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第4話 目覚めた令嬢
しおりを挟む目覚めは水面から顔を出す行為に似ていたのである。薄青の天蓋が波を畳むように視界の端でゆらぎ、麻のシーツが肌の産毛を逆立てた。窓辺の白薔薇はまだ蕾で、花弁の折り目が朝の湿り気を抱えたまま息をひそめている。私はわざと瞬きを一度だけゆっくりと行い、世界が私のものかどうかを確かめた。音は静かで、匂いは正直で、光は容赦がない――帰還であると断定した。
「お嬢様、朝でございます」
扉の向こうから若い侍女の声が落ちる。私は体を起こし、喉の奥の砂を水一口で流す。鏡台に座ると、そこにいるのは三年前の春の私であった。皮膚はまだ甘く、瞳は世界を信じる形で丸い。だが、内部の回路は他人である。神と交わした短い契約が、骨の内側を冷たくなぞっている。私は目を細め、鏡の中の女に短い宣告を与えた。
「今度は、誰も信じない。私は私の味方である」
言葉の重みが舌の根を固める。侍女が入ってきてカーテンを引くと、朝の光が室内の輪郭に刃を差し入れた。私は櫛を取り上げ、自分で髪を梳く。髪は素直に落ち、音を立てずに従う。従順という言葉ほど危険な宝石はない。身に付ける側が、時を選ぶからである。
「本日のご予定は、王妃様からのご内示の予告、それから夕刻に殿下とのご散策でございます」
「承知した。――それと、朝食は果物と温かい茶だけでよい。重いものは、今日の言葉を鈍らせる」
「かしこまりました」
侍女は視線に戸惑いを載せて、すぐに伏せた。昨日までの私と、目の濃度が違うのだろう。よい変化である。変化には観客を必要としない。必要なのは一貫性である。私は髪飾りを一本減らし、耳たぶの重みを解いてから、机の引き出しから手帳を取り出す。最初の頁に赤く「起点」と記す。赤は合図である。合図は私にしか見えない地点に打つのがよい。
廊下に出ると、桃色の影が角から滑り出した。ミリア・カーレンである。白いリボン、花形のパウダー、香水は二滴多く、笑顔は中心に相応しい角度で固定されていた。幼馴染という語の甘さに、私の舌はもう騙されない。
「セレナ様。朝の光がお似合いでしてよ」
「あなたも。中心の光は、あなたの肌に甘い」
「まぁ。ところで、昨夜のご様子、皆さまが噂しておられましたわ。殿下との歩調がぴたりと合って、さながら絵画の――」
「噂は水で薄めるのが上手い人に預けると良い。あなたは器用だから、任せる」
ミリアの瞬きが一拍遅れる。扇の骨が小さく軋む。彼女はすぐに笑顔を修復し、私の袖に軽く触れて去っていった。香りが廊下に薄い肌理を残す。私はそれを春の風に混ぜて薄め、階段を降りる。薄めた毒は、後で薬にする。
朝食は短く、要件は少なかった。父――アルディナ侯爵は、既に執務室で紙の雪崩と対峙している。ノック二度。「入れ」。父の声は、井戸の底から上がってくる水のように冷たく真っ直ぐである。彼は筆を置かず、眼だけを上げた。
「目の色が違うな」
「眠りが深かっただけである」
「そうか。――王都は、春に合わぬ風向きだ。扇ぐ手を見誤るな」
「心得ている。耳の早い者と口の固い者を、二人ずつ欲しい。金は私の名義から」
「名は俺に知らせるな。父の影は娘を鈍らせる」
「了解した」
短い会話は、正確な刃渡りである。私は礼をし、執務室を辞す。父の愛は距離であり、距離は盾である。盾の重さは、私の脚に筋肉をつけるだろう。
午前は王立図書塔へ向かう。馬車の内で私は窓外の石畳の欠けを数え、角の影の深さを印象の頁に張り付ける。逃げ道は覚えた数だけ増えるからである。塔の玄関では若い補佐が頭を下げ、「本日は」と定型句を差し出した。私は母の寄贈記録の閲覧と、感情論・魔力変調についての古書を指名する。紙の匂いは嘘を吸わない。だから私は落ち着ける。
閲覧室では老司書フロレンスが杖を鳴らし、私の表情の沈着に薄く目を細めた。彼の目には好奇心の甘さがない。私はこの種の視線を好む。彼は母の記録箱を持ち出し、余計な言葉を一つも添えない。良い案内とは沈黙の量である。
