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第4話 初めて拾った、微かな鼓動
しおりを挟むその日は、朝から空が泣いていた。
王城の屋根を叩く雨音が、いつもより低く響いている。
裏手のゴミ集積所まで続く土の道はとっくに泥だらけで、踏み出すたびにぐちゃ、と嫌な感触が靴底越しに伝わってきた。
「最悪な天気ですね……」
リーナが思わずこぼすと、隣を歩いていたマルタが、ふんと鼻を鳴らす。
「雨の日の方が、マシなゴミもあるんだよ」
「え、どのへんが、ですか……?」
「暑い日に腐るものの匂いに比べりゃ、雨で薄まってる分だけな。あと、上の連中があんまり顔出さないから気が楽だろ」
確かに、とリーナは頷いた。
ここ数日、工房からの視察だとか、軍部の回収班だとか、妙に“上の世界の人間”が裏に顔を出すことが増えていた。
今日は雨のおかげか、その気配がほとんどない。
ゴミ山の前に立つと、湿った空気がむわっとまとわりついてきた。
金属と泥と布が混ざった匂い。
雨に打たれて、いつもよりいくらか柔らかくなったシルエット。
斜面には細い水の筋がいくつも走っていて、ところどころで小さな滝みたいになっている。
「滑るから足元気をつけな、新入り」
「はい」
返事をして、リーナはエプロンの裾をきゅっと握った。
雨の日の仕事は、ただ“濡れて嫌”というだけじゃない。
ゴミが水を含んで重くなるし、足場は不安定になるし、転べば文字通り“中身”まみれになるリスクもある。
……けれど。
今日はなぜか、胸の奥が落ち着かないどころか、そわそわと期待でざわついていた。
(うるさい)
ゴミ山を見上げる。
雨音の向こうで、いつもより強く、ざわざわと“波”が鳴っている。
動くたび、踏みしめるたび、何かの声がかすかに震えるみたいな感じ。
ここに来てから、そういう感覚には慣れてきたはずなのに――今日は、違う。
もっと深く。
もっと遠く。
ずっと昔から続いてきた鼓動が、雨に叩かれながらも途切れずに響いている。
「今日の担当は?」
「東側斜面の整理と、通路の確保さ」
マルタが、ゴミ山の右側を顎で指す。
「上から崩れてきそうなもんをある程度崩して安全にしとく。 雨で土が緩んでる時にやっとかないと、あとでまとめて落ちて死人が出る」
「死人が……」
「二十年前に一度あったんだよ。城が口外したがらない事故ってやつさ。 だから、そうならないように、今はあたしらがせっせと支えてるわけ」
軽く言うわりに、その目は真剣だ。
「新入りは危ないとこまで登るんじゃないよ。足が慣れてないうちは、せいぜいこの辺りまで」
ゴミ山の中腹あたりに、マルタが目印をつけているのが見える。
赤い布切れが、雨に濡れてぺたりと張り付いていた。
「分かりました」
リーナは頷き、長靴の中で足の指を動かした。
泥を踏みしめる感覚を確かめるように、一歩、また一歩と斜面を登っていく。
金属片が足音に合わせてカチャリと鳴った。
濡れた布がぬるりと滑る。
割れた木箱の角が足首に軽く当たるたび、そこに残る人の生活の痕跡が肌を撫でていくみたいだった。
(ここ、本当に“全部要らない”って判断されたものばかりなんだろうか)
そんな疑問は、ずっと前からあった。
壊れた椅子も、欠けた皿も、片方だけの靴も。
確かに“使えるか”って聞かれれば、首を傾げざるを得ないものばかりだ。
でもそこに手を触れると、時々ふっと、柔らかい波が指先を撫でていく。
誰かが笑いながら座っていた椅子。
誰かが誕生日のケーキを乗せていた皿。
誰かが初めて買ってもらった靴。
そういう“時間”が、一瞬だけよぎることがある。
それでも壊れた瞬間に、「使えないから」とまとめてここに運ばれてきてしまう。
(……私と似てる、なんて思ってる時点で、ちょっと痛いよね)
自嘲気味に笑いながら、さらに一歩踏み出した。
その瞬間だった。
足元の泥が、ずぶ、と沈む。
「えっ――」
体重を支えていたゴミが、雨で緩んだ土ごとずり落ちる。
靴が滑り、バランスが崩れた。
視界が傾く。
金属片の山が迫ってくる。
指先が、空を掴むように宙を切った。
(やだ、これ、顔からいったら絶対血まみれ――)
思考より先に、身体が勝手に動いた。
崩れ落ちる斜面に、必死で手をつく。
痛み。
冷たさ。
硬い感触。
指先に触れたのは、泥ではなく、鉄だった。
ずざざざざ、と周囲のゴミが音を立てて滑り落ちる。
リーナの身体も半分埋まりかけて、なんとかその場で踏みとどまった。
「ぶ、ぶなっ……!」
心臓がうるさい。
雨音が一瞬遠ざかって、自分の鼓動だけが耳の奥で反響している。
「おーい、新入り! 生きてるか!」
下からマルタの声が響いた。
「だ、大丈夫です! ちょっと滑っただけで!」
「“ちょっと”で済んだんならいいけどね!」
マルタの怒鳴り声が、逆にリアルで、リーナは苦笑した。
……そのとき。
(……あれ?)
