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第2話 断頭台の月
しおりを挟む朝は、容赦がないのである。石造りの独房にたまった冷気を、淡い光がまっすぐに切り裂き、壁の粗さ一つ一つに影を落とす。夜の残り香はすでに薄く、代わりに鉄と麻と古い水の匂いが鼻奥にまとわりついて離れない。私は床に背を預けず、姿勢を保ったまま、指先で自分の鼓動を数えた。数は意味を持たないが、恐怖の輪郭をなぞるにはちょうどいい目盛であった。
錠前が鳴る。金属音は雨粒のように冷たく、しかし確実に近づく。「時刻だ」。扉が開き、護衛が二人。先頭は灰色の目の騎士――カイル・ハーランドである。彼はいつも通り、感情を革の鞘にしまい込み、必要な分だけ刃先を覗かせる男だった。
「ご同行願う、令嬢」
「もちろんである」
私の声は驚くほど平坦であった。平坦さは救命具である。浮き沈みの激しい海では、平らな板ほど長く持つ。カイルの視線が一瞬だけ揺れ、すぐに職務の硬さへ戻る。彼は私の両脇に控えさせ、鎖のゆるみを確認した。鎖は軽い。軽いが、意味は重い。
廊下に出る。朝の光が石の床を細長く切り分け、私たちの影を測量の目盛のように並べる。窓の外、広場のざわめきが波の前触れのように響いている。パンを焼く匂い、油の匂い、未だ見ぬ血の匂いまでが想像の中で調合され、喉を乾かせる。私は唇を湿らせ、歩幅を半刻分だけ広げた。歩くという行為は、最後の自己決定である。
「セレナ」
名を呼ぶ声は低く、壁に吸われるほど控えめであった。振り向かない。振り向けば、なにかが崩れる。崩れた欠片は拾えない。私は前だけを見る。
「……俺は、君を辱めるためにここにいるのではない」
「知っている。あなたは守るためにここにいる。対象が誰であれ」
「それでも」
「それでも、である」
短い会話が、蜂蜜を湯で割ったみたいにさらさらと喉を通り抜ける。甘さは残るが、痺れは残らない。角を曲がれば、木扉。外だ。扉を押し開けると、朝の空気が一気に体の内側まで入り込む。冷たい。けれど、清潔だ。人の視線の雑菌が混ざる前の、短い清潔である。
広場は人で満ちていた。高い足場、慎ましく磨かれた木、正義という名札を貼られた壇上。そこに上がる階段は、思っていたより狭く、思っていたより滑りやすかった。私の靴底は薄く、しかし固かった。母が好んだ職人の仕事である。私は一段ごとに息を整え、足裏と木の摩擦を確かめ、背筋の角度を保った。見物の民の眼が刺さる。刺さって、折れるほどの強さではない。千本の針は一本の刃になり切れないのだと、私は理解していた。
「アルディナ侯爵家の令嬢、セレナを連行」
代官の声が響き、群衆のざわめきが一段と高くなる。「あれが」「見ろ」「綺麗だ」「悪女だ」。褒め言葉も罵りも、同じ温度で空へ散っていく。私は壇上の中央へ進み、首を少しだけ上げた。真正面に朝の月が残っている。白く、冷たく、他人事のような顔である。断頭台の月、という言葉が、頭の内側で鈍く鳴る。そう呼ぶにふさわしい日であった。
向かいの貴賓席に、王太子アレンの姿があった。整った礼服、整った姿勢、整いすぎて温度を失って見える横顔。彼は私を見ず、代官の手元の文書を見ている。紙は正しい。紙は間違える。紙を読む目は、もっと間違える。私は笑わない。笑えば、口角に棘が出る。
「罪状を申し渡す」
代官は羊皮紙を広げ、手慣れた節回しで読み上げた。王国の内政文書への不正閲覧、魔導師団禁書庫への侵入、王家の権威を揺るがす扇動行為――。同じ文言が昨日の夜会でも使われたのだろうと、私は静かに推測する。文字は便利だ。同じ刃を何度でも研ぎ直すことができる。
「弁明はあるか」
「ない。……ただひとつ、言葉を」
「許す」
私は一歩、前へ。人々の視線がすべる。風が髪を一筋、耳にかけた。耳の内側に自分の鼓動が響く。整っている。恐れはある。けれど、恐れは背筋を矯正する力になる。
「私の言葉が真実であったと、いつか知る日が来るであろう。その時、跪く世界で、私は誰の頭も踏まない。――以上である」
笑いが起き、嘲りが混ざり、ふいに静けさが差し込む。誰かが涙を飲み込む音さえ聞こえた気がした。代官が顎を引き、処刑人が位置に就く。木製の台が軋み、白い布が私の前に差し出される。布は柔らかい。柔らかさはいつだって残酷である。刃の前で、柔らかさは罪だ。私はその布に頬を預けることを拒み、首を据えるためのくぼみに自らの喉を落とした。木の匂いが近い。新しい材のまっすぐな香りである。
「目を閉じるか」
処刑人が問う。声は乾いていて、日陰の木材の色をしていた。
「開けていても、閉じていても、落ちるものは同じである」
「そうか」
彼は短く頷き、刃を持ち上げた。金属の重さが空気を少しだけ沈ませる。鎖骨の上に、光が一枚、薄い膜のように張り付く。風向きが変わった。人混みのどこかで幼い子の泣き声が上がり、すぐに母親らしき者の手で塞がれる。世界は用意を終えたらしい。
ほんの刹那、私は視線を右へずらした。カイルがいた。灰色の目が、私の喉元ではなく、私の瞳を見ている。彼は口の中で言葉を形作った。声にはならない。「許してくれ」か、「生きてくれ」か。どちらも、同じだけ遅い。遅さは残酷である。だが、彼の遅さは誠実の影であろうと思った。私は首をわずかに横へ振り、否定でも肯定でもない合図を送る。彼はうなずかない。うなずけないのだ。彼は直線でできた男である。
