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第20話「放浪者として生きる――世界樹の末裔の伝説」
しおりを挟む谷の朝は、ひんやりとしていた。
昨日まで、肌を刺すみたいに乾いていた風が、少しだけ柔らかい。
空の色は薄い青で、遠くの雲はまだ眠たそうに横たわっている。
泉のあった場所から、かすかな水音が聞こえた。
ぽちゃん。
ぴちゃ。
子どもたちが夜明け前から、待ちきれずに水を触りに来ているのだろう。
(……ちゃんと、まだ流れてる)
クレアは背伸びをしながら、胸のあたりに意識を落とす。
胸の奥の灯り――世界樹の残り火は、穏やかに揺れていた。
水脈の気配も、昨夜より少しだけ馴染んでいる。
「……行かなきゃ」
ぽつりと呟く。
ここでずっと留まることもできた。
「泉をくれた人」として歓迎されて、谷の人たちと畑を耕しながら暮らす未来も、たぶん悪くない。
でも、それだけじゃ――きっと足りない。
遠くの山脈。
砂に埋もれた遺跡。
ひび割れた湖。
まだ見ぬ、たくさんの“傷ついた場所”。
世界樹の根から聞こえてくる、かすかな嘆きが、じわじわと背中を押してくる。
「おーい、起きてるかー?」
間延びした声が、掘っ立て小屋の外からした。
ノエルだ。
「起きてます」
クレアは荷物袋の紐を締め直し、扉を開ける。
外には、ノエルが立っていた。
寝癖だらけの髪に、首元まで上げたマフラー。
その肩には、見慣れないマントが引っかかっている。
「似合ってますね、そのマント」
「だろ?」
ノエルは、少し照れくさそうにマントの裾をつまんだ。
「谷の連中がくれた。“砂埃すげーから、せめてこれ羽織ってけ”って」
「いい人たちです」
「まあ、“水くれた救世主”とそのおまけには、優しくしてくれるよな」
「“おまけ”って自分で言うんですか」
「そのほうが角が立たねえだろ?」
肩をすくめて笑うノエルは、いつも通りに見える。
けれど、その目の下には、わずかな寝不足の影があった。
昨夜、村人たちと一緒になって飲みすぎたせいだろう。
「頭、痛くないですか?」
「ん、まあ。……二日酔いも旅の味だろ」
「やめてください、そういう不健康な名言」
そんな他愛ないやりとりをしているうちに――足音が近づいてきた。
「クレアさん!」
昨日、泉に一番に飛び込んでいた少年が、駆けてくる。
手には、布で包まれた小さな包み。
その後ろから、青年や村の女たち、老人まで、ぽつぽつと集まってきていた。
「おはようございます」
クレアは慌てて頭を下げる。
「そんな、わざわざ見送りなんて……」
「当たり前だろ」
最初に声をかけてきた、あの痩せた青年が一歩前に出た。
昨日の諦めた目は、少しだけ色を取り戻していた。
「水を出してくれたのに、“勝手にどっか行きました”じゃさすがに寝覚め悪い」
「水を出したのは、私というより、ここの水脈ですけど……」
「それでも、“起こした”のはあんたで、“起きる気にさせた”のもあんただ」
青年は、照れくさそうに顔をそむける。
「ほら、これ」
少年が、両手で包みを差し出してきた。
「うちで作った干し肉! いっぱいはあげられないけど、少しなら……」
「えっ、いいんですか?」
「いいよ。お母さんが“ちゃんとお礼しなさい”って」
包みを開けると、中には薄く切られた肉がいくつも入っていた。
塩と香草の匂いがする。
「ありがとうございます。大事に食べます」
本当に、旅人にとっては何より嬉しい贈り物だ。
その隣では、村の女たちが、何かを持って控えていた。
「これも、もしよければ」
女のひとりが、小さなマントを差し出す。
「夜は冷えますから。布はあまり良くありませんけど……風くらいは防いでくれます」
薄い灰色のマント。
裾には、子どもの手で縫い付けられたのだろう、小さな刺繍が並んでいる。
ぎこちない花。
太陽のような円。
ぎざぎざの山。
どれも形は不揃いだけれど、見ているだけで胸があたたかくなる。
「……綺麗です」
クレアは、そっとマントを肩に掛ける。
谷の風が、裾をふわりと持ち上げた。
「似合ってる似合ってる」
ノエルが、親指を立てる。
「おいおい、こりゃあ本格的な“放浪者”の格好になってきたな」
「放浪者って自覚あるんですか、私」
「あるだろ」
笑い声が広がる。
さらに、老人が、よぼよぼとした足取りで近づいてきた。
手には、小さな花の束。
