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第10話 甘い檻の中で
しおりを挟む宰相府の廊下は、香りが薄い。
王城の廊下には香木の匂いが漂う。人が通るたびに衣擦れの香水が混ざり、花の甘さや紅茶の余韻が残る。
でも宰相府の廊下は違う。香りがない。あるのは紙とインク、乾いた革、そして冷えた石の匂い。
ここは“感情”を持ち込ませない場所。人を人として扱わない場所。
第二王女ミレイアは、その廊下を一歩ずつ進みながら、背中の奥が冷えるのを感じていた。
――怖い。
でも怖いと言うのは、恥だ。
姫は可愛く、優しく、笑っていなければならない。
笑えば守られる。笑えば選ばれる。
そう教えられてきた。
扉の前で、侍従が丁寧に頭を下げる。
「ミレイア様。宰相閣下がお待ちです」
「うん……ありがとう」
ミレイアは声を整えた。
甘く。柔らかく。
自分が一番得意な音にして。
扉が開く。
中は静かで、窓の光が薄い。カーテンが重く、昼なのに部屋は薄暗い。
机の上には書類の山。
壁には地図と紋章。
ここにあるのは国であって、人ではない。
宰相グラディオ・フェルゼンは、机の向こうで立ち上がった。
白髪混じりの髪。穏やかな目。柔らかな微笑み。
“安心していい”と語りかける顔。
「お越しくださりありがとうございます、ミレイア様」
ミレイアは軽く膝を折り、可憐に礼をした。
「呼んでくださって嬉しいです、宰相閣下」
宰相は手を上げ、椅子を勧める。
座っていいよ、という仕草。
優しい仕草。
なのにミレイアの喉は乾いた。
優しさに似せた檻だと、身体が先に知っている。
ミレイアは椅子に座り、両手を膝の上で揃える。
背筋を伸ばす。
“良い姫”の姿勢。
「さて」
宰相はゆっくり息を吐く。
その呼吸の間が、相手の心臓の速さを測るみたいで怖い。
「最近、第一王女殿下の動きが目立ちますね」
ミレイアは唇を噛みそうになって、笑顔で誤魔化した。
「……お姉さま、変わったの」
口から出た声が、自分でも驚くほど弱かった。
あの人の名前を出すだけで、心が揺れる。
姉はいつも自分の世界の中心にいる。
中心にいるからこそ、憎くて、怖くて、手を伸ばしたくなる。
宰相は穏やかに頷く。
「ええ。私も感じております」
この“感じております”が、ミレイアを安心させる。
分かってくれる。
味方だ。
そう錯覚させる。
「お姉さまが孤児院に行ったり、帳簿を……手続きを変えるって……みんなが、お姉さまの話ばかりで」
ミレイアは言葉を選びながら、胸の奥の焦りをそっと机の上に置くように吐き出した。
本当はもっと醜い言葉がある。
“私を見て”
“私も選んで”
でもそれを言ったら、可愛い姫の仮面が割れる。
割れたら、誰も守ってくれない。
宰相は笑った。
優しい笑い。
その笑いが、ミレイアの心を撫でる。
「それは、あなたにとって苦しいことでしょう」
「……うん」
ミレイアは思わず頷いた。
苦しい、と言っていい。
ここでは言っていい。
宰相はそういう“許可”をくれる。
宰相は机の端に指を置き、低い声で言った。
「ミレイア様」
「はい」
「あなたが王国の希望です」
甘い。
砂糖菓子みたいに甘い言葉。
ミレイアの胸が、ふわっと浮く。
希望。
その言葉は、“選ばれる”という意味に聞こえる。
姉ではなく、私。
私が希望。
その響きが、麻薬みたいに効く。
でも同時に、怖い。
希望と言われると、失敗できない。
希望と言われると、期待に縛られる。
期待は鎖だ。
鎖は、甘い匂いがする。
「……ほんとに?」
ミレイアは小さく聞いた。
子どもみたいに。
宰相は頷く。
「ええ。あなたは民に愛される。貴族も、あなたの微笑みに安心する。あなたが前に立てば、国は穏やかになる」
穏やか。
またその言葉。
穏やかは、血が流れないという意味じゃない。
血が見えないという意味だ。
ミレイアは膝の上で指を絡めた。
爪が食い込む。
痛い。
痛いから、現実だ。
「でも……お姉さまは……」
言いかけた瞬間、宰相の目がふっと細くなった。
笑っているのに、冷たい。
その冷たさに、ミレイアの背中がぞくりとする。
「第一王女殿下は、聡明です。ですが……国は聡明さだけでは動きません」
