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#20:Home sweet home
Honey honey 02
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渋撥と禮の父親・攘之内との初対面…………事の起こりはこうだった。
禮と渋撥が付き合いを始めてしばらく経った頃。
その日は珍しく、禮と鶴榮とのふたりきりでショッピングだった。渋撥と付き合って以来、鶴榮とも何度も遊びに行ったが、二人きりというのは流石に珍しい。禮は鶴榮に渋撥抜きにしたい相談があった。
ふたりがいる場所は若者向けのアパレルショップがひしめき合うショッピングビル。禮の相談事を解決するにはうってつけの場所だった。
「買い物に付き合ってくれておおきに、鶴ちゃん」
「ワシな、人の買い物眺めるの嫌いちゃうねん」
「お店に並んだりするの嫌ちゃう?」
「イヤ、全然。禮ちゃんみたいなカワイイ子と歩けるんやから、嫌なこと一個もあれへん。楽しいばっかやで」
ふたりきりでも鶴榮の紳士振りはそつがない。適度に軽快なお喋りに、此方が恐縮しない程度の適度な気遣い、一時でも気まずい空気になることもない。
やや人見知りの禮は、この頃には鶴榮には完全に懐いていた。しかし、いきなり飛び出す賛辞には流石に慣れようがない。
「まっ、またまたー。鶴ちゃんお世辞ばっかり。ウチ、カワイイことないよ。制服ちゃうかったら男の子と間違えられるし」
禮は慌てて首を左右に振った。
「……禮ちゃんの場合は、着てるモンどうのこうのやのォて〝スイッチ〟やからな」
鶴榮は禮の顔を見てクッと口許を歪め、独り言のようにポツリと零した。
禮がキョトンとしていると、気を利かせてそろそろ休憩しようかと提案してくれた。
「ウチが奢る」と禮は両の拳をグッと握って見せた。その拳を叩きつけるのでなければ、充分に少女らしい可愛らしい仕草だ。
「今日付き合うてもろてるお礼やから」
「そんなんええって。ワシがお礼してもらうとしたら撥からや」
「何でハッちゃんから?」
「今日の買い物の目的は撥好みの服を買うことやろ。アイツを喜ばす為に協力したってんねんから、礼してもらうとしたらアイツからや」
「ハッちゃん好みいうか、ウチおしゃれな服とか持ってへんから、遊びに行くときどんな服着たらええか分からへんからっ……」
禮はカ~~ッと頬を赤くして早口で言い並べた。
今日ふたりで街へショッピングの目的は、渋撥が好みそうな服装を知ること。生まれて初めてできた恋人の嗜好、ましてや年上で無口で無感動、思考回路は突発的で理解不能、これだけの条件が揃えば禮ひとりで最適解を導き出すのは困難。そこで、稀有な渋撥をよく知る人物であり、異性の視点からの意見を述べてくれる鶴榮に白羽の矢が立った。
こんな可愛い子がお前の為に心を砕いてくれるなんて幸せ者め。と、鶴榮は少々渋撥を妬みたくなった。
「あ。撥」
上りのエスカレータに乗る直前、鶴榮が突然そのようなことを言い出した。
禮はキョロキョロと周囲を見回した。当該ショッピングビルは大半がレディスのアパレルショップで占められており、渋撥がひとりでフラリとやってくるとは思えないのだけれど。
渋撥は長身だから、エスカレータで運ばれてくる買い物客から頭ひとつ分飛び出ており見つけやすかった。あの三白眼の横顔は確かに見紛おうことなき自分の彼氏だ。
「ほんまにハッちゃ……」と言いかけて禮は言葉を呑んだ。
渋撥と、知らない若い女性が一緒にいた。それも腕を組んで何やら会話をしながら親しげに。この情況で禮の知識と経験から導き出される結論はひとつ――――浮気現場だ。
禮は咄嗟に鶴榮のシャツの袖をギュッと抓んだ。
