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#19:Warrior
Undefeated myth is unidentified 01
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「あぁ? 俺を倒す?」
大塔はジリッと爪先の向きを禮へと方向転換した。
勿論、聞き捨てならない台詞だ。冗談や負け惜しみとして聞き流すことはできなかった。
「オマエがか? オマエがこの俺をぶっ潰すっちゅうことか。寝惚けとったらあかんぞコラ。もっぺん言うてみろやクソジャリ」
大塔の敵意は剥き出しだった。物事が一向に思いどおりに進まないことは彼を苛立たせた。平静を取り繕う余裕などはとうになかった。
小心者の將麻が面と向かって離反を表明したことにも、裏切り者であるはずの杏が禮を庇い果せたことにも、せっかく人質を取ってまで嗾けたのに《荒菱館の近江》が姿を現さなかったことにも、手傷を負った禮が刃向かってきたことにも、すべてに腹が立つ。
そうやよ、と禮はハッキリと答えた。禮は、大塔が今にも噴火しそうなほど苛立ちを蓄積していることは察しているが、臆することはなかった。
「アンタは、ウチが倒しとかなあかんヤツやから」
大塔は渋撥を憎み、禮を忌み嫌い、敵と目している。最悪なことに大塔は気分屋の癖に執念深い質であるらしい。禮を渋撥の弱味だと認識しているなら、それを根刮ぎ否定しない限り、何度でも同じことを繰り返すに違いない。
禮はもうこれ以上、大切なものを危険に晒したくはなかった。独り善がりの怨念になど付き合いきれない。自分が戦うことで災厄を振り払えるなら、渋撥も杏も何もかもを守れるならば、迷うことなくそうする。
「ジャリがァ。デカイ口叩きくさって……。その目ぇ抉ったろか」
大塔の額にはうっすらと青筋が浮いていた。
彼は彼で最早我慢の限界だった。彼としては、捕らえてすぐ殴ったり引き摺り回したりしないだけでも情けをかけてやっているつもりだった。このような生意気な口をきかれるくらいなら、女だからと遠慮などせず二度と口がきけないようにグチャグチャにしてやればよかった。
キラキラと、キラキラと、高潔を誇る檳榔子黒の瞳。その瞳に見詰められるだけで攻撃されている気分だ。詰られている気分だ。侮られている気分だ。取るに足らない存在だと、貶されている気分だ。とにかく最低最悪の気分だ。二度とそのような目を向けることができないようにグチャグチャにぶっ潰してやる。いまだかつて覚えのない加虐心が彼のなかを渦巻いた。
ドバッキャアッ!
対峙する禮と大塔の間に、副総長が飛びこんできた。何らかの勢いに吹き飛ばされ、踏み留まれず地面の上に背中から転げた。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
副総長を吹き飛ばしたのは大鰐だった。
顔面には殴られた痕跡、肩で息をしながら禮と杏のほうへ近づいた。颯爽と救出したかったが、20数名対4人では無傷というわけにはいかなかった。
大鰐は、座りこんだ体勢の杏の二の腕を掴んだ。杏は呆然と大鰐を見上げた。
「へー……アンタ、何でこんなトコに……」
「120円」
ぶっきらぼうで簡潔すぎる回答では意味が伝わるはずがなかった。
大鰐はチッと舌打ち、困惑している杏を助け起こした。
「リアルゴールドの礼や」
大鰐は、杏の二の腕が微かに震えていることに気づいた。杏が泣いているのではないかと思って振り向きながら手を放した。勝ち気で生意気で男勝りでかわいげがなくとも、泣かれてしまえば女以外の何物でもなく、彼に為す術はない。
「たったそれだけの為に赤菟馬とケンカして……アンタ、アホちゃう」
「せっかく助けに来たったのにアホ言うな」
杏の声は震えていたし、今にも涙が零れそうに顔面を顰めてはいたが、泣いてはいなかった。
大鰐は内心ホッとした。
「アンズのクセになに泣きそなツラしてんねん」
「こんだけの人数相手に乗りこんできて……どうするつもりなん」
泣きそうと指摘されるのは杏としても不覚だ。目尻をグイッと拭った。
「どうもこうもあるか。全員ぶっ倒してオマエら連れて帰ったらええだけや」
「アンタ簡単に言うてるけどなあっ……」
