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第2話「筋書きの改稿開始」
しおりを挟む東庭の陽はやわらかく、テーブルクロスの白に蜂蜜色の縁をつけていた。笑い声、食器が触れ合う軽い音、花の香り。平和の見本市みたいな空気の中で、私は指先の切り傷にそっと舌を当てる。痛みはまだ熱をもっていて、だからこそ頭は澄んでいた。
「――ねぇ、見た? またヴァルン嬢が」 「可哀想に、聖女候補様のドレスが……」
周辺のテーブルから、甘く粘る囁きが漂ってくる。風評は、砂糖衣をまとった刃物だ。触れるほどに傷が増える。私は椅子に浅く腰かけ直し、膝上で手を組んだ。手の組み方ひとつにも意味を込める。優雅、冷静、すなわち“自分に非はない”という無言の宣言。
斜向かい、エミリアが涙をためてこちらを見る。袖口に、白い粉砂糖がふんわり付着している。さっきのタルトの粉が、そのまま細工のように残っているのだ。
「レティシア様……」
震える声。群衆は弱った小鳥の声に弱い。私はゆっくり微笑んだ。口角の角度、視線の高さ、息継ぎのタイミング――校閲で培った“精度”を、今は表情に使う。
「心配いらないわ、エミリア。あなたは転ばなかった。転ばなかった以上、謝罪する理由は“今のところ”ない」
「でも、周りの方が……」
「周りが騒ぐのは、いつだって理由になると勘違いしているとき」
私は立ち上がり、テーブルの端に残された別の菓子皿を手に取った。掌でわずかに捻る。皿の縁がかすかに軋む。ふふ、と喉の奥で笑いが漏れる。わかった、この窯元、焼成の温度管理が甘い。
「失礼、皆さま。ちょっとした実験をお目にかけますわ」
わざと声を通した。視線が集まる。王太子の眉が僅かに動き、聖騎士は肘を組み、魔導士は目尻を楽しそうに弧にした。私は皿をテーブルに戻し、指で縁をトントンと叩く。チリ、チリ、と微細な音が返る。均一ではない。縁厚にむらがある証左。
「皿は、見目の美しさだけでは“完成”になりません。縁と脚の厚み、重心、焼成の収縮率――これらが一枚に調和して初めて、淑女の手元に置くに足る器となる。今日のこの可憐な皿は、残念ながら脚のひとつが“軽い”。だから――」
私は指先でその脚を押し、ほんの一呼吸ぶんだけ傾けた。皿は意地悪く震え、テーブルクロスの皺に沿って滑っていく。周囲から小さな悲鳴。私はその前に、すっと手を差し入れて受け止める。
「こうして、簡単に“偶然”が起きる」
エミリアの袖を、軽く指で示す。白い粉砂糖が、光をはねる。私は声色をやわらげる。
「ね? 倒れたのは私でも、あなたでもない。構造の問題。つまり、責任の所在は“もの”の側にある」
「……っ」
王太子が笑顔のまま口を開きかけた、その瞬間だった。
「失礼します」
控えめな声が背後から落ちてくる。ノアだ。彼はいつの間にか現れていて、両手に厚い記録簿を抱えている。革表紙は手脂で艶が出て、角は何度もめくられた跡で丸くなっていた。
「厨房ならびに東倉庫、食器納入記録。今季の新規納入、ロジエ窯。初回納品分、検品の不合格17%。うち、脚の欠けが12%」
場の空気が音を立てて変わる。数字は、噂よりも早く人を黙らせる。私はノアから記録簿を受け取らず、ただ彼を一瞥した。受け取らないことで“私はすでに理解している”を演出する。
「お手元、汚してしまいますので」
「ありがとう。けれど、あなたの手はきれい。紙の持ち方が、誤魔化しを知らない」
ノアの灰色の瞳が、ほんの一瞬だけこちらを見た。触れたら割れる硝子玉のような目。すぐに逸れる。相手に自分の温度を渡さない目。
「――では、窯元に調査を」
王太子の声。柔らかく、しかし帯は硬い。私はすぐに笑顔を向ける。
「殿下のご英断、心から感謝しますわ。王家の食卓を支える器が万全であることは、国の威信に直結しますから」
称賛という名の“既成事実”を積む。彼は頷くほかない。人々の視線が一斉に彼へ向く。王は、見られて王となる。私はその視線の流れを横目で確かめ、椅子に戻った。
ざわめきの中、エミリアがそっと口を開く。
「レティシア様……わたし、あの……」
「気にしないで。甘いものの粉は、甘いまま落ちないの。少し水を含ませた布で、ね」