「ハッちゃんがめっちゃキレエな女の人とおる……」
「ああ、おるな」
鶴榮は禮の表情を見て何を唖然としているかピンと来た。禮は渋撥とは対照的に顔色に感情がすぐ出る。察しのよろしい鶴榮に係れば脳内が透けて見えるようだ。
「カレシが女とおるとこを目撃したら、カノジョとしてどうする?」
「どっ、どうするって……とりあえず隠れる?」
「何でや。禮ちゃんは歴としたカノジョやで。堂々としといてええんや」
「えっ! ええ~っ?」と禮は声を上げて見るからにオロオロした。
人並みから飛び出した頭がエスカレータに運ばれて徐々に近づいてくる。このままでは鉢合わせだ。
エスカレーターに飛び乗ってこの場から逃げだそうとした禮の腕を、鶴榮が素早く捕まえた。禮は腰を低くして「う~、う~」と唸って腕を引っ張るが離してくれなかった。
「何で逃げんねんな」
「今日は心の準備がでけてへんからっ💦」
「こういうことはいきなり出会すもんや。禮ちゃんが逃げることあれへん」
「鶴ちゃんの意地悪~~……」
(何かちょっと、目覚めさせたらあかん快感を知ってまいそうやな)
禮は眉をなだらかな八の字にして少し涙目。幼気な少女を腕一本で容易く困らせ、妙な嗜虐心が沸々と沸いてきた。肋骨の上や奥歯の辺りがムズムズする。いけない、いけない。これは育ててはいけない感覚だ。
(女イジメて喜ぶ趣味はあれへんが。ええ機会やから禮ちゃんには練習しといてもらわんと。撥と付き合うてくなら、他の女との鉢合わせは今後もあるかもしれんからな)
――否、十二分に有り得る、あの男ならば。
鶴榮は心の中で苦笑を漏らした。澤木曜至という飛び抜けた好色男には及ばないまでも、異性関係に於ける渋撥の素行は、お世辞にもよろしいとは言い難い。
「よう、撥」
禮の脳内はプチパニックだった。鶴榮は堂々としていろと言うが、このような情況に耐性がない弱気な感情は早く逃げろとせっつく。駆けっこは得意だが、スタートピストルの前に完全に封じられた。逃れたいのに逃れられない。
あまつさえ鶴榮は此方から存在を渋撥に気づかせた。
ふたりに気づいた渋撥は、鶴榮が禮の手首を握っていることを見逃さなかった。エスカレーターのステップをダンダンダンッとけたたましく踏みつけて早足で禮と鶴榮がいるフロアに辿り着いた。
渋撥は鶴榮の眼前に立った瞬間から不穏な空気を放っていた。これも鶴榮の予想の範疇。
「俺の禮と何しとる、モミアゲヤロー」
「ショッピングや」
「何で鶴とふたりでいてんねん」
渋撥から威圧的に問い質された禮は、鶴榮の後ろにササッと隠れた。この期に及んでまだ渋撥と顔を合わせたくなかった。
渋撥は禮が不安げに鶴榮の服を抓んで頼っているのが気に食わなかった。禮の白い手をぱちんっとはたき落とした。
「禮ちゃん叩くとか鬼か、お前は」
「オマエが庇うな」
「こんなカワイイ子が怯えとったら庇うやろ。カノジョ怯えさすてカレシ甲斐のない男や」
「あァッ💢」
「禮ちゃん、禮ちゃん」と鶴榮は自分の背中に隠れている少女に声をかけた。
「撥に直接訊いてみたらええで」
落ち着いた雰囲気でまた難儀なことを言う。鶴榮は何が何でも禮と渋撥を直接対決させたいようだ。
渋撥は不機嫌な表情で禮を見下ろして「何やねん」と放言した。
鶴榮は堂々とぶつかることを奨励し、渋撥は待ち構えている態度。これはもう逃げ出す道はないらしい。禮は言うしかないのだと腹をくくった。
「ハッちゃん、浮気してる……?」
「あァッ?」と渋撥は直ぐさま不快そうに鼻の頭に皺を寄せた。
「俺がいつ浮気した」
禮は鶴榮の後ろから、先ほどまで渋撥と親しげに腕を組んで密着していた女性を指差した。クリーミーなブロンド混じりの淡い褐色の長い髪を肩にかけ、渋撥と並んでバランスが取れる長身かつ、豊満な肉付きでありながら均整の取れたスタイルの、魅力的な美女。