アレンは、やはり私を見なかった。彼の視線は、遠い場所で何か抽象的な善を測っている。善は便利だ。人を殺さずに人を切り捨てられるからだ。私は胸の内で、ため息の形をした氷を一つ、静かに溶かした。
「執行」
代官の声が落ち、刃が空気の中で光った。そこから先は、音が遅く、光が速い。世界が羊皮紙の上のインクのように広がり、私の思考は糸で縛られた凧のように一定の高さでじっとする。痛みは、まだ来ない。来ない間に、私は最後の仕事をいくつか片づける。
――恐怖を、整える。喉の奥の震えを腹に落とす。膝の力を足裏へ分散する。背筋を立てる。名前を心の中で一度、呼ぶ。セレナ。呼べば、私はここにいる。
――憎しみを、整える。誰の顔も正面から思い浮かべない。顔は刃を鈍らせる。鈍れば、復讐が滑る。滑れば、転ぶ。
――祈りを、整える。祈りは、誰のためでもない。私のためである。私の誇りと静けさを、私の手元に取り戻すための、短い契約である。
「神よ」
唇が、音にならない音をこぼす。朝の月は相変わらず白く、私を知らないふりをして空に張り付いている。知らないふりをする者ほど、よく見ているのを私は知っている。だから、月に向けてではなく、自分の胸骨に向けて私は言う。
「もう一度だけ。やり直す機会を。私の誇りと静けさを、正しい場所に置くために。代価が要るなら、私の愛を差し出そう。全部である」
刃の気配が降りてくる。空気が引き締まり、世界の輪郭が針で刺されたみたいに鋭くなる。人々の吐息が揃い、鳥の影が一つ、私の頬を掠めた。時間が伸びる。伸びた時間は薄く、破れやすい。破れる直前、闇と光の境目に、声が現れた。
――やり直したいか。
男とも女ともつかない、温度のない声であった。私の鼓動の速さと、声の間隔がぴたりと重なる。私は目を閉じない。閉じても、開けても、答えは同じである。
「はい」
――何を差し出す。
「私の愛。全部を」
――愛のない力は冷たい。
「冷たさで、焼けた世界を冷やす」
――よかろう。
言葉は短い刃で、刃は私の内側にだけ触れた。触れた瞬間、恐怖の形が変わる。氷だったものが、透明な水になる。水は流れる。流れるものは、動かせる。私はそれを喉から胸へ、胸から腹へ、腹から足へと送った。足は大地に、背は空に、視線はまっすぐに。
周囲の音が、一度すべて消える。消えたあとで、遠くの鐘が一つ鳴る。誰かの手が離れる気配。布の柔らかさが頬にかかる。私は最後にひとつだけ、微笑みそうになる衝動を殺す。微笑みは、死のときもまた凶器である。私が誰かの心臓に小さな傷を残すなら、それは生きているときの台詞で充分だ。
刃が落ちる。
……落ちる、はずだった。世界は確かに白く、薄く、そして眩しく伸びた。伸び切る手前で、床が消える。私の体はどこにも触れず、何にも支えられず、ただ落ちる。落ちるという動詞は、重力の他に倫理の意味も持っているが、いまのそれは純粋に物理であった。冷たい空気が頬を撫で、髪を引っ張り、耳の周りで高速の布擦れの音を立てる。私は叫ばない。叫びは、意志の無駄遣いである。
暗い井戸のような場所に、あの声がもう一度だけ響く。
――覚えていろ。望みは契約であり、契約は代価を伴う。おまえの差し出したものを、忘れるな。
「忘れないである」
――よろしい。
声が消えると同時に、落下が止まる。止まって、反転する。浮上するわけではない。浮上するよりもっと穏やかで、もっと確かで、もっと冷たい――静止である。静止は、未来と過去の境界に置かれた薄いナイフの背であった。私はその背に爪先立ちで立ち、息を一つ、正しい深さまで吸い込む。
色が戻る。音が戻る。匂いが戻る。だが順番は、私の知っている順番ではない。薄青い布が風に揺れ、窓の外で小鳥が短く鳴き、洗いたてのシーツが肌をするりと撫でた。天井は見慣れた薄青の天蓋で、窓辺には固い蕾の白薔薇が一本。春の朝の匂いである。私は首を起こさない。まだ、これは私の第「2」話の終わりであるからだ。目を閉じ、断頭台の月を思い浮かべる。白く、冷たく、無関心の仮面。その下で、世界はいつも私を見ていた。ならば、今度は私が世界を見る番である。
扉の外で、若い侍女の声がした。「お嬢様、起きておられますか。今日は殿下と花園をご散策の――」声は明るく、傾斜のない朝の温度をしている。私は喉の奥で静かに笑い、言葉を用意した。第「3」話のために。だが、口には出さない。出すのは次である。
断頭台の朝は、私から何も奪えなかった。誇りも、静けさも、泣きたいという生の衝動さえも。代わりに、私の差し出した愛を引き取り、冷たさを残していった。冷たさは、刃を研ぐ。私はその刃を、胸の中の鞘に正しく収める。月は消え、太陽が上がる。私は目を開けないまま、太陽の重さを瞼で測る。
――覚えていろ。望みは契約である。契約は代価を伴う。
はい、と私は内側で答えた。私の「はい」は、断頭台の月の下で固めた姿勢と同じ角度をしていた。崩れない。折れない。曲げるのは、世界の方である。私は静かに息を吐き、次の光を待った。
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