ベスティエンⅢ

熒閂

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#19:Warrior

A time of punishment 02 ✤

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「ハッちゃん……」

 渋撥の眉間がピクッと撥ねた。鶴榮もハッと顔を上げた。ふたりとも幻聴かと疑った。
 ハッちゃん、と今度はハッキリと聞こえた。ふたりは声のほうへ振り返った。
 禮は壁に凭れかかっていた。ずりっ、ずりっ、と負傷したほうの脚に体重をかけすぎないように引き摺りながら、壁伝いにゆっくりと近づいてくる。

「禮ちゃん。大丈夫――」

 美作が禮を支えようと手を伸ばした矢先、ドンッと肩を突き飛ばされた。渋撥が美作と禮との間に割って入り、我先にと手を差し出した。
 禮はすんなりと渋撥の手を取り、肩をしっかりと支えられて「おおきに」と礼を言った。
 渋撥は禮の動く姿を見て、声を聞いて、眼を交わし、無事であることに束の間安堵した。同時に不甲斐なさが胸を突いた。
 無事であるなど勘違いだ。やはり暗愚で大馬鹿だ。禮は脚を引き摺る羽目になっている。大きな身体と力しか持っていないはずなのに、盾になることすら、守り切ることすら、できなかった。
 好きだと言って傍にいて、勝手気儘に独占するだけの能無し。無能な己を、自分自身が一番蔑んでいる。

「ハッちゃん……?」

 禮は、肩を握る渋撥の力が矢庭に強くなり、訝しそうに眉を顰めた。
 鶴榮は禮と渋撥の隣を通過した。
 禮が振り返ると同時に、鶴榮は「撥」と声をかけた。視線は渋撥ではなく進行方向を向いていた。

「オマエはしっかりその肩掴まえとけ。何があっても絶対にや。死んでも離すな。離すくらいなら死ね」

 鶴榮は渋撥からの応答も聞かず歩いて行った。
 美作は慌てて鶴榮を追いかけた。「駿河さん、駿河さん」と呼びかけても鶴榮は歩みを停めず、早足で無人のロビーを突っ切った。

「どうしはったんですか」

「ワシは用事がある」

「近江さんこのまま放ってええんですか」

 美作には、鶴榮が渋撥と禮を放り出して行くことが意外だった。たがが外れた渋撥と負傷した禮、ふたりをよく知る鶴榮が、現在のふたり以上に気にかけるものなどないと思った。

ハツがどういうヤツか、オマエも今回のことでよう分かったやろ。ほんまにこのままついてってええか、よう考えぇ」

 美作は意表を突かれ、咄嗟に「えッ⁉」と聞き返してしまった。

ハツはガタイは立派なモンや。ケンカは負け知らずや。男から見りゃあカッコよう見えるのも解る。せやけどな、所詮は出来損ないや」

「何もそんな言い方……」

「アレ見て何も分からんほどのアホちゃうやろ」

 自分を阿呆ではないというなら、この人は千里眼か。美作は胸中を見透かされた気がした。

ハツは人として大事だいじなモンが欠けてしもとる。ああいう並外れた力持っとる人間ほど中身はしっかりでけとかなあかんはずやが、{撥}に限っては……神さんも造り損ねたんやろな」

 そんなことはない、と美作は即座に断言することができなかった。
 渋撥がただ人を殴り続けるだけのマシンと化した光景、あれを見て、人として肝要なもの、マトモな人間として必要なパーツがすべて揃っているとは思えなくなってしまった。あのとき初めて心の底から、近江オーミ渋撥シブハツという存在に恐怖を覚えた。
 近くにいるつもりだった。傍で支えているつもりだった。鶴榮には到底届かなくとも、鶴榮に成り代わることはできなくとも、持てる限りの尊敬と憧憬は独占されているつもりだったのに。
 渋撥の本性を、暴力性を、兇気を、目の当たりにして、それを受け止める覚悟など到底できていなかったのだと思い知らされた。自分のなかには、鶴榮や禮の何十分の一程度、渋撥を受け容れる覚悟があったのだろうか。或いは、何も知らず子どものように無責任に憧れていただけか。

