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#19:Warrior
Red Hare 02
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「將麻連れてこいッ!」
大塔の命令に従い、赤菟馬たちは床に突っ伏している將麻を引き上げて立たせた。將麻は呻き声を漏らして意識を取り戻し、大塔の前へ引き摺り出された。
大塔は周囲の男たちに禮を床に押さえつけるように命じた。男たちは力尽くで禮の膝を折らせ、地面に臀を付けさせた。少女の膝頭と足首を地面に押さえつけて固定した。
嫌な予感がしたのは禮も杏も同じだった。禮は必死に足掻こうとしたが男たちの力は緩まず、杏は「禮!」と飛び出そうとしたが両腕を捕まえられてしまった。
大塔は副総長の手から金属バットを奪い取った。自分のすぐ傍に立たされた將麻の肩にドンッと金属バットの持ち手を突きつけた。將麻は意識が朦朧としており、何を突きつけられているのかよく分からなかった。
「將麻ァ。この女の足、折ったれや」
「⁉」
大塔の言葉は將麻の頭をハッキリさせた。しかし、耳を疑う言葉だった。意図も目的もまったく理解ができなかった。
大塔だけが愉快そうにクックッと肩を揺すった。足の骨を折られ泣き叫ぶ様を想像して痛快だと感じるくらいに、最早この少女に対して情けをかける余裕はなかった。心を挫けて赦しを乞うてくれば万々歳だ。
「……な、何でそんなこと……」
「今更でけへん言うんか。オマエかて今までさんざ荒菱館のモン何人もぶちのめして来たやろ」
「せっ、せやけどこれはッ……」
「コイツは近江のオンナや。近江に一番近いモンや。俺ァ分かっとる、コイツやられんのがあのダボには一番効くねん。せやけど、一応女やさかいボコすのは勘弁したって足の一本で大目に見たろ言うてんねん。それとも、えらいカワイイこの顔、二度と見れんくらいにグチャグチャにしたったほうがええかァ。俺はどっちでもええんやで。オマエ次第や、將麻」
「こんなこと、俺にはッ……!」
男たちは大塔の意を解して將麻から手を放した。
將麻は大塔から顔を背けた。差し出されたバットの柄を掴むことなどできようはずもなかった。無抵抗の女の骨を叩き折るなど良心が許さない。
大塔にも將麻の心中を察することは易かった。故に、弱っている彼を唆す台詞くらいはいくらでも浮かんできた。眼前に欲しいものをチラつかせてやればよい。彼が喉から手が出るほど欲しいものは大塔が持っている。
「その女の足折れば、今スグチームから抜けさしたる」
「!」
將麻が瞬時に顔色を変え、大塔は心のなかでほくそ笑んだ。人を思いどおりに従えるのは小気味よい。
大塔は將麻の手首を掴み上げ、金属バットの柄を握らせた。そして將麻の手の甲をポンッと叩いて手を離した。將麻の手は金属バットを取り落とさなかった。
「俺が決めることやからな。俺がええ言うたらええんや。せやさかい気持ちようパキーンとやってまえ、將麻ァ」
「お、俺は……」
「ショーやめぇッ! アンタそんなことできるヤツちゃうやろッ」
杏の声がぶち当たり、將麻はビクッと体を撥ねさせた。
大塔は腰に手を当ててフーッと息を吐いた。
「サチコ……やったっけ、オマエが孕ました女。サチコてまさか〝幸せな子〟て書くんちゃうやろな。オマエんち行ってそんなベターなってツッコんでええ?」
「頼む! サチコには何もせんでくれ! アイツは赤菟馬と何の関係もあれへん! フツーの女なんやッ」
「――――選べ。ここで妙な仏心出してその女助けるか、サチコとガキと幸せになるかや」
大塔は迷う余地のない選択のように放言したが、当たり前の罪悪感を有していれば容易に決せられるものではなかった。それは自身の幸福の為に他人を踏み台にする行為だ。それは目先の欲と引き替えに誇りを放棄する行為だ。
