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第9話「聖騎士ロウの不器用な守り方」
しおりを挟む聖騎士ロウは、派手じゃない。
剣を振れば人並み外れて強い。
鎧を着れば、誰よりも「前」に立つ。
でも、村での彼は――そういうわかりやすい“英雄”っぽさを、ほとんど見せない。
◇
「ロウさーん! 見て見て、今日こそ当てるから!」
昼下がりの広場。
木で作った簡易の剣を握った子どもたちが、ロウを取り囲んでいた。
「順番を決めろ。喧嘩するな」
ロウは腕を組んで、簡単なルールだけ告げる。
声は低くて、不愛想に聞こえるけれど――それでも子どもたちは慣れた様子で笑う。
「じゃあ、今日の一番はあたし!」
「またミナずるいー!」
木剣がぶんぶん振り回されて、空気がばたばた揺れる。
相手は、ロウが片手で持っている練習用の木の棒一本。
「かかってこい」
その一言で、子どもたちの目は一斉に輝いた。
突っ込んでくる。
振りかぶる。
足元がふらつく。
ロウは、それを最小限の動きで受け流していく。
木と木がぶつかる音は、派手じゃない。
でも、ひとつひとつの動きが、妙に正確だ。
「腕が上がりすぎだ」
「えっ」
「そうすると、腹も首も全部がら空きになる」
ロウは子どもの手首をそっと掴んで、正しい位置に導く。
「こう。力は、ここで止めろ。振り切るな。……お前の体格なら、こういう斬り方の方が早い」
「お、おぉ……?」
子どもからしたら難しい説明だが、ロウは手を添えることで理解させようとする。
その仕草は、驚くほど丁寧だった。
リュミエは、パンの配達帰りにその光景を遠くから眺めていた。
「ロウさん、先生みたいだなぁ」
思わずぽつりと呟く。
子どもたちの顔は真剣で、ロウもまた真剣で。
でもそこには、戦場とはぜんぜん違う種類の緊張感があった。
(……こういうの、守りたいんだろうな)
ロウの過去を、少しだけセイルから聞いた。
黒幕が仕掛けた戦争で故郷を失ったこと。
守りたかったものを守れなかったこと。
焼け落ちた村。
瓦礫と化した家々。
自分の手からこぼれ落ちた、大切な誰か。
その欠片だけで、十分だった。
(“守れなかった人”の目、だもん)
ロウの瞳には、ときどき、そんな色が潜んでいる。
今も、子どもたちを見つめる視線の奥底に、“二度と繰り返したくない”何かが沈んでいた。
「リュミエ!」
広場の隅から、アレンが手を振った。
ロウの剣稽古を見ていたらしい。
「パン! 見せパン!」
「見せるだけでいいならいくらでも見せてあげますけど?」
「違う、食わせろ!」
「ですよねー」
そんなやり取りをしているうちに、ロウの稽古は一段落していた。
「今日はここまでだ。片付けろ。木剣はそこに立てかけておけ」
「はーい!」
子どもたちがわらわらと走り回る。
ひとりが、ロウの腰のあたりに抱きついた。
「ロウさーん、また明日も教えて!」
「明日も時間があればな」
「約束!」
「……努力する」
約束、とは言わない。
でも、“努力する”と言う。
ロウなりの、精一杯の“明日”の保証。
それを見ていたリュミエは、なんとなく胸があたたかくなった。
(この人、ほんと、黙って役に立つ系だ……)
柵が壊れていれば、誰にも言われる前に直す。
老夫婦が重い荷物を運んでいれば、無言で持ち上げる。
井戸の周りの石が欠けていたら、怪我しないように補修しておく。
誰も頼んでいないのに、誰かが困る前に手を出している。
そんな姿を見ていると、ふと、聞きたくなった。
(あのとき、守れなかったものって――どんなだったんだろ)
でも、それを軽々しく口にするほど、リュミエは無神経じゃなかった。
人には、それぞれ“触れたらいけない場所”がある。
ロウの過去は、きっとそのひとつだ。
◇
夜。
市場からの帰り道。
バルドの店を閉めるのを手伝い、ミナに「明日ね」と手を振り、リュミエはひとりで家路についた。
