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Kapitel 01
夢現の境界 01
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――わたしは夢をみていた、のかもしれない。
今も、みているの、かも。
朝の空気の冷たさ、制服の感触、無数の足音、友だちとの挨拶、堅い床、頬に日が当たる感覚、足を組んだ爪先に引っ掛かった靴、これらはすべて現実なのだろうか。二本の足で立って、蹴って、歩いているわたしは、本当に目を開けて、起きているのだろうか。
これが夢ならすべてがひっくり返る。どちらが現実でどちらが夢で、どちらの世界に立っているべきなのか、分からなくなる。
(また、下らないこと考えてた……)
ふう、と白は溜息を吐いた。
私立瑠璃瑛学園高等部・某教室。
ぼーっとしている内にHRはいつの間にか終了していた。すでに教壇に担任教師の姿はなかった。クラスメイトたちは通学鞄を持って次々と教室から出て行く。
自分も帰らねばと、気持ちを切り替えるように髪の毛を耳にかけた。髪の長さは毛先が肩にかかるほどに伸びた。運動をするとき以外は結んでいないことのほうが多い。
「白。車でお送りしましょうか」
白は隣の席から声をかけられ、そちらに顔を向けた。
隣の席は久峩城ヶ嵜虎子。そこは彼女の指定席のようになっており、この一年間ほどは席替えをしても暗黙の了解としてセットで移動した。お家柄の違いは天と地ほどあれど、彼女たちは自他ともに認める親友同士だ。
「今日は習い事、お休み?」
「ええ。日舞のお稽古が、先生のご都合でお休みになりましたの。行き先はご自宅ではなくて商店街のほうがよろしいかしら」
「んー。今日はいいや。わたしちょっと用事があって」
「用事?」
「うん、ちょっとね」
白はほんの少しだけ困ったような、言いにくそうな表情を見せた。
虎子はその表情の理由にピンと来た。伊達に初等部の頃から親友ではない。だからそれ以上追及をせず、そうですか、と納得して見せた。
白は虎子にバイバイと別れの挨拶をして通学鞄を肩にかけて教室から出て行った。
虎子も席から立ち上がったとき、ボディガードが背後に立った。彼は学業や友人関係の妨げにならないよう、学内では必要最低限しか虎子に接近しない。つまり、彼がそうしたということはその必要があったということだ。
虎子はまた椅子に腰かけて教室の扉を見据えた。
数秒後、扉が横にスッと開いた。現れ出でたのはひとりの男子生徒。ボディガードが虎子に告げたのは、彼の訪問だった。
彼は虎子と目が合うなり、やあ、と手を上げて笑顔で挨拶をした。しかし、虎子はニコリともしなかった。
彼はそのような冷遇にも慣れたもの。何も気にすることなく、教室内をキョロキョロと見渡しながら虎子の席に近づいた。
彼のお目当ては言わずと知れている。――――白だ。
「また学年の違う階を徘徊して。貴男はいつも余程時間を持て余していますね、以祇」
「僕は学内にあっては生徒会副会長だよ。それなりに多忙ではあるさ。時間を捻出して白君に会いに来たのだよ」
「それは残念ですこと。入れ違いです」
「白君は下校したということかな? まだ時間は経っていないかい。追いかけたら、帰宅の途中で追いつけるだろうか」
「白を送るつもりでしたらおやめなさい。今日は用事があるそうです」
「用事、というとご家庭の都合かな? 銀太くんは初等部に進学して送迎は不要になったはずだけれども」
「呼び出されたようでしてよ」
虎子の言葉を聞いた以祇は、やれやれと嘆息混じりに頭を左右に振った。呼び出されたという意味は当然分かっている。その上での余裕の笑みだった。
「またかい。白君が高等部に進学してからというもの、遅ればせながら彼女の魅力に気づいた男子生徒たちが忙しないことだね。まったく以て暗愚かつ稚拙なことだね」
「白が告白されているというのに呑気にわたくし相手にお喋りだなんて、甲斐の若様にしては間が抜けておりますこと」
虎子は口許を手で隠し、ほほほと笑った。
虎子からの意図的な挑発だ。密かに周囲を固める久峩城ヶ嵜家と甲斐家のボディガードたちは、ピリッと緊張した。主人同士の浅からぬ縁があり、彼らも既知ではあるが、主人の命令があれば対峙することは回避できない。
以祇は顔色ひとつ変えることなく余裕だった。
「白君に好意を寄せそうな人物は、まあ、大体は把握しているからね、焦ることはないさ。候補は何人かいるが、今日告白するなら……そうだな、一年F組の佐伯くんあたりかな。瑠璃瑛には高等部から入学したピカピカのルーキーさ。お父様は会社を経営されているよ。うちの傘下の電子部品会社のね」
「恐い情報網ですこと」
お互い様だよ、と以祇はわざわざ虎子の真ん前までやってきてニッコリと微笑んだ。
「虎子だって白君本人から逐一告白の仔細を教えてもらっているわけじゃないだろう。話していないことまで把握しているなんて、親友だからこそ、そちらのほうが余程恐いと言えなくもないと思うのだけれど」
「先を越された腹癒せにわたくしを糾弾するつもりですか」
「まさか。先を越されたも何も、僕は白君に告白する気はないよ。今はまだね」
「随分と余裕ですこと。優しい白のことですから、いつ情に絆されてしまうかもしれないのに、のんびりと構えていられるなんて。それとも勘違いした勝算でもあるのかしら」
「確かに白君は優しいけれど……」
以祇はアハハと軽い笑い声で虎子の厭味を受け流した。解っているくせに、とでも言いたげに。これから口にするのは、はふたりの間ではまるで冗談のように当たり前の認識だ。
「誰に何を言われたって白君は靡かない」
以祇は自分が入ってきた扉を、白が出て行ったであろう扉を、肩越しに振り返った。
そこに思い描いた白の後ろ姿。短かった髪は伸び、背や手足もやや伸びた。以前よりも笑顔を作ることが上手になり、異性を惹きつける可憐な少女に変容した。姿形が変わったことは誰の目にも明らかだ。
変わったのは姿形だけだ。
「今の白君には届かない、響かない、聞こえない。何も」
――僕の声も、彼女の声も、誰の声も、聞こうとしない。立ち止まって、耳を塞いで、口を噤んで。何かを堪え忍んでいるかのように、誰かを待っているかのように。
キミはさらに美しく変わってゆくのに、心は何処に置き去りにしてきたの?
