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第10話 裏切りの予兆
しおりを挟む午前の風はまだ冷たくて、庭の砂利はよく鳴った。私は歩幅を一定にして、呼吸を四拍で整える。怒りは糸、悲しみは霧、恐れは点――弁は全部、所定の位置。書斎に戻る前に、背中の気配がひとつだけ近づいた。
「セレナ」
まっすぐな声。振り向かずにわかる。カイル・ハーランド。灰色の目の騎士。前の時間で最後に私の瞳を見た男。今の時間で、私が直線と呼ぶ男。
「もう来る頃だと思ってた」
「予想できる女だな」
「予想できない男より扱いやすいでしょ」
彼は答えず、二歩だけ並んで歩いた。彼が隣に来ると、世界の音が勝手に整列する気がする。嫌いじゃない感覚。でも頼りにはしない。
「外郭で人の出が荒れている。救済の列が短くなったせいで、別の列が伸びた」
「灰色の列、ね。行き場のない小銭の動線」
「お前の言い方は、いつも刺さる」
「刺すために削ってるから」
立ち止まる。彼の外套の裾がほんの少し遅れて止まる癖。前の時間と同じだ。胸の奥の冷たい場所が、微かに軋んだ。
「用件は?」
「二つ。公と私」
「公から」
彼は腰の小袋から封筒を出し、差しだした。封蝋は王妃の色。私は受け取らず、彼の手元を見た。指の節、薄い擦過傷。夜に石と金具を触った痕。私の仕事の残像。
「読め」
短い命令。封を割る。〈巡回線の再編に伴い、王太子側近監察下に“観察対象”を置く。対象:アルディナ侯爵令嬢セレナ。理由:視覚化助言に伴う情報接触頻度の高さ〉
「……観察対象、ね」
「名目は“保護”。実質は“監視”」
「どちらでも、使える」
「使われる側だ」
「使わせる側に回るよ」
彼が目を細める。反射で手を伸ばし、封を取り返そうとする気配を、彼は途中で止めた。止められる男だ。そこが好きだ。そこが、危ない。
「私の役割は?」
「護衛。だが、報告書には毎晩、俺の署名とお前の動線が並ぶ」
「あなたは書く?」
「書く。職務だ」
「了解」
喉の奥が少しだけ熱くなる。弁を締め、熱を細くする。彼は私の横顔を一瞬だけ見て、視線を戻した。
「私」
「私?」
「私用だ」
彼が外套の内側から小さな皮袋を取り出す。掌に乗る重さ。開けると、鈴がひとつ。黒い紐。見覚えがある。前の時間、断頭台の朝に聞いた、どこからともなく響いた鈴音。いや、違うはずだ。頭が勝手に繋げるな。
「……それ、なに」
「衛兵の合図鈴を改造した。音は外に出ない。お前の“音の結界”の内側だけで鳴る。合図を決めよう。短く一回で“退け”。二回で“止まれ”。三回で“戻れ”」
「誰のために?」
「お前のために」
呼吸が一拍、狂う。整える。直す。冷やす。
「借りは作らないよ」
「返せ。今じゃなくていい」
「……なんで、そこまで」
問いが滑る。口に出すつもりはなかったのに。彼はすぐ答えない。庭の白薔薇の蕾に目を落として、それから言った。
「昔、お前を護送した日の、俺の報告書は薄かった。もっと厚くできたはずだった。今の俺は、厚く書く」
前の時間の話だと、彼は知らない。知らないはずの言葉が、私の骨に刺さる。皮膚が内側からしわむ。私は鈴を握り、頷いた。
「合図は覚えた」
「そうか」
「――で、公の続き。観察対象に“追記”はある?」
彼は躊躇なく、もう一枚の紙を出した。王宮監察局の符丁。〈符丁:柘榴。対象が“禁呪関連資料”に触れた場合、即日拘束〉
「早いね」
「早すぎる。誰かが焦っている」
「宮廷魔導師団」
「……だろうな」
“予兆”は言葉を選ばない。空気に混ざって、肌に乗る。私は紙を折り、鈴と一緒に懐へ入れた。
「今夜、王都外縁の保管庫に行く。薬室外流しの証拠、まだ足りない」
「同行する」
「だめ」
「職務だ」
「監視なら影でして。私の視界に入ると、光が乱れる」
「理解した」
すぐ引く。やっぱり、この男は危険だ。私の氷に、温度を合わせてくる。融ける。だから距離を置く。私は踵を返そうとして、足を止めた。
「カイル」
「ん」
「もし私が“柘榴”に触れそうになったら、あなたは拘束する?」
「する。俺は直線だ」
「なら、今のうちに言っておく。私は“柘榴”に触れる。触れずに終わるルートはない」