「簡単ちゃうやろけど、オマエら攫われてシカトしたら寝覚め悪い。それよりはマシや。それに、何もせんかったら相手が赤菟馬やさかいイモ引いたみたいやろが」
大鰐は禮のほうへ目線を向けた。
「へーちゃん。アンちゃんのこと、お願い」
禮は大鰐ならそうしてくれると信じていた。
その台詞や立ち居姿があまりにも勇ましかったから、俺はお前も助けに来たんだぞ、と大鰐は声が出そうになった。
対峙する敵よりも小柄な身の丈、華奢な肩幅、白く細い手足、折れてしまいそうなほど可憐な少女の容姿には、到底似付かわしくなく勇ましい。
「アンちゃんのリボンも貸してくれへん?」
禮は自分の制服のリボンを解いて襟の下から抜き取った。それを自分の拳にぐるぐると巻きながら杏に言った。
「禮。アンタまさか、ほんまに大塔とやるつもり……? そんなこともうええんやって。へーたちと一緒にこっから逃げよ」
杏は禮の半袖を引っ張った。
「いま逃げて助かっても、次もどうにかなるとは限らへん」
「次って何の話なん」
「あの人は、ウチとハッちゃんにいっつも悪いことを連れてくる」
禮にとって大塔轍弥は厄災の使者だ。死神を背負ってやってくる。死神を引き寄せて、死神に魅入られて。いつも大切なものを危ぶむ。
何故今日なのか、何故杏を巻きこんだのか、そのようなことは神様か死神の仕業であり理由など分からない。厄災を祓うのは、今日この時なのだと、禮は覚悟を決めた。
「ごめんね、アンちゃん。巻きこんだのはウチのほうなんよ。こんなことになったのは、ウチの所為」
「ウチは何があっても禮の所為やなんて絶対思わへんッ」
杏は、本当は禮の言わんとしていること、どのようなことを思い出しているのか、何も分からなかったが、禮を否定することだけはしたくなかった。禮がそうすると決めてしまったならば肯定してついてゆくしかない。禮は、杏の救い、ゆくべきその先を指し示す光だから。
杏は自分の胸元に手をやってリボンを解いて抜き取った。それは禮に賛同するということ。大鰐は「オイ」と声をかけたが、杏は抜き取ったリボンを禮に渡してしまった。
「おおきに。アンちゃん」
禮の笑顔に、心配しないでと言われた気がした。
するに決まっている。本当は今も迷っているし、不安しかない。それでも杏には禮を停める手段が無かった。
禮は杏から受け取ったリボンを拳に巻きつけ、ギュッギュッと緩まないようにきつく締めた。
片足を満足に動かすことができず、体格差は歴然、容赦や慈悲は一切無い。しかし、苦境や大塔自身に対する恐怖は無かった。経験が染みこんだ脳味噌、武技が刻みこまれた肉体、体内を流れる血脈、連綿と武の伝統が受け継がれる遺伝子は、迷い無く拳を握らせた。
戦士の遺伝子――――戦うことを宿命づけられた存在。
「単純にムカツク奴はぎょうさん見てきたけどな、オマエほど腹の底からムカツク女は初めてや。ほんまに近江抜きで俺に勝てる気でおんのやろ。負ける気なんざ全然あれへんっちゅうツラしよって」
禮は大塔を見据え、手足を身構えて腰をやや落とした。考えずとも身体が動く。それは最早呼吸をするように自然なことだった。
大塔は、禮の自分を恐れない毅然とした態度にも目付きにも臓腑が煮えたぎる思いだった。相手が自分よりもいくらも年下の少女であるとか、小柄で脆弱であるとかなどどうでもよい。そうまでして逆らうならば、恐怖させ、平伏させ、グチャグチャにしてやらねば気が済まない。
「近江のオンナが如きが調子に乗んなボケェエッ‼」
大塔は野獣のような咆哮を上げた。
禮より一歩も二歩も後方にいる大鰐や杏でさえ一瞬ビリッと電気が走った。大塔の咆哮と共に押し寄せた狂気じみた憤慨に気圧された。そして、強く思い出した。彼はただ暴れるだけの狂人などではなく、この街の勢力図の一角・赤菟馬を率いる男なのだと。
大塔は早足で禮に近づいていった。
スタンッタン、タンッ、と禮はローファーでリズミカルなステップを刻みながら大塔との距離を詰めた。
大塔は禮に接触する頃には駆けていた。拳を握って振りかぶった。標的の端正な顔面は手を伸ばせば一瞬で届く距離にあった。
フッ、と禮の姿が下方向へと横切るように視界からフレームアウトした。大塔は反射的に標的を追って視線を下方へ向けた。
その次の瞬間だった。
ドバッキャァアッ!
