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第1話「目を覚ましたら、知らない村の娘でした」
しおりを挟む最初に見えたのは、白すぎる天井だった。
色も温度も奪われた、病院とも牢獄ともつかない無機質な白。
「対象コード・イリス=ノワール、最終フェーズに移行します」
誰かの声が上から降ってくる。
性別も年齢も、何度聞いても思い出せない。ずっと、ガラス越しの声だったから。
腕には無数の針。
骨に食い込むような拘束具。
心臓の鼓動すら、ガラス越しに観察されている気がした。
「……フェーズ、ね。最後まで、人扱いはしてくれないんだ」
自分の声がかすれている。
笑ったつもりなのに、喉が鳴っただけだった。
幼い頃から、この施設が世界のすべてだった。
感情を抑える訓練。
人間の表情と声色から嘘を見抜く訓練。
戦争の地図を見せられて、「どうすれば最も効率よく人が死ぬか」と問われるテスト。
泣きたくても泣き方を忘れろと教えられた。
笑いたくても笑う筋肉を凍らせろと言われた。
そうして作り上げられたのが――
「黒幕(バック)の影蜘蛛(シャドウスパイダー)」
誰かがつけた、世界で一番くだらないあだ名。
戦争を裏から操り、魔物の暴走を仕組み、英雄たちを戦場に誘導する影の支配者。
表の歴史には決して乗らない、世界のバグ。
「イリス、君のおかげで我が国は勝った。誇りに思っていい」
王の声。
ガラス越しの、遠い称賛。
「……勝ったあと、わたしは?」
「また次の戦場を考えてもらう。君は、そういう“役割”だ」
その瞬間、胸の奥で何かがぽっきり折れた音がした気がした。
でも、折れたところに入り込む感情は許されない。
だから彼女は、ただ黙って次の地図を広げた。
――そうやって、ずっと生きてきた。
けれど最後は、あっけなかった。
国は彼女を「危険すぎる」と判断し、裏切った。
仕組んだのは、彼女自身が設計した罠のひとつ。皮肉だ。
全身に巡る薬液が、熱から冷たさへと変わっていく。
指先の感覚が消え、視界の縁が黒く染まっていく。
「イリス、君の仕事は見事だった。安心して眠るといい」
天井のスピーカーから流れる、気休めのような言葉。
安心なんて、一度もしたことがないのに。
「……ねぇ」
かすれた声で、イリス=ノワールは口を開いた。
生まれてから、命令以外で初めて、自分から紡いだ言葉だった。
「次は……誰かに」
肺が痛む。
声帯が燃える。
それでも、どうしても言ってみたかった。
「“必要”って……言われてみたいな……」
その願いは、誰にも届かない。
モニターに映る数値が一本、水平線になった。
――世界で一番、感情を殺してきた少女の人生は、そこで終わった。
◇
……はず、だった。
鼻先をくすぐったのは、焦げたパンの匂いだった。
「……え?」
目を開けた瞬間、イリスは違和感に殴られた。
いや、イリスではない。
彼女の喉からこぼれた声は、何も知らない少女のように柔らかかった。
「天井、木……?」
視界いっぱいに広がるのは、白い蛍光灯ではない。
年季の入った梁。節の浮き出た木材。
ところどころひび割れた天井板の隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。
すう、と息を吸い込む。
湿り気を帯びた木の匂い、焼きたてのパンの香ばしさ、少し遠くで鳴く鳥の声。
五感すべてが、さっきまでの死に際よりもはるかに鮮やかだった。
「……夢、じゃない、よね」
ゆっくりと上体を起こす。
視界に入ったのは、古びた木製のベッドと、手縫いの布団。
自分の手を見て、イリス……だった何かは息を呑んだ。
細くて白いが、針の痕も拘束具の食い跡もない。