乾いた土地でも、かろうじて咲いていた、強い草花たち。
黄色、白、少しだけ薄い紫。
「これは……?」
「この谷で咲く花は、少ない」
老人の声はかすれていたが、はっきりしていた。
「だから、本当は、全部残しておきたい。
だが――」
花束を、クレアの手に押し付ける。
「あんたが歩く先々に、これと同じ花が咲くように、願掛けだ」
胸の奥が、じん、と熱くなる。
「……ありがとうございます」
本当に、それ以外の言葉が出てこなかった。
手のひらに乗った花は軽いのに、その願いは、驚くほど重い。
「クレアさん」
さっきの青年が、少しだけ真面目な顔で言う。
「この谷に、ずっといてくれてもよかったのに――」
その言葉に、クレアは、ゆっくりと首を振った。
「“ここだから”来たんじゃないんです」
「……?」
「“ここも”あって、“他にもたくさんあるから”です」
視線を少し遠くへ向ける。
山の向こう。
まだ見ぬ土地。
「この谷に泉が戻っても、世界のどこかには、まだ水を失いかけている土地があって。
森が枯れかけている場所があって。
土が泣いている場所があって」
胸に手を当てる。
世界樹の灯りが、静かに脈打った。
「……だから、行かなきゃいけないんです。
わたしは、“ここを最初に選んだ”だけで、“ここで終わる”わけにはいかなくて」
青年は、少しだけ目を伏せた。
それから、ふっと笑う。
「……そうか。
だったら、“またどこかで”だな」
「はい」
クレアも微笑む。
「また、どこかで」
“さよなら”じゃなくて、“また”。
この言葉を選べるようになったのは、きっとフィルナに帰る場所ができたからだ。
フィルナ。
マリア。
ノエル。
世界樹。
どれかひとつでも欠けていたら、今ここでこの言葉を言う自分はいなかっただろう。
「……んじゃ」
ノエルが、荷物袋を肩に担ぎ直した。
「そろそろ行くか。日が登りきる前に、少しでも距離稼いどきてえしな」
「そうですね」
クレアは、肩にかかるマントをぎゅっと握り、村人たちを見渡した。
笑っている顔。
まだ不安げな顔。
泣きそうな顔。
その全部を、ちゃんと目に焼き付ける。
「本当に、ありがとうございました」
深く、頭を下げた。
誰かが、小さく「ありがとう」と返してくれた。
それが合図みたいに、あちこちから「ありがとう」が重なっていく。
ありがとう。
ありがとう。
ありがとう――。
言葉の波が、谷の空気を震わせた。
クレアは、その全部を背中で受けながら、砂埃だらけの道へ、一歩を踏み出した。
◇ ◇ ◇
谷を抜ける道は、相変わらず乾いていた。
でも、クレアの足は、昨日より軽かった。
「なんかさ」
隣を歩くノエルが、ぼんやり空を見上げながら口を開く。
「“旅人”って感じだな、今のお前」
「今までの私は、なんだったんですか」
「そうだな……“辺境に追放された雑役係”?」
「言い方ァ!」
自分で分かっていたからこそ、余計に刺さる。
「でもまあ、今は“放浪の癒やし手”って感じかね」
「……放浪の癒やし手」
口に出してみる。
ちょっと気恥ずかしい。
でも、嫌じゃない。
「“世界樹の末裔”とか“緑の魔女”とか呼ばれるより、ずっといいです」
「だろ?」
ノエルは肩をすくめる。
「どこからともなく現れて、ちょっとだけ助けて、気づいたらいなくなってる。
そういうやつのほうが、なんかカッコいいだろ」
「ノエルさんの“カッコいい”の基準、たまに不安になります」
「安心しろ、俺もだ」
「それ、一番安心できないパターンですけど」
砂を踏む音と、くだらない会話が、道に伸びていく。
頭上を、風が駆け抜けた。
乾いた風。
でも、その中に、ほんの少しだけ水の匂いが混ざっている気がした。
谷に残してきた泉。
そこから立ち上る湿り気が、風に乗って広がっているのかもしれない。
(あの谷、どうなるかな)
水は、永遠じゃない。
いつかまた減るかもしれない。
でも――
(きっと、前よりは、“諦めるまでの時間”が長くなる)
その間に、誰かが知恵を絞るかもしれない。
畑の作り方を変えるかもしれない。
水を大事にする習慣が根付くかもしれない。
泉は“奇跡”でありながら、“きっかけ”でもある。
そのきっかけを渡すことができたなら――
それだけでも、ここに来た意味はあった。
「クレア」
胸の奥で、世界樹の声が囁いた。
《行コウ》
低く、深く、でもどこか軽やかな声。