鼻骨と頬骨に硬い物がぶち当たった。
「ンなッ……⁉」
大塔は身を仰け反って後方に後退った。強烈な衝撃に足を取られ、地面に倒れこんだ。
衝撃は〝上〟から降ってきた。禮が視界から消え去った下方からではなく上方からだ。防ぎようがなかった。
禮は倒れこむようにして身体を前方に投げ出し、地面に両掌を付いて下半身を持ち上げ、やや体を捻りながら前転をする要領で遠心力と重力をたっぷり乗せて大塔の顔面に踵をめり込ませたのだ。
「ガッ、カハッ! ぐっ、クソがッ」
大塔は踵を喰らった顔面を手で押さえ、禮を睨んだ。
(手に巻いて見せたんはそっちに気を逸らさす為のフェイクか! このクソ女、あの脚でケリ決めてきよった!)
禮も地面に両膝を突いていた。立ち上がるのにも激痛が走る脚では攻撃を喰らわせるのが精いっぱいであり、華麗に振る舞うことなどできなかった。
(やられたのは利き足ちゃうけど、流石に踏ん張りきけへんっ……)
ぼとっぼたぼたぼた、と顔を押さえる大塔の指の隙間から鼻血が玉となって溢れ出た。手の甲でグイッと鼻血を拭い、禮よりも先に立ち上がった。足許がややふらつきながら禮を睨んだ。
「クソックソックソッ! このクソ女が、俺の顔に……ッ!」
禮も膝に力を入れて立ち上がった。地面を踏みしめる度に痛みが走り、目に涙が浮かびそうなのを堪え、再び大塔に対して身構えた。
(100%の威力ちゃうけど、スピードもタイミングも悪ゥはあれへんかった。結構効いたと思うケド、こん人見た目より頑丈やなあ。もう足にも警戒してくるやろし、こっからがほんまの勝負……)
大塔は拳を握って禮に向かって駆け出した。
「片足やったったぐらいじゃ足りんようやな! もう一本もきっちりバッキバキにしたるさかい覚悟せえやクソドブスコラァッ‼」
大塔は何度か拳を突き出し、禮は悉く受け流した。
しかしながら、それは容易なことではなかった。脚が万全であったなら触れることさえさせない。現状の身のこなしでは躱しきることができず、受けて捌くのが精いっぱいだった。
脚の負傷の影響は大きいが当然にスタミナの問題もある。禮は大塔よりも一回りも小柄だ。勝負が長引けば長引くほど不利になる。
(受けてばっかやったらあかん。ウチの体のほうが保てへん)
パンッ、と禮は大塔のパンチを受けて逸らし、一呼吸で間合いを詰めた。自身が攻撃するに最適のポジショニング。爪先が地を離れ、長くしなやかな白い脚が撓った。
(来たか!)
それは大塔が狙い定めていた瞬間だった。力任せに拳を振り回しながらも禮の脚に意識を残していた。
(お前の狙いはソレやろ。足やられた言うても結局お前にはソレしかあれへん。その足捕まえて叩き折って二度と使いモンにならんようしたる。クソ女が!)
大塔の視界の端で禮の脚が高速で地を這う。待っていましたとニヤッと笑みを零した。
ピタ、と禮の脚は、大塔が捕まえようと身構えていた腕の少し手前で停止した。大塔は完全に虚を突かれた。狙い澄ましているのを読まれ、裏をかかれた。
本当に狙い澄ましていたのは禮のほうだ。手に巻いた紅いネクタイをグッと握り締めて拳を作った。
ガギィインッ!
禮は可能な限りの全身の体重を乗せ、振り絞れるだけの腕力で以て、大塔の顔面に拳を叩きつけた。
大塔は上半身を大きく後方に仰け反らせ、数歩後退った。
「このクソジャリ! 今度は蹴りがフェイクッ……⁉」
禮は大塔の胸座をガッと両手で捕まえた。予想外の一撃を喰らった大塔は、まだ視界を火花が散っている。
禮は大塔を力いっぱい自分のほうへ引き寄せた。額より少し上の部分を、渾身の力で大塔の鼻っ柱に叩きつけた。
ズガァアンッ!