長い沈黙。白薔薇の蕾が、風でほんの少し揺れる。彼は目を伏せ、短く頷いた。
「その時、俺は“拘束しに行く”。だが――」
「だが?」
「お前に怪我はさせない」
「ありがと。矛盾してるけど、助かる」
「矛盾は、生き物の形をしている」
「哲学は似合わないよ」
私は笑いそうになって、やめた。笑いは角を丸くする。今は刃の角度の話だ。
◇
王都外縁の保管庫は石の倉。薬室の外流し記録は公式には「不存在」。存在しない物は見つかりにくいし、見つけても「見てない」と言われる。だから私は“影”を連れて行った。ジェイルの新作――“影落とし”の術式。視線から外す、小さな暗。
「持続は十五秒まで落ちました。昨日使い過ぎたので」
「十五で十分。入口を抜けるだけ」
夜霧が低い。足音が濡れる。保管庫の扉は堅いが、鍵は人だ。交代の隙を、カイルの巡回線がつくる。私は露骨に手を借りない。彼の作った“偶然”の空白を、黙って通る。
「合図鈴、持ってます?」
「ある」
「二回が“止まれ”です」
「わかってる」
扉の内側、棚が並ぶ。瓶と箱。ラベルの色が微妙に違う。王宮薬室の正規品は青。ここは、薄い緑。外流しの印。私は棚の下段から“薄緑”だけを抜き、紙を一枚だけ挟む。供給票。日付、数、運搬人の名。踵の減った右の靴。やっぱり“彼ら”だ。手早く戻し、出口へ。霧が濃くなる。空気の匂いが、鉄と薬と、焦げた紙。腐敗の匂いに、薬の匂いが乗ってきた。
「……早い」
唇の内側で呟いた瞬間、鈴が一回だけ震えた。短く、内側で。カイルからの“退け”。私は即座に“影”を切り、棚の陰に滑る。外から足音。二人。声は低い。耳が拾うのは単語だけ。
「“柘榴”の……」「……令嬢……」「……監察……」
鈴が、今度は二回。止まれ。息を止め、微光も出さない。十五秒の暗。足音は扉の前で止まり、鍵が鳴る。やばい。私はすぐ手を離し、暗を解く。視線がこちらへ向いた“気配”を、わざと自分の中だけで増幅させない。気配は気分に似ていて、盛ると膨れる。膨れたら負け。扉の内に入ってきた影は、棚の列を一本だけ覗き、戻っていった。鍵の音。足音が遠ざかる。鈴は鳴らない。私は息を吐き、指の痺れを確認して、出口へ向かった。
外に出た途端、鈴が三回。戻れ。私は走らない。走れば音が立つ。歩く速度で、影の濃い場所を繋いで屋根の陰へ移動する。そこに彼はいた。外套の影、灰色の目。
「間一髪」
「ありがとう」
「礼はいい。……お前、顔色が悪い」
「薬の匂い、嫌い」
「俺も嫌いだ」
返事が早くて、少しだけ笑いそうになる。やめる。鈴を指で撫でる。温度が少しだけ上がる。氷に、裂け目が入る音がする。
「セレナ」
「なに」
「“柘榴”の符丁、今日から二重になった。監察と魔導師団、両方から」
「連携?」
「競合。どちらが先に“功”を立てるかで揉めている。だから、現場に余計な足が増える」
「足が増えれば、音が増える。助かる」
「そうなるといいが」
彼は言ってから、言葉を継がず、代わりに小さく拳を握った。何かを飲み込む癖。言えない言葉。言わない選択。直線の男でも、飲み込むことはある。
「お前は俺を試してるのか」
「少しね」
「結果は」
「“合格”」
「なら、言わせろ。――俺はお前の味方だ。職務の線は超えない。だが、踏み越えようとする足を、お前からは遠ざける」
「難しいこと言う」
「難しいことしか残っていない」
まっすぐだ。困る。困るけど、助かる。胸の中の氷が、ほんの少しだけ音を立ててひび割れた。その音が自分にしか聞こえないことが、救いだった。
◇
翌日、王都の広場に仮設の診療所が設けられた。救済の列の代わりに「検診」の列。薬室の失点を覆うための化粧。私は列を横から見て歩き、薄緑の瓶を持った従者の手元を目で追う。手順は正しい。中身は違う。薄い霧が人々の周囲にまとわりつく。魔力の残滓。普通の薬なら残らない粗い粒子。禁呪材料が混ざっている。影ではなく、これは光で見える。見えすぎる光。危ない。私は瞼を閉じ、弁をひとつ締める。
「気分が悪い?」
いつの間にか隣にカイル。気配を隠すのが下手なはずなのに、今日はよく隠れている。私が気配を拾いすぎているだけか。
「平気。――殿下には近づけないで」