まだ、手のひらに冷たさが残っている。
単なる鉄の冷たさ――にしては、変だ。
冷たいのに、奥が、ほんのり温かい。
凍るような表面の下で、小さな焚き火がずっと消えずに燃えているみたいな感覚。
ぞわりと、背筋をなにかが這い上がった。
リーナはゆっくりと顔を上げ、手をついている場所を見た。
泥の中から、細長い金属片が、かろうじて顔を出している。
全体が錆びついて、色も形もよく分からない。
けれど、その奥から――
トクン。
とても弱い。
でも確かに、心臓の鼓動のような“何か”が、指先に触れた場所から伝わってきた。
(……これ)
息を呑む。
工房の地下で感じたものとも、排水管の奥で聞いたものとも、どこか似ている。
でも、もっと静かで、もっと細くて、今にも切れてしまいそうな綱みたいな波長。
遠い昔の呼吸。
ずっと前から誰にも気づかれずに、呼吸だけは続けていた何かが、ここに。
「……あなた」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「まだ、ここにいるの?」
誰に聞かせるでもない、小さな声。
雨音にすぐ掻き消されてしまうほどの、ささやき。
けれど、金属片の奥の“何か”は、その問いかけに応じるみたいに、かすかに震えた。
トクン、と一度。
そのあと、細く長く、波が伸びていく。
リーナは、慎重に体勢を整えながら、その金属片の周囲のゴミを少しずつどかした。
濡れた布を引き抜き、割れた陶器を脇によけ、絡まっていた針金をほどく。
もう一度、表面を確かめてから、ぐっと力を入れて引き抜いた。
金属片は、想像していたよりずっと軽かった。
だったら折れたナイフと言われても信じてしまいそうな細さ。
全体を覆う錆が、まるで厚い殻みたいにこびりついている。
「新入り、何拾ってんだい。変なもんなら先に見せな……」
下からマルタが言いかけて、ふっと声を止めた。
リーナは、泥にまみれたその金属片を胸に抱えたまま、慎重に斜面を降りた。
足元が滑らないように、ひとつひとつ段差を確認しながら。
ようやく地面に降り立つと、膝ががくがくしているのが分かった。
さっきのスリップのせいだけじゃない。
手の中にある“それ”の鼓動に、全身を揺さぶられている。
「見せてみな」
マルタが、分厚い手袋ごしに受け取ろうと手を伸ばしてくる。
リーナは、反射的に少しだけ身体を引いた。
それから、「あ」と気づいて、慌てて頭を下げる。
「す、すみません……! その、まだ、私でも大丈夫かなって……」
「おや?」
マルタが片眉を上げる。
リーナは言葉を探して、うまく見つからなくて、結局正直に口にした。
「――まだ、息をしてる気が、するんです。触った瞬間からずっと」
それは、工房なら絶対に口にできない言い回しだった。
“息をしている”とか、“まだいる”とか、そんな表現をしただけで、「また始まった」と冷たい視線が突き刺さるのが想像できる。
けれどここでは、マルタはただ、じっとその金属片を見ているだけだった。
「ふぅん」
興味を持ったような、持たなかったような吐息。
「いいよ。あんたがそう感じるんなら、まずは好きにしてみな」
「え?」
「どうせただのガラクタなら、磨いたくらいで爆発はしない。 “本物”なら……まあ、その時はその時だ」
軽く肩をすくめる。
「見るからに“刺さりそう”か“牙生えてそう”なら止めるけどね」
冗談めかして言ってから、マルタは少しだけ声を落とした。
「それに、そういう顔、悪くないよ」
「顔、ですか?」
「何かを“見つけちまった”顔さ。 あたしも戦場で、たまにそんな顔してた」
掌の上の金属片に視線を落とす。
雨が、まだ降っている。