「なぜ白君がああなってしまったのか、心当たりがあるんじゃないのかい、虎子」
「以祇こそあるのでしょう、その心当たりとやらが」
以祇と虎子は、視線をかち合わせて静止した。珍しく腹の探り合いではなく、共通認識の元に視線を交わした。
こういうとき、脳裏を過ぎるのはいつも同じ人物。当然のように結論がそこに行き着いてしまうことに、少々苦々しい気分になる。おそらくは或る種の敗北を認めていることと同義だ。彼に、甲斐以祇に、此國でできないことのほうがはるかに少ない男に、敗北を認めさせることができる人物が果たしてこの世に何人存在するだろう。
(こんなことになるなら……やはり早めに排除しておくべきだったな)
§ § §
高等部校舎・廊下の突き当たり。
放課後になると、その辺りはひとけがなくなる。今は男女の生徒がふたりきりで向き合っていた。
「ごめんなさい」
その言葉を告げて頭を下げる。そうすると相手はすべてを察して引き下がってくれる。この一言が相手を傷つけるものだと分かっていても、言わないわけにはいかない。親切でありたいと思うけれど、好きだと告げられてしまえば、必ず傷つけてしまう。向けられる好意に応えることは決してできないから。
中途半端に親切にするくらいなら、冷徹でいたほうがよいのかもしれないとまで考えたこともある。しかし、そうするのも良心の呵責に耐えられない。
申し訳ないと思いつつ造り笑顔をするのは、とても疲れる。その場から立ち去り、誰の気配も感じなくなるとホッと肩から力が抜けた。やるべきことをやったのだと気が楽になった。
「今日の夕飯、何にしよう……」
白は気が楽になった途端、今夜の献立を考えることを失念していたことを思い出した。呼び出しに応じなければと、そちらに気を取られていた。
冷蔵庫の中身を思い出しつつ献立を考え、何を買い足すか計画を立てながら廊下を進んだ。
ふと窓の外に視線を投げて足が停まった。校庭には運動部の姿や帰路に就く生徒たちの姿が見えた。校舎の何処からかピアノの音が流れる。音楽室が近いから音楽部の演奏が漏れ聞こえてくるのだろう。
すぐそこには動き回るたくさんの人々、それほど遠くはない校舎の其処彼処に確かに人の気配があるのに、廊下には誰もいない。校舎内に視線を引き戻すと、やはり視界には人っ子ひとりいなかった。この空間だけが世界から切り取られたかのように、ぽつんとただひとり。
――まるでわたしだけが、空間ごと世界と切り離されてしまったみたい。
(あ。まただ。またこの感覚……)
本当は、自分は此処に存在しないのではないかという奇妙な感覚。それなのにちっとも不安や焦燥はない。
誰とも判別のつかない人影も、遠くから聞こえてくる音色も、地面を踏んでいる感触も、交わした会話も、すべて自分が作り出した幻影なのではないか。いつの間にか睡りに落ちていて、何日も何日も過ごしたと感じているが実は一晩の夢に過ぎないのではないか。これが現実だなんて夢のなかの登場人物の誰が証明してくれる。
カツン。――手を突こうとした拍子に壁面に指輪が当たった。
左手の薬指の指輪――――異界の住人・耀龍の置き土産。さよならを言うときに白の薬指に残していった。肌身離さず持っていてくれと、決して忘れないでくれと、懇願のようなおまじないのような言葉とともに。
青天の霹靂だった。弟とふたりきりの生活に突如現れた天尊や耀龍と過ごした日々が、自在に天空を飛んで百雷を降らす魔法のような出来事が、とても現実とは思えない物事が、確かに現実だったという証。
実際に過ごした期間は数ヶ月間という単位だったが、振り返れば春の夜の夢が如く一瞬だった。始まりも終わりも突然で、呆気なかった。あれこそが自分が作り出した幻影なのではないかと錯覚するほど。
彼らがいた日常と、彼らがいなくなった日常と、どちらも現実味がないのにどちらも現実だから頭がおかしくなりそうだ。現実なのに現実味がないとは如何なることか。現実とは何であるのか、己がそうと信じれば夢幻も現実なのではないか。世界の定義が、己の視界と同義であるように。
もし好きなほうを選んでよいとしたら、どちらを現実であると定めるだろうか。
――銀太は、どう思ってるんだろう……。
あの日以来、あんなに懐いてたのにティエンの話もロンの話も一切しなくなった。銀太が話をしないのをいいことに、わたしもふたりのことに触れなかった。どうしてと、銀太に問い詰められることも自分に問いかけることも恐くて。
すとん、と白は廊下に両膝を突いた。
足から肩から全身から力が抜けてゆく。重力のままに突っ伏してしまいそうなところをすんで床に手を突いて持ち堪えた。
これは、代償なのかもしれない。天尊がいなくなった現実を受け容れたくなかった。さよならも告げなかったし告げられなかったから、別離を曖昧にしてしまった。大人びた冷静な振りをして、考えることを已めた。目を背けた、口を閉ざした、蓋をした。現実を受け容れることを拒絶した代償として、自身を偽った代償として、現実が何なのか解らなくなってしまったのだ、きっと。
「……君! 白君!」
白は誰かに呼ばれていると思って顔を引き上げた。以祇が血相を変えて駆け寄ってきた。
白は以祇を見ても自力で立ち上がろうとはしなかった。倦怠感が身に纏わりついて思考が追いつかなかった。
以祇はすぐさま白の身体を支えた。心配そうに白の顔を覗きこんだ。
「何かあったかい、白君。具合でも悪いのかい」
「急に、もう、立っていたくないって……思っちゃって……」
ポツポツと、白は力無く言葉を落とした。
以祇はにわかに眉根を寄せた。白の様子は明らかに尋常ではなかった。かといって病院に連れて行くほどの急変でもない。しかし、見過ごせないほどにはおかしかった。
「家まで送るよ。すぐに車を回す。僕に捕まって立てるかい」
「いえ、大丈夫です。どこか悪いわけじゃ……」
送るから、と以祇に強く言われ、白にはそれ以上抵抗する気力も無かった。言われるがままにしてしまおうと思った。返事もせず手を取り肩を支えられて立ち上がった。
白はまたふと、窓外に目線を遣った。グラウンドでは先ほどと変わらず人影を動き回っており、景色が一部揺らめいて見えた。
「甲斐先輩。あれ」
「何だい」
「蜃気楼みたいなの、見えます?」
以祇は白が見ているらしい方向へ目線を向けたが、何もおかしなところは見て取れなかった。
きっと疲れているのだ。誰もいない廊下で頽れてしまうくらいだから。肉体の疲労の所為にしてしまいたかった。このような風になってしまうまで白に影響を与える人物がいるという事実が、自分にとってすこぶる都合が悪いから。
「僕には何も見えない。この気温では蜃気楼は起こらないよ、白君」
そうですよね、と白は独り言のような返事をした。
(……ああ、じゃああれは夢か……)
もう本当に、何が現実で何が夢なのか分からない。分からなくてもよい。
分かりたくない。
甲斐以祇は日本屈指の財閥の御曹司である。彼の送迎に使用されるのは特注の高級車。革張りのシート、空調がよく効き、振動が少なく、広々とした快適空間。その快適さのお陰か、白はかなり落ち着きを取り戻した。
以祇と白は、広い後部座席にふたりだけ、対面して座った。同乗のボディガードは運転席と助手席におり、他のボディガードたちは別の車輌に乗って以祇の送迎車の前後を固める。
以祇は、車窓に視線を向けた白の横顔を見ながら口を開く。
「校内で白君を見つけられてラッキーだったよ」
以祇にそう切り出され、白は車内に視線を引き戻して不思議そうな表情をした。
「実は教室を訪ねたのだけれど、虎子に白君は用事があってもう出たと聞いたから、今日はもう会えないと思っていたんだ。用事は大丈夫かい」
「用事はもう、済みました」
「それは良かった。体調が良くない様子なのに用事があるなんて大変だったね。それとも体調が悪くなったのは、もしかしてその用事の所為かな」
白は、その口振りからしてすでに以祇には何かを知られているような気がした。学内であろうとそうでなかろうと、此國では彼が知ろうと思って知れないことのほうが少ない。以祇や虎子はそういう人種だ。
