マインハールⅡ

熒閂

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Kapitel 01

夢現の境界 03

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 アキラはひどい倦怠感のなかで目を覚ました。
 後頭部が枕に吸いついているような強烈な倦怠感。全身が重たくて何もしたくない、何も考えたくない。今すぐ嘔吐するほどではないが吐き気のような不快感もある。
 本能的に瞼を持ち上げてみた。ぼんやりとした視界に、白地にアラベスクのような金字の模様が走る――――見知らぬ天井。
 無意識に視覚から得た情況を理解しようとし、徐々に思考が追いついてくる。知らない部屋のベッドに寝かせられている。手足は自由に動かせる。気分は良くないが死ぬほどではない。
 ――ここはどこ?

「目が覚めた?」

 赤毛のような金髪のような色素の薄い髪の毛に、鼈甲色の猫睛金緑石クリソベリル・キャッツアイの瞳をした青年に、顔を覗きこまれた。

「ロン……」

 アキラは反射的に答えた。
 耀龍ヤオロンはニッコリと微笑んだ。

「オレのことが分かるんだね。脳は大丈夫そうだ。擦り剥いてる膝以外に痛いところはない?」

「たぶんない……」

「いきなり倒れちゃうから心配したよ。軽く身体を見たけど何か薬物飲まされたわけじゃないみたいだから安心して。意識喪失は緊張が途切れた所為かな。突然あんなのに襲われたら恐いよね」

 アキラの脳内はまだ重たかった。耀龍の早口についていけない。問いかけられれば一息置いて反応することはできるが、自ら思考するのは億劫に感じる。

「ああ」と突然、耀龍が何かを思い出したように零した。

「安心して? カラダを見たとは言ってもハダカは見てないよ」

 アキラには耀龍の軽口を笑う気力もなかった。
 耀龍がアキラが横たわっているベッドを挟んで自分の対面を指差し、アキラは緩慢な動作で頭を動かした。
 ひとりの人物がアキラを見下ろしていた。光り出しそうなほど艶やかな長い黒髪の、耀龍と同じ年頃の細身の青年。

リーのこと、覚えてる?」

「ティエンの弟、でしょ。ティエンを連れ戻しに来た」

 アキラは麗祥リーシアンを記憶していた。無論、彼が何をしたかも。
 麗祥は若干八の字気味の眉をして怪訝そうにアキラをジッと観察した。

「本当に、あのときの少女か?」

「間違いなくアキラだよ」

「たった一年……たった一年前だぞ、私が彼女を目にしたのは。そのような短い時間でこのように変わってしまうものなのか、エンブラとは」

 耀龍は麗祥の態度を特に気に留めた様子もなく「そうだね」と短く返事をした。
 しかしながら、アキラには麗祥が随分と大仰に驚いているように見えた。至極当たり前のことを大袈裟に言うと思った。

「そんなに変わった? 髪がちょっと伸びたくらいだと思うけど」

 アキラが不思議そうに言い、耀龍はハハッと笑った。

「オレたちにとっては一年なんてあっという間なんだよ。アスガルトではたった一年じゃ季節が一巡りするだけ。退屈なものだよ。でもミズガルズでは一年あれば小さな女の子が、こんなに素敵なレディになるんだもん。やっぱりエンブラは面白いなあ。リーは……まあ、リーだけじゃないんだけど、アスガルトの住人はあんまりエンブラに詳しくない。だからちょっと驚いちゃっただけ。ごめんね」

(……? 季節が一周するのはわたしたちと同じじゃないの)

 言葉や思いつきがポンポンと浮かびはするのだが、いろいろと考えを巡らすのは億劫。アキラはただボーッと耀龍を見上げた。
 ねえ、と耀龍が麗祥に声をかけた。

リーはさァ、アキラに言うことあるんでしょ?」

「あ、ああ……」

 アキラはゆっくりと麗祥のほうへ顔を向けた。麗祥は肩をやや窄めて申し訳なさそうにして見えた。

「先日は、大変な怪我をさせてしまって大変申し訳ない。私の実力で天哥々ティエンガコに対抗するには手段を選ぶ余裕が無かったのは事実だが、任務の為とはいえ性急すぎた。あのときは冷静さを欠いていたと……自省している」