表面の錆に当たって、細かな滴がはじける。
リーナは、そっとエプロンのポケットから布を取り出した。
毎日の掃除で使い込まれて、もう真っ白とは言えない布。
本当は床用だ。それを迷いながらも、両手に巻き付けるように持って、金属片の表面をそっと撫でた。
布越しでも、冷たさが伝わってくる。
こびりついた錆は、最初こそ頑なに残ろうとしていたけれど、何度も何度も同じ場所を磨いていると、意外なほどあっさりと皮を剥がされるみたいに剥離していった。
ガリ、ガリ、と小さな音。
布にざらざらと赤茶色の粉が移っていく。
……同時に。
トクン、トクン。
金属片から伝わる鼓動が、少しずつ強くなっていく。
最初はかすかな揺らぎだったものが、徐々にリズムを取り戻していく感覚。
長い眠りから覚めかけた心臓が、ようやく自分の存在を思い出すみたいに。
(……ああ)
胸が熱くなる。
指先から伝わる震えが、そのまま腕を伝って、肩から背中へ、腰から足先へと広がっていく。
工房で何度も否定されてきた“感覚”が、今はこの小さな金属片と完璧に噛み合っている。
誰も認めてくれなかったものが、「ここにいるよ」と笑いかけてくれているみたいで。
(違わなかったんだ)
喉の奥がつんと痛くなる。
あの日、廊下の配管が軋む音を聞いたときも。
地下の排水管の奥で、見えない波長を感じたときも。
全部、自分の“勘違い”で、ただの妄想だって言い聞かせてきた。
そのたびに、胸のどこかを削り取って、丸めて捨ててきた。
その捨てられた破片が、今、掌の上で全部繋がっていく。
ガリ、ガリ――
錆がはがれるたび、現れるのは滑らかな金属光沢。
もともとはきっと、美しく磨かれていたのだろう。
細い。けれど、芯が強そうなライン。
刃物とも、装飾品ともつかないシルエット。
どうしようもなく愛おしくて、リーナは布越しにそっと撫でる指先に力を込めた。
「……大丈夫。もう、捨てないから」
自分でも驚くくらい自然に出た言葉。
それに応じるように、金属片の脈動がさらに強くなる。
波長が、リーナの魔力に絡みついてくる感覚があった。
工房の魔導測量で使う、整った“魔力の流れ”とは全然違う。
もっと粗くて、荒々しくて、でもあたたかい。
散らかっていた線が、彼女の魔力と触れた瞬間、すっと一本の道になる。
その道を、深いところまで引き込まれていくような感覚に、思わず息が詰まる。
「おや」
マルタが、低く唸るような声を上げた。
リーナの周囲の空気が、わずかに震えている。
雨粒の落ちる軌道が、ほんの一瞬、遅く見えた。
時間が伸びる。
音が遠のく。
代わりに、掌の上の鼓動だけがはっきりと聞こえる。
トクン、トクン、トクン。
(うるさいくらいに、元気出して……)
笑いそうになる。
同時に、熱いものが頬を伝った。
「あれ」
視界が滲む。
雨のせいじゃない。
涙だ、と認めた瞬間、堰が切れたみたいに目頭が熱くなった。
今までずっと、見えても、聞こえても、“ない”って言われ続けてきた。
測れないなら意味がない。
証明できないなら妄想だ。
数字にならないなら、現実じゃない。
そう言われるたびに、自分の感じている世界を、自分で踏みにじってきた。
でも。
今、掌の中の“それ”は、彼女の感覚を前提に、目を覚まそうとしている。
誰かの数字じゃなくて。
誰かの基準じゃなくて。
――“君が感じていたものは、確かにここにあるよ”。
そう言ってくれているみたいで。
「……ずるいなぁ、もう」
何に対して言っているのか、自分でも分からなかった。
工房に対してか。
この金属片に対してか。
あるいは、自分自身に対してか。
布を握る指先に、自然と力が入る。