「ぶはァッ‼」
大塔はジリッと爪先の向きを禮へと方向転換した。
勿論、聞き捨てならない台詞だ。冗談や負け惜しみとして聞き流すことはできなかった。
「オマエがか? オマエがこの俺をぶっ潰すっちゅうことか。寝惚けとったらあかんぞコラ。もっぺん言うてみろやクソジャリ」
大塔の敵意は剥き出しだった。物事が一向に思いどおりに進まないことは彼を苛立たせた。平静を取り繕う余裕などはとうになかった。
小心者の將麻が面と向かって離反を表明したことにも、裏切り者であるはずの杏が禮を庇い果せたことにも、せっかく人質を取ってまで嗾けたのに《荒菱館の近江》が姿を現さなかったことにも、手傷を負った禮が刃向かってきたことにも、すべてに腹が立つ。
そうやよ、と禮はハッキリと答えた。禮は、大塔が今にも噴火しそうなほど苛立ちを蓄積していることは察しているが、臆することはなかった。
「アンタは、ウチが倒しとかなあかんヤツやから」
大塔は渋撥を憎み、禮を忌み嫌い、敵と目している。最悪なことに大塔は気分屋の癖に執念深い質であるらしい。禮を渋撥の弱味だと認識しているなら、それを根刮ぎ否定しない限り、何度でも同じことを繰り返すに違いない。
禮はもうこれ以上、大切なものを危険に晒したくはなかった。独り善がりの怨念になど付き合いきれない。自分が戦うことで災厄を振り払えるなら、渋撥も杏も何もかもを守れるならば、迷うことなくそうする。
「ジャリがァ。デカイ口叩きくさって……。その目ぇ抉ったろか」
大塔の額にはうっすらと青筋が浮いていた。
彼は彼で最早我慢の限界だった。彼としては、捕らえてすぐ殴ったり引き摺り回したりしないだけでも情けをかけてやっているつもりだった。このような生意気な口をきかれるくらいなら、女だからと遠慮などせず二度と口がきけないようにグチャグチャにしてやればよかった。
キラキラと、キラキラと、高潔を誇る檳榔子黒の瞳。その瞳に見詰められるだけで攻撃されている気分だ。詰られている気分だ。侮られている気分だ。取るに足らない存在だと、貶されている気分だ。とにかく最低最悪の気分だ。二度とそのような目を向けることができないようにグチャグチャにぶっ潰してやる。いまだかつて覚えのない加虐心が彼のなかを渦巻いた。
ドバッキャアッ!
対峙する禮と大塔の間に、副総長が飛びこんできた。何らかの勢いに吹き飛ばされ、踏み留まれず地面の上に背中から転げた。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
副総長を吹き飛ばしたのは大鰐だった。
顔面には殴られた痕跡、肩で息をしながら禮と杏のほうへ近づいた。颯爽と救出したかったが、20数名対4人では無傷というわけにはいかなかった。
大鰐は、座りこんだ体勢の杏の二の腕を掴んだ。杏は呆然と大鰐を見上げた。
「へー……アンタ、何でこんなトコに……」
「120円」
ぶっきらぼうで簡潔すぎる回答では意味が伝わるはずがなかった。
大鰐はチッと舌打ち、困惑している杏を助け起こした。
「リアルゴールドの礼や」
大鰐は、杏の二の腕が微かに震えていることに気づいた。杏が泣いているのではないかと思って振り向きながら手を放した。勝ち気で生意気で男勝りでかわいげがなくとも、泣かれてしまえば女以外の何物でもなく、彼に為す術はない。
「たったそれだけの為に赤菟馬とケンカして……アンタ、アホちゃう」
「せっかく助けに来たったのにアホ言うな」
杏の声は震えていたし、今にも涙が零れそうに顔面を顰めてはいたが、泣いてはいなかった。
大鰐は内心ホッとした。
「アンズのクセになに泣きそなツラしてんねん」
「こんだけの人数相手に乗りこんできて……どうするつもりなん」
泣きそうと指摘されるのは杏としても不覚だ。目尻をグイッと拭った。
「どうもこうもあるか。全員ぶっ倒してオマエら連れて帰ったらええだけや」
「アンタ簡単に言うてるけどなあっ……」
「簡単ちゃうやろけど、オマエら攫われてシカトしたら寝覚め悪い。それよりはマシや。それに、何もせんかったら相手が赤菟馬やさかいイモ引いたみたいやろが」
