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第10話「暗殺者カグラの影と、忍び寄る敵」
しおりを挟む――「次は、北側の街道を落として」
あの声は、冷たくも熱くもなかった。
淡々としていて、抑揚も少なくて、
でも、少しだけ柔らかい。
人を殺す指示を出しているとは思えないくらい、穏やかな声だった。
だからこそ、気味が悪かった。
◇
まだ“カグラ”という名前すら持っていなかった頃。
彼はただ、“便利な手”としか呼ばれていなかった。
拾われたのか、捕まったのか。
それすら曖昧なまま、目を覚ました場所は地下室で。
ひんやりとした石。
錆びた鉄の匂い。
そこで、ただひとつだけ教え込まれた。
――「命令に従え」
剣の振り方より前に、
気配の消し方や、息の殺し方や、
「自分がそこにいなかったことにする」技術だけ、徹底的に叩き込まれた。
やがて、耳元で聞く声は変わった。
中間の“伝達役”を挟まずに、
ある日突然、頭の中に直接落ちてきたような声。
『聞こえてる?』
初めて、〈影蜘蛛〉の声を聞いたとき。
カグラは、それを人間のものだと認識できなかった。
『今日からあなたには、もう少し“広い地図”を見てもらうわ』
女の声だった。
年齢はよくわからない。
少女にも、青年にも聞こえる。
少なくとも、老人ではない。
澄んでいて、よく通って、耳に心地いい。
その声が、さらりと言う。
『あの街道を塞いで。
できれば騎士団の隊長を一人、落としてくれると助かるわ』
助かる、という言葉の軽さと、
“隊長一人”という指定の冷たさの落差に、
何度目かでようやく、カグラの中の何かがざわついた。
「……なんで、俺なんだ」
思わず漏れた疑問。
声は少しだけ笑った。
『あなたが、一番向いてるから』
一瞬、褒められたような錯覚。
でも、その「向いている」は、“壊すのにちょうどいい”という意味だった。
カグラは、何度も何度も、その声に合わせて動いた。
街道の影。
城壁の上。
夜の屋根。
そこから、指示通りに人を落としていく。
罪悪感は、途中で麻痺した。
もともと、深く考える訓練を与えられていなかったせいかもしれない。
ただ、その声に従うことだけが、
自分の存在を許される条件だったから。
――「よくやったわ」
褒めるときも、声の温度は変わらない。
でも、その「よくやった」は、
誰かの人生がひとつ終わったことを指している。
そこまで理解して、ようやく。
カグラは、ぼんやりと、「ああ、これは、人間の世界じゃないな」と思った。
◇
だから、今世のリュミエの声が、
ほんのかすかにあの声に似ていると気づいたとき――
カグラは、本能的に怯えた。
「カグラさん、そっち危ないですよ」
夕方の森の中。
村の外れで、魔物の痕跡の確認をしていたとき。
足元の崩れかけた斜面を見て、リュミエが思わず声を上げた。
その声音。
状況の見方。
危険の予測の仕方。
全部、違う。
あの黒幕の声は、誰かを“駒”として動かす響きで。
リュミエの声は、誰かを“人”として引き止める響きで。
全く正反対なのに――
たまに、音の一部が薄く重なる瞬間がある。
そのたびに、カグラの背筋は勝手に強張る。
「……大丈夫だ」
無愛想に返して、崩れかけた地面を避ける。
リュミエは、ほっと息をついた。
「カグラさん、ほんっと気配薄いから、見失ってヒヤヒヤするんですよね……」
「それが仕事だ」
「でも、心臓に悪い仕事ですよね、それ」
笑いながら文句を言う彼女の手には、さっき拾ったばかりの小枝があった。
足元を注意しながら歩いていたらしい。
斜面に足を取らないよう、高さを確かめていたのだろう。
そういう“自分なりの守り方”をしているところが、
黒幕との一番の違いだと、カグラは思う。
(同じ声なんかじゃ、ない)
何度そう言い聞かせても、
耳の奥に残った“影蜘蛛の声”の残響は勝手に比べてくる。
『あの街道、塞いで』
「カグラさん、そっちに踏み込むと滑りますよ」
似ているようで、全然違う。
でも、似ている“気がしてしまう”だけで、
体が動かなくなるほど怖くなる自分が、心底いやだった。
◇
村に戻る途中、リュミエが急に足を止めた。
「……あれ」
「どうした」
「あそこ。なにか、描かれてません?」
彼女が指差したのは、村から少し離れた岩。
いつもならただの目印の岩だ。
だが、今日はその表面に、黒い線がいくつも残されていた。
焼け焦げたような跡。
細くて、曲がりくねっていて、
見ようによっては文字にも、模様にも見える。
カグラは、無意識に息を呑んだ。
「……魔力の、焼け跡だ」
セイルの声が後ろから落ちる。
いつの間にか合流していた賢者が、岩肌に指をかざしていた。
空気がわずかに震える。
「これは……魔法陣の一部ですね。消されかけていますが」