私はベラに目だけで合図を送る。ベラがすぐに濡らしたナプキンを用意し、エミリアの袖を丁寧に押さえていく。小さな仕事の積み重ねが、空気の色を変える。周囲の何人かが「あら」と息をもらした。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして。ねえ、エミリア」
「はい?」
「この国で一番“誤解しやすい言葉”が何だか知ってる?」
彼女は首を傾げる。私は紅茶の表面に映る自分の顔を見た。薄く笑う悪役令嬢。
「“偶然”。そして“噂”。この二つは、誰かの怠慢を擁護するときに便利すぎる」
瞬間、テーブルの外で誰かが息を呑む音。私は聞こえないふりをして、ティースプーンを静かに置いた。カチ、と短い音が場の終止符になる。
曲が一段落ち、楽士が新しい譜面をめくる。その隙間を縫うように、ノアが一歩だけ近づき、小さく囁いた。
「窯元の帳簿、王太子府の“新規選定”の理由が薄い。紹介者:菓子商組合」
私は目だけで返事をする。ノアの言葉は、喉元に刺さっていた小骨を取るみたいに効く。表では礼儀、裏では手を動かす。舞台裏が整えば、幕は勝手に上がる。
「ベラ」
私が姿勢を崩さず呼べば、彼女はもう側にいた。三つ編みの先が胸元で揺れる。
「はい、レティシア様」
「菓子商組合。今季の寄付と“慶事費”。王太子府への祝儀、明細、誰の名義で出ているか、さりげなく。いい?」
ベラの目が、きゅっと強くなる。「承知しました」。愛らしい顔で、最短の返事。私は喉の奥で笑った。この子、ほんとうに優秀。前世で同僚に欲しかったタイプ。
「走ってはダメ。歩幅を半分。息は浅く。笑顔は二割だけ増やして」
「はい」
ベラは一礼し、ふわりと風になって去った。場の誰もが茶会の色香に気を取られている。ひとりの侍女が動いても、誰も目を留めない。だから、彼女は強い。
私は正面に腰を戻し、あえて“嫌味な悪役”の仮面を少し濃くした。頬に指を当て、わずかに目を細め、隣席の婦人に笑いかける。
「まあ。窯元の選定も、最近は“お情け”が入るのね」
婦人は被せるように扇を開いた。「奥さま方のお楽しみよ、ヴァルン嬢。世の中、甘くなければ回らないの」
「甘さと腐りは、舌では似ていても、腹の中では別物ですわ」
婦人が笑い、隣の紳士が苦い顔をする。その“ねじれ”が私の狙い。賛否は半々でいい。全会一致は、物語を眠らせる。
斜向かいに座るルシアンが、肘で頬杖をついてこちらを見ていた。白い指、長い関節、退屈に強い笑顔。
「レティシア嬢。器の話、とても面白かった。構造の欠陥が偶然を呼ぶ、というのは人生でも同じだね。君の構造は?」
「お構いなく、先生。わたくしは悪役令嬢。構造から“悪”でできておりますの」
「はは。自己認識は正確なほうがいい」
彼は笑ってワインを傾けた。笑いの底にうっすら鋭さが見える。彼に背中を見せる瞬間は、たぶん一生来ない。私はそう決めた。
王太子が立ち、再び場をまとめる。聖騎士はエミリアにハンカチを差し出し、彼女は“守られる”所作を上手にこなす。そのすべてを、私は俯瞰の目で見ている。舞台は誰のもの? ――今日から、それは私の問いだ。
やがて、曲の合間に、ベラが戻ってきた。息は上がっていない。歩幅は半分。笑顔は二割だけ増えている。見事。
「レティシア様」
「ここで報告はだめ。私の背後、影になっている側に」
ベラは私の背にまわり、卓上の花を直すふりをしてささやく。
「菓子商組合の帳簿、“慶事費”が例年の三倍。名義は“組合長夫人”。ただし、夫人は病で外出できないはず。記入の筆跡、複数」
私はナプキンで口を押さえ、笑いを飲み込んだ。いい子。核心に手が届いている。
「領収書の宛名は?」
「王太子府“御用達選定祝”。内訳に“東庭茶会設営補助”。支払先の一部が――ロジエ窯の運搬人の名前」
音符が頭の中で跳ねた。筋書きの改稿は、もう始まっている。私は花瓶の位置を一センチだけずらし、ベラに目を落とす。
「よくやったわ。次は――“運搬人”の家に花を送って。お見舞いの名目で。カードには『脚に気をつけて レ』とだけ」
ベラの目が丸くなる。「脚、ですか?」
「皿の脚。人の脚。どちらも重心を支える。重心を崩せば、真実は自分から倒れてくる」
「了解しました」
ベラはまた風になって消えた。私はグラスの縁を指でなぞる。さっきより痛みが薄い。かわりに、胸の奥にひとつの言葉が澄んで立っていた。