禮は、自分とは比較にならない大人の女性だと思った。
「アレは俺のおかんや」
「えええええええッ‼」
その華奢な体のどこからそんな声量が出るのだ。このような往来で大声を張り上げるものだから、通りすがりの買い物客が何事かと四人に視線を注いだ。
「禮、音量の調節せえ」
「ハッちゃんの嘘つき! お母はんなワケないやん! 若すぎるもん! こんな若い人に高校生の子どもおるハズないもんっ」
「若ぶっとるだけや。中身はそれなりに歳喰っとる」
「ちゅうか似てなさスギ!」
「俺は見た目だけは親父に似たんや」
信じがたいことを真顔で言う渋撥、それを全力で否定する禮。ふたりはそれぞれに必死だった。
真実を知っている鶴榮は声を殺して肩を震わせていた。普段は何事も無関心で恬然としている渋撥が禮には途端にムキになるのが可笑しかった。説明をする相手が禮でなければ、信じないなら別にそれで構わないと容易に諦めてしまうだろう。
「まあ、嬉しい♪」
渋撥の後方から声。禮はそちらにそろっと目線を向けた。
ファッションやメイクなどの装飾を差し引き、努めて純粋に見積もった年頃は二十代半ば。若ぶっているなどという範疇を超えている。とてもではないが高校生の息子を持つご婦人には見えない。渋撥は母親だと言い張るが、容姿は似ても似つかない。半分は同じ遺伝子で構築されているなど信じられなかった。
「どぉも~、渋撥のママです。よろしくね」
渋撥の実母・撥香は、再び渋撥と腕を組んで明るくニコッと笑った。
「ほんまにハッちゃんのお母はん、ですか……?」
「そうやよ」
本人が肯定しても、禮は何度も撥香と渋撥との間に視線を往復させ、にわかには信じられない様子だった。
渋撥は鶴榮をジロッと睨んだ。
「オイ。オマエ、禮に変な言い方したやろ」
「イヤイヤ、言わんかっただけや」
クリーミーブロンドの美女が渋撥の母親であるという真実。それを鶴榮は敢えて禮に教えなかった。渋撥と顔を突き合わせた鶴榮はニヤニヤしていた。
撥香は禮に顔を近づけてじぃ~っと観察した。
禮は、出会って間もない人物から至近距離でまじまじと観察されて居心地はよくなかったが、眼前の美女に害意は無く、純粋な興味であることは分かった。
(あ。蜂蜜みたいな目)
密集した長い睫毛に縁取られた鼈甲色の瞳。そのようなものは非常に珍しい。禮も撥香をじっと見詰めてしまった。
「このコ、誰? ハッちゃん」
「俺のオンナ」
「へえ~~。ハッちゃんメンクイ~」
「黙れ」
禮はしばらく呆然としていた。とある瞬間、ハッとして撥香に向かって深々と頭を下げた。
「ウチ相模禮言います。はじめまして! ヨロシクお願いします」
「サガミ……?」と聞き返した撥香の顔色が変わった。好奇心混じりの愛想がよい笑みが消え、禮を凝視する表情が固まった。
「相模言うの? お嬢ちゃん。お父はんのお名前は何て言わはるん?」
「父は相模攘之内です」
禮はキョトンとして首を傾げながらも、素直に答えた。
それを聞いた途端、撥香の表情は明らかに豹変した。蜂蜜色の目は大きく見開かれ、少女の顔を映して微動した。
「ジョー――……」
撥香は噛み締めるようにそう呟き、微笑んだ。
何とも言えない表情だった。少なくとも、人生経験の浅い禮には撥香が胸に抱いているであろう感情をどう形容するのが適切か分からなかった。哀しいような、嬉しいような、懐かしいような、辛いような、安堵したような、寂しいような、兎角厖大で様々な感情が入り組んだ複雑なものだと感じた。人が真っ当に生きて獲得しうる大凡の感情が凝縮されて詰めこまれているように思えた。
「ジョーは、元気してる?」
「ジョー……?」
「お父はんをジョーいう人はいてへんの?」