「オマエがハツに見切りを付けてもワシはオマエを臆病者とは思わん。賢かったっちゅうことや」

 美作の耳には、同情心からのお世辞に聞こえた。
 ほらまた、いいえ、ついていきます、と即答することができなかった。
 憐憫の賛辞を甘受しなければならないほど不甲斐なく情けない。自分を分不相応に勘違いしていたことが悔しい。自分を自分で哀れだと思ってしまったことが恥ずかしい。握り潰して消えてしまいたかった。






  § § §




 レイ渋撥シブハツは、鶴榮ツルエ美作ミマサカとが病院から去ったあと、ロビーの椅子にふたり並んで座っていた。
 渋撥は、診察を終えた禮を自宅に送り届けねばと思いつつも、身動きができずにいた。伝えなければいけないことがあるが、口下手で寡黙な性分が、彼の口を重たくしていた。何をどう語れば複雑な感情を適切に説明することができるのか分からなかった。

「鶴ちゃんと純ちゃん、どこ行ったん?」

 考え事をしていた渋撥は、禮から話しかけられても反応することができなかった。今一度「ハッちゃん?」と声をかけられてハッとした。

「……知らん」

 ぶっきらぼうに答えてしまった。もっと思い遣りのある言葉や鶴榮のように冗談めかした反応ができればよかったが、それは彼が不得手とするところだ。

「ハッちゃんのリング」と禮が不意に渋撥の手の甲に触れた。
 渋撥のシルバーリングの表面に赤黒い錆のようなものがこびりついていた。それが金属錆でないとピンと来た。敢えて口にしなかった。

「汚れてしもたね。拭いたげる」

 禮は渋撥のシルバーリングを中指と親指で抓み、ゆっくりと引き抜いた。
 指の根元から緩い締めつけと金属質の感覚が離れてゆく。今の今まで皮膚にピタリと密着していた指輪が音もなく、いとも容易く離れてゆく。指輪を外す感触などこれまで殊に意識したこともないのに、今日に限ってはヤケに生々しく感じた。
 その感触諸共に禮までもが離れていってしまいそうで、渋撥はゾッとした。気づいたときには禮の手首を捕まえていた。
 禮は、指輪を抓む手を渋撥に掴まれて少し目を大きくした。反射的に顔を上げて渋撥と目が合った。縋るような目をしていると思った。ごく自然に王様然と振る舞う渋撥からそのように見詰められるのは初めてだった。
 禮がぽんぽんと渋撥の手の甲を撫で、渋撥は手首を離した。
 禮は渋撥から抜き取った指輪を両手で持った。乾燥で硬くなってこびりついた錆のようなそれは、指の腹で擦ったり爪で引っ掻いたりすると簡単に取れそうだ。
 渋撥は禮の動作をじっと横目で見守った。禮が生きて呼吸をして動いているのを間近で視認することで安堵が湧いてきた。この姿をずっと見ていたいと思った。傍にいなくなったら耐えられないとさえ思った。故に、喪失するくらいなら何でもできる。

「はい、指輪」

 禮は渋撥の手をよいしょと持ち上げ、元々シルバーリングがあった指にはめた。
 渋撥は拳をぐっぐっと握ってリングの感触を確かめた。禮から指輪をはめられ、妙な安堵感を覚えた。この指輪を嵌めるようになって然程時は経っていないのに金属質の感触がもう懐かしい。
 これは指輪だ。それ以下でもそれ以上でもない。渋撥自身もこれに何らかの意義を見出してはいないし、特別な意味を付与した覚えもない。しかし、先ほど指輪を外されるときの喪失感は紛れもなく事実であり、たった今感じている安堵も本物だ。
 たかが指輪にこのような気分にさせられる理由に、本当は気づいている。

