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第20話 夜明けに咲く
しおりを挟む春は、音より先に匂いで来た。
夜の殻にうっすらと蜜が塗られ、魔王城の石壁が朝の色を吸い上げる。尖塔に残った冬の澄みが、白い湯気になって溶けてゆく。テラスの欄干には細い水脈が走り、そのすぐ向こうで新しい黒薔薇が咲いていた。花弁は層を重ね、朝露を丸い珠にして抱き、珠は光の針を封じ込めて、笑うみたいにきらめく。
風は、いまや脅しではない。頬を撫でるだけの、賢い手。私は欄干に指を掛け、見下ろす。かつて恐れだった高い場所――喉が凍り、足の裏が消えてしまいそうだったあの距離が、今日は胸を解き放つ。肺に入る空気がよく伸び、背骨のひとつひとつに、やっと割り当てられた席があるように感じられる。
城の麓からは、春の点呼が上がってくる。守護獣の仔らが鳴き、厨房で刻む包丁の音が調子をそろえ、庭師の笑いが土を起こす。遠く、王都の鐘が――新しい鋳型で打ち直した、あの鐘が――初めての朝の時を告げた。音は冬より柔らかく、けれど芯は強い。魔界の風鈴が、連なって答える。銀の舌が春の風に撫でられて、薄い音符が幾筋も空に解けた。
「――世界を敵に回したけど、救ったのも私たちだね」
自分でも不思議なくらい、軽く言えた。言葉は誇張ではない。誇張を剥いだあとに残る素の重さ。言って、胸の中で音が丸く転がり、どこにも刺さらないことが心地よかった。
「そうだ」
背からの声は、冬の泉の匂いを混ぜている。ヴァルトは陽を斜めに受ける位置に立ち、黒に金の薄膜を纏って見えた。長い指で、私の左手をそっとすくい上げる。薬指に、薄い輪が触れた――黒金の指環。黒は夜の芯で、金は朝の外側。二つの色が押しつけ合わず、並んで光る。
「お前が望むなら、何度でも世界をやり直す」
彼はそこで少し間を置き、私の視線の下のほう――城の影が溜まる窪みの方角へ、目を落とした。やり直す、という言葉が、瓦礫の重さと紙の軽さを同時に連れてくるのを、私もよく知っている。彼は続けた。
「だが、今はこの世界を生きよう」
輪が、指にすべり込む。冷たく、次の瞬間には体温であたたかい。金属の縁が脈の上に落ち着き、皮膚がその重さを学ぶ。私は手を裏返し、人差し指で黒金の線をなぞった。指輪という発明を最初に思いついた人は、たぶん道具より先に約束を作りたかったのだと思う。目に見えない約束は、よく迷子になるから。
「似合う?」
「よく似合う。お前の指は、誓いより先に生きている」
「あなたの言葉は、ずるい」
「番は、――」
「それは今日、禁止」
私が遮ると、彼は目尻だけで笑った。笑いは音を立てず、空気の密度だけをゆるめる。私は黒薔薇に顔を寄せ、一番外の花弁に肺の底からそっと息を吐く。露が震え、ひとつ、すべり落ちた。落ちた露は私の甲へ転がり、皮膚の上で丸くなる。指がひんやりする。五感のうち、触覚がいちばん素直に“今”を受け取る。
テラスの戸口から、朝の足音がいくつか重なって聴こえた。ラザロは薄い帳簿を抱え、セラは扇で春を一層軽くし、ガルドは両腕に薪の束をのせて、肩で笑う。「寒い朝はもう終いかと思ったが、火はいつでも甘いな」 エリナと子どもたちの笑いが、遅れて風に運ばれてくる。孤児院の庭では、今日も“泣く練習”と“笑う練習”が交互に行われる。泣き方が上手い街は、熱をためない。
「今日の議題」
ラザロが控えめに咳払いする。私は目だけで「あとで」と合図した。彼は頷いて一歩下がり、紙の音を風で乾かす。セラは扇を畳み、私の指輪にちらりと視線を落として、わざと何も言わなかった。沈黙の祝辞。ガルドは堪えられず、「うおお、おめでとう!」と吠え、次の瞬間に自分で口を塞いだ。「静かに、静かに……春が逃げる」
「逃げないよ」
私は笑う。春は、逃げ足より寝坊が得意だ。起こせば、素直に起きる。
ヴァルトが近づき、私の額に軽く触れた。口づけは、静かで、長い。朝の温度がじわりと重なり、胸の鈴の影が――あの夜からずっと、音の出し方を忘れていた鈴の影が――ほんのひとかけら、震えた。鳴らない。けれど、震える。震えは、やがて音になる予告だ。
「リュシア」
「ん」
「お前の“恐れ”を世界に分けた朝から、世界の“勇気”がこちらへ少しずつ戻ってきている」
「貸し借り、ね」
「貸しは増やしすぎるな。返す楽しみが減る」
「あなた、楽しみの話だけ上手い」
「生きるのは、楽を知ることだ」
「……それ、好き」
背後で風鈴が鳴る。魔界の金工が作った細い音は、王都の鐘と喧嘩しない。異なる律が、中央で合流して、ひとつの拍に落ちてゆく。四つの物語――救出と覚悟、攻防と選択、縫合と帰還、政変と橋――が、今朝、一本の道に重なった感覚がある。分かれて歩いた脚の筋肉が、同じ階段を降りるリズムを思い出す。