――我慢しない。
言い換えれば、こうだ。私は“選ぶ”。黙るか、言うか。受け取るか、差し戻すか。笑うか、笑わないか。前世で私がしなかったのは、ただ、それだけ。
「ノア」
呼ぶと、彼は影から出てきた。動きに無駄がない。
「はい」
「今日の東庭、地面が少し波打っているわ。園丁の配置、誰が?」
「王太子府の管轄。庭師頭の交代がありました」
「庭師頭の履歴書、あとで見せて。職人の手の跡は、紙にも残るから」
「承知しました」
ノアは一歩下がりかけて、ふと足を止める。そして迷いがちに口を開いた。
「……先ほどの“責任の所在”の話。あれは、殿下にも届いていました」
「届くように言ったから」
「危うい橋です」
「橋が危ういのは、作りが悪いから。渡る人間のせいじゃないわ」
ノアはそれ以上何も言わず、ただ一礼して下がった。灰色の瞳が一瞬、“何か”を言いかけたように揺れたけれど、彼はやはり逸らした。逸らす技術は、秘密の重さと比例する。
私は椅子にもたれ、深く息を吐いた。頬に落ちる陽が心地いい。遠くで子どもが笑う。世界は平和のふりがうまい。ふりを剥いだときに剰余として残るものが、その国の真実だ。
内側で、言葉が組み上がっていく。
――“悪役は舞台の主役を喰える”。
主役は、視線と物語を独占する存在。けれど、舞台を支えるのは脇役の台詞であり、きちんと置かれた小道具であり、曲の入り。悪役は、その全部に触れる権利を持っている。嫌われる自由。嘲られる自由。つまり、場を動かす自由。
我慢しない、とは、相手を傷つけることではない。自分の役割と責任を、自分で選び直すことだ。押し付けられた筋書きを、私の手で改稿することだ。
「――殿下」
私は満を持して立ち上がった。視線がこちらに集まる。エドワードが優雅に首を傾げる。
「なんだい、ヴァルン嬢」
「本日の皿の件、ロジエ窯には私からも“お見舞い”を。制作は繊細で、失敗はつきもの。対話の余白があるうちに、直した方がよくてよ」
寛容の言葉を選んで、針を仕込む。彼は微笑み、頷く。私が欲しいのは“王太子がロジエ窯へ公式に関与した”記録。彼が首を縦に振るたび、彼の足元に小さな杭が打たれていく。
そのとき、ルシアンが小さく指を鳴らした。音が空に弾む。
「君は愉快だ、ヴァルン嬢。――ところで、粉砂糖は袖だけじゃないよ」
彼の視線が、エミリアの靴先へ下りる。白い粉が、つま先の革にも薄く乗っていた。エミリアははっとして足を引いた。私は彼女の肩に手を置く。
「気にしないで。甘い汚れは、苦い言葉では落ちない」
エミリアの瞳が揺れ、そこにほんの一瞬、計算のない素顔が見えた。誰かの神話の中心でなければ、自分でいられない少女の顔。私はその部分にだけ、そっと目を伏せる。
音楽が高まり、会は別のプログラムへ移った。私は席に戻り、ベラの置いた小さなメモに目を落とす。字は整っていて、筆圧は強すぎない。
〈運搬人の家、手配完了。花は白いカメリア。カード文面どおり〉
私は小さく頷き、メモを口の中でひとつ折った。紙は舌に溶けるように小さくなる。秘密は胃で守るのがいちばん安全。
ふと、ノアが視界の端に立った。灰色の瞳が、まっすぐに私を見た――気がした。次の瞬間には、もう逸らしている。私は笑って、声を潜める。
「あなた、私を“悪役”以外の何かとして見ている?」
風が、返事代わりに私の髪を撫でた。金の糸がまた光を散らす。遠くで鐘が鳴る。ページの角に指をかける音が、自分の内側から聞こえる。
筋書きは、もう“校正済み”だ。誤字は正され、行間は詰められ、余白は拡げられた。次の段落を、誰が書くのか。答えは知っている。
――私だ。
私は紅茶を飲み干し、静かに席を立った。甘い香りとざわめきの向こうで、王城の影がゆっくりと角度を変える。影が伸びれば、隠れる場所は増える。仕掛けも、増える。
“我慢しない”という基準が、はっきり形を持つ。私はそれを胸の内に掲げ、笑った。悪役の笑い方で。けれど、心の温度はもう、前世の私のままだ。
――悪役は舞台の主役を喰える。なら、いただきましょう。最初の一口は、噂という砂糖衣から。
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