(俺はビビっとるんやろうな……。禮がおらんようになることを)

 禮は渋撥から目を離し、揃えた両足を前方に伸ばした。緊張から解放された今では、動かすとやはり声を漏らしてしまいそうな痛みがある。厭が応にもしばらくは気をつけて生活しようと思わされる。

「なんか、ハッちゃんたちスゴイ人数で来てたけど、あんなに行事から抜けてきて先生に怒られへんかった?」

「…………」

「あ。へーちゃんやコテッちゃんたちも怒られへんかったんかなあ。あとでお礼言わな」

「…………」

「アンちゃんもケガしてるハズなんやけど、病院行かへんでだいじょぶかなあ」

「…………」

 禮が努めて饒舌に話しかけても渋撥から応答はなかった。

「…………何か、言うてよ……」

 禮の口からポツリと本音が零れた。危機は脱したはずなのだからいつまでも重苦しい空気でいるのは嫌だ。

「すまん」

 渋撥の声は重々しかった。禮は、渋撥が過ぎた責任を感じていると思った。渋撥がそのようにすることは禮の望むところではなかった。禮は渋撥にも鶴榮にも一方的に守られることを望んだことは一度も無い。それなのに彼らはまるで使命であるかのようにそうしようとする。

「ハッちゃんも謝るんやね。鶴ちゃんもウチに謝ってたよ。悪いのはふたりちゃうのに」

「禮が狙われるんは俺の所為や。俺のオンナやから禮が危ない目に遭う。ハナっから分かっとったことや。俺の頭でも分かっとったのに、結局はこのザマや」

 渋撥は禮から顔を逸らして目線を前方に放った。両の太腿に肘を置き、前傾姿勢になった。
 分かっている分かっていると、それも口ばかり。本当に分かっているのかと自分で自分を殴ってやりたい。頭の芯に染みこむくらい自分で自分を痛めつけることができたならどんなによいか。

「ハッちゃんの所為ちゃう。ちゅうか……ハッちゃんと付き合うから危ない目に遭ういうなら、ウチの所為でもあるやん。ハッちゃんと一緒におるのは、ウチが好きやからやもん。ウチはこんなことくらい何ともあれへんよ。けど……」

 禮は渋撥のほうへ身体の正面を向け、顔をぐいっと近づけた。

「ハッちゃんはウチと付き合うの、もうやめたなった?」

「好きや」

 渋撥は断言した。其処には微塵の躊躇もなかった。
 禮は思わず押し黙った。期待したとおりの、否、それ以上の覚悟だったから。

「本気で禮に惚れとる。禮の為なら何でもしたる。こんなこと、言うだけやったらなんぼでもでけんねん。口だけで、実際は禮を守られへんかった。オマエかっ攫われてケガさしとる。俺はただの能無しや」

 禮が好きだ――――。
 何物にも替えがたい、命を懸けても惜しくはない、それほどまでに。怪我をした禮を見てもそのようなことばかり考えている。もっと考えるべきこと、すべきことがあるような気がするのに、単純な想いばかりが頭を占める。故に本当に能無しだ。

「ごめん。ウチがケガしたからハッちゃん思い詰めさして……。ウチ、他の女のコより戦えるほうやて思てたけど、もっとがんばる。もうハッちゃんを心配させたりせえへんから安心して」

「ちゃう。禮は戦わんでええねん」

「だいじょぶ。ウチ負けへんし。これからはケガもせえへんようにするから」

「勝ち負けなんか関係ない。強い必要なんかあれへん。もう戦うな。俺がオマエを守ったる。こんなこと二度とあってたまるか」

「……その為にハッちゃんは何するつもりなん」

「何をしてでもや」

 迷いなく言い放つ、今ばかりはその潔さが嫌だった。
 禮も渋撥の性情はよく知っている。目的の為には何も厭わない。犠牲はおろか自身の人間性も惜しみはしない。否、初めから常軌や良識や道徳、およそ人間が当たり前に身につける善悪の規範を持ち合わせていない。つまりは、自分を守る為に渋撥がすべてを擲ってしまうのが嫌だった。
 唯一無二として大切に扱われることは嬉しい。自分も渋撥にそうしてあげたい。だけど、すべてを犠牲にしてまで守られることなんて望んでいない。使命のように尽くされることなんて望んでいない。
 大好きな人間同士が一緒にいるのは、そういうことではない。大好きだから傍にいて、大好きだから見返りもなく支え合って補い合って、そうやって何処までも一緒にいることだよ。

