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第16話「空位の王冠」
しおりを挟む王都の夜は、音の表面張力を失っていた。
王太子は失脚し、聖騎士は辺境へ、魔導士は収監された。塔の鐘は一拍遅れて鳴り、貴族街の邸の明かりは遅くまで消えない。議場では“臨時”という言葉が枕詞になり、廊下の片隅では「摂政」という新しい玩具を誰が握るかで、目の色がひとつずつ暗くなる。
――“レティシアを摂政に”。
囁きは、紙よりも軽いくせに、鉄よりも離れがたい。私の部屋の扉の向こう、絨毯の上を滑っては、夜気に貼りつく。私は窓辺に座り、脚を抱え、ガラスの向こうに広がる暗い街に自分の輪郭を溶かした。
初雪が、落ち始めている。
白、白、白。
灯の赤と混ざるまでの、無音の刹那が美しい。
けれど胸の中で、別の赤が滲む。前世の赤。街灯の反射。アスファルトの皮膚。ドラム缶みたいな冷たさの夜。誰かの叫び声。車輪の軋み。腹に走った痛み。――それでも、最後に吐き出したのは「我慢したくない」という、本当に小さな、でも人生でいちばん正確な文だった。
「我慢したくない」
声にしてみると、あの夜より滑らかだった。
息が白くならない室内で、私は自分の吐息の居場所を探す。
ざまぁの山なら、築けた。
積み上がった箱の上に、王冠がひとつ、空のまま置かれている。
さて、私はどこへ行くのだろう。
扉が音を立てずに開いた。こちらを気遣う癖のついたノブの回しかた。ノアだ。いつもと同じ灰。だが、今夜の灰は雪を少し飲んでいる。
「失礼します」
「どうぞ」
彼は灯を一段落とし、火加減を低く整える。コートを椅子の背にかけ、私の視界に背中を見せたまま、卓上の小さな薬缶に水を注ぐ。台所で彼を見たことはほとんどないのに、動きは手慣れていた。茶葉を袋から掬う指先が、不思議と慎重で、やさしい。砂時計をひっくり返し、音を立てずに待つ。湯気が上がる。薄い、土の香りがふわりと部屋の角を撫でた。
「……紅茶?」
「いえ。野の茶です。市場の端で老夫婦が売っているもの。今日は雪の匂いがするだろうから、香りを立てすぎないように」
素朴、という言葉には甘えが混ざることが多い。けれど今夜、彼の手際は、甘えではなく“生活”の側にあった。湯呑みを二つ。片方は私へ。もう片方は彼の前に。
「熱い」
「はい。すぐに冷めます。冷め方がちょうどいい茶です」
私は唇をつけ、一口だけ含む。温度が舌を滑り、喉に落ちるころには、野に広がる渋みがやわらかくなる。食べ物にたとえれば、焼き立てのパンの耳の端。噛めば噛むほど甘い。
「摂政の話が、出ています」
「うん」
「あなたなら、できる」
「できることと、やることは違うわ」
「違います」
私は湯気を見つめ、指の腹で湯呑みの縁をなぞった。輪は胸の奥で静かに回り、古文書の詩句が“条件”を思い出させる。――他者の選択に責任を引き受けること。押し付けないこと。立ち会うこと。
摂政の椅子は、責任の塊だ。押し付けるためにも、押し付けないためにも、使えてしまう。だから、危険だ。
「摂政が必要になる瞬間は、王冠が“空位”であるという事実を、誰かが直視するとき。直視しないなら、もっと悪い」
「直視、ですか」
「ええ。空を空だと認めるとき、人は破れ目の形を測れる。それは尊い。でも、空を見つめ続けるのは、落ちるのと同じくらい疲れる」
ノアが黙る。彼は“答えを先に言わない”ことが得意だ。こちらが言葉の形にたどり着くまで、余白を保つ。私は雪の粒を数え、言葉の粒を一つずつ並べた。
「私は、王冠に興味がない。――あれは重い。重い物は嫌いじゃないけど、重さを誤魔化して被るのは嫌い。私が欲しいのは、重さの単位を街じゅうに配ること。皆が自分で量れるように」
「量り、ですか」
「ええ。パンの値段。税の流れ。祈りの内訳。剣の迷い。選ぶときに必要な、天秤の片方。冠は反対側に乗るけど、天秤そのものではない」
「あなたがやりたいのは、冠を磨くことではなく、天秤を水平にすること」
「そう。摂政は、冠を磨く役だわ。……たぶん、私は上手に磨けてしまう。それが嫌」
湯気がひとつほどける。窓の外の雪が、少しだけ勢いを増す。静かな怒りと、寂しさが混ざる。怒りは流れを変え、寂しさは色を変える。私は両方を見下ろし、手に掬い、鼻先で確かめた。――まだ澄んでいる。
「ざまぁの山は築けたわ。積み木みたいに。けれど、私が登る山じゃない。あれは“見える化”の塔。中には階段が何本もある。誰かが登るべき。私は、階段の段差が均等かどうかを確かめ続けたい」
「殿上人(でんじょうびと)の言い回しではないですね」
「私が殿上人じゃないから」
「……なるほど」
ノアの目が、笑うまえの温度になる。彼は湯呑みに口をつけ、少しだけ眉をほどいた。雪の匂いと茶の匂いが交じり、部屋の角に溜まっていた緊張が、やっと低い棚へ降りる。
「ノアは、どう思う?」
「摂政に、ですか」
「ううん。私がどこへ行くべきか」
「あなたは、もう“どこか”ではない気がします」
「どういう意味?」
「場所ではなく、方法。冠の部屋か市場か、議場か路地か、塔か広場か。――あなたがいるところが、いつも“見える場”になってしまう。なら、あなたは“見える場”を作り続けるのが仕事です」
