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#13:The identification
Fierceness and tenderness on a balance 01 ✤
しおりを挟む真珠はゆっくりと瞼を開けた。最初に目に入ったのは埃と砂粒。こんな至近距離でそんなもの見たの初めてかもしれない。それから自分が床に俯せになっていることを思い出した。
俯せの体勢から起き上がろうとすると全身に痛みが走った。「いたたっ」と声を漏らして起き上がるのを一旦諦めた。ズキズキと痛みに苛まれながら、どうにか体勢を仰向けに転換した。
一息吐いて全身の痛みが引くのを待っていると、雨粒が窓を叩く音が聞こえてきた。首を動かして窓を見ると、やはり曇天から雨が降り注いでいた。
(雨、降ってるんだ……)
いつから降り出したのだろう。もしかして曇り出したなと思った頃にはもう降り出していたのかな。否、紗英は窓の外を見ながら降り出したらどうしようと言っていた気がする。それでは真珠が気を失った後から降り出したのか。それとも紗英が馬乗りになった時から降っていたのかも。
よく、覚えていない。「死ね、死ね」という怨嗟だけが耳にこびりついている。人間らしい会話をした部分が曖昧。
鬼と化した紗英の形相を思い出している最中、不意に千恵の顔が脳裏に浮かんだ。千恵は自分を待ってくれているはずだ。なるべく早く戻ると約束した。もうどのくらい待たせているのだろう。心配させてしまっているかもしれない。
千恵は最初から真珠を案じていたのだ。こうなる可能性を危惧して。言うことをきかなくて、心配させて、挙げ句このような目に遭って、ごめん。
真珠は痛む手足を引き摺るようにして千恵が待っているはずの教室まで辿り着いた。廊下にも教室にもすでに人気はなかった。
「真珠!」
真珠が教室に入るとすぐに千恵から悲鳴に近い声で呼ばれた。
自分の席に座っていた千恵は、椅子から跳び上がるようにして離れて真珠に駆け寄った。
真珠は千恵の顔を見てホッと緊張の糸が切れた。教室のドアを潜って直ぐの場所にストンと座りこんだ。
「紗英にやられたの⁉」
「負けちゃったあ……」
千恵は青い顔で真珠のすぐ傍に座りこみ、その肩を支えた。真珠は脱力してあははと笑みを溢した。
「ケンカするの初めてで……どうやっていいのか分からなくて……。やっぱりケンカって……恐いよねぇ。でもちょっとだけ……蔚留くんがケンカする気持ち解ったよ。勝てないって解ってても、どうしても負けたくないことってあるよねー……」
「何言ってんの! 何でアンタがケンカしなくちゃいけないの⁉ 何でアンタが蔚留くんの為にボコボコにされなきゃいけないの⁉ 真珠はそんなことしなくていいッ!」
真珠は口を動かす度に顔面が痛むからボソボソと話し、対照的に千恵は取り乱して声を大きくした。何度も殴られて腫れ上がり摩り切れて青く鬱血している真珠の顔を見て、いくら千恵でも平静を保ってなどいられなかった。
こんなことになるかもしれないと分かっていたのに、紗英のところになんて行かせるんじゃなかった。真珠が何と言っても引き留めるべきだった。
「蔚留くんのことだからだよ……」
真珠は顔の痛みに耐えてハッキリと言葉にした。
「蔚留くんの為、じゃないよ……自分の為なの。自分の為に負けたくなかったの……蔚留のことでは負けたくなかったんだもん」
「勝ち負けなんか関係ない。アンタが殴られる理由なんか無いんだよ」
千恵は両目にうっすらと涙を浮かべて悔しそうな表情をする。真珠の痛みや悲しみを理解して、まるで自分のもののように分かち合おうとしてくれようとする。
嗚呼、そんな千恵がやはり好き。こんなにいい友だちがいてよかったなあなんて、真珠は満身創痍でそのような暢気なことを考えた。
「紗英ちゃんは……蔚留くんと付き合う子はみんなキライなんだって。別れろって言われたけど、できないって言ったら殴られてケンカになった。殴られても脅されてもそれだけはできないもん。蔚留くんだけは譲れない」
千恵が言うように、殴られるに足る正当な理由などはなかった。しかし紗英が力尽くで奪おうとするなら、引くわけにはいかなかった。勝てると思ったわけではない。望んで迎え撃ったわけではない。引けなかったのだ、最大級大切なものの為に。