 なんだそんなことか、とでも言うようにアキラはフッと笑みを零した。

「もう気にしないでください。ロンのお陰で今はもう痕も無いですから」

 容易く許す。己の肌を焼いた者を。肌だけではない、ともすればもっと多くのものを失っていたかもしれないのに。そうはならなかったという結果だけを以て、恨むべく者を許す。それは麗祥の理解を超えた。

「よく許して笑えるな。私は本気で貴女の腕を吹き飛ばすつもりだったのだぞ」

「でも、やりたくてやったんじゃないんでしょ。あなたも何か、追い詰められてるみたいだったから」

「――――……」

 麗祥は絶句した。優しいなどという言葉では不充分なほどの寛大さに。
 何故そんな風に赦せる。アキラの立場からすれば麗祥は敵と言って相違ない。詰られ、責められ、罵られることも覚悟していたというのに。
 麗祥はアキラに許しを請うつもりだった。頭を垂れることも賠償することも厭わないつもりだった。一年前の件によって敬愛する兄である天尊ティエンゾンにとってこのエンブラの少女が如何に特別か思い知らされ、そのような少女を傷つけてしまったこと、天尊の怒りを買ったことを心から悔いた。挽回できるならその程度のことは受容する。
 しかしながら、この少女は赦した。何かにわだかまることもなく、何かを要求することもなく、事も無げに。

「ここ、どこ?」

 アキラは耀龍のほうへ顔を引き戻して尋ねた。

「オレの館」

「ロンのって?」

「アスガルトだよ」

「ッえええ⁉」

 アキラが覚醒して初めて大きな声を上げた。
 麗祥はやや驚いて目を大きくした。アキラの反応を想定していた耀龍は笑顔で首を縮めて見せた。

「な、何でッ? わたし連れてこられない為にがんばってたのに」

「だよね~~」

「家に帰して」

「今は戻るほうが危険だよ。またあんなのに追いかけられるなんて恐い思いしたくないでしょ」

「でも銀太ギンタのことが心配だし、家に帰らなきゃ」

「ギンタのところへは世話をさせる者を遣ったよ。縁花ユェンファが選んだ者たちだから安心して」

 アキラは口を半開きにして停止した。
 何かがおかしい。耀龍が突然現れたことも、承諾もなくアキラを連れてきたことも、引き留めることも。

「……どうしてそこまでするの。わたしはここにいる必要があるってこと?」

「今はオレといるほうが安全」

「何で? どうして急にそんなことに」

 ――今までまったく音沙汰無しだったくせに。
 アキラは喉を突いて出そうになった恨み言のような言葉をグッと呑みこんだ。

「前に言ったよね。天哥々ティエンガコの《オプファル》であるとはどういうことか、解ってるのって」

 アキラは自分の胸元に目を落とした。そこは身体の中心、命のあるところ、絶え間ない拍動の源。――――心臓。

「ティエンにはわたしの心臓が必要。……わたしが襲われたのは、その所為……?」

 アキラは顔は俯き加減のまま目だけを動かして耀龍を見た。

「ティエンの為にわたしの心臓が必要ってことは……ロンも、わたしの心臓が欲しいの?」

 天尊と人間の命を天秤にかけたら、耀龍は迷わず天尊を選び取る。そうするに違いないという強い確信が、アキラにはあった。耀龍はそれほどまでに実兄・天尊を敬愛している。その感情はアキラにも理解できる。二つに一つ、どちらかを取捨選択しなければいけないのだとしたら、誰だって自身の決めた〝一番〟を守るに決まっている。

「そうだよって言ったら、その心臓をくれるの?」

 耀龍は試すような、少し意地悪な言い方をしてしまったと思ったが、言い直さなかった。兄がすべてを引き替えに得たいと願った少女の本音を知りたかった。
 アキラは再び自身の胸元に目を落とした。
 心臓は身体の中核に位置するもの、紛れもなく命の在るところ、絶え間ない拍動の源、自分そのもの――――それを捧げるということの意味を、噛み締めた。