私は笑った。自分の笑いが、意外なほど乾いていなかった。
方法。そうだ。私は方法でできている。方法を他人に渡すために、言葉を研いで、絵を描いて、扇で空気を切って、封を切ってきた。
「摂政を断るのは簡単。でも、断り方を間違えると、“逃げた”になる」
「逃げた、と言いたい人は言う」
「ええ。だから“並ぶ”を選びたい。――暫定で構わない。“見える化委員会”に皇族監督官を招いて、権限を水平に振る。私が中央に座るのでなく、輪の線を太くする」
「輪」
ノアが私の手元を見る。彼の手の甲で、薄い輪がふっと光った。私の胸の奥の輪がそれに応じ、まぶたの裏の詩句が、小さく頷く。――他者の選択に責任を引き受ける。押し付けない。立ち会う。
「空位の王冠は、あなたの敵ではない」
「友でもないけどね」
「はい。あなたは冠の前を通り過ぎる風だ。風は、冠を落としも、磨きもしない。けれど風がないと、部屋が腐る」
「うまいこと言う」
「職務です」
「それ、ずるい」
私たちは小さく笑い合い、同じ湯気を分け合った。冬の茶は、言葉に間を作る。間に落ちる音が、やっと“感情の会話”になった。
「怒っていますか?」
「怒ってる。すごく。王冠にじゃない。……“空位だから奪える”と笑った目に。人の選択の帰結の上に座って、重さを感じない背筋に。そういう軽さに、怒ってる」
「寂しさは?」
「あるわ。ざまぁのあとに残る空気は、少し冷たい。勝利は好き。でも、勝つたびに、過去の私が机の前でひとりぼっちだった夜の匂いがする」
ノアは頷く。頷くときの彼の喉仏の動きは、いつもより少し大きい。彼も喋る準備をしているのだとわかる。
「……僕は、王家の影でした」
初めて聞く言い回しだった。彼は一呼吸置き、続ける。
「幼いころから、冠の部屋の外で風を測る訓練をしました。誰かが椅子に座るたび、空気がどう変わるか。王座が空いた夜、部屋は息を止めました。僕は、その息を整えるために生まれたみたいなものです」
「でも、冠を放棄した」
「はい。冠は“座る人を決める道具”であって、“道具を決める人”ではない。僕は道具に人が飲まれるのを見るのが嫌でした。だから外に出て、風の高さを選んだ。――その結果、あなたと出会った」
私の胸の奥で、輪がひときわ明るくなった。
彼の言葉は、論理の骨を持ちながら、感情の肉も持っている。
私は湯呑みを机に置き、彼の目を見る。灰。自由と責任の中間にある色。私の好きな色。
「貴女が笑う未来を、僕は見たい」
落ちるような静けさののちに、彼はそう言った。
それは告白というより、宣誓だった。
輪への誓い。私個人への。街への。未来への。
喉がきゅっと鳴る。私は、逃げずに受け取ると決めた。
嬉しい、では足りない。
でも、嬉しい、で十分かもしれない。
私は頷いた。言葉は少し遅れて、やってきた。
「見せる。――笑うから」
「ありがとうございます」
「ただし、笑わない日もある。怒る日も、泣く日も」
「立ち会います」
「代償が降りたら、半分持ってくれる?」
「もちろん。職務です」
「今夜だけは、その言葉が好き」
ノアの目が、雪を受けた土のように少し潤む。私は席を立ち、窓辺に寄った。外の雪が、ほんの少し大粒になっている。初雪は、街を一度だけ無垢に見せる。無垢は危険だ。けれど、美しい。危険で、美しいのは、たいてい本物だ。
「摂政の件、どう答えますか」
「明日の朝、“条件付きでお断り”。代案を出す。“見える化委員会”の拡張。皇族監督官の置任。会計・司法・治安・教育・宗教・魔導――各部門の輪を太く。私は“輪の紐結び役”。任期は季節が変わるまで。冠が定まるまででなく、街の“目”が安定するまで」
「賢い」
「卑怯でもある」
「そうですか?」
「私が楽な道だから。中央に座るほうが“自己犠牲”に見えるもの」
「自己犠牲は、選択の装飾に過ぎません。あなたは装飾で誤魔化さない」
「ありがとう」
部屋の空気がやっと自分のものになり、私は大きく息を吐いた。過去の赤は、まだ舌の裏に残っている。けれど、茶の渋みと雪の匂いが、それを薄める。
「明朝、紙芝居。“空位ってなに?”をやる。王冠の絵を描いて、中を空にする。空の下に、天秤と輪。――子どもが笑えば、大人が悔しがる。大人が悔しがれば、少しは賢くなる」
「台本、今夜のうちに」
「お願い。……それから、眠る。利息は取られないんでしょう?」
「はい。僕が払います」
「職務?」
「個人の意思です」
私たちはまた笑った。笑いは小さく、でも確かだった。
窓の外で、雪が一枚、二枚、街灯の赤に溶けた。
私の中の赤も、やがて溶ける。
溶けるまで、働く。
働きながら、笑う。
笑いながら、立ち会う。
空位の王冠は、そこにある。
私は横を通り過ぎる風でいたい。
冠が落ちないように、でも部屋が腐らないように。
風の高さを、君と測る。
「おやすみ、ノア」
「おやすみなさい、レティシア様」
灯がひとつ落ち、雪が少し静かになった。
私は寝台に横たわり、胸の輪を指の裏で撫でる。
“誰かの選択に責任を引き受ける”という危険な条件が、なぜこんなにもやさしいのか、まだ言葉にできない。
でも、いつか言える。
明日、紙にする。
明後日、街にする。
そして、いつか――未来に、笑いにする。
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