大鰐は禮のほうへ目線を向けた。
「へーちゃん。アンちゃんのこと、お願い」
禮は大鰐ならそうしてくれると信じていた。
その台詞や立ち居姿があまりにも勇ましかったから、俺はお前も助けに来たんだぞ、と大鰐は声が出そうになった。
対峙する敵よりも小柄な身の丈、華奢な肩幅、白く細い手足、折れてしまいそうなほど可憐な少女の容姿には、到底似付かわしくなく勇ましい。
「アンちゃんのリボンも貸してくれへん?」
禮は自分の制服のリボンを解いて襟の下から抜き取った。それを自分の拳にぐるぐると巻きながら杏に言った。
「禮。アンタまさか、ほんまに大塔とやるつもり……? そんなこともうええんやって。へーたちと一緒にこっから逃げよ」
杏は禮の半袖を引っ張った。
「いま逃げて助かっても、次もどうにかなるとは限らへん」
「次って何の話なん」
「あの人は、ウチとハッちゃんにいっつも悪いことを連れてくる」
禮にとって大塔轍弥は厄災の使者だ。死神を背負ってやってくる。死神を引き寄せて、死神に魅入られて。いつも大切なものを危ぶむ。
何故今日なのか、何故杏を巻きこんだのか、そのようなことは神様か死神の仕業であり理由など分からない。厄災を祓うのは、今日この時なのだと、禮は覚悟を決めた。
「ごめんね、アンちゃん。巻きこんだのはウチのほうなんよ。こんなことになったのは、ウチの所為」
「ウチは何があっても禮の所為やなんて絶対思わへんッ」
杏は、本当は禮の言わんとしていること、どのようなことを思い出しているのか、何も分からなかったが、禮を否定することだけはしたくなかった。禮がそうすると決めてしまったならば肯定してついてゆくしかない。禮は、杏の救い、ゆくべきその先を指し示す光だから。
杏は自分の胸元に手をやってリボンを解いて抜き取った。それは禮に賛同するということ。大鰐は「オイ」と声をかけたが、杏は抜き取ったリボンを禮に渡してしまった。
「おおきに。アンちゃん」
禮の笑顔に、心配しないでと言われた気がした。
するに決まっている。本当は今も迷っているし、不安しかない。それでも杏には禮を停める手段が無かった。
禮は杏から受け取ったリボンを拳に巻きつけ、ギュッギュッと緩まないようにきつく締めた。
片足を満足に動かすことができず、体格差は歴然、容赦や慈悲は一切無い。しかし、苦境や大塔自身に対する恐怖は無かった。経験が染みこんだ脳味噌、武技が刻みこまれた肉体、体内を流れる血脈、連綿と武の伝統が受け継がれる遺伝子は、迷い無く拳を握らせた。
戦士の遺伝子――――戦うことを宿命づけられた存在。
「単純にムカツク奴はぎょうさん見てきたけどな、オマエほど腹の底からムカツク女は初めてや。ほんまに近江抜きで俺に勝てる気でおんのやろ。負ける気なんざ全然あれへんっちゅうツラしよって」
禮は大塔を見据え、手足を身構えて腰をやや落とした。考えずとも身体が動く。それは最早呼吸をするように自然なことだった。
大塔は、禮の自分を恐れない毅然とした態度にも目付きにも臓腑が煮えたぎる思いだった。相手が自分よりもいくらも年下の少女であるとか、小柄で脆弱であるとかなどどうでもよい。そうまでして逆らうならば、恐怖させ、平伏させ、グチャグチャにしてやらねば気が済まない。
「近江のオンナが如きが調子に乗んなボケェエッ‼」
大塔は野獣のような咆哮を上げた。
禮より一歩も二歩も後方にいる大鰐や杏でさえ一瞬ビリッと電気が走った。大塔の咆哮と共に押し寄せた狂気じみた憤慨に気圧された。そして、強く思い出した。彼はただ暴れるだけの狂人などではなく、この街の勢力図の一角・赤菟馬を率いる男なのだと。
大塔は早足で禮に近づいていった。
スタンッタン、タンッ、と禮はローファーでリズミカルなステップを刻みながら大塔との距離を詰めた。
大塔は禮に接触する頃には駆けていた。拳を握って振りかぶった。標的の端正な顔面は手を伸ばせば一瞬で届く距離にあった。
フッ、と禮の姿が下方向へと横切るように視界からフレームアウトした。大塔は反射的に標的を追って視線を下方へ向けた。
その次の瞬間だった。
ドバッキャァアッ!
