

「マリアさん。ここ、なんだか……」

「ん?」

 マリアも足元を覗き込み、目を細める。

「ああ……気のせいだろ。羊が通れなくなって土を踏まなくなったからじゃないか?」

「そう、でしょうか」

「そうだよ。今まで踏み固められてた地面が休めば、草だって生える」

 説明としては、たしかに筋が通っている。
 でも、そんな即効性のある話があるだろうか。

 クレアがまだ納得し切れずにいると、放牧地の向こうからノエルがひょっこり顔を出した。

「おーい、柵直ったかー? 羊、脱走してねーかー?」

「ノエル、遅い」

「いやいや、こっちも忙しいの。俺は万能じゃないの。イケメンで有能で優しいけど」

「自分で言うなって何度言えば」

 呆れたマリアの横で、クレアは草をじっと見つめていた。

 ノエルがその視線に気づく。

「どうした、草フェチか?」

「違います。……ただ、ここだけ、少し、元気になっているような気がして」

「ふーん?」

 ノエルは腰をかがめて草をつまみ、鼻に近づけてにおいをかいだ。

「土臭いな。まあ、枯れてるってほどじゃねえかも」

「ですよね? わたし、変なこと言ってます?」

「変っていうほどでもねえけど……」

 ノエルはクレアの顔と草を交互に見て、突然ぽそっと言った。

「……あんた、何かの加護持ちじゃねえの?」

「え」

 思いもよらない単語に、クレアの心臓が跳ねる。

「だってさ。桶もそうだけど、さっきから“お前が触ったところだけ”変なんだよな。悪い意味じゃなくて」

「変、ですか」

「うん。なんか、“生き返る”って感じ」

 ノエルの声は、いつもの茶化すトーンではなかった。
 半分冗談、半分本気。そんな曖昧な色をしていた。

「いやいやノエル」

 マリアが眉をひそめる。

「簡単にそういうこと言うんじゃない。変な期待を持たせたら、あとで辛くなる」

「でも隊長、実際そう見えるだろ?」

「加護持ちなら、もっと分かりやすく騒ぎになってるよ。王都で診断の一つもされないわけがない」

 その言葉に、クレアは小さく首を縦に振った。

「……そうなんです。私、王都で何度も診てもらいましたけど、“虚弱”って言われただけで」

「だろ?」

 マリアは腕を組んで頷く。

「王都の医師や神官が見落とすほどの加護があるとは思えない。あっても、ごく微弱なものか、ただの勘違いだ」

 理屈は、正しい。
 クレア自身も、そう思いたかった。

 自分が“特別”なんて、怖すぎる。
 期待されることも、がっかりされることも、もう十分だ。

「……そう、ですよね」

 クレアは苦く笑って、草から視線を外した。

 ノエルが、それでもどこか納得いかなそうに口を尖らせる。

「でもなあ……“虚弱”って診断されてたやつが、ここ来てから前より元気になってるのも事実なんだよな。普通逆じゃね?」

「ノエル」

「はいはい、黙りますよ」

 マリアの一瞥で、ノエルは肩をすくめて話を切った。

 話題は流れた。仕事は続く。時間も流れる。

 けれど、クレアの胸の中には、ノエルの何気ないひと言が針みたいに刺さったままだった。

『あんた、何かの加護持ちじゃねえの?』

 ***

 井戸の縁に腰かけるのが、クレアの日課になっていた。

 仕事で井戸を使うことが多いからという実用的な理由もあるが、単純に“ここに座っていると落ち着く”というのが大きい。

 この日も、夕方の水汲みを終えたあと、バケツを並べてから、クレアはひと息ついて井戸の縁に腰を下ろした。

「ふう……」

 井戸の中から吹き上がる風が、ひんやりと頬を撫でる。
 覗き込めば、暗闇の奥で、わずかに水面が光を反射して揺れているのが見える。

 以前は、ここに来るのが少し苦手だった。

 水面が濁っていて、なんとなく重い匂いがして。
 飲み水としては仕方なく使っている、というレベルだった。

 それが、最近になって――ふと気づいたら、匂いが軽くなっていた。
 水面も、前より透明になっている。

「……気のせい、かな」

 クレアは桶をひとつ手に取り、水を汲んでみる。

 冷たい水が、木の桶の中で揺れる。
 指をそっと差し入れてみると、ひやっとする感触が肌を締める。

 そのまま、両手ですくって一口飲んだ。

「……!」

 喉が、一気に通った。
 冷たさだけじゃない。
 口の中に広がる味が、前と違う。

 余計な雑味が抜けていて、舌の上で水が軽く跳ねるみたいに感じる。
 体の奥まで、一気に浸透していく。

「おいしい……」

 思わず本音が漏れた。

 同じ井戸の水なのに。
 同じ土地、同じ桶。

 変わったのは、なに?