代わりに、ところどころ小さな傷。紙ではなく、木箱や鍋を持ち慣れた手だ。
「リュミエー! 起きてるかー?」
外から聞こえてきたのは、男の人のがなり声。
扉をドンドンと叩く振動が、壁越しに伝わってくる。
「う、うん! 今起きたー!」
反射的に返事をしてから、自分で驚いた。
口が勝手に動いた感覚。
でも、その返事に返ってくる声は、とても温かかった。
「今日、市場の日だろ? パン、焦がす前に降りてこい!」
「わかってるってば、おじさーん!」
舌の上で転がった“おじさん”という呼び方に、ふわりと別の記憶が混じる。
白衣の男、ガラス越しの上司。
でも、その顔はすぐに霧散して、代わりに“ここの家主”の笑った顔が浮かんだ。
(……あれ? 今、わたし、誰を思い浮かべたの)
こめかみがずきりと痛む。
イリスとしての記憶と、この身体――リュミエとしての生活の記憶が、継ぎ目の悪い映像みたいに混ざり合う。
「リュミエ、寝坊姫ー? ほんとに行かないと、あたしの分も買ってきてもらうからねー!」
今度は二階の窓の外から、女の子の声。
窓を開けると、隣の家の屋根に腰かけた同年代くらいの少女が、ひらひらと手を振っていた。
栗色の髪を三つ編みにして、頬には小麦粉の白い跡。
目が合うと、その子――ミナはニヤリと笑う。
「おはよ、リュミエ。顔、寝ぼけてる」
「ミナこそ、こんな時間から屋根の上って何やってんの」
「風、気持ちいいんだもん。ほらほら、早く支度しないと、いい野菜から売り切れるよ?」
「はいはい、今行く」
口から自然に出てくる返事。
まるで、ずっと前からこうやって挨拶を交わしていたみたいに。
(……わたし、リュミエ)
鏡代わりの水面を覗くように、意識をそっと沈めていく。
名前を呼べば、胸の奥がじんわり温かくなる感覚があった。
イリスの時には、一度も感じたことのない温度。
(イリス=ノワール……でもある。リュミエ……でもある……?)
どちらの記憶も、本物みたいに鮮明で、嘘みたいに遠い。
脳が混線したラジオみたいに、異なる人生がパチパチと火花を散らしていた。
「……とりあえず、顔洗ってこよ」
考えるのをやめ、リュミエは――自分でそう呼ぶことにした――ベッドから降りた。
床板がきしりと鳴り、裸足に木の冷たさが伝わる。その些細な感覚すら、どこか新鮮だった。
◇
一階に降りると、台所には人の気配。
薪のはぜる音と、鉄のフライパンが擦れる音が、朝のリズムを刻んでいる。
「おはよう、リュミエ」
振り向いたのは、がっしりした体格の中年男――この家の主、バルドだった。
茶色の髭は少し伸び放題で、エプロンに小麦粉が点々とついている。
「おじさん、おはよう。パン、焦げてない?」
「さっきのは冗談だ。ほら、今日はよく膨らんだぞ。自信作だ」
木のテーブルには、焼きたての丸パンがいくつも並べられていた。
ぱん、と指でつつくと、表面はカリッとしているのに、中から湯気がふわっとあふれ出す。
香りだけで、胃がキュルルと鳴いた。
「……おいしそ」
「だろう? ほら、先に一つ食べとけ。市場で倒れられても困るからな」
「倒れないって。ありがとう」
パンを受け取った瞬間、掌に広がるあたたかさに、胸がきゅっと締め付けられた。
施設のベッドの上で渡された無味無臭の栄養剤とは、まるで別世界の温度。
一口かじる。
外は少しだけ固く、中はもちもちで、小麦の甘さがじんわり口いっぱいに広がる。
「……おいしい」
「おう、そう言ってもらえると、寝不足でこねた甲斐があるってもんだ」
バルドは豪快に笑い、鍋からスープをよそいながら背中を向ける。
その背中を見つめながら、リュミエの胸の奥で、どろりとした何かがうごめいた。
(“誰かが、わたしのために作ってくれた”……それだけのことが、こんなに)