白もそのようなことは百も承知で友人・知人でいる。しかし、此処で不用意な発言をして今日告白してきた彼に不利益があってほしくはないから、何も知らない素振りで「まさか」と否定した。
「随分疲れているようだけれど、本当に何も無かった?」
「ありませんよ」
「何も無いのに立ち上がれなくなるなんてとても心配だよ。やはりこのまま病院に向かったほうがいいかな。うちの系列の病院が近くにあるよ」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟ではないよ。白君にはいつも元気でいてほしいからね」
白は以祇の表情をチラリと窺い見た。彼はいつもどおりニコニコと柔和な笑顔。悪人ではないが、押しが強いのが困りものだ。
「白君にとって一番大切なものは家族、つまり銀太くんだよね」
白が病院の勧めをどう断ったものかと思案していると、以祇のほうから脈絡の無い質問をされた。
「銀太くんは初等部に進学しても元気にやっているようだね。彼は明るく社交的でリーダーシップがあり、人から好かれる性格だ。友人関係はとても上手くいっているようで何よりだ。今のところ成績の心配もない。素行が悪いということもない。先生方の評価もよい」
「……銀太の監視でもしてるんですか」
「機会があるときに少し知人に尋ねるだけさ」
以祇は臆面も無く言明した。彼には欠片ほどの罪悪感も無い。こういう人物なのだ。
白は糾弾しても意味がないと諦めて嘆息を漏らした。
「やめてくださいって言っても黙ってやるんですよね。わたしは聞かなかったことにするので、銀太には気づかれないようにしてください」
以祇は白にウィンクして見せた。お任せあれとでもいう意味か。白としては監視のような真似はやめてくれるのが一番よいのだけれど。
「白君が一番大切に想い、かつ懸念材料でもある銀太くんは、僕から見ると表面上は何の問題もない。それどころか順風満帆な学園生活を送っているように見える」
「そうですね。銀太に関して特に悩みはないです。お手伝いもよくしてくれますし」
以祇は笑顔を湛えてゆっくりした所作で足を組んだ。
「では、銀太くん以外に白君を悩ませる何かが、あるということかな」
白の眉が一瞬ピクッと撥ねた。
白はふいっとまた車外に視線を投げた。
「…………。いいえ」
時間がかかった割には簡潔すぎる返答。以祇は「そうかい」と簡潔に返し、それ以上問い詰めなかった。
(おそらく本音じゃないんだろうな。嘘だと分かっていてもこんなもので少しだけホッとするなんて、まだまだだな)
以祇は白の横顔を眺めた。
その表情は実年齢よりも大人びて見えた。弟とふたり暮らしで生活を切り盛りする白が、同じ年頃よりも老成しているのは昨日今日の話ではない。以前からそうだ。それなのに今日は特に、切なさに疲れた大人のような横顔に見えた。
「そういう顔をすることが増えたね、白君」
「え……」
白は以祇のほうへ顔を引き戻して首を傾げた。
「白君が悩みはないと言うなら、これ以上は訊かないよ。僕はただ、白君に悩みを抱えたりつらい想いをしたりしてほしくないだけだ。そんな顔をするほどつらいことがあるなら、忘れてしまいなよ。つらいことをなかったことにするのは悪いことなんかじゃないよ」
――わたしはどんな顔をしてるんだろう。
本心を隠すのが得意で、いつもいい子を演じて生きてきたのに、今さらどのような表情をしているというのだろう。以祇がいま見ているのは白も知らない白の顔、なのかもしれない。もう自分で思っているようには上手く笑えていないのかもしれない。いつからそうなってしまった。とっくの昔に自分をコントロールできなくなってしまっていたのか。自分ひとりで何とかできると思い違いをして、もうずっと周囲に心配をかけていたのだろうか。
「ここで降ろしてください」
突然、白が言い放った。
以祇は白の機嫌を損ねてしまったと思い、取り繕うように口を開いた。
「どうしてだい。白君のマンションまでもう少しだ。僕の発言で気分を害してしまったのなら謝るから是非とも自宅まで送らせてくれたまえ。白君の体調が本当に心配で――」
「いえ、夕飯の買い物をしたいんです。商店街に寄らないと」
白は、慌てる以祇を見てフフッと笑った。
以祇は内心ホッとした。無理に引き留めて気を悪くさせたくないから、すぐに車を停めさせた。
黒塗りの高級車は歩道に幅寄せして停止した。以祇のボディガードは素早く助手席から下りて白側のドアを開けた。
白はボディガードに礼を言って下車したあと、以祇を振り返った。
「元気出してください」
「え……」
以祇は少々面食らった。白のほうからそのようなことを言ってくれるとは予想していなかった。彼は基本的に温厚で悠然としており表情を崩すことは珍しい。ボディガードたちは微かにざわめいた。
「甲斐先輩が謝ることなんてないですよ。心配してくれてありがとうございます。銀太のことまで調べてるのはちょっとアレですけど……何て言うか、先輩に関してはもう色々と諦めてるというか。甲斐先輩なりにわたしたちのこと気にかけてくれてるんですよね。悪意がないことはちゃんと分かってますから、そんなに落ちこんだ顔しないでください」
以祇はいつもの作ったような余裕の笑みではなく、じっくりと目尻を下げた。
気遣ったつもりが気を遣われ、優しくしたかったのに優しくされた。情けないと思う反面、拒絶されなかったことが嬉しかった。
「白君は優しいね」
「そうですか?」と白は小首を傾げた。
バタン。――自動車のドアが閉まった。
白は此処まで送ってもらった感謝の意でウィンドウ越しに以祇に手を振った。以祇は嬉しそうにニコニコと手を振り返してくれた。
以祇は革張りのシートに凭れかかり、白の後ろ姿を見送った。
(悪意がないこと、ではなくて好意が伝わってほしいのだけれど。……今の僕では贅沢だな)
白の足取りは、以祇から離れるにつれ徐々に重たくなった。心配させないように気丈に振る舞う必要はなくなると、何もかもが億劫に感じられた。
(忘れてしまったほうが、いいのかなあ)
白い髪に白い瞳、半透明の天使のような翼、巨大なドラゴン、作り物やおとぎ話のような出来事のすべて、魔法のような神のような御業のすべて。自分でも夢か現か判断が付かなくなってしまったものにいつまでも執着するのは、愚かだ。
もう充分に信じ、充分に待ち侘び、充分に裏切られた。此処らですべてを無かったことにしてしまって、体験も記憶もリセットしてしまって、自分の目に見える世界以外は何も知らなかったあの頃に戻ってしまったってよいはずだ。
あの人の名前も、あの人からもらった感情もあげた感情も、一切合切すべて忘れてしまって。
白はフッと息を吐いて気合いを入れて顔を上げた。
(夕飯、何にしようかなあ。野菜、何が残ってたっけ。卵は朝使い切ったから忘れずに買わなくちゃ)
車線が複数ある大通りから脇道に入って商店街へ近道する。自動車で送ってもらったから時間を短縮できたが放課後に呼び出された分の遅れがあるので、食材を眺めながら献立をゆっくりと選考する暇はない。銀太を待たせてお腹を空かせてしまっては可哀想だ。
もう一本向こうの通りが商店街というところで、白ははたと足を停めた。
夕日が沈みかけた赤紫と黒紅の中間のような空間のなか、また景色が揺らめいて見えた。商店街への抜け道、入居者募集の垂れ幕が掛かりシャッターが降りた古いビルが並ぶ路地、赤茶色に錆びついたシャッターの前、地面にほぼ平行であるはずのシャッターの目が一部だけぼやけて歪んで見えた。
(甲斐先輩の言うとおり、肌寒い日に蜃気楼なんて見えるはずない。目が疲れてるのかな。……じっと見てると何となくぼんやり人型みたいに見えてくる)
再び足を踏み出そうとした瞬間、ゾクッとした。
視線を感じる。じっと凝視されているような強い視線。咄嗟にキョロキョロと周囲を見回してみたが、人っ子ひとりいなかった。自分以外の誰の気配も感じない空間は、日常と非日常の入り口――――。
突然、白は駆け出した。商店街はもうすぐそこだ。距離は50メートルもない。全力で走れば数十秒だ。
ガササッ!