 答えの出ない問いを抱えたまま、クレアはしばらく井戸の音に耳を澄ませていた。

 ぽちゃん、と水滴が落ちる音。
 風が通り抜ける音。
 遠くで、子どもたちの笑い声。

 それらが混ざり合ううちに、頭がぼんやりしてくる。
 疲れもあって、瞼がだんだん重くなっていった。

「……ちょっとだけ」

 目を閉じて、井戸の縁に頭を預ける。
 石の冷たさが、眠気に拍車をかけた。

 どれくらい時間が経っただろう。

「クレア! そこで寝るな、落ちる!」

「ひゃっ……!」

 突然の叫び声に飛び上がると、目の前にノエルの顔があった。
 至近距離で見たせいで、茶色い瞳がやけに大きく見える。

「お、おどかさないでください……!」

「おどかしてねえよ! お前が井戸に頭からダイブする前に止めてやったんだよ!」

 ノエルは半分呆れて、半分本気で心配そうな顔をしていた。

 クレアは慌てて周囲を見渡す。
 井戸の縁から、危なっかしいほど身体を傾けていたらしい。

「す、すみません……」

「謝るくらいなら最初から寝るなっての。ここで頭から落ちたら洒落になんねえからな」

「はい……」

 しょんぼり答えるクレアを見て、ノエルは大きくため息をついた。

「ったく。……ってか、お前、なんかした?」

「え?」

「井戸」

 ノエルは桶に水を汲み、じっと中を覗き込む。

「前より澄んでね? 色も匂いも。俺、ここ来てから毎日飲んでるから分かるぞ」

「……やっぱり、そう思います?」

「俺だけじゃねえよ。村の連中も“最近水がうまくなった”って言ってたし」

 ノエルはクレアをじろっと見る。

「で、お前はここで何してた?」

「ええと……座ってました」

「他には」

「ぼんやりしてました」

「他には」

「……ちょっと、疲れて寝かけてました」

「それだけ?」

「それだけです」

 クレアは首を傾げながら答える。
 特別なことは、本当に何もしていない。

 ノエルはしばらく黙ってクレアと井戸を交互に見ていたが、やがて低く呟いた。

「……やっぱ加護持ちじゃね、お前」

「えええ……」

 今度は、完全に冗談で言っていないのが分かった。

「だってさ。桶、柵、そのへんの草、井戸の水。全部お前が関わったとこだけおかしいの、偶然ってレベルじゃねえだろ」

「でも、私、本当に診断受けてて、“虚弱”って」

「“虚弱な加護持ち”って可能性は?」

「そんな器用なことあります?」

「知らん」

 ノエルは首をぽきぽき鳴らす。

「ただ、もし本当に何かの加護持ちだとしたら、放っとくのはもったいねえなと」

「もったいない?」

「そう。使い方覚えれば、もっと便利に……じゃねえ、もっと人の役に立てるじゃん」

 “便利”と言いかけて言い直したあたり、彼なりの気遣いなのかもしれない。

 クレアは視線を落とした。

 人の役に立つ。

 その言葉は、甘い毒みたいに心に滲み込んでくる。

 期待されるのは怖い。
 でも、“役に立たない”ってレッテルを貼られ続けてきた自分には、抗いがたく魅力的でもあった。

「……でも、もし本当に加護なんて持ってたら、王都で気づかれてるはずです」

 最後の防波堤みたいに、クレアは呟く。

「父も、母も。加護持ちの娘なんて、絶対に手放したりしないと思います」

「あー……それはそうかもな」

 ノエルは頭をかき、少し考えるような顔をした。

「まあ、今すぐ答え出す話でもねえか。とりあえず、変なことがあったら、そのたび俺に報告な」

「なぜノエルさんに」

「俺が最初に“あれ?”って言ったから。責任持って見守ってやるよ」

「責任の使い方、間違ってません?」

「いいからいいから。俺、そういうの嗅ぎつけるの得意なんだって」

 どこまでも軽い調子で言うノエル。
 それでも、その言葉に、クレアはほんの少しだけ安心してしまう。

 自分ひとりで抱えるには、あまりにも得体が知れない話だから。

 ***

 夜。

 一日の仕事を終え、簡素な夕食を済ませたあと、クレアはベッドに横たわっていた。

 宿舎の小さな窓からは、夜空が少し見える。
 王都では見えなかった星が、びっしりと貼り付いたみたいに瞬いている。

 部屋の反対側では、マリアが机に広げた地図に何か書き込みをしていた。
 ノエルは別の部屋にいるはずだが、たまに遠くから笑い声が聞こえてくる。

 クレアは毛布にくるまり、静かに目を閉じた。

(疲れた……)