「魔法陣?」
リュミエが身を乗り出す。
セイルは頷いた。
「魔物を呼び寄せるタイプの術式に似ています。
ただ、かなり複雑に分割されている。……単純に一枚で描くんじゃなくて、
“周囲に小さく刻んで全体でひとつの陣にする”やり方ですね」
説明を聞きながら、カグラの喉はひどく乾いていた。
(見覚えが、ある)
岩肌に残った、焦げ跡の並び。
線の方向。
その位置関係。
昔、任務に向かう道すがら、
同じような跡をいくつも見たことがある。
あれは、“戦場の下準備”だった。
『ここに小さく印を刻んでおいて。
全部揃ったら、一気に“開く”から』
あの声が、さらりと言っていた。
彼女の指示で、カグラはあちこちの岩や木に小さな印を刻んだ。
意味も知らされないまま。
そうして迎えた戦場で、
突然地面が裂け、魔物が吹き出し、
敵味方関係なく惨劇が起きた。
あのときの匂いが、一瞬で鼻の奥に蘇る。
血と、焼けた肉と、
焦げた魔力の匂い。
「カグラ?」
気づけば、リュミエが心配そうに覗き込んでいた。
「……顔色、悪いです」
「問題ない」
反射的に、そう返す。
声が少しだけ掠れた。
“問題ない”なんて、大嘘だ。
これは、“あいつのやり方”だ。
セイルが岩肌の線をなぞりながら、眉を寄せる。
「陣の一部だけでははっきりと断定できませんが……
これが村の周囲にいくつも描かれているなら、
“意図的な誘導”が行われている可能性がありますね」
「誘導?」
「はい。魔物を“たまたま”ではなく、“狙ってここに集める”ための」
リュミエの顔から、血の気がさっと引いた。
「……じゃあ、今までの魔物の異常発生って」
「誰かが、やっているかもしれない」
淡々とした言い方だったが、その声には怒りも混じっていた。
カグラは、黙って空を見上げる。
雲は穏やかに流れ、
村からはいつもの喧騒が微かに聞こえてくる。
子どもたちの笑い声。
パンを焼く匂い。
家畜の鳴き声。
この日常を壊すために、
誰かが、また“魔法陣”を刻んでいる。
それが、かつて自分が運んだものと同じ手口だとしたら。
(……また、俺は、巻き込まれているのか)
吐き気に似た感覚が、腹の底からせり上がってくる。
足元が、少しぐらつく。
「……カグラさん?」
リュミエの声が、細くかかった。
彼女の手が、そっとカグラの袖を引く。
その手のひらの温かさが、現実へ引き戻した。
「大丈夫……じゃなさそうです」
「お前に、大丈夫かどうか決められる筋合いはない」
つい、きつい言い方になってしまう。
リュミエが、一瞬だけ目を丸くした。
「……そうですね。すみません」
素直に引く。
責めない。
その態度が逆に、カグラの胸を締め付ける。
(俺は、また――)
なんでもない日常の隅っこで、
彼女の声や手の温度に、何度も救われてきた。
屋根の上で一人見張っているとき。
ふいに窓が開いて、「カグラさーん、お茶置いときますねー」と言われた日のこと。
いつも食の細い彼が、
そのときだけは少しだけ温かい湯気を吸い込んで、
「悪くない」と呟いていたことなど、リュミエはきっと知らない。
戦場で何度も、“道具”として扱われてきた彼にとって、
名前を呼んでもらうことも、
気遣いを向けられることも、
まだ慣れていない種類の出来事だ。
(“もう二度と操られたくない”)
それは、心に刻んだ誓いだ。
黒幕の声に従うだけの自分には、もう戻りたくない。
誰かが描いた地図の上で、
知らないうちに人を殺す手には戻りたくない。
でも、同時に。
(それでも、俺は――こいつのそばにいたいと思ってしまっている)
リュミエの笑い声。
怖がる顔。
必死に自分のことを「気持ち悪い」と言いながら、それでも誰かを守ろうとする姿。
全部まとめて、
この村の空気ごと、
もう失いたくない。
それは、贖罪でもあり、
きっと、恋にも似ている。
その矛盾が、胸の中で静かにぶつかり合う。
「セイル」
カグラは、岩から離れながら、低い声で呼びかけた。
「この陣、どれくらいの精度だ」
「まだ断片ですが……雑ではありません。
少なくとも、“素人が真似して描きました”というレベルではない」
「そうか」
短く返し、カグラは周囲を見渡す。
木の根元。
小川のほとり。
岩の影。
目に見えない線が、頭の中で繋がっていく。
(この位置、この数、この広がり方――)
足元の土を無意識に掴み、指先で線を描く。
リュミエが黙ってそれを見ている。
セイルも、興味深そうに目を細めた。
「どう見える?」
賢者の問い。
カグラは一度だけ息を吐き出し、静かに口を開いた。
「……まるで、昔の黒幕の手口だ」
その言葉が、重く、夕暮れの空気に落ちた。
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