突如、行く手に壁が立ちはだかった。
白より頭ひとつ分は長身の大柄な男。踝まである長いロングコートに身を包み、高い襟で口許近くまで隠し、大きなゴーグルのようなもので人相も分からない。しかし、普通の人間でないことは明白だ。白は以前にもこの類の人物を見たことがあった。
「ヒキドーアキラと認識する」
低く威圧的な声。こちらの都合などまるで聞く気がないことがヒシヒシと伝わってきた。
ぬっ、と腕が伸びてきた。白は咄嗟に半歩後退して捕まえられることを回避した。
進路を塞がれているから商店街へは逃げこめない。いま来た道を引き返すことにした。以祇の車から降りた大通りまではそれほど距離はない。白は全力で駆け出した。
(何で何で何で! 何で急に、何で今さら!)
白の脳内は恨み言じみた疑問でいっぱいだった。何もかも忘れてしまおうと諦めたその矢先、周りの人たちをこれ以上心配させないと誓ったその矢先。非日常、無知と不条理、見たことがない世界、夢の続きへ引き摺り込まれる。
どん! ――白は硬いものにぶち当たった。
全力で走っていたから、後方に尻餅をついて転げた。
「いたあッ……??」
すぐに顔を上げて空間を凝視したがそこには何も無かった。半信半疑で手を伸ばすと〝何か〟に触れた。完全に透明で視認することはできない〝何か〟が、硬質な〝何か〟が、確かにそこに存在する。
「壁……!」
白は表情をにわかに険しくした。
思い出せば、天尊も同じようなものを創出していた。発生させた本人の意思でなくてはどうにもできない、白の力では到底太刀打ちできない現象だ。
振り向くと、もうすぐそこにロングコートの男が迫っていた。
男は只の人間が〝壁〟を突破する手段を有さないことを熟知している。こちらの世界にはこのようなものは存在しない。理解もできない。彼らの前に人間は無力だ。
ロングコートの男は再び腕を伸ばし、白はキッと毅然と睨んだ。
「触らないでください。わたしに何の用ですか」
ロングコートの男は白の問いかけに答えなかった。無論、動作を停止させることもなかった。
白はこの男は自分と問答する気など一切ないのだと悟った。伸びてきた腕をすんでのところで躱し、男の横を上手く擦り抜けて駆け出した。
どん! ――すぐにまた不可視の〝壁〟にぶつかった。
全速力でぶつかるので痛いが、今回はいくらか心構えがあったから尻餅をつくことはなかった。
前も後も逃げ道は〝壁〟で塞がれた。人間の力でこれを破ることは不可能だ。どうしたらこの情況から逃れられるのか、考えても考えても方法は思い浮かばない。おそらく、そのような方策はない。だからこそ、ロングコートの男は微塵の焦りもなく悠然と白を追い回すのだ。
白の視界に、商店街を歩く男性の姿が入った。藁にも縋る思いで大声を上げた。
「誰か! 誰か助けてください!」
男性はこちらを一瞥することもなく白の視界を横切っていった。厄介事に関わることを避けたわけではない。声にまるで気づかなかった態度だ。
「声が聞こえない……⁉」
商店街は目と鼻の先だ。この声量で聞こえないはずがない。不可視の〝壁〟に阻まれて音が届かないのだろうとすぐに思い至った。
(わたしを攫おうとしてることを、自分の存在を、他の人に気づかれたくないってこと?)
白は学校からずっと付いて回った蜃気楼を思い出した。
(学校からずっと監視されてた? 甲斐先輩と別れたあとを狙ったんだ。だとしたら、人目があれば派手なことはしない、たぶん。とにかく人の多いところに! 銀太は今どうしてるんだろう。わたしのところに来たってことは銀太も? ココに連絡して銀太を保護してもらわなくちゃ!)
さまざまなことを惟んみていた白は、自身に影が降りかかってハッとした。
バッと振り向くと、ロングコートの男がすぐ後ろに立っていた。ついに右手首を捕まれてしまった。
白は自分の手首を掴む男の手を上から握った。手首を内側へめいいっぱい捻ると、男の手がスルッと腕から離れた。後退してできる限り距離をとりたかったが、数歩ですぐに背中が建物の壁に当たった。
白は通学鞄に手を突っこんで素早く何かを取り出した。それを男の手に押し当てた。
「触らないでって警告しましたからね!」
瞬間、白の手に持つものが、強い閃光を放った。
バヂィンッ、バチバチバチッ!
ロングコートの男は、ウッと短い呻きを上げて手を引っこめた。
白はスタンガンの一撃をお見舞いすることに成功した。
久峩城ヶ嵜グループが事業の一環として新開発した携行しやすい小型のスタンガン。物騒な世の中だからと、つい先日虎子に装備させられた。よもやこんなにも早く出番があるとは思いもよらなかった。
白は、男が一瞬苦悶の声を漏らしたのを見て、生身なのだと実感した。幻想世界の生き物でも、不死身の超人でもない。こちらの意見を無視はするが言語は通じる、不可視にはなれるが確かにそこに実在する、生き物だ。
(ティエンやこの人は、わたしとは全然違う。魔法みたいなことができて、とても頑丈で素早く動くこともできる。人間より強い、人間とは違う。だけど〝そういう生き物〟っていうだけ。感情も痛覚もあるしケガもする。不死身なわけじゃない)
突如として〝壁〟が消失した。白は背中の支えを失って後方に転倒した。
それが消えた理由は分からない。男にダメージを与えたからか、時限式か。自然な疑問が湧いたが熟考する暇はなかった。
白は急いで立ち上がって商店街を目指した。
「だ、誰か助け……ッ」
無駄だと知りつつも声が漏れた。
生身の相手だと確信したところで、自分ひとりでどうにかするのは難しいという事実は変わらない。誰でもよいから手助けが欲しかった。
無駄だと思っていたのに、ひとりの男性が足を停めた。周囲をキョロキョロと見回して声の主を探している様子だ。
〝壁〟が無くなった今ならきっと空間を遮断するものは何も無い。白は男性に駆け寄りながら精いっぱいの大声を張り上げようと息を大きく吸いこんだ。
「お願いします! 警察に通報ッ……」
どん! ――白は再び硬いものにぶつかった。
あと少しだったのに。白はどうにもできないと頭では分かっているが、もどかしさから不可視の〝壁〟をドンドンッとしきりに叩いた。
「無駄なことだ、人間」
白は背後からの声にギクッとして振り向いた。
男はスタンガンを喰らわされた腕をぶら下げ、白まで数メートルの位置に立っていた。何もできないと踏んでいた小娘から想定外のダメージを喰らわされたのに、声の調子も雰囲気も逆上せず冷静さを保っていた。
「もう回復して……」
「牆壁の外側には声も姿も届かない。人間にはこれを破る手段は無い」