「ウチはね、昔の自分のことキライなんよ。自分のことしか考えてなかった。たくさん人を殴って、たくさん人の言うこと無視して、それを何とも思わへんくて。殴られた人が、負けた人が、何を思うかなんて考えたこともなくて。人形殴ってるのとちゃうのに……。ぜんぜん優しくなかった。本気で誰かを守ろうなんて考えたことなかった」

 あの頃、ただ我武者羅に強く在りたいと願ったけれど、何の為に、と問うことはしなかった。
 疑問を持つこともなかった。強くなる手段を知ったからには、際限なく強くなりたいと願うことは当然のことだった。思い返せば、上手くできれば父に褒められるという子どもっぽく無邪気な動機もあったように思う。
 しかしながら、いつからか自分の為だけでは嫌だと思った。自分の為だけに強くなり、自分の為に人を踏み躙って、そして何に成り果てる。――――鬼か悪魔か。
 強くなるなら、強くなったならば、優しく在りたい。誰かを、何かを、守る為に強く在りたい。あなたと共にいる為に戦うことが必要ならば、わたしは逃げはしない。

「自分の為だけに戦うのはもうイヤや。せやけど必要なら……やっぱり戦うよ。ハッちゃんと一緒におる為なら戦う。戦うなら絶対に負けへん」

「勝ち負けの問題ちゃう言うてるやろ」

「勝ち負けの問題やよ。ウチが負けてしもたらハッちゃんは自分の所為にする。自分が悪いと思う。そしたら多分…………ウチの好きなハッちゃんはどこかに行ってしまう」

 渋撥は分からないという表情を禮に向けた。禮が何を厭うているのか理解できなかった。
 禮と引き裂かれない為に何も惜しまない覚悟はとうに決めており、自ら禮を手放すなどという展開は想像もできなかった。
 渋撥がどういうことだと問い質す前に、禮は渋撥の胸に顔を埋めた。赤菟馬の倉庫で禮が腕にしがみついて泣いたことを思い出した。また泣かれるのが嫌で、やはり真意を問い質すことはできなかった。

「ウチはそれがイヤ。自分が負けることよりも、痛い思いすることよりも、ケガすることよりも、ハッちゃんがおらんようになってしまうことがイヤ」

 所詮は獣――――。
 マトモな人間ではない渋撥は、禮が躊躇する一線を易々と踏破してしまう。手を離してしまったら、もう二度と捕まえられなくなってしまう。禮を置いて、禮だけでは辿り着けないところまで行ってしまう。
 禮もまた、自分と渋撥は異なる生き物なのではないかと勘づいていた。それでも一緒にいたい。大好きな人の傍にいたい。誰に反対されたとしても、障碍の多い困難なことだとしても、何らかの摂理に逆らうことだとしても、この手を自ら離してしまうことなんて考えられない。

「どこにも行かんといて。一緒におって。ウチ負けへんから……っ。勝手にどっか行ってしもたら嫌やよ――……」

 優しいあなた。大好きなあなた。わたしの知らない処へ行ってしまわないで。わたしを置いて行ってしまわないで。
 優しいあなたはわたしの為に鬼にも堕ちる。あなたはわたしが為の鬼。鬼と成って地獄に追い遣られるなら諸共。あなたを鬼にするのがわたしなら、脆いわたしが鬼にはなれずとも、どこまでも共に征きたい。
 あなたと一緒に灼かれるなら、きっと何も恐くない。
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