鼻骨と頬骨に硬い物がぶち当たった。
「ンなッ……⁉」
大塔は身を仰け反って後方に後退った。強烈な衝撃に足を取られ、地面に倒れこんだ。
衝撃は〝上〟から降ってきた。禮が視界から消え去った下方からではなく上方からだ。防ぎようがなかった。
禮は倒れこむようにして身体を前方に投げ出し、地面に両掌を付いて下半身を持ち上げ、やや体を捻りながら前転をする要領で遠心力と重力をたっぷり乗せて大塔の顔面に踵をめり込ませたのだ。
「ガッ、カハッ! ぐっ、クソがッ」
大塔は踵を喰らった顔面を手で押さえ、禮を睨んだ。
(手に巻いて見せたんはそっちに気を逸らさす為のフェイクか! このクソ女、あの脚でケリ決めてきよった!)
禮も地面に両膝を突いていた。立ち上がるのにも激痛が走る脚では攻撃を喰らわせるのが精いっぱいであり、華麗に振る舞うことなどできなかった。
(やられたのは利き足ちゃうけど、流石に踏ん張りきけへんっ……)
ぼとっぼたぼたぼた、と顔を押さえる大塔の指の隙間から鼻血が玉となって溢れ出た。手の甲でグイッと鼻血を拭い、禮よりも先に立ち上がった。足許がややふらつきながら禮を睨んだ。
「クソックソックソッ! このクソ女が、俺の顔に……ッ!」
禮も膝に力を入れて立ち上がった。地面を踏みしめる度に痛みが走り、目に涙が浮かびそうなのを堪え、再び大塔に対して身構えた。
(100%の威力ちゃうけど、スピードもタイミングも悪ゥはあれへんかった。結構効いたと思うケド、こん人見た目より頑丈やなあ。もう足にも警戒してくるやろし、こっからがほんまの勝負……)
大塔は拳を握って禮に向かって駆け出した。
「片足やったったぐらいじゃ足りんようやな! もう一本もきっちりバッキバキにしたるさかい覚悟せえやクソドブスコラァッ‼」
大塔は何度か拳を突き出し、禮は悉く受け流した。
しかしながら、それは容易なことではなかった。脚が万全であったなら触れることさえさせない。現状の身のこなしでは躱しきることができず、受けて捌くのが精いっぱいだった。
脚の負傷の影響は大きいが当然にスタミナの問題もある。禮は大塔よりも一回りも小柄だ。勝負が長引けば長引くほど不利になる。
(受けてばっかやったらあかん。ウチの体のほうが保てへん)
パンッ、と禮は大塔のパンチを受けて逸らし、一呼吸で間合いを詰めた。自身が攻撃するに最適のポジショニング。爪先が地を離れ、長くしなやかな白い脚が撓った。
(来たか!)
それは大塔が狙い定めていた瞬間だった。力任せに拳を振り回しながらも禮の脚に意識を残していた。
(お前の狙いはソレやろ。足やられた言うても結局お前にはソレしかあれへん。その足捕まえて叩き折って二度と使いモンにならんようしたる。クソ女が!)
大塔の視界の端で禮の脚が高速で地を這う。待っていましたとニヤッと笑みを零した。
ピタ、と禮の脚は、大塔が捕まえようと身構えていた腕の少し手前で停止した。大塔は完全に虚を突かれた。狙い澄ましているのを読まれ、裏をかかれた。
本当に狙い澄ましていたのは禮のほうだ。手に巻いた紅いネクタイをグッと握り締めて拳を作った。
ガギィインッ!
禮は可能な限りの全身の体重を乗せ、振り絞れるだけの腕力で以て、大塔の顔面に拳を叩きつけた。
大塔は上半身を大きく後方に仰け反らせ、数歩後退った。
「このクソジャリ! 今度は蹴りがフェイクッ……⁉」
禮は大塔の胸座をガッと両手で捕まえた。予想外の一撃を喰らった大塔は、まだ視界を火花が散っている。
禮は大塔を力いっぱい自分のほうへ引き寄せた。額より少し上の部分を、渾身の力で大塔の鼻っ柱に叩きつけた。
ズガァアンッ!
「ぶはァッ‼」
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