「もう囲っている」
「ありがとう。……ねえ、カイル」
「なんだ」
「もし、殿下の周りに“汚れた風”が流れ始めたら、あなたはどっちを見る?」
「風上」
「正解」
「お前の“正解”は、普通と違う」
「普通じゃ間に合わないから」
列の先頭で、子どもが咳をした。黒い粉じゃない。薄い白。魔力の粉。私は喉が勝手に固くなるのを、手でほどく。大丈夫。まだ初期。今、光で騒ぐと燃える。影で遮るしかない。
「今夜、殿下の居室の通風口に“影”の布をかける。空気の流れを少しだけ変える」
「それで足りるか」
「足りない。でも、やる」
「俺が行く」
「来ないで。あなたの匂いが残ると、監察が嗅ぐ」
「匂い、か」
「正確には“気配”」
「気配なら、今さらだ」
「だね」
言いながら、心の中の氷がじわりと溶ける感じがした。危険。私は意図的に角を立てる。
「観察対象の護衛殿。職務に戻って」
「戻る。……夜、鈴を鳴らす」
「三回は“戻れ”」
「忘れない」
彼は背を向ける。直線の背中。私の視界から消える直前、振り返らないで右手だけを上げた。握っていない。開いた手のまま、一回、二回。――“引き返す合図”。私は笑うのをこらえた。こらえるのに、少し時間がかかった。
◇
夜。殿下の居室の通風口は高い位置にある。城の壁は秘密を抱えるのが得意だ。私は“影落とし”を指に仕込み、足場の細い梁を渡る。呼吸は四拍、弁は二段。微光は出さない。影だけ置く。布をそっと掛け、縁を金線で留める。術式の結び目を最小限に。持続は一晩。朝には消える。痕跡は残らない。――はず。
鈴が一回。退け。私は頷きもせず、影の中に溶ける。回廊の曲がり角、小さな足音。軽い革靴。伝令。工房街の癖。夜の王城に、もう彼らがいる。柘榴の符丁。監察と魔導師団の競合。風上が騒がしい。私は踵を返し、別の梁へ。降りる。足音を消す。自室へ戻る廊下に差し掛かると、鈴が二回。止まれ。柱の陰に吸い込まれる。足音が別方向へ流れ、私は影の境目から外へ出た。廊下の突き当たりに、彼がいた。直線の男。カイル。
「終了」
「お疲れ様」
「お前の“器”、今日は使ってないな」
「うん。使うと匂いが立つ。影だけ」
「正解だ」
彼は私の顔を一瞬だけ見て、視線をそらした。その一瞬に、何かを言いかけて飲み込んだのがわかった。鈴の無音が、逆にうるさい。言って。言わない。彼は飲み込む男。私は飲み込ませる女。いい。今日はそれでいい。
「――セレナ。ひとつだけ」
「なに」
「“復讐”は、あとでいい」
胸が内側から強く叩かれた。反射で笑い飛ばせなかった。彼の言葉はいつだって、必要最低限で、逃げ場がない。
「あとで、っていつ」
「お前が生き延びたあと」
「条件が多い」
「命令じゃない。願いだ」
氷の中に、熱い針を落とされたみたいな感じがした。溶ける音が、今度ははっきり聞こえた。やめろ。私は弁に手を伸ばし、冷やす。冷やして、言葉を選ぶ。
「約束はしない」
「ああ」
「でも、覚えておく」
「ああ」
彼はそれ以上、迫らなかった。直線が、線のまま、夜の中に消えた。私は背を壁につけて、しばらく呼吸を数えた。四拍。四拍。四拍。数の途中で、鈴が三回、小さく震えた。“戻れ”。笑うな。泣くな。どちらも、角を丸くする。
部屋に戻って、机に三行。
一、“観察対象”に指定。報告はカイルの署名。利用する。
二、“柘榴”の符丁、二重化。監察と魔導師団の競合。足音が増える=音が増える。
三、カイルの言葉が刺さる。氷が軋む。私は冷やす。けど、鈴は懐にある。
書き終えて、ペン先を拭き、灯りを落とした。暗闇の中で、鈴を指でつまむ。鳴らさない。鳴らさずに、ただ重さだけ確かめる。軽い。軽いのに、落ちない。落とせない。私は目を閉じ、内側で言う。
「――揺らいでも、折れない」
返事は来ない。鈴は黙っている。黙っていることが、今夜の救いだった。明日は、光と闇の境界に立つ。王太子の周囲で、空気の粒が変わり始めている。禁呪の匂い。風上は、宮廷魔導師団。線は細い。けれど、音が増える。増えた音の中で、私は鈴の響きを聞き分ける。三回が“戻れ”。覚えてる。忘れない。
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