「……真珠、ケンカは恐いしキライだけど頑張ったよ。頑張ったけど……負けちゃった」
ポツリ、と制服のスカートの上に水滴が落ちた。ポツポツと小雨が降るように次から次へと降り落ちてきた。負けたのだと実感すると涙が堰を切って溢れてきた。
ケンカなんて嫌いだ。誰かと対立するくらいなら笑って譲ってしまったほうがいくらかマシだ。だから、ケンカに負けるとこんなにも悔しいのだと初めて知った。
「絶対っ、負けたく……なかったのにぃ――……っ」
真珠は天使の顔をぐしゃぐしゃに歪めて大粒の涙を瞳からボロボロと零した。その綺麗な涙がスカートの上に落ちて染みになって消える度、千恵の胸はドンドンと何かに叩かれた。憤怒とか悲愴とか憐憫とか、様々な感情に胸を叩かれた。
千恵は気が付くと真珠の体を抱き締めて一緒に泣いていた。声を上げ、一緒に涙を零していた。真珠の感情や痛覚や記憶を本当に分け合えるなどとは思っていないが、涙は思考など無視をして流れ出た。
「うっあぁ……! うぇえー……っ」
外は暗雲立ち籠め薄暗く、半地下の湿った匂いのする教室で、ふたりは誰にも知られず互いにブレザーを握り締め合って泣いた。
蔚留くん、真珠はね、初めて負けたくないって思った。初めてこれだけは誰にも譲れないって思えた。
これは凄いことだよ。言ってしまえば奇跡だよ。蔚留くんと出逢って蔚留くんを好きになって、真珠が変わったっていう奇跡なんだよ。
全身汚れてるし、埃まみれだし、多分顔グチャグチャだし、顔痛いし、口痛いし、全身痛いし、もう二度とケンカなんかしたくないけど、でも真珠は後悔してないよ。蔚留くんを好きだって気持ちを貫き通せたから。
悔しい。痛い。つらい。色んな気持ちがぐちゃぐちゃ。こんなこと初めてだよ。
初めて、負けて悔しいって気持ちが分かったよ、蔚留くん。
真珠に色んなものをくれて色んなことを教えてくれて本当にありがとう。
蔚留くんを好きになって、本当によかった。
§ § §
真珠と千恵は通学鞄を肩に掛け、なるべく人目に付かぬよう物陰を選んで忍者のようにそそくさと出口へと急いだ。その理由は、殴打されて派手に鬱血した真珠の顔を見られたくないからだ。
幸いにも、下校時間はとうに過ぎ、校舎内はすでに人も疏らだった。
「誰もいないから、早く」
「う、うん」
「家に帰ったらスグ冷やしたほうがいいよ。絶対腫れるって。あ、骨とかアレだったらヤバイから一応病院行っといたほうがいいかも」
真珠は「骨かー」と呟いて自分の頬骨に触れてみた。触れた箇所がズキッと痛み「あいたっ」と声を上げた。
「バカ、何やってんの。触ったら痛いに決まってんじゃん」
「こんな顔見たらお父さんお母さん心配するよねー」
真珠は溜息を吐いてトボトボと足を進めた。こんな醜く崩れた顔面を他人に見せられた物ではないが、過保護な両親に見られてもきっと卒倒するほど心配をかけるに違いない。その点だけは喧嘩をしたことを少しだけ後悔せざるを得ない。
「あ、蔚留くんだ。まだいたんだ」
千恵は廊下で足を止めた。真珠は「ウソっ」と慌てて階段の影に飛びこんだ。今の醜い自分は下総にだけは絶対に見られたくない。
千恵は真珠の心情を察した。何事もないように足を進めて真珠が身を潜めている場所から少し離れた。下総は気さくな人柄だから、先を急いでいる訳でもない放課後の人気のない校舎内では話しかけられることは目に見えている。
「お。千恵。まだガッコおったんかいな」
案の定、下総のほうから声をかけてきた。連れ立って歩いていた備前とふたりで千恵の前で足を止めた。
蔚留くんもまだ学校にいたんだ、と千恵は下総と目を合わせなかった。千恵は眉間に皺を寄せて不機嫌そうな顔色を隠せていなかったが、鈍感な下総がそのような細かな変化に気づくはずもなかった。
「オウ。さっきまで屋上いてたんやけどな、今から帰るトコや」
「雨がポツポツしてきましたからねえ。ザザ降りなったらかなんし」
「事務の姉ちゃん、俺の顔見てなかなか傘貸さへんのなんでやねん」
「100パー、パクると思われてんでっしゃろ」
「百均で売っとるよなビニ傘なんかパクるかっちゅうねん」
下総はそう言い、手に持っている透明のビニール傘を得意気にクルクルと回した。