空には細い月が浮かんでいて、星がぽつぽつ瞬いている。
村の夜道は、街灯なんてないから、明かりは家々から漏れる灯りと、月の光だけだ。
昼間見慣れた道も、夜になると輪郭がぼやける。
土の匂いが濃くなって、草の影が長く伸びている。
「……わ、暗」
足元を確かめながら歩いていると、不意に石につまずいた。
「わっ――」
バランスが崩れる。
視界が傾く。
体が倒れ込む先には、段差と、固そうな石。
頭を打つ、と理解するより先に――
腕が、伸びた。
ごつごつした手が、肩を引き寄せる。
胸板に背中が当たって、ぐいっと引き上げられる感覚。
土を蹴る音。
鎧の、一部がかすかに鳴る音。
「――っ」
衝撃のかわりに、硬い胸の感触が背中に来た。
抱き寄せられていた。
夜の冷たい空気の中で、そこだけ妙に温度が高い。
「……怪我は、ないか」
耳元で落ちてきた声は、いつものロウの声より少し低く、少しだけ震えていた。
リュミエは瞬きを繰り返し、状況を理解しようとする。
胸板。
腕。
距離。
……近い。
「え、ロ、ロウさん?」
顔を振り向けると、すぐそこにロウの顎のラインがあった。
彼はリュミエを片腕でしっかりと抱き止めたまま、もう片方の手で前方――危なかった石と段差の位置を確認している。
「そこだ。……もう一歩踏み込んでいたら、頭を打っていた」
淡々と分析しているようで、その指先にはうっすら震えが乗っていた。
ロウがそんなふうに感情を見せるのを、リュミエは初めて見た。
「だ、大丈夫です……ちょっと滑っただけで」
「大丈夫じゃない」
即答だった。
ロウはリュミエの体から、ゆっくりと腕を離す。
けれど距離は、すぐには開けない。
「夜道をひとりで歩くなとは言わない。……だが、足元は見ろ」
「見てたつもりだったんですけど」
「つもりは、意味がない」
言葉は厳しい。
でも、その裏側にあるのは、怒りじゃなくて、明らかな“安堵”だった。
ロウの胸が、大きく上下している。
影になった瞳の奥で、何かが揺れていた。
(……そんなに、焦ったの?)
リュミエが問いかける前に、ロウの方からぽつりと言葉が落ちた。
「……すまない」
「え、なんで謝るんですか」
「もっと早く気づくべきだった」
「いやいやいや、あたしがドジっただけですよ!?」
「俺がここを通らなければ、お前は一人で倒れていた」
その言葉に、ぞくりと背筋が冷えた。
本当にそうだ。
もしロウがここにいなかったら――今ごろ、暗い道端で頭を打って倒れていたかもしれない。
誰にも気づかれないまま。
その「かもしれない」を、ロウは誰よりも嫌うのだろう。
「……ロウさんって」
リュミエは、胸の内側で渦巻く何かを言葉にしようと、ゆっくり口を開く。
「どうしてそこまで……」
どうして、こんな小さな村娘の躓きまで、本気で怖がるのか。
どうして、そんなに張り詰めているのか。
訊ねると、ロウはわずかに視線を逸らした。
月明かりに照らされた横顔は、いつもよりずっと、年上に見える。
背負ってきたものの重さが、その影を濃くしていた。
「……昔」
ぽつりと、ロウが口を開いた。
「俺には、守りたいものがあった」
足元の土を見つめる。
その視線は、村の外――もっと遠い場所の、もっと遠い過去を見ていた。
「故郷の村と、そこで笑っている連中と……家族、みたいなやつらだ」
彼に家族がいたのか、血の繋がりがあったのか、リュミエは知らない。
でも、“家族みたいな”という言い方が、彼の温度を物語っていた。
「黒幕が絡んだ戦争で、全部まとめて焼かれた」
短い一文に、ぎゅっと凝縮された現実。
「俺は、騎士団にいた。守るための剣を持っていた。
でも――気づいたときには、もう遅かった」
黒い糸。
炎。
崩れていく家々。
アレンやセイルから聞いたことのある戦場の光景と、ロウ自身の記憶が重なっていく。
「隊の命令で別の前線に回されて、戻ったときには……何もかも、形を失っていた」