《傷ツイタ場所ハ、マダ沢山アル》
「うん」
クレアは、空を見上げた。
王都の石壁も、エルフォルト家の屋敷も、もう見えない。
代わりに広がっているのは、ただただ、果てしない地平線。
遠くの山。
積み重なった雲。
風に揺れる、強い草。
「一緒に行こうね」
誰かに聞かれたら少し恥ずかしい台詞を、あえて口にする。
世界樹の声は、くすくす笑ったようだった。
《オ前ノ足デ、オ前ノ行キタイ場所ヘ》
《我ハ、道連レダ》
命令でも、指示でもない。
昔は、「欠片を探せ」と急かすだけの、重たい声だった。
今は違う。
世界樹は、クレアと並んで歩く“旅の仲間”みたいに、すぐそばで寄り添ってくる。
風が、前から吹いてきた。
砂を巻き上げる。
目を細めながら、それでも前を見る。
フィルナ。
枯れた谷。
これから行く、まだ名前も知らない土地。
きっと、この先には、笑える日ばかりじゃない。
どうにもならなくて、涙を飲み込む夜もあるだろう。
それでも――
(選んだから)
クレアは、胸の奥で静かに思う。
(この道を、“私自身が選んだから”)
誰かに押し付けられた道じゃない。
“家のため”でも、“国のため”でもない。
世界の声を聞いて、そこで苦しんでいる土地に手を伸ばしたいと思って。
その気持ちに、正直でいたいと願って。
その結果として、今ここを歩いている。
だから、一歩一歩が、重くても。
痛くても。
誇りにできる。
「クレア」
ノエルが、不意に呼んだ。
「はい」
「いつか、“伝説”になるかもな、お前」
「……何の話ですか急に」
「いや、ほら」
ノエルは、わざとらしく両手を広げてみせた。
「“どこからともなく現れて大地を癒やし、気づけば姿を消す、緑の旅人がいた――”」
芝居がかった声色。
「『彼女は世界樹の末裔であり、風と土を従え、瘴気を払い、枯れた土地に水を呼び――』」
「ちょ、ちょっとやめてください、鳥肌立ちます!」
「“その正体は、かつて辺境に追放された雑役係の令嬢であったという――”」
「最後の一文だけ情報が生々しすぎる!!」
思わず肩をつつくと、ノエルはけたけた笑う。
「まあ、実際、人の噂なんてそんなもんだろ」
空を仰ぎながら言う。
「どこかの村では“緑の魔女”って呼ばれて、別のところでは“世界樹の娘”とか呼ばれて、“勝手に伝説”になる。
その裏で、本人は普通に汗かいて、腹減って、寝不足で旅してんだ」
「……想像が妙にリアルですね」
「現実だからな」
ノエルは肩をすくめる。
「でもさ。
どんな呼ばれ方したって、“クレア”は“クレア”だろ。
そこだけ間違えなきゃ、それでいいんじゃね?」
「……うん」
胸の奥がじんわりと温かくなる。
「そうですね。“クレア”でいることを、ちゃんと忘れないようにします」
「よろしい」
ノエルは満足そうに頷き、それからわざとらしく遠くを指差した。
「じゃ、伝説第一章の続き、行きますか、“世界樹の旅人”さん?」
「やめてください、その呼び方は定着させません!」
笑い声と砂の音が、また前へ伸びていく。
◇ ◇ ◇
――後の世で、人々は語るようになる。
干ばつに苦しむ谷に、ある日ふらりと現れた放浪の女の話。
瘴気に沈みかけた森に、いつの間にか立っていた、緑の瞳の旅人の話。
枯れた井戸に、ひと晩で水が戻った村の話。
誰も、その女の本当の名前を知らない。
どこから来て、どこへ消えたのかも分からない。
ただ、噂だけが、ゆっくりと形を変えながら広がっていく。
どこからともなく現れて大地を癒やし、
気づけば姿を消す、“緑の旅人”。
風と土を味方につけ、
世界樹の声に耳を澄まし、
傷ついた場所を拾い上げては、静かに去っていく者。
いつしか、それは“伝説”と呼ばれるようになる。
――その伝説の中で、“辺境に追放された雑役係”だった頃の彼女のことを知る者は、ほとんどいない。
王都で、家のために使われかけたことも。
エルフォルト家の娘として息苦しく笑っていた日々も。
物語の中では、すべて省略されてしまうかもしれない。
でも、それでいい。
クレアは、今日も、風を友に、土を足場に、一歩を踏み出している。
胸の中の世界樹の灯りは、確かにそこにある。
その灯りが消えない限り――
“世界樹の末裔の伝説”は、きっと、これからもどこかで静かに続いていくのだ。
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