箱の内側から、母の端正な字が立ち上がる。余白は広く、行間は深い。感情の熱を理性の骨に正しく掛ける術が、紙の肌理にまで移っている。私は頁の余白に、自分の回路図を薄墨で重ねる。怒りを熱、悲しみを湿、恐れを圧とし、呼吸と脈を弁で繋ぐ。金線の位置を想像し、皮膚のどこに感度があるかを指の腹で確かめる。指先の温がじわりと増し、インクの線が呼吸する。成功の微粒子が、爪の裏で微かに鳴る。鳴りは小さいが、確かである。私は唇の端を浅く引き、歓喜の音を喉の奥で押し潰す。歓喜は逃げ足が速い。捕まえるまでは黙ってよい。
「お嬢様、茶を」
フロレンスがいつの間にか差し出した小さな湯気が、紙の匂いに紛れ込む。私は礼だけを落とし、再び頁に戻る。神の声は沈黙したままである。代わりに、私自身の骨が覚えた律が、紙の白を薄く叩く。望みは契約であり、契約は代価――その文言は、もはや祈りではなく操作手順である。
塔を出る頃には、陽が石畳に円い光を撒いていた。馬車の中で私は短く目を閉じ、記憶の引き出しから「耳の早い者」を二人、「口の固い者」を二人引き抜く。前の時間で誠実に働き、最後まで報酬より矜持で動いた者たちである。台所の古株メイド、厩の若造、書庫の補助係、織物工房の年若い親方。名を紙に置く前に、私は胸の内で一人ずつ呼ぶ。呼べば、彼らは距離を縮める。縮まった距離は、契約の前段である。
屋敷に戻ると、玄関ホールにカイル・ハーランドがいた。灰色の目は昼の光で薄く澄み、立ち姿はやはり直線であった。執事と実務的なやり取りを終えると、彼は私に向き直る。
「令嬢。今夜の外出には護衛が付く。王太子の指示である」
「親切であり、監視である」
「その両方だ。――嫌か」
「敵意ではない限り、利用価値はある。あなたは敵意を向けない」
「職務上できない」
「性質上もしない」
言葉の小さな掛け合いが、互いの立ち位置を確かめる縄になる。彼は一歩引き、必要以上に距離を詰めない賢さを選んだ。賢さは時に誤解を招くが、ここでは正しい。私は会釈し、「夕刻に花園」とだけ告げ、自室に引き取った。
短い昼食を果物と茶で済ませ、私は寝具の下から小箱を取り出す。前の時間の最後の朝に頬を撫でた白布は、ここにはない。代わりに箱の中には、母の髪飾りに使われていた古い金線と、ごく小さなガラス片が入っている。金線を二巻き、指の節に絡める。呼吸を整え、心の弁を一つずつ操作する。怒りは細く、悔しさは広く、恐れは冷たく。指先に熱が集まり、ガラス片の内側で微かな灯が点る。消える前に、私は空気ごと掌を閉じた。掌の内側に、わずかな振動が残る。方法は再現可能である。方法は私の兵である。
午後、王妃からのご内示の予告が届いた。侍女が差し出す薄い紙には、優美な文体で「近日中の御前」が記されている。私は紙の角を親指で軽く撫で、墨の重さを量る。重さは軽い。軽いほど、裏に厚い目的がある。王妃は扇を裏返すのが上手い人であった。私は彼女の骨を数えるつもりである。
夕刻、殿下との散策。庭園は陽の角度を変え、影が草の上で細い文字を書く。アレンはいつも通り、よく調律された笑顔で現れた。
「セレナ。今日も一段と――」
「殿下。花は褒めるより、距離で見ると永く持つ」
「確かに。……実は夜会の件で」
「承知している。王都の安全保障。参加者は、伯爵家数家、子爵家数家、商会の主、王立魔導師団の代表。音楽は古典、食事は控えめ、会話は濃く」
「君は時々、未来を読んでいるみたいだ」
「違う。昨日の続きが、今日の地図であるだけだ」
彼は小さく吹き出し、芝の上の影が揺れる。「君がいると安心する」。その台詞の甘さの直後に、私は薄い棘を差し込む。
「安心は油断を呼ぶ。殿下は油断を嫌う人であると信じたい」
「努力するよ」
彼は素直である。素直さは刃の柄を滑らせるが、握り方を知っていれば武器になる。私は彼の素直さを、彼自身のために利用する決心を固める。「殿下、近々、視覚に訴える報告をお見せする機会があるかもしれない。数字と事実が歌う音楽である」。彼は首を傾げ、「楽しみにしている」とだけ答えた。
散策の最後、帰路に向かう頃合いを見計らって、ミリアが茂みの影から姿を見せる。偶然を装う技術は、彼女の十八番である。
「まあ、殿下とセレナ様。お二人とも、本当に絵になる」