錆が、ばさっ、とまとまって剥がれ落ちた。
その瞬間、鼓動がひときわ強く跳ねる。
トン、と内側から叩かれたみたいな衝撃に、リーナは思わずよろめいた。
「っとと、と。新入り、深呼吸しな」
マルタの手が、背中を支えてくれる。
分厚い手袋ごしでも、その支えはしっかりしていた。
「息、止めるんじゃないよ。あんたが止めたら、そいつも一緒に止まる」
「……はい」
言われるままに、大きく息を吸って、吐く。
胸の奥まで雨の匂いと錆の匂いと、よく分からない何かの匂いが入り込んで、肺をいっぱいに満たした。
魔力の波が、少し落ち着く。
リーナは、そっと掌を開いて、“それ”を見た。
さっきまで錆だらけだった金属片は、部分的に本来の姿を覗かせていた。
銀色でも金色でもない。
淡く青みを帯びた、不思議な輝き。
表面には、微細な線が幾つも走っている。
ただの傷じゃない。
何かの紋様。見たことのない文字か、魔法陣の一部か。
雨を受けて、その紋様がわずかに光った。
――トクン。
掌の中だけじゃない。
胸の奥でも、同じリズムが鳴っていた。
「やっぱり、好きにして正解だったね」
マルタが、小さく笑う。
「そいつ、“まだここにいる”って顔してるよ」
「顔って……」
「物も人も、同じさ。捨てた側にはゴミでも、捨てられた側には“続き”がある」
ぼろ靴のつま先で、マルタは地面を軽く蹴った。
「で、そいつはあんたに見つけられた。 本当は、そういうのを見つけるために、あんたの目と手はあるんじゃないかい?」
胸が、また痛くなる。
“そういうの”を見つけるために。
測量師としてじゃなくて。
掃除婦としてでもなくて。
もっと別の何かとして。
「……だったらいいな」
ぽつりと零れた言葉は、雨にすぐ紛れてしまった。
けれど、掌の中の“微かな鼓動”は、その呟きにしっかりと応えた気がした。
トクン、と。
「だったらいいな」を、「そうだよ」に変えるみたいに。
リーナは、もう一度布を握り直す。
「名前……」
ふと、口をついて出た。
「え?」
「だったら、あなたにも、名前がいるよね。 “金属片”とか“ガラクタ”って呼ぶの、なんか嫌だし」
マルタが、目尻を緩ませる。
「やれやれ。拾ってすぐに名前をつけたがるのは、だいたいヤバい奴の第一歩だけどね」
「や、やば……!」
「褒めてるんだよ」
笑いながら、マルタは肩を叩く。
「名前でもなんでも、つけてやりな。 そうすりゃ、あんたの中で、そいつはもう“ただのゴミ”じゃなくなる」
ただのゴミじゃない。
工房で、自分が“ただの問題児”だと決めつけられたときの痛みが、少しだけ薄まる言葉だった。
掌の中の“それ”を、リーナはもう一度、そっと撫でる。
雨の中で光る青みがかった金属。
遠い昔の呼吸みたいな波長。
今にも消えそうで、でも、必死で繋がろうとしている鼓動。
(初めて、ちゃんと見つけた)
あのとき排水管の奥で感じた“何か”は、結局絶対に届かないままだった。
工房の廊下で聞いた“泣き声”も、誰にも信じられないまま忘れられていった。
でも今、掌の中のこれは違う。
ここにいて。
触れて。
応えてくれている。
「――よろしくね」
小さく呟いて、リーナは胸元にそっとそれを抱き寄せた。
ゴミ山の上では、まだ雨が降り続いている。
金属と泥と布の山のどこかで、いくつもの小さな光が震えている。
その中で、ひとつの“微かな鼓動”が、確かに拾い上げられた。
それはまだ、ただの断片。
まだ、何者でもない。
けれど、その瞬間――
リーナの人生は、静かに、けれど確実に別の軌道へと滑り始めていた。
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