白はロングコートの男からなるべく距離を取ろうと背中を〝壁〟にびったりと付けた。
男は冷静に学習した。反撃を警戒し、不用意に飛びかかるなどしなかった。ジリジリと慎重に距離を詰めた。
「無駄な抵抗は已めろ。ヒキドーアキラ、速やかにアスガルトへ連行する」
熒閂の最新話はクロスフォリオにて先行公開( https://xfolio.jp/portfolio/ke1sen/series/1023833 )
今も、みているの、かも。
朝の空気の冷たさ、制服の感触、無数の足音、友だちとの挨拶、堅い床、頬に日が当たる感覚、足を組んだ爪先に引っ掛かった靴、これらはすべて現実なのだろうか。二本の足で立って、蹴って、歩いているわたしは、本当に目を開けて、起きているのだろうか。
これが夢ならすべてがひっくり返る。どちらが現実でどちらが夢で、どちらの世界に立っているべきなのか、分からなくなる。
(また、下らないこと考えてた……)
ふう、と白は溜息を吐いた。
私立瑠璃瑛学園高等部・某教室。
ぼーっとしている内にHRはいつの間にか終了していた。すでに教壇に担任教師の姿はなかった。クラスメイトたちは通学鞄を持って次々と教室から出て行く。
自分も帰らねばと、気持ちを切り替えるように髪の毛を耳にかけた。髪の長さは毛先が肩にかかるほどに伸びた。運動をするとき以外は結んでいないことのほうが多い。
「白。車でお送りしましょうか」
白は隣の席から声をかけられ、そちらに顔を向けた。
隣の席は久峩城ヶ嵜虎子。そこは彼女の指定席のようになっており、この一年間ほどは席替えをしても暗黙の了解としてセットで移動した。お家柄の違いは天と地ほどあれど、彼女たちは自他ともに認める親友同士だ。
「今日は習い事、お休み?」
「ええ。日舞のお稽古が、先生のご都合でお休みになりましたの。行き先はご自宅ではなくて商店街のほうがよろしいかしら」
「んー。今日はいいや。わたしちょっと用事があって」
「用事?」
「うん、ちょっとね」
白はほんの少しだけ困ったような、言いにくそうな表情を見せた。
虎子はその表情の理由にピンと来た。伊達に初等部の頃から親友ではない。だからそれ以上追及をせず、そうですか、と納得して見せた。
白は虎子にバイバイと別れの挨拶をして通学鞄を肩にかけて教室から出て行った。
虎子も席から立ち上がったとき、ボディガードが背後に立った。彼は学業や友人関係の妨げにならないよう、学内では必要最低限しか虎子に接近しない。つまり、彼がそうしたということはその必要があったということだ。
虎子はまた椅子に腰かけて教室の扉を見据えた。
数秒後、扉が横にスッと開いた。現れ出でたのはひとりの男子生徒。ボディガードが虎子に告げたのは、彼の訪問だった。
彼は虎子と目が合うなり、やあ、と手を上げて笑顔で挨拶をした。しかし、虎子はニコリともしなかった。
彼はそのような冷遇にも慣れたもの。何も気にすることなく、教室内をキョロキョロと見渡しながら虎子の席に近づいた。
彼のお目当ては言わずと知れている。――――白だ。
「また学年の違う階を徘徊して。貴男はいつも余程時間を持て余していますね、以祇」
「僕は学内にあっては生徒会副会長だよ。それなりに多忙ではあるさ。時間を捻出して白君に会いに来たのだよ」
「それは残念ですこと。入れ違いです」
「白君は下校したということかな? まだ時間は経っていないかい。追いかけたら、帰宅の途中で追いつけるだろうか」
「白を送るつもりでしたらおやめなさい。今日は用事があるそうです」
「用事、というとご家庭の都合かな? 銀太くんは初等部に進学して送迎は不要になったはずだけれども」
「呼び出されたようでしてよ」
虎子の言葉を聞いた以祇は、やれやれと嘆息混じりに頭を左右に振った。呼び出されたという意味は当然分かっている。その上での余裕の笑みだった。
「またかい。白君が高等部に進学してからというもの、遅ればせながら彼女の魅力に気づいた男子生徒たちが忙しないことだね。まったく以て暗愚かつ稚拙なことだね」
「白が告白されているというのに呑気にわたくし相手にお喋りだなんて、甲斐の若様にしては間が抜けておりますこと」
虎子は口許を手で隠し、ほほほと笑った。
虎子からの意図的な挑発だ。密かに周囲を固める久峩城ヶ嵜家と甲斐家のボディガードたちは、ピリッと緊張した。主人同士の浅からぬ縁があり、彼らも既知ではあるが、主人の命令があれば対峙することは回避できない。
以祇は顔色ひとつ変えることなく余裕だった。
「白君に好意を寄せそうな人物は、まあ、大体は把握しているからね、焦ることはないさ。候補は何人かいるが、今日告白するなら……そうだな、一年F組の佐伯くんあたりかな。瑠璃瑛には高等部から入学したピカピカのルーキーさ。お父様は会社を経営されているよ。うちの傘下の電子部品会社のね」
「恐い情報網ですこと」
お互い様だよ、と以祇はわざわざ虎子の真ん前までやってきてニッコリと微笑んだ。
「虎子だって白君本人から逐一告白の仔細を教えてもらっているわけじゃないだろう。話していないことまで把握しているなんて、親友だからこそ、そちらのほうが余程恐いと言えなくもないと思うのだけれど」
「先を越された腹癒せにわたくしを糾弾するつもりですか」
「まさか。先を越されたも何も、僕は白君に告白する気はないよ。今はまだね」
「随分と余裕ですこと。優しい白のことですから、いつ情に絆されてしまうかもしれないのに、のんびりと構えていられるなんて。それとも勘違いした勝算でもあるのかしら」
「確かに白君は優しいけれど……」
以祇はアハハと軽い笑い声で虎子の厭味を受け流した。解っているくせに、とでも言いたげに。これから口にするのは、はふたりの間ではまるで冗談のように当たり前の認識だ。
「誰に何を言われたって白君は靡かない」
以祇は自分が入ってきた扉を、白が出て行ったであろう扉を、肩越しに振り返った。
そこに思い描いた白の後ろ姿。短かった髪は伸び、背や手足もやや伸びた。以前よりも笑顔を作ることが上手になり、異性を惹きつける可憐な少女に変容した。姿形が変わったことは誰の目にも明らかだ。
変わったのは姿形だけだ。
「今の白君には届かない、響かない、聞こえない。何も」
――僕の声も、彼女の声も、誰の声も、聞こうとしない。立ち止まって、耳を塞いで、口を噤んで。何かを堪え忍んでいるかのように、誰かを待っているかのように。
キミはさらに美しく変わってゆくのに、心は何処に置き去りにしてきたの?