勿論、大塔はそれを分かった上で命じた。特攻隊長が自分勝手にチームを捨てて辞めたいなどというのは到底納得できることではない。どうしてもというなら、プライドをボロボロにしてやって、癇に障る《荒菱館の近江》の寵姫を挫けさせることができるなら、まあ腹に据えてやってもよい。
「ンなこと言われたかてこんなことでけるわけないやろ! こんなッ……!」
將麻ォ、と大塔は將麻の泣き言よりも一回り大きな声を出した。
「オマエ、誰にでも幸せになる権利はあるはずや、とか、こんな俺でも真っ当にやり直せる、とか考えて赤菟馬抜けようとしたんやろ。…………そのとおりやで。人間生まれてきたからには幸せになってあかんわけがあるかいな。せやけどタダで幸せになれるほど、世の中甘ォでけてへんねん。オマエみたいなクソが幸せになるには代償やら試練やら必要やねん」
お前の試練はソレだ、と大塔は地面に縫いつけられている禮を指差した。
「オマエがこれ以上痛い目に遭うわけでもオマエのオンナが泣くわけでもない。今までのことが帳消しになるにしちゃあ随分易しいモンや」
大塔の交換条件は悪魔の誘惑。悪魔に良心という魂を売れば、我が身は自由になり、恋しい女との幸福は約束されたも同然。苦痛も恐怖も嫌と言うほど味わった。このような地獄からは一刻も早く立ち去りたい。
自由が欲しい。幸福が欲しい。それは人間が誰もが願う根源的な願望ではないのか。その欲求に素直に生きるのは罪ではないはずだ。
「これで、俺は……自由に……」
將麻はゴクッと生唾を嚥下した。足を引き摺るようにしてようやっと一歩前に踏み出した。殴られすぎた所為で身体の自由が利きにくいのか、罪悪感が足を重たくさせているのか、もう分からない。斬首台への階段を踏み締める罪人のように一歩一歩確実に禮に近づいた。
一歩前に進む度に、金属バットの先端が地面に擦れてカラン、カラン、と鳴った。カラン、カラン、コロン。まるで空っぽの頭蓋のなかで石っころの如き脳味噌が転がっているようだ。
何も考えたくない。考えたら、自分がどれほど非道なことをしようとしているか気づいてしまう。自分が愚かで卑怯な臆病者だと認めてしまう。
將麻、將麻、將麻! と杏の引き留めようとする声が何度も聞こえた。きっと鬼の形相で此方を睨んでいるに違いない。そちらを見る勇気はなくて聞こえない振りをした。
將麻は禮の傍までやってきて足を停めた。
其処には、自分がこれまで犯してきた罪のすべてが横たわっているように思われた。大塔が言うように、これまで何人もの敵をぶちのめしてきた。命じられるが儘、是も非もなく駆け抜け、手段を選ばず戦った。赤菟馬の為には、仲間の為には、何でもやった。人に言いたくないことも、サチコに知られたくないことも、実はたくさん抱えている。そのすべてがこの一撃で帳消しになるのなら、確かに容易いことだ。大塔はまさに、將麻が欲していた言葉や免罪符をくれた。
横たえられてじっと動かない白い肉。その様はさながら天に捧げられる為に横たえられた供物。供物を捧げる目的は願いが聞き届けられる為だ。幸せになりたいという願いを。
將麻は、死神が大鎌を持ち上げるように金属バットを振り上げた。其処で腕が停まり、金属バットの切っ先がブルブルと震えた。
衆人が將麻を見詰めた。
誰も気づいていなかった。
この場には禍々しい瘴気が充満している。死神が、その髑髏の面を黒衣の下に隠し、錆びついた大鎌を肩に担ぎ上げ、傍観者面でこの場を俯瞰している。誰も、自分が死神に踊らされているマリオネットだと思いもしない。將麻の決断を、固唾を呑んで待ち構えているその心根は既に、死神の掌の上。
「やれ」
大塔は愉快そうに口の端を歪めて命じた。
――サチコ、お前は俺が絶対幸せにしたる。それは俺がやらなあかんことやから。俺以外じゃあかんことやから。
「スマン」
禮は將麻が何かを決心したことを感じ取った。息を止めて全身に力を入れた。
ガッキィインッ!