ロウの声は、淡々としている。
感情をこぼさないように抑え込んでいる。そのせいで、逆に重さが増している。
「守りたかったやつを、守れなかった。
剣を持っていながら、前に立てなかった」
その悔しさは、時間で薄れる類のものじゃない。
今も、こうして夜道で誰かがつまずいただけで、あれほど強く体が反応するほどに、刻み込まれている。
「だから」
ロウは、やっとリュミエの方を見た。
目は、月明かりを反射して光っている。
そこに宿るのは、迷いでも、冗談でもない。
「今度こそ、失いたくないんだ」
その一言に、空気が止まった。
夜風の音も、草のざわめきも、一瞬だけ遠のく。
リュミエの喉が、ひゅっと鳴った。
「……“今度こそ”って」
「この村も」
ロウは、ひとつひとつ、言葉を選んでいく。
「この空気も。子どもたちも。バルドのパンも。
お前も」
最後に、“一番言いづらいもの”を、押し出すように口にした。
胸の奥で何かが弾ける音がしたのは、ロウ自身にも聞こえた気がした。
リュミエの心臓は、もっと騒がしい。
耳のすぐ近くで、どくどくと音を立てている。
「わたし、そんな……守る価値のあるような、立派な人じゃないですよ」
思わず出たのは、卑下とも本音ともつかない言葉。
ロウは一歩、距離を詰めた。
「価値があるかどうかは、お前が決めることじゃない」
「じゃあ、誰が?」
「守りたいと思ったやつが、勝手に決める」
不器用な言い方だった。
でも、その不器用さが、ロウの真剣さそのものだ。
「俺は、守りたいと思った。
だから、守る」
当たり前だと言わんばかりに。
その単純さが、リュミエの胸をぐしゃぐしゃにする。
「……そんなこと言われたら」
ぐっと唇を噛む。
「また、朝が来るのが怖くなくなっちゃうじゃないですか」
ぽろり、と零れた言葉。
ロウは一瞬だけ目を瞬き――すぐに悟った。
彼女もまた、過去に“守られなかった側”だったのだと。
どこか遠い場所で、誰にも必要とされないまま生きてきた時間があるのだと。
言葉にしなくても、わかる。
生きていていいのか、と自分に問う目を、彼は戦場で何度も見てきたから。
「なら」
ロウは、少しだけ、表情を緩めた。
「明日も、ちゃんと“見張ってる”から、安心しろ」
「見張るって言い方」
「護衛、でもいい」
リュミエが笑い、涙の気配がふっと軽くなる。
ロウは胸の奥で、小さく息を吐いた。
(贖罪、なんて言葉で片づけたくはない)
もちろんある。
守れなかった過去を埋め合わせたいという、身勝手な気持ち。
けれど、リュミエを見ていると、それだけじゃない感情が静かに顔を出す。
彼女の笑い声が好きだ。
真剣に悩む顔も、怒った顔も、どうしようもなく愛おしい。
これはもう、“贖罪”というより――
(……恋、なんだろうな)
意識した瞬間、耳まで熱くなった。
自覚したくなかったものを、自覚してしまったような居心地の悪さ。
そんなロウの変化に、リュミエはまだ気づかない。
ただ、“今度こそ失いたくない”と言われた言葉だけが、胸の中で何度も反芻されていた。
怖い。
でも、うれしい。
その混ざり合った感情が、夜風に冷やされて、ゆっくりと心の奥に沈んでいく。
「……家まで、送る」
ロウが短く言う。
リュミエは素直に頷いた。
「じゃあ、お願いします。足元、ちゃんと見て歩きます」
「それがいい」
並んで歩く夜道。
月明かりが、二人分の影を長く伸ばす。
ロウの影は、大きい。
リュミエの影を、そのまま包み込めそうなくらい。
不器用で、言葉少なくて、でも誰よりも真っ直ぐな守り方をする男の影だ。
その影の中で、リュミエはほんの少しだけ、自分の足取りを軽くしてみる。
誰かと並んで歩く夜道が、こんなにも心強いものだと――
彼女は、この日初めて知ったのだった。
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