早く立ち去ればいいのに。早く過ぎ去ればいいのに。千恵は黙りこんでそんなことを願っていた。今は下総の顔が腹立たしくてしょうがない。自由奔放で豪放磊落な下総を、いつもは徒の幸せ者だと看過するが、今は無性に腹が立つ。
「あー……千恵。そのォ、アレや」
千恵の心中を露知らず、下総は額を指で掻きながら歯切れ悪く口をもごもごさせた。
「タマは?」
――やはり訊いてくるか。
千恵は、どれだけ婉曲しようと道草しようと、最終的にはそれを訊かれると分かっていた。結局のところ、下総が真珠を完全に頭の中から消し去ってしまうことなどできはしないのだから。
「オマエとおらんっちゅうことは、アイツ今日ひとりで帰ったんか?」
下総は顎の無精髭を触ったり腰に手を当てたり落ち着かない様子だった。
「アイツやっぱ怒っとったか? オマエに俺の文句何か言うてなかったか。今日ガッコ休んではないやろ」
下総が真珠を気にかけた台詞を吐くことが、千恵には腹立ちだった。
喧嘩しても言い合いをしてもやはり真珠のことを気にかけてしまうくせに、何処までも馬鹿正直に真珠が好きなくせに、どうして目を離すの。そんなに好きなくせに、どうしていざというときに守ってやれないの。好きなら隣にいなよって、好きなら一緒にいなよって、好きなら目を離さないでよ。誰も割りこめないくらい、誰も邪魔できないくらい、ピッタリと引っ付いていればいい。
そうすれば、真珠があのような目に遭うこともなかったのに。
「来てたよ。…………でも明日は来ない」
千恵は床に向かってポツリと声を零した。
下総は明日は来ないという意味が分からず「あ?」と聞き返した。
「真珠は来ないよ。明日も明後日も明明後日も。紗英にボコボコにされた顔、蔚留くんに見せられないから、治るまで絶対学校来ないよ!」
下総は目を見開き、眉をひん曲げた。
「な……あぁッ?」
この期に及んで尚、下総は間の抜けた声を漏らした。千恵は握り拳を下総の胸に思いっ切り叩きつけた。
「鈍感なのもいい加減にしてよ! 紗英がどんな女か本当にまだ何も気づいてないのッ!」
ドンッドンッ、千恵は何度も下総の胸を叩いた。
「バカなんじゃん⁉ ふざけんなッ! 何で蔚留くんの所為で真珠がボコボコにされなきゃなんないのよ!」
千恵は憤怒とか悲愴とか憐憫とか、自分の中では消化しきれない感情を拳に乗せて下総に叩きつけた。嗚咽のような気持ちの悪い熱を吐き出したくてしょうがなかった。
「蔚留くんは深淵で一番エライんでしょ! ケンカ強いんでしょ! バカでもキングでも何でもいいから、ちゃんと真珠を守ってよ!」
下総は彫像のように直立していた。思考停止して硬直したまま、烈火の如く泣き喚く千恵の握り拳に胸板を叩かれ、感情に心臓に鉄槌を打ちこまれた。
ドンッ!
胸を叩くのは千恵ではなく、棍棒かもしれない。
ドンッ!
胸に打ちこまれるのは感情ではなく、鉛の弾丸かもしれない。
ドンッ!
潰れる。胸が潰れる。心臓が、裂ける――――。
「クッソがァアーーーーッ‼」
バキィンッ!
下総は怒号を上げて傘を床に叩きつけた。千恵にも備前にも何も言わず目もくれず、一目散に走り出した。
外の世界は暗雲に覆われた宵闇。雷光だけが闇を裂く光明。轟く雷鳴が校舎中に響く。湿った匂いのする廊下を走り抜けてゆく下総の背中が、一瞬の雷光に映し出されてチラチラと点滅しているように見えた。
コレ、と備前が千恵に自分の分のビニール傘を差し出した。備前の目線は下総が走っていったほうへ向いていた。
千恵はうっすらと涙を浮かべた瞳で、抵抗もなくそれを受け取った。
「備前くんは……?」
千恵の声は、自分の声とは思えないくらい震えていた。先程あんなに泣いたのに、下総に感情をぶつけたらまた涙が溢れそうになり必死に堪える。
備前は千恵を振り返って励ますようにニコッと微笑んだ。
「俺、あの人についてかなあかんから。またまちゃんに、絶対仇取ったるよって伝えといて」
備前はそう言って下総の後を追って走り出した。
降雨と雷鳴に閉じこめられ、湿気で蒸し返す廊下の鬱積した空気。それを切り裂いて一陣の風が吹きこむように颯爽と。
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