――禮の足。
ウチの所為で、禮の足がダメになってしまう。
杏は固く瞼を閉じてカタカタと震えていた。金属バットが振り下ろされた音が鼓膜を突いても目を開けて確認する勇気が無かった。
囚われて自由の利かない情況が恐ろしいのではない。自分が巻きこんだ事態によって禮が損なわれてしまうことが恐ろしかった。禮は、自分を救ってくれた存在は、完璧であるべきなのに。
「何やってんだテメエコラァーッ!」
唐突に男の怒声が上がり、杏は目を開いた。
カランッ、と金属バットが地面に倒れた。將麻の手から滑り落ちたそれはカラカラカラと転がった。
「でっ、でけへん……! アイツと……サチコとそう変わらん女の足ィ折るなんか、俺にはでけへん……ッ」
將麻は自分の足許に向かって叫んだ。
自分は臆病な弱虫だ。苦痛も恐怖も大嫌いだ。本当は、面と向かって総長に逆らうことなど恐くて堪らないし今すぐ逃げ出したい。このような意気地の無い心根を見透かした悪魔に、それさえすれば許してやると唆されても、それだけはできないことだった。それこそが許容できないことだった。
お前と幸せになる為に女の子を犠牲にしたのだと言って、あの子が笑ってくれるはずがない。あの子は、優しい俺を好きだと言った。
杏は將麻の手から金属バットが離れたのを見て、ほう、と大きな安堵の息を漏らした。
「お、おおきに……ショー」
安堵したのも束の間、大塔が突然動き出した。
大塔の性情をよく知っている者たちはピリリッと緊張した。大塔は酷く気分屋であり、烈火の如き猛々しさを持ちながら人一倍冷酷な性情だ。自分の思いどおりに事が運ばないとき、彼の苛立ちは歯止めが利かなくなる。
大塔は何も言わずドンッと將麻の身体を押し退けた。金属バットを拾い上げて高く掲げた。
將麻はハッとして大塔に手を伸ばしたが、突き飛ばされた分、間に合わなかった。
大塔がしようとしていることを悟り、杏の顔からサーッと血の気が引いた。
「大塔さんやめッ……!」
「禮ィーーッ!」
禮は今一度歯を食い縛った。騒然とする雰囲気、杏の悲鳴、大塔から向けられる突き刺すような敵意。迫り来る危険を察知しても回避する術は無かった。
ガッキィインッ!
大塔は禮に金属バットを振り下ろした。
雷に打たれたような衝撃と激痛が全身を駆け抜けた。
禮は腰を捩って顔を伏せていた。額をグリッと強く地面に押しつけた。額から脂汗が滲み出る。痛みを自身の内に押しこめる為に握り締めた拳がブルブルと震える。その震えが肩まで伝わり、全身が震える。
痛い、痛い、痛い。今すぐにでも叫びを上げて跳び上がりたいほどに痛い。
痛い、痛い、痛い。泣き叫んで喚き散らしてのたうち回ってしまいそう。
しかしながら、弱った様を晒すわけにはいかなかった。その一心で激痛に耐えた。武人としての矜恃がそうさせた。如何なる境地に追いこまれようとも決して敵に弱味は見せないこと、それが今の禮がやるべきことだった。
「ッ……‼」
「禮! 禮ッ! 禮ぃいッ!」
杏の心配そうな悲鳴が聞こえる。禮はそれに応じることはできなかった。口を開いたら痛いと零してしまうかもしれない。
「声も上げへんか……。流石は近江のオンナやなァ」
大塔は金属バットを肩に乗せた。薄ら笑みを浮かべ、感心したような台詞を口にしながら何ひとつ感じ入っていないことは声から明らかだった。
禮は口を突いて飛び出しそうな苦悶をどうにか押しこめ、呑みこみ、うっすらと目を開けて大塔を見上げた。
(アレが…………死神さん)
目を凝らすと大塔の背後に黒衣を纏った髑髏が見えた。肩に担いだ大鎌も見えた。その目玉や鼻のない顔面は薄ら笑っているようだった。まるで大塔に死神が乗り移ったようだった。大塔の苛烈な気性が死神を呼び寄せるのか、死神が大塔を助長するのかは分からない。どちらにせよ死神に魅入られた者は最早真面な人間ではいられない。人間の心を保ってはいられない。狂気と錯乱と衝動の赴くままに、破壊して儘にするだけ。
大塔は禮と目が合い「何やねん、その目」と呟いた。顔面から薄ら笑みが消えた。
「ほんま気に入らんなァ、その目付き。まァだそんな目ェでけるか。クソ生意気なええ子ちゃんが、けったくそ悪いのォ。も一本の足も、イッとこか」
「やめてぇ! ほんまにもうめてッ!」
大塔が再び金属バットを振りかぶり、杏はゾッとした。
涙を浮かべていることに自分では気づいていなかった。そのようなことに構っている余裕はなく、声の限りに叫んだ。心から禮を助けてくれと願った。
神様でなくてもいい、悪魔でもいい、誰でもいいから助けて。一生分の願いを使い果たしてもいい、自分の足を二本ともくれてやってもいいから助けて!