「…………。今は、無理」

 アキラはハッキリと言明した。

「わたしには銀太がいて、銀太にはまだわたしが必要だと、思うから」

「もしアキラにギンタが、家族がいなかったとして、本当に天哥々ティエンガコの為にそこまでできる? 天哥々ティエンガコの所為で死ぬってことだよ」

「ティエンはもう何度もわたしの為に命を懸けてくれたよ」

「何でそんなに簡単に決心できるの。命を懸けてもらったからってお返しに自分も同じことをするなんて。誰だって当たり前に死にたくないって思うものでしょ」

 耀龍、と麗祥が一声かけた。矢継ぎ早に心を暴き立てる不躾な質問だと思った。

「そうだね。何でだろう。……でも、ティエンの為ならいいよ」

 アキラは目線を耀龍から天井のほうへ向けた。ふぅー、と息を吐いて瞼を閉じた。
 理由を問われると説明するのは難しい。たとえいま頭が明瞭だったとしても上手く説明できなかったと思う。脳内で理性で理解するよりも前に、心が納得している。
 命と釣り合う天秤は無い。そのようなものがこの世に存在するとしたら、それこそ命そのもの。自分の命を捧げてでも生き存えさせたい人、自分が笑えなくなっても見たい笑顔、身を粉にしても実現したい幸福の光景――――銀太と天尊が生きてゆけるなら、それでよいと思った。何の疑問もなくすんなりと。
 ――わたしの命に価値があるなら、キミたちにならあげてもいいよ。

 耀龍はアキラが言葉で説明するのを放棄したことを悟った。自分にはそれを無理矢理言わせる権利がないことも分かっている。
 耀龍は床に座りこみ、ベッドの上に放られたアキラの手に自分の手を重ねた。そしてポンポンと撫でた。

「意地悪な質問してゴメン。安心して。オレがアキラを守ったのはそんなことの為じゃない。アキラの心臓なんて天哥々ティエンガコは望んでいないもの」

 アキラは天井を仰いだまま口を開いた。

「ティエンは?」

「会いたい?」

「会えないの……?」

「今はちょっと、無理」

「そっか……」

 アキラは瞼を閉じたままポツリと零した。頭も身体もとても怠くて瞼を開けることができなかった。意思では抗いがたい倦怠感と睡魔。そのまま眠りに落ちていった。

姑娘クーニャン姑娘クーニャン

 麗祥はベッドに身を乗り出してアキラを覗きこんだ。

「大丈夫なのか。急に意識を失ってしまったが」

「眠ったんだよ」

「今まで会話をしていたのにか。本当に薬物の影響ではないのだろうな」

「それはちゃんと調べたから大丈夫。アキラの身体がまだアスガルトの大気に慣れていないんだ、たぶん」

 耀龍はアキラの手の平を上に向かせて脈を確認した。トットットッと一定のリズムを刻んでいる。

「環境の変化が多少の負荷になるのは、オレたちもエンブラも同じだけど、オレたちにとっては影響が出るほどの負荷じゃなくて、大抵は症状となって表れる前に適応できる。エンブラへの影響が顕著なのは、彼らが脆弱だからだ。アスガルトの環境下に置かれたエンブラは、初期は長時間覚醒していられないことは記録にある。アスガルトに順応する為にエネルギーを多量に消費しているのか、肉体を保護する為に省エネモードになっているのかは分からないけれど。この状態がしばらく続いて、身体が順応するにつれ覚醒時間は徐々に長くなるハズ」

「詳しいな。流石は学院ビルスキルニルに残ってミズガルズの研究に携わっているだけはある」

「そうは言ってもアスガルトに来たエンブラはとても少ない。残っている記録や研究はもっと少ない。だから実際には分からないことだらけなワケ。アスガルトにいるだけで死ぬなんてことはない、と願ってるけどね」

 耀龍は麗祥に首を縮めて見せた。

「本当に大丈夫なのか。姑娘クーニャンを手許に置きながらそのような不確かなことで」

「仕方ないじゃない。背に腹は代えられないもの。天哥々ティエンガコがどこでどういう情況になっているか分からないのに、何者かも分からない連中にアキラを渡すわけにはいかない。アキラは天哥々ティエンガコの《オプファル》なんだから」