宰相は柔らかく、しかし確実に姉を切り分ける言い方をした。
褒めるふりをして、価値を削る。
いつものやり方。
「聡明すぎる者は、民から距離を取ってしまう。冷たく見える。……そして、貴族が不安になる」
貴族が不安。
つまり、宰相が不安。
ミレイアはそこまで言語化できないのに、身体が先に理解してしまう。
宰相が続ける。
「あなたが前に立てばよいのです。あなたが笑えば、民は救われる」
その言葉が、また甘い。
笑うだけで救えるなら、どれだけ楽だろう。
でも孤児院の子は、笑っても腹が減る。
ミレイアはそれを知らない。
知らないように生きてきた。
知らないほうが、可愛い姫でいられるから。
「ミレイア様。あなたは、第一王女殿下が怖いですか?」
宰相が突然、核心を突く。
ミレイアは目を見開いた。
怖い、と言われた瞬間、胸の奥が冷える。
怖い。
そう。怖い。
姉が変わったのが怖い。
姉が私の手から離れていくのが怖い。
姉が、私を見なくなるのが怖い。
でもそれを言ったら負けだ。
姫は怖がらない。
姫は笑う。
「そんなこと……」
ミレイアが否定しかけた瞬間、宰相が優しく遮った。
「大丈夫です。怖くていいのです」
その一言が、ミレイアの心をほどく。
怖いと言っていい。
怖いままでいい。
宰相はそう言ってくれる。
その許可が、甘い。
「……うん。怖い」
ミレイアは小さく認めた。
認めた瞬間、胸が軽くなる。
軽くなるのに、同時に足首に鎖が巻き付く感覚がする。
宰相は頷き、机の上の紙をそっと裏返した。
何の紙か、ミレイアには見えない。
見えないように置かれている。
見せないことで、ミレイアを守っているふりをする。
「あなたは、正しい選択をすればよいのです」
「正しい……?」
「国のための選択。あなた自身のための選択。……そして、あなたが守られる選択」
守られる。
その言葉に、ミレイアの心がきゅっと縮む。
守られるという言葉は、彼女の過去に直結している。
――八歳の春。
突然、記憶が引き戻された。
母アウレリアの部屋。
カーテンは閉められ、香炉の匂いが濃かった。
母はベッドに横たわっていて、頬が白い。
あの頃のミレイアは、母に抱きついて泣いた。
でも母は弱々しく笑って、「大丈夫よ」と言った。
その笑顔が、怖かった。
いつも強い母が、弱く笑うのが怖かった。
廊下の影。
ミレイアは偶然、見てしまった。
宰相グラディオが、侍医に小さな包みを渡しているところ。
包みは茶色い紙。
中身は薬草。
香りは甘くて、でもどこか金属みたいに冷たい匂いがした。
「……これを」
宰相の声は低く、優しかった。
まるで“良いこと”をしているような声。
「……はい」
侍医は震えていた。
震えているのに、受け取った。
受け取ってしまった。
ミレイアは息を止め、柱の陰に隠れた。
理解できなかった。
でも本能が告げた。
これは見てはいけないものだ。
その時、背後から手が伸びた。
宰相の手。
いつの間にか、彼はミレイアの後ろにいた。
「ミレイア様」
優しい声。
優しいのに、動けなくなる声。
「……見てしまいましたか」
ミレイアは震えた。
声が出ない。
泣きそうになる。
宰相はしゃがみ、ミレイアの目線に合わせた。
「大丈夫。あなたは悪くない」
その言葉が甘くて、ミレイアは泣いた。
悪くない。
悪くないなら、ここにいていい。
守ってくれる。
「これは……お母様が楽になるための薬です」
「……ほんと?」
「ほんとです。あなたは優しい子だ。優しい子は、余計なことで苦しまなくていい」
余計なこと。
つまり、真実。
でも八歳のミレイアには分からない。
分からないから、信じる。
信じたほうが、守られるから。
「だから、誰にも言わないで。いい子だね」
宰相の指が、ミレイアの頭を撫でた。
その撫で方が、母の撫で方に似ていた。
だから、ミレイアは頷いた。
頷いてしまった。
――その瞬間、罪が共有された。
言わない。
沈黙する。
沈黙する代わりに、守られる。
守られる代わりに、縛られる。
記憶はそこまでで途切れ、宰相府の薄暗い部屋に戻る。
ミレイアの頬には、いつの間にか涙が一筋落ちていた。
「……ミレイア様」
宰相がハンカチを差し出す。
優しい仕草。