眼を閉じて暗闇のなかで叫びを上げた。次の瞬間、フワッと体が軽くなるのを感じた。錯覚などではない。男に掴まれて今の今までビクともしなかった腕がスルリと解放され、足が前へと出たのだ。神様が気紛れに救いを与えてくれたのかもしれないし、あとから悪魔に代償を要求されるのかもしれないし、本当に偶然、汗で手が滑っただけかもしれない。
杏は禮の足の上に覆い被さった。
金属バットは振り下ろされたあとだった。バキィインッ、と背中を打ちつけられ、杏は「ああッ‼」と苦痛の声を上げた。男の力で叩きつけられ、並の女の身体で平気なはずが無い。しかし、その場から退こうとはしなかった。
身を震わせながら苦痛に耐える杏の姿が痛々しく、禮は男たちに押さえられたまましきりに「アンちゃん!」と呼んだ。
將麻は険しい表情で大塔を睨んだ。
「何てことするんや大塔さん! 女人質にして、その挙げ句に女相手にバット振り回して! アンタ昔はそんなことッ……」
大塔がブゥンッと振り回した金属バットの切っ先が、將麻の顔面の真ん前で停まった。
「昔ィ? さも俺のこと何でも知っとる風な口利くなやボケ。チームも特攻隊長も、何もかんも放り投げようっちゅう裏切り者がよォ」
「今のアンタのことなんか分かりたないわ……っ」
將麻には最早、かつて自分の上に立つべきだと認めた男への敬意は無かった。
赤いテールランプのような導火の光を、フラッシュライトのような刹那の光を、かつては確かにこの男の中に見出した。しかし、今はもう何も見えない。真正面に対峙してよくよく見つめ合っても、もうこの男の目には真っ暗闇しかなかった。
大塔の命令に従い、赤菟馬たちは床に突っ伏している將麻を引き上げて立たせた。將麻は呻き声を漏らして意識を取り戻し、大塔の前へ引き摺り出された。
大塔は周囲の男たちに禮を床に押さえつけるように命じた。男たちは力尽くで禮の膝を折らせ、地面に臀を付けさせた。少女の膝頭と足首を地面に押さえつけて固定した。
嫌な予感がしたのは禮も杏も同じだった。禮は必死に足掻こうとしたが男たちの力は緩まず、杏は「禮!」と飛び出そうとしたが両腕を捕まえられてしまった。
大塔は副総長の手から金属バットを奪い取った。自分のすぐ傍に立たされた將麻の肩にドンッと金属バットの持ち手を突きつけた。將麻は意識が朦朧としており、何を突きつけられているのかよく分からなかった。
「將麻ァ。この女の足、折ったれや」
「⁉」
大塔の言葉は將麻の頭をハッキリさせた。しかし、耳を疑う言葉だった。意図も目的もまったく理解ができなかった。
大塔だけが愉快そうにクックッと肩を揺すった。足の骨を折られ泣き叫ぶ様を想像して痛快だと感じるくらいに、最早この少女に対して情けをかける余裕はなかった。心を挫けて赦しを乞うてくれば万々歳だ。
「……な、何でそんなこと……」
「今更でけへん言うんか。オマエかて今までさんざ荒菱館のモン何人もぶちのめして来たやろ」
「せっ、せやけどこれはッ……」
「コイツは近江のオンナや。近江に一番近いモンや。俺ァ分かっとる、コイツやられんのがあのダボには一番効くねん。せやけど、一応女やさかいボコすのは勘弁したって足の一本で大目に見たろ言うてんねん。それとも、えらいカワイイこの顔、二度と見れんくらいにグチャグチャにしたったほうがええかァ。俺はどっちでもええんやで。オマエ次第や、將麻」
「こんなこと、俺にはッ……!」
男たちは大塔の意を解して將麻から手を放した。
將麻は大塔から顔を背けた。差し出されたバットの柄を掴むことなどできようはずもなかった。無抵抗の女の骨を叩き折るなど良心が許さない。
大塔にも將麻の心中を察することは易かった。故に、弱っている彼を唆す台詞くらいはいくらでも浮かんできた。眼前に欲しいものをチラつかせてやればよい。彼が喉から手が出るほど欲しいものは大塔が持っている。