 前のめりになってアキラを覗きこんでいた麗祥は、背筋を伸ばした。

「この姑娘クーニャンは、実に慈悲深い。自分を殺そうとした者をああも容易く許すとは」

「そうだね。でもサスガに慈悲深いだけで命までは懸けられないよねえ……?」

 耀龍は床に座りこんだままベッドに頬杖を突き、アキラの寝顔を見詰めた。

天哥々ティエンガコにとってアキラが特別なように、アキラにとっても天哥々ティエンガコが特別であってくれたらいいんだけど」

「そうではないのか? 天哥々ティエンガコに心臓を捧げてもよいほど想っているのだろう」

「…………。オレには、アキラのことは分からないよ」




  § § §




 瑠璃瑛ルリエー学園都市・某マンション。
 アキラの弟・銀太ギンタは、初等部への進級を機に鍵っ子へと進化した。初等部からは保護者による送迎はなくなり、また、高等部と初等部では授業終了の時刻がかなり異なるので、白が持たせてくれた。
 銀太は学校から帰宅して通学バッグを置き、制服から私服へと着替え、友人たちと遊ぶ為に外出するのがいつもの行動パターン。夕飯時までには帰宅することが疋堂ヒキドー家のルールであり、今日もその頃合に帰宅した。
 銀太は家の鍵をガチャリと回してドアを開いた。玄関に入ってドアの鍵を施錠し、ぽいぽいと靴を脱ぎ捨てた。

「ただいまー」

 珍しく白から「おかえり」と返ってこなかった。
 玄関からリビングへ至る中途にキッチンがある。白は夕飯時の時間帯はキッチンに居ることが多い。だから、銀太はキッチンをチラッと覗いてみた。いない。

「アキラー。腹へったー」

 銀太は、白はきっとリビングか自室にいるのだと思った。大きめの声で白に話しかけながらリビングへと足を進めようとして、はたと足を停めた。
 リビングには、そこにいるはずのない人物が立っていた。
 見慣れない装束を着た青年と、2メートルを超える巨躯の男性。
 青年は猫睛金緑石クリソベリル・キャッツアイの双眸を銀太のほうへ向けた。猫のような眸にふわりと茶金の前髪がかかった。長い前髪に隠されて人相はハッキリと見えなかった。しかし、銀太は彼が何者であるか確信した。

「何で……いるんだよ、ロン」

「久し振りだね、ギンタ」

 耀龍ヤオロンはあの日と同じように柔和に微笑んだ。
 あの日――――銀太が決定的な別離というものを学んだ日。幸福な日々との然らぬ別れ、それは絶望と似たものだと刻みこんだ。

「何でいるんだよッ」

 銀太は第六感で以て突如として予感に襲われた。まだそれほど多くの言葉を知らない自分では説明できない胸騒ぎ。何故、この家に耀龍と縁花ユェンファしかいない。何故、在るはずの白の姿がない。それは銀太にとって平静を欠くに充分足る理由だ。

「アキラはどこだ。何でロンはいるのにアキラはいないんだよ!」

 耀龍は銀太から烈火の如く怒鳴られたのがやや意外だった。彼はこの幼い人間を憎からず思っており、かつて良好な関係性を構築したつもりだったから。

「少しアキラに用があるんだ。ちょっとアキラを借りるね。そんなに長い間じゃないから安心して」

 ――アキラを借りるだと? 何を言っているんだコイツは。
 銀太はダダダッと全速力で駆けて耀龍の腹部に体当たりした。線の細い耀龍は、銀太の勢いに負け、ついでに足を滑らせカーペットの上に倒れこんだ。
 銀太は耀龍に馬乗りになってドンッドンッと彼の胸を叩いた。