「なぜ白君がああなってしまったのか、心当たりがあるんじゃないのかい、虎子」
「以祇こそあるのでしょう、その心当たりとやらが」
以祇と虎子は、視線をかち合わせて静止した。珍しく腹の探り合いではなく、共通認識の元に視線を交わした。
こういうとき、脳裏を過ぎるのはいつも同じ人物。当然のように結論がそこに行き着いてしまうことに、少々苦々しい気分になる。おそらくは或る種の敗北を認めていることと同義だ。彼に、甲斐以祇に、此國でできないことのほうがはるかに少ない男に、敗北を認めさせることができる人物が果たしてこの世に何人存在するだろう。
(こんなことになるなら……やはり早めに排除しておくべきだったな)
§ § §
高等部校舎・廊下の突き当たり。
放課後になると、その辺りはひとけがなくなる。今は男女の生徒がふたりきりで向き合っていた。
「ごめんなさい」
その言葉を告げて頭を下げる。そうすると相手はすべてを察して引き下がってくれる。この一言が相手を傷つけるものだと分かっていても、言わないわけにはいかない。親切でありたいと思うけれど、好きだと告げられてしまえば、必ず傷つけてしまう。向けられる好意に応えることは決してできないから。
中途半端に親切にするくらいなら、冷徹でいたほうがよいのかもしれないとまで考えたこともある。しかし、そうするのも良心の呵責に耐えられない。
申し訳ないと思いつつ造り笑顔をするのは、とても疲れる。その場から立ち去り、誰の気配も感じなくなるとホッと肩から力が抜けた。やるべきことをやったのだと気が楽になった。
「今日の夕飯、何にしよう……」
白は気が楽になった途端、今夜の献立を考えることを失念していたことを思い出した。呼び出しに応じなければと、そちらに気を取られていた。
冷蔵庫の中身を思い出しつつ献立を考え、何を買い足すか計画を立てながら廊下を進んだ。
ふと窓の外に視線を投げて足が停まった。校庭には運動部の姿や帰路に就く生徒たちの姿が見えた。校舎の何処からかピアノの音が流れる。音楽室が近いから音楽部の演奏が漏れ聞こえてくるのだろう。
すぐそこには動き回るたくさんの人々、それほど遠くはない校舎の其処彼処に確かに人の気配があるのに、廊下には誰もいない。校舎内に視線を引き戻すと、やはり視界には人っ子ひとりいなかった。この空間だけが世界から切り取られたかのように、ぽつんとただひとり。
――まるでわたしだけが、空間ごと世界と切り離されてしまったみたい。
(あ。まただ。またこの感覚……)
本当は、自分は此処に存在しないのではないかという奇妙な感覚。それなのにちっとも不安や焦燥はない。
誰とも判別のつかない人影も、遠くから聞こえてくる音色も、地面を踏んでいる感触も、交わした会話も、すべて自分が作り出した幻影なのではないか。いつの間にか睡りに落ちていて、何日も何日も過ごしたと感じているが実は一晩の夢に過ぎないのではないか。これが現実だなんて夢のなかの登場人物の誰が証明してくれる。
カツン。――手を突こうとした拍子に壁面に指輪が当たった。
左手の薬指の指輪――――異界の住人・耀龍の置き土産。さよならを言うときに白の薬指に残していった。肌身離さず持っていてくれと、決して忘れないでくれと、懇願のようなおまじないのような言葉とともに。
青天の霹靂だった。弟とふたりきりの生活に突如現れた天尊や耀龍と過ごした日々が、自在に天空を飛んで百雷を降らす魔法のような出来事が、とても現実とは思えない物事が、確かに現実だったという証。
実際に過ごした期間は数ヶ月間という単位だったが、振り返れば春の夜の夢が如く一瞬だった。始まりも終わりも突然で、呆気なかった。あれこそが自分が作り出した幻影なのではないかと錯覚するほど。
彼らがいた日常と、彼らがいなくなった日常と、どちらも現実味がないのにどちらも現実だから頭がおかしくなりそうだ。現実なのに現実味がないとは如何なることか。現実とは何であるのか、己がそうと信じれば夢幻も現実なのではないか。世界の定義が、己の視界と同義であるように。
もし好きなほうを選んでよいとしたら、どちらを現実であると定めるだろうか。
――銀太は、どう思ってるんだろう……。
あの日以来、あんなに懐いてたのにティエンの話もロンの話も一切しなくなった。銀太が話をしないのをいいことに、わたしもふたりのことに触れなかった。どうしてと、銀太に問い詰められることも自分に問いかけることも恐くて。
すとん、と白は廊下に両膝を突いた。
足から肩から全身から力が抜けてゆく。重力のままに突っ伏してしまいそうなところをすんで床に手を突いて持ち堪えた。
これは、代償なのかもしれない。天尊がいなくなった現実を受け容れたくなかった。さよならも告げなかったし告げられなかったから、別離を曖昧にしてしまった。大人びた冷静な振りをして、考えることを已めた。目を背けた、口を閉ざした、蓋をした。現実を受け容れることを拒絶した代償として、自身を偽った代償として、現実が何なのか解らなくなってしまったのだ、きっと。
「……君! 白君!」
白は誰かに呼ばれていると思って顔を引き上げた。以祇が血相を変えて駆け寄ってきた。
白は以祇を見ても自力で立ち上がろうとはしなかった。倦怠感が身に纏わりついて思考が追いつかなかった。
以祇はすぐさま白の身体を支えた。心配そうに白の顔を覗きこんだ。
「何かあったかい、白君。具合でも悪いのかい」
「急に、もう、立っていたくないって……思っちゃって……」
ポツポツと、白は力無く言葉を落とした。
以祇はにわかに眉根を寄せた。白の様子は明らかに尋常ではなかった。かといって病院に連れて行くほどの急変でもない。しかし、見過ごせないほどにはおかしかった。
「家まで送るよ。すぐに車を回す。僕に捕まって立てるかい」
「いえ、大丈夫です。どこか悪いわけじゃ……」
送るから、と以祇に強く言われ、白にはそれ以上抵抗する気力も無かった。言われるがままにしてしまおうと思った。返事もせず手を取り肩を支えられて立ち上がった。
白はまたふと、窓外に目線を遣った。グラウンドでは先ほどと変わらず人影を動き回っており、景色が一部揺らめいて見えた。
「甲斐先輩。あれ」
「何だい」
「蜃気楼みたいなの、見えます?」
以祇は白が見ているらしい方向へ目線を向けたが、何もおかしなところは見て取れなかった。
きっと疲れているのだ。誰もいない廊下で頽れてしまうくらいだから。肉体の疲労の所為にしてしまいたかった。このような風になってしまうまで白に影響を与える人物がいるという事実が、自分にとってすこぶる都合が悪いから。
「僕には何も見えない。この気温では蜃気楼は起こらないよ、白君」
そうですよね、と白は独り言のような返事をした。
(……ああ、じゃああれは夢か……)
もう本当に、何が現実で何が夢なのか分からない。分からなくてもよい。
分かりたくない。
甲斐以祇は日本屈指の財閥の御曹司である。彼の送迎に使用されるのは特注の高級車。革張りのシート、空調がよく効き、振動が少なく、広々とした快適空間。その快適さのお陰か、白はかなり落ち着きを取り戻した。
以祇と白は、広い後部座席にふたりだけ、対面して座った。同乗のボディガードは運転席と助手席におり、他のボディガードたちは別の車輌に乗って以祇の送迎車の前後を固める。
以祇は、車窓に視線を向けた白の横顔を見ながら口を開く。
「校内で白君を見つけられてラッキーだったよ」
以祇にそう切り出され、白は車内に視線を引き戻して不思議そうな表情をした。
「実は教室を訪ねたのだけれど、虎子に白君は用事があってもう出たと聞いたから、今日はもう会えないと思っていたんだ。用事は大丈夫かい」
「用事はもう、済みました」
「それは良かった。体調が良くない様子なのに用事があるなんて大変だったね。それとも体調が悪くなったのは、もしかしてその用事の所為かな」
白は、その口振りからしてすでに以祇には何かを知られているような気がした。学内であろうとそうでなかろうと、此國では彼が知ろうと思って知れないことのほうが少ない。以祇や虎子はそういう人種だ。