「その女の足折れば、今スグチームから抜けさしたる」
「!」
將麻が瞬時に顔色を変え、大塔は心のなかでほくそ笑んだ。人を思いどおりに従えるのは小気味よい。
大塔は將麻の手首を掴み上げ、金属バットの柄を握らせた。そして將麻の手の甲をポンッと叩いて手を離した。將麻の手は金属バットを取り落とさなかった。
「俺が決めることやからな。俺がええ言うたらええんや。せやさかい気持ちようパキーンとやってまえ、將麻ァ」
「お、俺は……」
「ショーやめぇッ! アンタそんなことできるヤツちゃうやろッ」
杏の声がぶち当たり、將麻はビクッと体を撥ねさせた。
大塔は腰に手を当ててフーッと息を吐いた。
「サチコ……やったっけ、オマエが孕ました女。サチコてまさか〝幸せな子〟て書くんちゃうやろな。オマエんち行ってそんなベターなってツッコんでええ?」
「頼む! サチコには何もせんでくれ! アイツは赤菟馬と何の関係もあれへん! フツーの女なんやッ」
「――――選べ。ここで妙な仏心出してその女助けるか、サチコとガキと幸せになるかや」
大塔は迷う余地のない選択のように放言したが、当たり前の罪悪感を有していれば容易に決せられるものではなかった。それは自身の幸福の為に他人を踏み台にする行為だ。それは目先の欲と引き替えに誇りを放棄する行為だ。
勿論、大塔はそれを分かった上で命じた。特攻隊長が自分勝手にチームを捨てて辞めたいなどというのは到底納得できることではない。どうしてもというなら、プライドをボロボロにしてやって、癇に障る《荒菱館の近江》の寵姫を挫けさせることができるなら、まあ腹に据えてやってもよい。
「ンなこと言われたかてこんなことでけるわけないやろ! こんなッ……!」
將麻ォ、と大塔は將麻の泣き言よりも一回り大きな声を出した。
「オマエ、誰にでも幸せになる権利はあるはずや、とか、こんな俺でも真っ当にやり直せる、とか考えて赤菟馬抜けようとしたんやろ。…………そのとおりやで。人間生まれてきたからには幸せになってあかんわけがあるかいな。せやけどタダで幸せになれるほど、世の中甘ォでけてへんねん。オマエみたいなクソが幸せになるには代償やら試練やら必要やねん」
お前の試練はソレだ、と大塔は地面に縫いつけられている禮を指差した。
「オマエがこれ以上痛い目に遭うわけでもオマエのオンナが泣くわけでもない。今までのことが帳消しになるにしちゃあ随分易しいモンや」
大塔の交換条件は悪魔の誘惑。悪魔に良心という魂を売れば、我が身は自由になり、恋しい女との幸福は約束されたも同然。苦痛も恐怖も嫌と言うほど味わった。このような地獄からは一刻も早く立ち去りたい。
自由が欲しい。幸福が欲しい。それは人間が誰もが願う根源的な願望ではないのか。その欲求に素直に生きるのは罪ではないはずだ。
「これで、俺は……自由に……」
將麻はゴクッと生唾を嚥下した。足を引き摺るようにしてようやっと一歩前に踏み出した。殴られすぎた所為で身体の自由が利きにくいのか、罪悪感が足を重たくさせているのか、もう分からない。斬首台への階段を踏み締める罪人のように一歩一歩確実に禮に近づいた。
一歩前に進む度に、金属バットの先端が地面に擦れてカラン、カラン、と鳴った。カラン、カラン、コロン。まるで空っぽの頭蓋のなかで石っころの如き脳味噌が転がっているようだ。
何も考えたくない。考えたら、自分がどれほど非道なことをしようとしているか気づいてしまう。自分が愚かで卑怯な臆病者だと認めてしまう。
將麻、將麻、將麻! と杏の引き留めようとする声が何度も聞こえた。きっと鬼の形相で此方を睨んでいるに違いない。そちらを見る勇気はなくて聞こえない振りをした。