 身体はずっしりと重い。
 足も腕も、筋肉痛でじんじんしている。

 なのに。

(熱、じゃない)

 高熱のときの、あの焼け付く感覚はない。
 その代わりに、胸の奥がじわじわと温かく光っているような、奇妙な感覚があった。

 心臓の少し上、胸骨の内側。
 そこに、小さな灯りがともっているみたいに感じる。

 痛くはない。
 むしろ、心地いい。

(これって……)

 思考がそこまで辿り着いたとき、眠気の波が一気に押し寄せてきた。

 意識がふっと薄くなる。

 そして――

 夢を見た。

 いつもの、薬に溺れたときに見る悪夢とはまるで違う。
 暗闇でもなく、熱にうなされるものでもない。

 視界いっぱいに、緑。

 いや、“緑”という言葉では足りない。
 濃いのに、透明な色。
 光を含んだような、深い深い緑。

 見上げると、空がなかった。

 代わりに、巨大な枝と葉が空を覆っていた。
 枝は空を支える柱のようで、葉は光の海のようだった。

 幹は、見上げても見上げても終わりが見えない。

 その根は、大地を超えて、世界の底まで伸びているようだった。

 その樹は、ただ“そこにある”だけで、世界そのものに見えた。

(……きれい)

 胸がぎゅっと締め付けられる。
 涙が出そうになるほどの、懐かしさと安心感。

 足元を見ると、自分の足が柔らかな苔の上に立っていた。
 裸足なのに、冷たくない。
 むしろ、心臓の鼓動が足裏から伝わっているみたいな、変な感じ。

 風が、枝の間を通り抜ける。
 ざわざわと葉が揺れる音が、耳ではなく、骨を震わせて届いてくる。

『――』

 言葉にならない声がした。

 けれど、意味だけが、まっすぐ心に届く。

 “ここにいるよ”

 “ここに、いたよね”

 “やっと”

 誰の声かは分からない。
 男でも女でもない。
 老いても若くもない。

 でも、その声に触れた瞬間、クレアの胸の奥の灯りが、ぱあっと広がった。

(……知ってる)

 出会ったこともないのに、そう思ってしまう。
 何度も、何度も呼ばれていた気がする。

 その樹の傍らまで歩こうとして、クレアは足を踏み出した。

 その瞬間――

「クレア、寝たか?」

 現実の声が、夢を断ち切った。

「……っ」

 クレアはびくっと身体を震わせ、目を開いた。
 そこには、ベッドの端から覗き込むマリアの顔があった。

「あ、ごめん。起こしたか」

「い、いえ……」

 呼吸が浅くなっている。
 胸の中の灯りは、まだ消えていない。

 夢の余韻が、体の内側にべったりと張り付いていた。

「どうした。汗かいてるじゃないか。熱か?」

 マリアが額に手を当てる。
 ひんやりとした掌が、熱の度合いを測る。

「……熱は、ないと思います」

 実際、頭はすっきりしていた。
 息も苦しくない。
 ただ、心臓が少し早く打っているだけ。

「そっか。ならいい」

 マリアは手を離し、「変な夢でも見たか?」と軽く尋ねた。

 クレアは迷う。

(言うべき? 言っても、きっと“疲れてるだけだ”って言われるだけかも)

 なんとなく、あの樹の夢を言葉にするのが怖かった。

「……少し、変な夢でした。でも、もう大丈夫です」

「そうか。仕事がきついなら言えよ。加減は考える」

「はい」

 マリアはそれ以上深く追及せず、「おやすみ」と一言残して灯りを落とした。

 部屋が暗闇に包まれる。
 窓から差し込む星明かりだけが、ぼんやりと天井を浮かび上がらせた。

 クレアは、布団の中でそっと胸に手を当てる。

 そこには、まだあのじんわりとした光が残っているような気がした。
 ペンダントの木の丸みも、心臓の鼓動と同じリズムで微かに震えている。

(“無能”じゃなかった、かもしれない)

 ふと浮かんだ考えに、自分で驚く。

 今まで何度も人から投げつけられてきた言葉。
 “役立たず”“厄介者”“虚弱”。

 それらが、少しずつ、胸の奥から剥がれていくような、奇妙な感覚があった。

 それでもすぐに、もう一人の自分が囁く。

(……いやいや、期待しすぎないで。
 どうせまた、“勘違いでした”って笑われたら、立ち直れない)

 希望と恐れが、綱引きをしている。

 眠りの淵で、その綱がぎりぎりと軋む音を、クレアは確かに聞いた気がした。

 そして、その綱を隣で静かに見ている、巨大な樹の影も――。

 世界樹の夢は、その夜から、ほとんど毎晩のように彼女のもとへ現れるようになった。
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