白もそのようなことは百も承知で友人・知人でいる。しかし、此処で不用意な発言をして今日告白してきた彼に不利益があってほしくはないから、何も知らない素振りで「まさか」と否定した。
「随分疲れているようだけれど、本当に何も無かった?」
「ありませんよ」
「何も無いのに立ち上がれなくなるなんてとても心配だよ。やはりこのまま病院に向かったほうがいいかな。うちの系列の病院が近くにあるよ」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟ではないよ。白君にはいつも元気でいてほしいからね」
白は以祇の表情をチラリと窺い見た。彼はいつもどおりニコニコと柔和な笑顔。悪人ではないが、押しが強いのが困りものだ。
「白君にとって一番大切なものは家族、つまり銀太くんだよね」
白が病院の勧めをどう断ったものかと思案していると、以祇のほうから脈絡の無い質問をされた。
「銀太くんは初等部に進学しても元気にやっているようだね。彼は明るく社交的でリーダーシップがあり、人から好かれる性格だ。友人関係はとても上手くいっているようで何よりだ。今のところ成績の心配もない。素行が悪いということもない。先生方の評価もよい」
「……銀太の監視でもしてるんですか」
「機会があるときに少し知人に尋ねるだけさ」
以祇は臆面も無く言明した。彼には欠片ほどの罪悪感も無い。こういう人物なのだ。
白は糾弾しても意味がないと諦めて嘆息を漏らした。
「やめてくださいって言っても黙ってやるんですよね。わたしは聞かなかったことにするので、銀太には気づかれないようにしてください」
以祇は白にウィンクして見せた。お任せあれとでもいう意味か。白としては監視のような真似はやめてくれるのが一番よいのだけれど。
「白君が一番大切に想い、かつ懸念材料でもある銀太くんは、僕から見ると表面上は何の問題もない。それどころか順風満帆な学園生活を送っているように見える」
「そうですね。銀太に関して特に悩みはないです。お手伝いもよくしてくれますし」
以祇は笑顔を湛えてゆっくりした所作で足を組んだ。
「では、銀太くん以外に白君を悩ませる何かが、あるということかな」
白の眉が一瞬ピクッと撥ねた。
白はふいっとまた車外に視線を投げた。
「…………。いいえ」
時間がかかった割には簡潔すぎる返答。以祇は「そうかい」と簡潔に返し、それ以上問い詰めなかった。
(おそらく本音じゃないんだろうな。嘘だと分かっていてもこんなもので少しだけホッとするなんて、まだまだだな)
以祇は白の横顔を眺めた。
その表情は実年齢よりも大人びて見えた。弟とふたり暮らしで生活を切り盛りする白が、同じ年頃よりも老成しているのは昨日今日の話ではない。以前からそうだ。それなのに今日は特に、切なさに疲れた大人のような横顔に見えた。
「そういう顔をすることが増えたね、白君」
「え……」
白は以祇のほうへ顔を引き戻して首を傾げた。
「白君が悩みはないと言うなら、これ以上は訊かないよ。僕はただ、白君に悩みを抱えたりつらい想いをしたりしてほしくないだけだ。そんな顔をするほどつらいことがあるなら、忘れてしまいなよ。つらいことをなかったことにするのは悪いことなんかじゃないよ」
――わたしはどんな顔をしてるんだろう。
本心を隠すのが得意で、いつもいい子を演じて生きてきたのに、今さらどのような表情をしているというのだろう。以祇がいま見ているのは白も知らない白の顔、なのかもしれない。もう自分で思っているようには上手く笑えていないのかもしれない。いつからそうなってしまった。とっくの昔に自分をコントロールできなくなってしまっていたのか。自分ひとりで何とかできると思い違いをして、もうずっと周囲に心配をかけていたのだろうか。
「ここで降ろしてください」
突然、白が言い放った。
以祇は白の機嫌を損ねてしまったと思い、取り繕うように口を開いた。
「どうしてだい。白君のマンションまでもう少しだ。僕の発言で気分を害してしまったのなら謝るから是非とも自宅まで送らせてくれたまえ。白君の体調が本当に心配で――」
「いえ、夕飯の買い物をしたいんです。商店街に寄らないと」
白は、慌てる以祇を見てフフッと笑った。
以祇は内心ホッとした。無理に引き留めて気を悪くさせたくないから、すぐに車を停めさせた。
黒塗りの高級車は歩道に幅寄せして停止した。以祇のボディガードは素早く助手席から下りて白側のドアを開けた。
白はボディガードに礼を言って下車したあと、以祇を振り返った。
「元気出してください」
「え……」
以祇は少々面食らった。白のほうからそのようなことを言ってくれるとは予想していなかった。彼は基本的に温厚で悠然としており表情を崩すことは珍しい。ボディガードたちは微かにざわめいた。
「甲斐先輩が謝ることなんてないですよ。心配してくれてありがとうございます。銀太のことまで調べてるのはちょっとアレですけど……何て言うか、先輩に関してはもう色々と諦めてるというか。甲斐先輩なりにわたしたちのこと気にかけてくれてるんですよね。悪意がないことはちゃんと分かってますから、そんなに落ちこんだ顔しないでください」
以祇はいつもの作ったような余裕の笑みではなく、じっくりと目尻を下げた。
気遣ったつもりが気を遣われ、優しくしたかったのに優しくされた。情けないと思う反面、拒絶されなかったことが嬉しかった。
「白君は優しいね」
「そうですか?」と白は小首を傾げた。
バタン。――自動車のドアが閉まった。
白は此処まで送ってもらった感謝の意でウィンドウ越しに以祇に手を振った。以祇は嬉しそうにニコニコと手を振り返してくれた。
以祇は革張りのシートに凭れかかり、白の後ろ姿を見送った。
(悪意がないこと、ではなくて好意が伝わってほしいのだけれど。……今の僕では贅沢だな)
白の足取りは、以祇から離れるにつれ徐々に重たくなった。心配させないように気丈に振る舞う必要はなくなると、何もかもが億劫に感じられた。
(忘れてしまったほうが、いいのかなあ)
白い髪に白い瞳、半透明の天使のような翼、巨大なドラゴン、作り物やおとぎ話のような出来事のすべて、魔法のような神のような御業のすべて。自分でも夢か現か判断が付かなくなってしまったものにいつまでも執着するのは、愚かだ。
もう充分に信じ、充分に待ち侘び、充分に裏切られた。此処らですべてを無かったことにしてしまって、体験も記憶もリセットしてしまって、自分の目に見える世界以外は何も知らなかったあの頃に戻ってしまったってよいはずだ。
あの人の名前も、あの人からもらった感情もあげた感情も、一切合切すべて忘れてしまって。
白はフッと息を吐いて気合いを入れて顔を上げた。
(夕飯、何にしようかなあ。野菜、何が残ってたっけ。卵は朝使い切ったから忘れずに買わなくちゃ)
車線が複数ある大通りから脇道に入って商店街へ近道する。自動車で送ってもらったから時間を短縮できたが放課後に呼び出された分の遅れがあるので、食材を眺めながら献立をゆっくりと選考する暇はない。銀太を待たせてお腹を空かせてしまっては可哀想だ。
もう一本向こうの通りが商店街というところで、白ははたと足を停めた。
夕日が沈みかけた赤紫と黒紅の中間のような空間のなか、また景色が揺らめいて見えた。商店街への抜け道、入居者募集の垂れ幕が掛かりシャッターが降りた古いビルが並ぶ路地、赤茶色に錆びついたシャッターの前、地面にほぼ平行であるはずのシャッターの目が一部だけぼやけて歪んで見えた。
(甲斐先輩の言うとおり、肌寒い日に蜃気楼なんて見えるはずない。目が疲れてるのかな。……じっと見てると何となくぼんやり人型みたいに見えてくる)
再び足を踏み出そうとした瞬間、ゾクッとした。
視線を感じる。じっと凝視されているような強い視線。咄嗟にキョロキョロと周囲を見回してみたが、人っ子ひとりいなかった。自分以外の誰の気配も感じない空間は、日常と非日常の入り口――――。
突然、白は駆け出した。商店街はもうすぐそこだ。距離は50メートルもない。全力で走れば数十秒だ。
ガササッ!