泣きそうなくらい、心にしみる。
イリスとしての人生では、一度だってそんなことはなかったから。
「リュミエ?」
「あ、ううん。なんでもない。ぼーっとしてただけ」
「市場でぼーっとしてたらスリに財布抜かれるぞ。今日も人、多いだろうしな」
「わかってるってば」
軽口を叩きながらも、リュミエの指が、無意識に自分の腰のあたりを確かめる。
財布を入れる予定の小袋。
そこにスリの手が伸びる光景が、妙に生々しく脳裏に浮かんだ。
(この人は、左手で。視線をずらすタイミングは、三歩目……)
イメージが、勝手に補完されていく。
スリの動線、逃走経路、周囲の人波。
頭の中で、知らない男の動きがトレースされていく。
「……気持ち悪」
「ん? なんか言ったか?」
「ううん、独り言」
パンをもう一口かじってごまかしながら、リュミエは内心で自分にツッコミを入れる。
(なんでスリの動きなんか想像してんの、わたし)
でも、その想像は鮮明すぎた。
兵士の配置、死角、物陰――そういうものを瞬時に読み取る癖は、イリスとして染みついている。
前世の職業病が、今世の朝食の邪魔をしてきているみたいだった。
◇
身支度を終え、ミナと合流して村の市場へ向かう。
道はまだ朝露を含んでいて、草の匂いが濃い。
「今日は何買うの? リュミエ」
「えっとね、小麦粉と牛乳と、あとは……おじさんが、安かったら肉もって」
「あー、またバルドさん、肉料理の研究するつもりだ?」
「失敗作を全部わたしに食べさせる気満々だよね、あれ」
くだらない愚痴をこぼし合いながら歩くその時間が、妙に落ち着く。
ミナの笑い声に、胸がふわっと軽くなる感覚は、リュミエとしての記憶が教えてくる。
一方で、イリスとしての記憶は、それを遠巻きに観察していた。
誰かと肩を並べて歩いたことなど、一度もなかったから。
「リュミエってさ」
「ん?」
「たまに、すっごく遠く見てる顔するよね」
不意にミナが言った。
リュミエは思わず足を止める。
「遠く?」
「うん。なんか、ここじゃないどっかを見てるみたいな。……寂しそうな顔」
「そんな顔、してる?」
「してる。今も、ちょっとしてる」
指摘されて、慌てて笑顔を作る。
唇は簡単に笑いの形を作れるのに、心が一瞬だけ追いつかない。
「大丈夫だよ。どこにも行かないし、どこにも行けないし」
「なにそれ、牢屋宣言?」
「この村、好きだもん。……多分」
最後の一言だけ、小さく付け足した。
“好きだ”と断言するには、まだイリスの記憶が重すぎる。
ミナはじっとリュミエの横顔を見つめ、にっと笑って肩をぽんと叩いた。
「ま、リュミエがどこ見てても、あたしは隣いるから安心してよ」
「なにそれ、かっこつけてんの?」
「かっこいいでしょ?」
「はいはい、かっこいいかっこいい」
二人で笑い合う。
その笑い声が、朝の村に溶けていく。
(……必要、って言ってくれた)
ふと、胸の奥で何かがかすかに震えた。
イリスとして最後に願った言葉が、遠くで反響する。
でも、頭を振る。
今、それを考えたら涙が出そうだったから。
◇
村の中心部に近づくほど、賑わいは増していく。
露店のテントが並び、赤や緑の果物が木箱に山積みされ、香辛料の匂いが風に乗って漂ってくる。
「今日は人、多いね」
「王都から商隊が来てるって聞いた。布とか珍しいもんもあるんじゃない?」
「布かー。新しいエプロン欲しいなぁ」
言いながら、リュミエは無意識に人波を見渡していた。
一歩一歩、誰がどの方向へ動くのか。
どの距離感だとぶつからないか。
どこに死角が生まれるか。
頭の中で、矢印のような線がいくつも走る。
それは戦場のマップを見るときと同じ感覚だった。
(……いやいや、市場だよ?)