「ティエンを急に連れてったクセに今度はアキラかよ! 返せよッ! アキラもティエンもオレの家族なんだぞ! ふたりともオレに返せよ!」

 かつて耀龍と銀太は、友好的で篤実な関係性を築いた。しかし、今もそれを信じ続けたのは一方だけだった。今となっては銀太にとって耀龍は、兄のように父のように慕った人物と、或る日忽然と姿を消した、裏切り者。さらには唯一最大愛する姉まで連れて行ってしまったならば、怒り憎むのは道理だ。
 縁花が銀太を退かそうと手を伸ばし、耀龍は「いいから」とそれを制止した。
 耀龍は銀太を身体の上に載せたまま上半身を起こした。

「ふたりとも返すよ」

 耀龍は銀太と真っ直ぐに目を合わせて力強く確言した。

「オレが約束する。だからほんの少しだけ待ってて」

「約束なんて意味ねーだろ! ティエンだってオレたちのことッ……オレとアキラをずっと守るって言ったのにいなくなったじゃねーか! いなくなって……アキラはひとりじゃねーかよ!」

天哥々ティエンガコは約束を破ったわけじゃない。自分の意思でギンタとアキラを置いていったんじゃない」

「ふっざけんな! 現に今いねーじゃねーかッ」

 銀太は耀龍の胸元を握り締めて苛烈に声を張り上げた。

天哥々ティエンガコはギンタに嫌われちゃったかな……。ギンタはもう、天哥々ティエンガコに帰ってきてほしくない?」

「なめんな! オレのこともティエンのこともどうでもいいんだよ! アキラを無駄に期待させるのやめろッ」

 そのように幼い身で自分のことよりも姉を想う献身に、耀龍は感心した。否、むしろ姉さえ安らかならば、彼の小さき世界はそれで幸福なのだ。

「分かった。二度と裏切らない、アキラもギンタも」

 耀龍は自分の胸元を握り締める銀太の拳を手で包み、ギュッと握った。

天哥々ティエンガコは帰ってくる。アキラも帰す。ふたりとも必ずギンタのところに帰す。オレが約束する」

 銀太は耀龍を睨むような目付きで見詰めた。
 耀龍は内心、銀太が納得しなくても仕方ないと思った。天尊と交わした約束は反故にされ、自分も姿を消し、今回は最愛の姉を連れ去った。かつて築いた信頼に背いたのはこちらだ。二度と信じられなくとも無理はない。
 銀太を説き伏せられなかったとしても、現状で白を返すことはできない。結局は銀太の意思を無視し、自身の決断のとおりに行動するしかない。約束をするから納得してくれと要求するのは、ただの我が儘だ。

「絶対か」

 銀太がそう言ってくれたとき、耀龍は一瞬耳を疑った。

「うん、絶対」

「今度は絶対守れよ!」

「ありがとう」

 ――やっぱりアキラの弟だなあ。
 裏切られたと傷つきながらも、裏切り者さえも許してもう一度チャンスを与えてくれる銀太は、幼いながらも素晴らしい人格者だ。持って生まれた気質は烈火だ。そこに仁徳まで兼ね備えられたのは、白の慈悲深さのお陰だろう。
 銀太は耀龍の上から下りて立ち上がった。
 耀龍も縁花から差し出された手を取って立ち上がった。

「ギンタ。天哥々ティエンガコを家族にしてくれて、ありがとう」

「ティエンが家族なんだからロンもユェンも家族だろ。早く帰って来いよバーカ!」

 耀龍はフフフッと笑って縁花を見上げた。縁花は「畏れ多いことです」と頭を下げた。

 耀龍は、白が不在の間、銀太の身の回りの世話をさせる為に、疋堂家に数人の使用人を残してその場をあとにした。縁花が選別し、耀龍がミズガルズの基礎知識を与えた、信頼できる者たちだ。家のなかで銀太ひとりの生活を支えるくらいなら問題は無いだろう。
 耀龍と縁花は、それぞれに翼を広げて疋堂家のベランダから夜空へと飛び上がった。

「大隊長がお戻りになったら、姑娘クーニャンシャオの為にアスガルトに留まらずにここへおいでになると、耀龍ヤオロン様はそうお考えですか」

 縁花は夜空に映える薄黄金色の双翼のあとを追いながら尋ねた。

天哥々ティエンガコは元々約束が好きじゃない。オレたち弟にだって約束をしてくれた覚えなんてほとんどない。だから、天哥々ティエンガコが約束をするときは、必ず守る覚悟があるってことだ」