將麻は禮の傍までやってきて足を停めた。
其処には、自分がこれまで犯してきた罪のすべてが横たわっているように思われた。大塔が言うように、これまで何人もの敵をぶちのめしてきた。命じられるが儘、是も非もなく駆け抜け、手段を選ばず戦った。赤菟馬の為には、仲間の為には、何でもやった。人に言いたくないことも、サチコに知られたくないことも、実はたくさん抱えている。そのすべてがこの一撃で帳消しになるのなら、確かに容易いことだ。大塔はまさに、將麻が欲していた言葉や免罪符をくれた。
横たえられてじっと動かない白い肉。その様はさながら天に捧げられる為に横たえられた供物。供物を捧げる目的は願いが聞き届けられる為だ。幸せになりたいという願いを。
將麻は、死神が大鎌を持ち上げるように金属バットを振り上げた。其処で腕が停まり、金属バットの切っ先がブルブルと震えた。
衆人が將麻を見詰めた。
誰も気づいていなかった。
この場には禍々しい瘴気が充満している。死神が、その髑髏の面を黒衣の下に隠し、錆びついた大鎌を肩に担ぎ上げ、傍観者面でこの場を俯瞰している。誰も、自分が死神に踊らされているマリオネットだと思いもしない。將麻の決断を、固唾を呑んで待ち構えているその心根は既に、死神の掌の上。
「やれ」
大塔は愉快そうに口の端を歪めて命じた。
――サチコ、お前は俺が絶対幸せにしたる。それは俺がやらなあかんことやから。俺以外じゃあかんことやから。
「スマン」
禮は將麻が何かを決心したことを感じ取った。息を止めて全身に力を入れた。
ガッキィインッ!
――禮の足。
ウチの所為で、禮の足がダメになってしまう。
杏は固く瞼を閉じてカタカタと震えていた。金属バットが振り下ろされた音が鼓膜を突いても目を開けて確認する勇気が無かった。
囚われて自由の利かない情況が恐ろしいのではない。自分が巻きこんだ事態によって禮が損なわれてしまうことが恐ろしかった。禮は、自分を救ってくれた存在は、完璧であるべきなのに。
「何やってんだテメエコラァーッ!」
唐突に男の怒声が上がり、杏は目を開いた。
カランッ、と金属バットが地面に倒れた。將麻の手から滑り落ちたそれはカラカラカラと転がった。
「でっ、でけへん……! アイツと……サチコとそう変わらん女の足ィ折るなんか、俺にはでけへん……ッ」
將麻は自分の足許に向かって叫んだ。
自分は臆病な弱虫だ。苦痛も恐怖も大嫌いだ。本当は、面と向かって総長に逆らうことなど恐くて堪らないし今すぐ逃げ出したい。このような意気地の無い心根を見透かした悪魔に、それさえすれば許してやると唆されても、それだけはできないことだった。それこそが許容できないことだった。
お前と幸せになる為に女の子を犠牲にしたのだと言って、あの子が笑ってくれるはずがない。あの子は、優しい俺を好きだと言った。
杏は將麻の手から金属バットが離れたのを見て、ほう、と大きな安堵の息を漏らした。
「お、おおきに……ショー」
安堵したのも束の間、大塔が突然動き出した。
大塔の性情をよく知っている者たちはピリリッと緊張した。大塔は酷く気分屋であり、烈火の如き猛々しさを持ちながら人一倍冷酷な性情だ。自分の思いどおりに事が運ばないとき、彼の苛立ちは歯止めが利かなくなる。
大塔は何も言わずドンッと將麻の身体を押し退けた。金属バットを拾い上げて高く掲げた。
將麻はハッとして大塔に手を伸ばしたが、突き飛ばされた分、間に合わなかった。
大塔がしようとしていることを悟り、杏の顔からサーッと血の気が引いた。
「大塔さんやめッ……!」
「禮ィーーッ!」
禮は今一度歯を食い縛った。騒然とする雰囲気、杏の悲鳴、大塔から向けられる突き刺すような敵意。迫り来る危険を察知しても回避する術は無かった。
ガッキィインッ!