突如、行く手に壁が立ちはだかった。
白より頭ひとつ分は長身の大柄な男。踝まである長いロングコートに身を包み、高い襟で口許近くまで隠し、大きなゴーグルのようなもので人相も分からない。しかし、普通の人間でないことは明白だ。白は以前にもこの類の人物を見たことがあった。
「ヒキドーアキラと認識する」
低く威圧的な声。こちらの都合などまるで聞く気がないことがヒシヒシと伝わってきた。
ぬっ、と腕が伸びてきた。白は咄嗟に半歩後退して捕まえられることを回避した。
進路を塞がれているから商店街へは逃げこめない。いま来た道を引き返すことにした。以祇の車から降りた大通りまではそれほど距離はない。白は全力で駆け出した。
(何で何で何で! 何で急に、何で今さら!)
白の脳内は恨み言じみた疑問でいっぱいだった。何もかも忘れてしまおうと諦めたその矢先、周りの人たちをこれ以上心配させないと誓ったその矢先。非日常、無知と不条理、見たことがない世界、夢の続きへ引き摺り込まれる。
どん! ――白は硬いものにぶち当たった。
全力で走っていたから、後方に尻餅をついて転げた。
「いたあッ……??」
すぐに顔を上げて空間を凝視したがそこには何も無かった。半信半疑で手を伸ばすと〝何か〟に触れた。完全に透明で視認することはできない〝何か〟が、硬質な〝何か〟が、確かにそこに存在する。
「壁……!」
白は表情をにわかに険しくした。
思い出せば、天尊も同じようなものを創出していた。発生させた本人の意思でなくてはどうにもできない、白の力では到底太刀打ちできない現象だ。
振り向くと、もうすぐそこにロングコートの男が迫っていた。
男は只の人間が〝壁〟を突破する手段を有さないことを熟知している。こちらの世界にはこのようなものは存在しない。理解もできない。彼らの前に人間は無力だ。
ロングコートの男は再び腕を伸ばし、白はキッと毅然と睨んだ。
「触らないでください。わたしに何の用ですか」
ロングコートの男は白の問いかけに答えなかった。無論、動作を停止させることもなかった。
白はこの男は自分と問答する気など一切ないのだと悟った。伸びてきた腕をすんでのところで躱し、男の横を上手く擦り抜けて駆け出した。
どん! ――すぐにまた不可視の〝壁〟にぶつかった。
全速力でぶつかるので痛いが、今回はいくらか心構えがあったから尻餅をつくことはなかった。
前も後も逃げ道は〝壁〟で塞がれた。人間の力でこれを破ることは不可能だ。どうしたらこの情況から逃れられるのか、考えても考えても方法は思い浮かばない。おそらく、そのような方策はない。だからこそ、ロングコートの男は微塵の焦りもなく悠然と白を追い回すのだ。
白の視界に、商店街を歩く男性の姿が入った。藁にも縋る思いで大声を上げた。
「誰か! 誰か助けてください!」
男性はこちらを一瞥することもなく白の視界を横切っていった。厄介事に関わることを避けたわけではない。声にまるで気づかなかった態度だ。
「声が聞こえない……⁉」
商店街は目と鼻の先だ。この声量で聞こえないはずがない。不可視の〝壁〟に阻まれて音が届かないのだろうとすぐに思い至った。
(わたしを攫おうとしてることを、自分の存在を、他の人に気づかれたくないってこと?)
白は学校からずっと付いて回った蜃気楼を思い出した。
(学校からずっと監視されてた? 甲斐先輩と別れたあとを狙ったんだ。だとしたら、人目があれば派手なことはしない、たぶん。とにかく人の多いところに! 銀太は今どうしてるんだろう。わたしのところに来たってことは銀太も? ココに連絡して銀太を保護してもらわなくちゃ!)
さまざまなことを惟んみていた白は、自身に影が降りかかってハッとした。
バッと振り向くと、ロングコートの男がすぐ後ろに立っていた。ついに右手首を捕まれてしまった。
白は自分の手首を掴む男の手を上から握った。手首を内側へめいいっぱい捻ると、男の手がスルッと腕から離れた。後退してできる限り距離をとりたかったが、数歩ですぐに背中が建物の壁に当たった。
白は通学鞄に手を突っこんで素早く何かを取り出した。それを男の手に押し当てた。
「触らないでって警告しましたからね!」
瞬間、白の手に持つものが、強い閃光を放った。
バヂィンッ、バチバチバチッ!
ロングコートの男は、ウッと短い呻きを上げて手を引っこめた。
白はスタンガンの一撃をお見舞いすることに成功した。
久峩城ヶ嵜グループが事業の一環として新開発した携行しやすい小型のスタンガン。物騒な世の中だからと、つい先日虎子に装備させられた。よもやこんなにも早く出番があるとは思いもよらなかった。
白は、男が一瞬苦悶の声を漏らしたのを見て、生身なのだと実感した。幻想世界の生き物でも、不死身の超人でもない。こちらの意見を無視はするが言語は通じる、不可視にはなれるが確かにそこに実在する、生き物だ。
(ティエンやこの人は、わたしとは全然違う。魔法みたいなことができて、とても頑丈で素早く動くこともできる。人間より強い、人間とは違う。だけど〝そういう生き物〟っていうだけ。感情も痛覚もあるしケガもする。不死身なわけじゃない)
突如として〝壁〟が消失した。白は背中の支えを失って後方に転倒した。
それが消えた理由は分からない。男にダメージを与えたからか、時限式か。自然な疑問が湧いたが熟考する暇はなかった。
白は急いで立ち上がって商店街を目指した。
「だ、誰か助け……ッ」
無駄だと知りつつも声が漏れた。
生身の相手だと確信したところで、自分ひとりでどうにかするのは難しいという事実は変わらない。誰でもよいから手助けが欲しかった。
無駄だと思っていたのに、ひとりの男性が足を停めた。周囲をキョロキョロと見回して声の主を探している様子だ。
〝壁〟が無くなった今ならきっと空間を遮断するものは何も無い。白は男性に駆け寄りながら精いっぱいの大声を張り上げようと息を大きく吸いこんだ。
「お願いします! 警察に通報ッ……」
どん! ――白は再び硬いものにぶつかった。
あと少しだったのに。白はどうにもできないと頭では分かっているが、もどかしさから不可視の〝壁〟をドンドンッとしきりに叩いた。
「無駄なことだ、人間」
白は背後からの声にギクッとして振り向いた。
男はスタンガンを喰らわされた腕をぶら下げ、白まで数メートルの位置に立っていた。何もできないと踏んでいた小娘から想定外のダメージを喰らわされたのに、声の調子も雰囲気も逆上せず冷静さを保っていた。
「もう回復して……」
「牆壁の外側には声も姿も届かない。人間にはこれを破る手段は無い」
白はロングコートの男からなるべく距離を取ろうと背中を〝壁〟にびったりと付けた。
男は冷静に学習した。反撃を警戒し、不用意に飛びかかるなどしなかった。ジリジリと慎重に距離を詰めた。
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石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」
「はあ……?」
雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。
あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。
空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。
かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。
影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。
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