自分にツッコミを入れながらも、その感覚は止まらない。
ふと、一人の男の動きが視界の端で引っかかった。
身なりは粗末だが、足取りが妙に軽い。
人にぶつかるたびに、さりげなく手を腰元に伸ばして――
(スリだ)
確信は、一瞬だった。
男の指先の角度、目線の動き。
それは“獲物”を奪い慣れた者のものだった。
リュミエは反射的に一歩前へ出る。
ちょうどその時、男が目の前の女性に肩からぶつかりにいく。
「きゃっ、ごめんなさ――」
「危ない!」
気づいた時にはもう遅い。
腰の小袋に伸びた指先が、紐をするりと解き――
はずだった。
「……あれ?」
男の手は空をつかんだ。
小袋は、すでにリュミエの手の中に移っていた。
自分でも、どうやって動いたのかわからない。
身体が勝手に、最小限の動きで紐を引き抜き、男の指から小袋を奪っていた。
「お兄さん、それ、あたしのお金」
声は驚くほど冷静だった。
周囲の視線が一斉に集まる。
「は、はぁ? なに言ってんだお前、触ってねぇよ!」
「今、右手。指先の動きが完全に“盗る側”だった」
口が勝手に言葉を紡ぐ。
男の背中に滲む汗の量、目線の泳ぎ方、足の向き。
全部が「やっている」と告げていた。
「衛兵さーん!」
ミナが大声を張り上げると、近くの門番がすっ飛んでくる。
スリの男は舌打ちして逃げようとしたが、その前にリュミエの足がさっと一歩踏み出した。
足払い。
瞬間的なバランスの崩し方。
そして人が倒れたとき、どこに体重がかかるか。
――全部、知っていた。
男は見事に前のめりに倒れ、衛兵たちに取り押さえられる。
「やるじゃないか、嬢ちゃん!」
「い、いえ……たまたま、です」
衛兵の笑顔に愛想笑いを返しながら、リュミエの背筋には冷たい汗が流れていた。
(今の……絶対、“たまたま”じゃない)
あまりにも自然に身体が動いた。
訓練で叩き込まれた動き、戦場で何百回もシミュレートした「敵の捕縛」の一例。
イリスとしての記憶が、笑いながら囁く。
――ほら、あなたはやっぱり、こういうのが得意なんだよ。
◇
夕方。
市場でおじさんの作ったパンを売り終え、両手いっぱいに荷物を抱えて家路につく。
「リュミエ、今日マジでかっこよかったからね?」
「やめて、その話もう忘れたい……」
「でもスリ止めなかったら、あのおばさん、絶対全財産持っていかれてたよ。あたし感動したもん。『今、右手』って」
「そんなセリフ、言ったっけ……?」
「言ってた言ってた。ちょっと怖かったけど」
ミナは冗談めかして笑うが、その笑いの奥には、ほんの少しのざわつきが混ざっていた。
「リュミエってさ、前からあんな動きできた?」
「さぁ……? あたしもびっくりした」
「なんか、兵士さんみたいだった。いや、兵士より慣れてる感じ」
図星すぎて、リュミエは言葉を失う。
ミナはそれ以上追及せず、「またね」と手を振って自分の家へ駆けていった。
ひとりになった帰り道。
空は茜色に染まりかけていて、雲の縁が金色に燃えている。
家の前に立ち、ふと空を見上げた。
その瞬間――
背筋を、氷の指先でなぞられたみたいだった。
「……っ」
息が詰まる。
心臓が一拍、遅れた気がした。
何かが、どこかからじっとこちらを見ている。
姿も形もわからない“視線”だけが、肌に張り付く。
(……なに、今の)
風は穏やかだ。
村の人々の笑い声も聞こえる。
夕飯の支度の匂いもする。
なのに、空のどこか、地平線の向こう側――
黒い糸のようなものが、世界を覆う予感がした。
イリスの記憶が、警鐘を鳴らす。
――異常値。
――この静けさは、何かの前兆。
「考えすぎ、だよね」
自分で自分に言い聞かせるように呟き、リュミエは玄関の扉に手をかけた。
木の感触は確かにここにあって、背後の不穏な気配は、振り返れば消えてしまいそうで。
けれど、そのざわつきだけは、心の奥に小さな棘として残り続ける。
このときのリュミエはまだ知らない。
その“嫌な気配”の正体が、自分の過去と未来を丸ごと巻き込んでいくことになるなんて――まだ、なにも。
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