私は欄干にもたれ、空を見る。高い場所は、もう恐怖ではない。恐怖の上澄みは世界に分けた。残った芯は、落ちないための針金になった。私はそれを胸骨にかけ直し、肩の力をほどく。指の温度は指輪に伝わり、金属が私の体温に染まる。黒金の輪は硬いのに、柔らかい。輪に含まれた夜と朝が、私の血に少しずつ溶ける。
「ねえ、ヴァルト」
「ん」
「“滅びの花嫁”じゃないわたしの名前を、考えたい」
「もうある」
「あるの?」
「“再生の番”の片方。――窓」
「それ、ずるい。私だけ呼び名が変わってない」
「夜、も同じだ」
「たしかに」
私たちは、同じ場所で笑う。笑ううちに、噛み合う歯車の油がなじむみたいに、朝が体の内側へ入ってくる。私は片手で黒薔薇の茎を撫で、棘の位置を指で覚える。棘は怖いものではなく、形のひとつだ。触れ方を覚えれば、痛みは挨拶の強さに変わる。
テラスの下、庭師たちが新しい畝を切っている。畝の線は、人界の土と魔界の土の境をまたいでいて、土色は縞模様になった。縞は不格好だ。けれど、芽はどちらの土でも同じ角度で空へ向く。芽の緑は、境を知らない。芽に境を教えるのは、いつだって大人の口だ。私はその口を閉じる練習を始めようと思う。
ラザロが再び近づく。紙の角が朝日に透け、「橋梁第三期、予算の再配分」「孤児院の増築」「王都の鈴の調律」――今日の議題が並ぶ。私は指で順番を入れ替え、温度を書き添える。「この道は日陰。時間をずらす」「この井戸、水が冷たい。昼に使う」 数字の横に生活が寄り添うと、紙は紙ではなくなる。紙は、椅子になる。誰かが座れる。
「殿下」
ロランが階段の上で敬礼する。肩に笛、腰に短剣。治安官の朝は早い。「市場の入口、もう少し人手を。……それと、縄跳びの縄、三本。子らが群がって喧嘩になる」
「任せて。縄はセラの扇骨で増やせる」
「やめなさい。扇は扇」
セラが即座に否定し、扇の骨で私の額を軽く叩いた。子どもたちの笑い声が、また風に混ざって届く。笑いは軽い。軽いものは、遠くへ飛ぶ。遠くへ飛ぶものは、戻ってこないこともある。戻ってこない笑いが増えた街は、時々、風鈴の数を増やす。音の影が、人の影を柔らげる。
「リュシア」
ヴァルトが私の名を呼ぶ。名は錨。朝の水面にも、錨は静かに効く。「行ってこい」 彼の声は命令ではない。背に置かれる手の重さが、ちょうどいい。押すでも引くでもなく、“今が出発に適している”と教えるだけの重さ。
「うん。行ってくる」
私は一歩、踏み出す。足裏が石の目を確かめ、踵が春に軽く沈む。振り返ると、黒金の輪が朝を返す。彼は片手を上げる。風鈴がまた鳴る。王都の鐘が、次の時を告げる。
四つの物語は、一つに結ばれた。
けれど、一つになったからといって、静止はしない。
結び目は、次の布のための起点になる。
私は歩く。交渉卓へ、畝の縞へ、鈴の調律へ、子どもの縄へ。背で、彼の視線が呼吸するのを感じる。必要な時だけ、確かに背を押す視線。押されなくても歩けるけれど、押されたほうが、笑える。
昼前、私は短い帰路を選ぶ。テラスへ戻ると、黒薔薇はまだ朝を抱いている。露の珠が小さくなり、光の針が深く刺さる。私は花の前で立ち止まり、彼の手を探す。見つける。絡める。指の温度が重なり、輪の冷たさがさらに薄くなる。
「ただいま」
「おかえり」
口づけは、静かで、長い。朝は終わりかけ、昼の手前で立ち止まる。その間に、指の温度で誓いを確かめる。唇は甘くない。甘くないのに、甘い。砂糖ではなく、体温の味。私は目を閉じ、指の骨で、“いる”を数える。
遠くの鐘が、新しい時を告げる。魔界の風鈴が、同じ回数だけ答える。音の行き来は、橋だ。橋は、もう落ちない。落とさない。落とさせない。
セラが遠くで、扇を高く掲げる。ラザロが数字に丸を付ける。ガルドが薪を割り直し、ロランが笛で昼の合図を吹く。エリナは子らに水を配り、泣き方の練習を休みにして、笑い方の練習を続ける。
――四つの物語は一つに結び、二人は“滅びの花嫁”ではなく“再生の番”として歩き出す。
春の幕は、ゆっくりと下り、同時に上がる。幕の下で、私は黒薔薇に頬を寄せる。花弁の影がまつげを撫でる。私は、もう一度だけ確かめたくて、囁く。
「生きよう」
「生きよう」
答えは、風より早く、骨より深く、輪より長く。
新しい章のために、呼吸が合う。
息を吸い、吐く。
鈴は、小さく、ほんの小さくだが――かすかに――鳴った。
それは、朝の音に紛れて、世界のどこにでも届く種類の、約束の音だった。
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