「風が良いだけである」
「断罪の噂は、風のようにどこからともなく生まれますもの」
「噂は、中心から生まれる。あなたは中心が似合う」
ミリアは扇を閉じ、妖精のように首をかしげる。「善意の中心にいると、時々、真実が痛いのです」。私は笑う。「善意は時々、刃の鞘になる」。アレンは会釈だけを残して去った。ミリアは私にだけ向けて、極小の声で囁く。「禁書庫には気をつけて」。私は目を細め、「忠告は、朝の茶に合う」と返す。彼女は満足げに去る。私は彼女の背のリボンの結び目を目で切り、頭の中の手帖に「緩い」と記す。
夜、私にはもう一つの用があった。工房街へ、掌に収まる容れ物を受け取りに行くのである。玄関では既にカイルが待っていた。
「ルートは俺に任せろ。人目を避ける」
「助かる。――寄り道を一度」
「認める」
馬車が石畳を柔らかく叩く。夜気は春の甘さに鉄の粉を混ぜ、鼻腔の奥でわずかにしみる。工房街は油の匂いで喉を黒くし、店先の時計がばらばらの時刻を指している。目的の職人は目の下に暗い弧を刷き、私を見ると短く会釈して奥へ通した。
「ご所望の容れ物だ。温度で変形せず、震動に強い。蓋は一捻りで開閉、内部は二重の空」
「望み通りである。――代金は上乗せする。沈黙の値である」
職人はうなずき、余計な好奇心を喉に押し戻した。良い職人である。外へ出たところで、カイルが問いを一つだけ投げた。
「何を入れる」
「空気。呼気。言葉。――つまり、私の兵である」
彼はそれ以上を求めず、馬車に先に乗り込む。沈黙は賢い。賢さは、いつか報いる。帰路、私は容れ物を掌で転がし、わずかな重さと均衡を覚え込む。手に馴染む物は裏切らない。裏切るのは、扱い方である。
屋敷に戻ると、私はまっすぐ書斎に籠もった。机の上に並べるのは、母のノート、金線、小瓶、容れ物、そして白紙。白紙は敵ではない。味方でもない。ただの場である。私は呼吸を整え、感情の弁を一つずつ操作する。怒りを計量スプーンで、悔しさを水差しで、恐れを定規で。それらを混ぜず、隣り合わせに並べ、金線の上に一滴ずつ落とす。微かな光が管を走り、容れ物の内部へ吸い込まれる。掌に生まれる薄い振動。耳を近づければ、遠い潮騒のような音。私は蓋を閉め、印として指先に短い痛みを刻む。印の痛みは生である。私は生を信じる。神ではない。世界でもない。私自身の回路を、である。
深夜、窓の外で鐘が一つ鳴る。遠くの塔が眠気を忘れた者へ合図を送る。私の手帖の「起点」の文字に、私は細い線を一本、重ねる。「仮面」と記す。仮面は嘘ではない。仮面は礼儀であり、自衛であり、劇の最小単位である。私は仮面の内側に表情筋を鍛える。笑いの角度、視線の高さ、沈黙の長さ。沈黙は言葉よりよく伝える。伝わるべき相手には、なおさらである。
寝台に身を沈める前に、私は扉を軽く叩いた。「入れ」と低い声。父である。書類に囲まれ、髪に少し疲れの灰が乗っている。私は言葉を一つだけ持って行った。
「私を、止めないでほしい」
父は目を上げ、長い沈黙を選び、それから頷いた。
「止めぬ。だが、戻れる道は捨てるな」
「了解した」
部屋を出ると、廊下は静かで、絵画の人物たちが夜の陰で別の表情をしていた。私は足音を敢えて響かせず、空気の皺に自分の輪郭を縫い込む。寝室で灯りを落とし、枕に頬を当てると、微かな金の匂いが指先から上ってきた。戦の匂いである。私は笑わず、祈らず、ただ呼吸の数を四つ数えた。
――やり直す機会は、得た。代価はすでに払った。ならば、構造を変える番である。
月が雲の裏で浅く笑い、白薔薇の蕾が眠りの中でわずかに緩む。私は目を閉じ、睡眠という鞘の内で刃を休ませた。明日は、最初の糸を切る。切れた糸の撓みで、別の糸を結ぶ。誰も気づかないうちに、布地の模様は変わる。気づいたときには、もう戻れない。――それでよい。戻るべき場所は、もう焼けてしまったのだから。私は静かに息を吐き、闇の温度を掌に測りながら眠りへ落ちた。夢は来なかった。必要なものは、すべて起きている間に取りに行くつもりだからである。
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