 耀龍は確信めいて断言した。
 それよりさ、とくるりと前方に宙返りして縁花へ身体の正面を向けた。

「さっきのギンタのセリフ聞いた? アキラを無駄に期待させるのやめろ、だって。たった一年であんな立派なこと言うようになるんだもん。やっぱりエンブラって面白いよね」

 縁花は上機嫌な主人に水を差すような無粋な侍従ではなかった。然様でございます、と短く返した。
 耀龍は敬愛する実兄の消息不明であるというのに然程悲愴感がなかった。兄は必ず戻ってくると、根拠なく楽観視できた。兄は欲しい約束をくれたことはないが、一番大切なことは守ってくれた。どのような死地に赴いても生き抜いて還ってくること、それが兄を慕う弟たちの心からの願いだった。
 ――だから今回も必ず戻る。あの人の戻りたい場所へ。




  § § §




 アスガルト・暉曄宮きようきゅう・耀龍の館。
 次にアキラが目を覚ましたとき、最初に目を覚ました部屋と同じ場所だったが、耀龍や麗祥リーシアンの姿はなかった。代わりに、見慣れない裾の長い衣服を着用した女性たちが数人いた。何処となく耀龍と初めて会ったときの装束に似ている気がした。
 彼女たちは、お部屋の温度は如何ですか、喉は渇いていませんか、などアキラにさまざまな世話を焼いてくれた。アキラはベッドから降りることさえさせてもらえなかった。
 装束は見慣れないが、この甲斐甲斐しい態度には見覚えがある。虎子トラコの屋敷のメードたちと雰囲気が似ている。おそらく彼女たちは、耀龍の館に仕える使用人なのだろう。アキラを賓客としてもてなしているというわけだ。

老爺ラオイエのおいででございます」

 侍女のひとりが、部屋の出入り口のほうからそう告げた。
 程なくして耀龍が縁花を伴って姿を現した。
 侍女たちはふたりに対して頭を垂れ、耀龍はそれを気にする様子もなく室内をスタスタと進んでアキラのベッドに近づいた。

「気分はどう? まだ眠たい? 気を遣わなくていいから正直に言ってね。アキラの体調管理の為だから」

「眠気は少し。身体がものすごく怠い」

 それを聞いて、耀龍は侍女にアキラがいつ頃目覚めたか、何を口にしたかなどを尋ねた。それから、ベッドに腰かけてアキラの額に手の平を合わせた。
 その所作はまるで医者のようだった。この土地に於いて、人間の研究者や専門家はほとんどいない。耀龍はその辺の医者よりも余程人間の身体に詳しい。
 耀龍はアキラの顔を両手で包むようにして持ち上げた。

「熱はないし顔色も悪くない。よかった」

 長い睫毛で優美な眼差しを注ぎながらニッコリと微笑む端麗な青年。端的に言えば、耀龍は見目が良い。穏和で人柄も良い。侍女たちは我が主人ながら、ほう……、と感嘆を漏らした。身分と年齢の釣り合う子女であったなら頬を染めておかしくない。
 侍女たちの反応とは対比的に、アキラは顔色ひとつ変えなかった。

「ロンは何でわたしが危ないって分かったの?」

 耀龍はアキラの顔から手を離した。それから、アキラの左手を指差した。
 アキラは自分の左手を持ち上げて目を落とした。薬指にキラリと光る指輪――――耀龍の置き土産。

「アキラがオレとの約束を守って指輪をしててくれたから。アキラに何かあったら反応する仕掛けなんだよね、ソレ。座標も教えてくれる」

 耀龍は上目遣いにチラリとアキラの顔色を窺った。アキラに驚いた様子はなく、ふーっと嘆息を漏らしただけだった。その仕草には多分に惘れも含まれる気がするけれど。

「……怒らない?」

「実際助けられたから怒れない。そういうものだったなら、あらかじめ教えてほしかったけど」

「教えたら外しちゃうかと思って」

 アキラは耀龍からフイッと顔を逸らした。

「……間一髪だったよ。もう少しで捨てるところだった」

「約束したのに? 捨てないでって」

「もう約束自体夢だったのかもって、思い始めてたから」

「それって、オレのことも天哥々ティエンガコのことも忘れかけてたってこと?」

「ロンがそれを言うの?」

 耀龍は虚を突かれた。目をやや大きくしてアキラに数秒視線を奪われた。
 人間は一年間で変化するものだと自分で言いながら、見詰めてみてより実感した。アキラは外見以上に精神が一年前よりもずっと大人びた。