優しい檻。
「どうしました? お顔が青い」
「……思い出したの」
ミレイアは震える声で言った。
自分でも驚く。
言うつもりはなかったのに、口が勝手に開いた。
「昔……お母様の薬……」
宰相の微笑みが、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬。
でもミレイアは見た。
氷が割れる一瞬を。
宰相はすぐに笑顔を貼り直した。
「……お辛い記憶ですね」
「私、見てた。閣下が……侍医に……」
ミレイアの声が、細くなる。
怖い。
怖いのに、言わずにはいられない。
姉が変わった。
姉が何かに近づいている。
もし姉がこの記憶に触れたら――世界が崩れる。
崩れるのが怖い。
でも、崩れた方がいいのかもしれない。
その矛盾が、ミレイアの胸を裂く。
宰相は椅子から立ち上がり、ミレイアのそばに回った。
距離が近い。
近いと、逃げられない。
「ミレイア様」
宰相の声は優しい。
でも温度がない。
紙の上を滑るナイフみたいな優しさ。
「あなたは、優しい子です」
またその言葉。
優しい子。
それは褒め言葉のようで、鎖だ。
「優しい子だから、守られるべきです。……あなたがそれを口にする必要はありません」
「でも……」
「でも、ではありません」
宰相はミレイアの肩に手を置いた。
重い。
手の重さが、国の重さみたいにのしかかる。
「あなたは希望です。希望は、汚れてはいけない。希望は、笑っていなければならない」
ミレイアは息が詰まった。
笑うことが、仕事。
笑うことで、国が穏便になる。
そのために真実を飲み込む。
飲み込んで、守られる。
愛と恐怖が、同じ形をして絡み合う。
宰相の手は、母の撫で方に似ている。
だからミレイアは、抵抗できない。
母を失った穴に、宰相が入り込んでいる。
その事実が、ぞっとするほど正しい。
「……お姉さまが、変わったの」
ミレイアはもう一度言った。
訴え。助けを求める声。
でもその助けは、同時に宰相の鎖を強くする。
「姉が、私を見なくなるのが怖い。姉が……私のこと、捨てるのが怖い」
言ってしまった。
その瞬間、ミレイアは自分が子どもに戻った気がした。
八歳の春の、母の部屋の前にいる子ども。
宰相は微笑んだ。
今度は本当に、嬉しそうに。
「大丈夫です」
「……ほんとに?」
「ええ。あなたは捨てられません。私が守ります」
その言葉が、甘い。
でも甘いほど怖い。
守ると言う人は、支配する。
宰相は続けた。
「第一王女殿下が動けば動くほど、国は揺れます。揺れれば、あなたが必要になる。あなたの笑顔が、国を救う」
ミレイアの胸が、またふわっと浮く。
必要とされる。
それは麻薬。
姉に勝てない自分に、価値を与える。
「……私、どうすればいい?」
ミレイアは聞いた。
自分で決めることが怖い。
決めたら嫌われるかもしれない。
だから、決めてほしい。
宰相は優しく言う。
「あなたは、いつも通りでいい。可憐に、柔らかく。……そして、第一王女殿下の動きを私に教えてください」
罪の共有。
また一つ、鎖が増える。
ミレイアは震えた。
姉を売ることになる。
でも、売れば守られる。
守られれば、怖くない。
その計算が、心の中で勝手に回る。
「……うん」
小さな返事。
それが、契約の印になる。
宰相は満足そうに頷き、ミレイアの頭を撫でた。
「いい子です」
その瞬間、ミレイアの背中に冷たい汗が流れた。
褒められているのに、恐ろしい。
愛されているのに、息ができない。
ミレイアは立ち上がり、可憐に礼をした。
笑顔を作る。
目尻を下げる。
いつもの姫の顔。
「ありがとう、閣下。……私、頑張る」
「ええ。あなたならできます」
扉が閉まり、廊下へ出る。
香りのない廊下。
冷たい石。
ミレイアは歩きながら、胸の奥を押さえた。
愛されたい。
守られたい。
選ばれたい。
その願いが、鎖になっている。
鎖が甘い匂いをしている。
甘い檻の中で、彼女は笑うしかない。
そして――彼女は気づいていない。
その檻の鍵を持っているのは、宰相ではなく、彼女自身の沈黙だということを。
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