大塔は禮に金属バットを振り下ろした。
雷に打たれたような衝撃と激痛が全身を駆け抜けた。
禮は腰を捩って顔を伏せていた。額をグリッと強く地面に押しつけた。額から脂汗が滲み出る。痛みを自身の内に押しこめる為に握り締めた拳がブルブルと震える。その震えが肩まで伝わり、全身が震える。
痛い、痛い、痛い。今すぐにでも叫びを上げて跳び上がりたいほどに痛い。
痛い、痛い、痛い。泣き叫んで喚き散らしてのたうち回ってしまいそう。
しかしながら、弱った様を晒すわけにはいかなかった。その一心で激痛に耐えた。武人としての矜恃がそうさせた。如何なる境地に追いこまれようとも決して敵に弱味は見せないこと、それが今の禮がやるべきことだった。
「ッ……‼」
「禮! 禮ッ! 禮ぃいッ!」
杏の心配そうな悲鳴が聞こえる。禮はそれに応じることはできなかった。口を開いたら痛いと零してしまうかもしれない。
「声も上げへんか……。流石は近江のオンナやなァ」
大塔は金属バットを肩に乗せた。薄ら笑みを浮かべ、感心したような台詞を口にしながら何ひとつ感じ入っていないことは声から明らかだった。
禮は口を突いて飛び出しそうな苦悶をどうにか押しこめ、呑みこみ、うっすらと目を開けて大塔を見上げた。
(アレが…………死神さん)
目を凝らすと大塔の背後に黒衣を纏った髑髏が見えた。肩に担いだ大鎌も見えた。その目玉や鼻のない顔面は薄ら笑っているようだった。まるで大塔に死神が乗り移ったようだった。大塔の苛烈な気性が死神を呼び寄せるのか、死神が大塔を助長するのかは分からない。どちらにせよ死神に魅入られた者は最早真面な人間ではいられない。人間の心を保ってはいられない。狂気と錯乱と衝動の赴くままに、破壊して儘にするだけ。
大塔は禮と目が合い「何やねん、その目」と呟いた。顔面から薄ら笑みが消えた。
「ほんま気に入らんなァ、その目付き。まァだそんな目ェでけるか。クソ生意気なええ子ちゃんが、けったくそ悪いのォ。も一本の足も、イッとこか」
「やめてぇ! ほんまにもうめてッ!」
大塔が再び金属バットを振りかぶり、杏はゾッとした。
涙を浮かべていることに自分では気づいていなかった。そのようなことに構っている余裕はなく、声の限りに叫んだ。心から禮を助けてくれと願った。
神様でなくてもいい、悪魔でもいい、誰でもいいから助けて。一生分の願いを使い果たしてもいい、自分の足を二本ともくれてやってもいいから助けて!
眼を閉じて暗闇のなかで叫びを上げた。次の瞬間、フワッと体が軽くなるのを感じた。錯覚などではない。男に掴まれて今の今までビクともしなかった腕がスルリと解放され、足が前へと出たのだ。神様が気紛れに救いを与えてくれたのかもしれないし、あとから悪魔に代償を要求されるのかもしれないし、本当に偶然、汗で手が滑っただけかもしれない。
杏は禮の足の上に覆い被さった。
金属バットは振り下ろされたあとだった。バキィインッ、と背中を打ちつけられ、杏は「ああッ‼」と苦痛の声を上げた。男の力で叩きつけられ、並の女の身体で平気なはずが無い。しかし、その場から退こうとはしなかった。
身を震わせながら苦痛に耐える杏の姿が痛々しく、禮は男たちに押さえられたまましきりに「アンちゃん!」と呼んだ。
將麻は険しい表情で大塔を睨んだ。
「何てことするんや大塔さん! 女人質にして、その挙げ句に女相手にバット振り回して! アンタ昔はそんなことッ……」
大塔がブゥンッと振り回した金属バットの切っ先が、將麻の顔面の真ん前で停まった。
「昔ィ? さも俺のこと何でも知っとる風な口利くなやボケ。チームも特攻隊長も、何もかんも放り投げようっちゅう裏切り者がよォ」
「今のアンタのことなんか分かりたないわ……っ」
將麻には最早、かつて自分の上に立つべきだと認めた男への敬意は無かった。
赤いテールランプのような導火の光を、フラッシュライトのような刹那の光を、かつては確かにこの男の中に見出した。しかし、今はもう何も見えない。真正面に対峙してよくよく見つめ合っても、もうこの男の目には真っ暗闇しかなかった。
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