「ごめんごめん。アキラもギンタもたまにドキッとすること言うよね。前からそういうところあったけどさ」

 銀太の名前が出て、アキラは耀龍へと顔を引き戻した。最後に顔を見て幾日も過ぎていないが、たった一日会わなくても気に懸かる。

「銀太に会ったの? 様子はどうだった? 元気にしてた?」

「うん。元気だった。元気に殴られた」

「え」

天哥々ティエンガコとオレがいなくなってから、オレたちの悪口でも言いながら過ごしてたのー? ギンタにあんなに嫌われてると思ってなかったよ」

 耀龍は冗談めかして言ったが、内心では少々傷ついていた。銀太のことを本当に、弟か親友のように思っているから。
 アキラはふるふると首を左右に振った。

「分からない。ふたりの話、ずっとしてなかったから。……でも、銀太はロンのことホントのホントに嫌ってるわけじゃないと思うよ。大好きだと思う。大好きなのに突然になくなっちゃったから怒ってるんだよ」

「うん。最後は仲直りした。早く帰ってこいだってさ」

 アキラは仲直りしたと聞いて、少しホッとした。銀太の胸のわだかまりは解消したということだろう。あの小さな胸にしこりを残したままでいるのは憐れだ。
 天尊と耀龍のことは姉弟のなかで触れてはいけない禁句のようになってしまって、お互いにどう考えているのかさえ分からなかった。悲哀であれ、鬱憤であれ、分かち合えばよかった。そうすれば幼い弟の寂しさをもっと早くに軽くしてやれたかもしれない。

「…………。さっき、意地悪な言い方してゴメン。ティエンもロンもユェンさんも、もう家族だと思ってる。これからはできたら……たまには会いに来て。簡単なことじゃないかもだけど」

「やっぱり姉弟だなー。ギンタも同じこと言ってた」

 耀龍は嬉しそうにフフフと笑った。

「意地悪な言い方ができるようになったってことは、レディになったってことだよ。以前のアキラは優しいだけだった。優しい優しい小さな女の子だった。本当に、たった一年間で見違えるほど素敵な女性になったよ」

 ――あんなに小さな女の子にイライラするなんて大人げなかった。
 耀龍はかつて天尊の愛に応えないアキラを内心批難していた。天尊を敬うあまり、アキラの事情や心情など考えなかった。男女の機微や駆け引きなど当人同士だけのものだ。他者が口を挟む余地はない。それを理解せず臍を曲げたのは身勝手で未熟だった。

「なんか、そんなこと言われるとちょっと恥ずかしいかも。素敵な女性なんて言われ――」

 耀龍はベッドに手を突いてアキラのほうへ身を乗り出した。何の変哲もない至極自然なことのように、アキラの白い頬に口づけた。
 声もなく驚いた表情をしたアキラを見て「あ」と声を漏らした。悪びれない表情で人差し指を唇の前に立てた。

「……いつものクセでつい。天哥々ティエンガコには言わないでね」

「いっ、言わないから、もうしないで」




熒閂の最新話はクロスフォリオにて先行公開( https://xfolio.jp/portfolio/ke1sen/series/1023833 )
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結婚三周年の記念日だと、邸の者達がお膳立てしてくれた二人だけのお祝いなのに、その中心で一人夫が帰らない現実を受け入れる。もう彼を諦める潮時かもしれない。だったらこれからは自分の人生を大切にしよう。アレシアは離縁も覚悟し、邸を出る。 ※こちらの作品は契約上、内容の変更は不可であることを、ご理解ください。

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