父を「ジョー」という愛称で呼ぶ人間は皆無ではない。それはごく少数の限られた人間だ。自分の知らない人が「ジョー」という合い言葉を使うことが不思議な感じがした。
「あの……ウチのお父はん、知ってはるんですか」
「ジョーはウチが今まで見た男の人のなかで、一等ええ人よ」
撥香は笑顔を取り戻し、渋撥に「ね。ハッちゃん」と問いかけた。
渋撥は釈然としない表情だった。それは分かりにくい表情の変化だけれど。
「禮の親父さんが…………〝ジョー〟なんか」
「ジョーノウチなんて珍しい名前、そうそういてへんよ」
撥香の返答は確信めいていた。記憶のなかの〝ジョー〟と、息子の恋人だという少女は似ても似つかないというのに。
――「ウチ、もうあかんのよ……ジョー」――
渋撥の脳裏を、フラッシュバックのように幼い頃の記憶が巡った。それは気持ちのよいものではなかった。見えない手を筋肉のなかに差し入れられ内臓を鷲掴みにされ、奥歯を噛んで耐えるしか術が無いような、吐き気と無力感。
力ある者だからこそ、自分が何もできないことを突きつけられるのは不快だ。耐えがたい。どうにもできないものならば粉々に打ち壊してやりたい。しかし、過去の事実はどうにもできないことの最たるものだ。
「その反応。ハッちゃん、カノジョちゃんのパパやのにジョーに会うたことあれへんのや」
撥香から問われた渋撥は「ん。ああ」と生返事をした。胸がまだ気持ち悪い。
パンッ、と撥香が手を打った。渋撥とは異なり、穏やかな笑みを浮かべていた。
「ほな、ジョーに挨拶に行かなあかんね」
――なんだって⁉
渋撥も禮も、鶴榮も、それは想定していない発言だった。
禮と渋撥が付き合いを始めてしばらく経った頃。
その日は珍しく、禮と鶴榮とのふたりきりでショッピングだった。渋撥と付き合って以来、鶴榮とも何度も遊びに行ったが、二人きりというのは流石に珍しい。禮は鶴榮に渋撥抜きにしたい相談があった。
ふたりがいる場所は若者向けのアパレルショップがひしめき合うショッピングビル。禮の相談事を解決するにはうってつけの場所だった。
「買い物に付き合ってくれておおきに、鶴ちゃん」
「ワシな、人の買い物眺めるの嫌いちゃうねん」
「お店に並んだりするの嫌ちゃう?」
「イヤ、全然。禮ちゃんみたいなカワイイ子と歩けるんやから、嫌なこと一個もあれへん。楽しいばっかやで」
ふたりきりでも鶴榮の紳士振りはそつがない。適度に軽快なお喋りに、此方が恐縮しない程度の適度な気遣い、一時でも気まずい空気になることもない。
やや人見知りの禮は、この頃には鶴榮には完全に懐いていた。しかし、いきなり飛び出す賛辞には流石に慣れようがない。
「まっ、またまたー。鶴ちゃんお世辞ばっかり。ウチ、カワイイことないよ。制服ちゃうかったら男の子と間違えられるし」
禮は慌てて首を左右に振った。
「……禮ちゃんの場合は、着てるモンどうのこうのやのォて〝スイッチ〟やからな」
鶴榮は禮の顔を見てクッと口許を歪め、独り言のようにポツリと零した。
禮がキョトンとしていると、気を利かせてそろそろ休憩しようかと提案してくれた。
「ウチが奢る」と禮は両の拳をグッと握って見せた。その拳を叩きつけるのでなければ、充分に少女らしい可愛らしい仕草だ。
「今日付き合うてもろてるお礼やから」
「そんなんええって。ワシがお礼してもらうとしたら撥からや」
「何でハッちゃんから?」
「今日の買い物の目的は撥好みの服を買うことやろ。アイツを喜ばす為に協力したってんねんから、礼してもらうとしたらアイツからや」
「ハッちゃん好みいうか、ウチおしゃれな服とか持ってへんから、遊びに行くときどんな服着たらええか分からへんからっ……」
禮はカ~~ッと頬を赤くして早口で言い並べた。
今日ふたりで街へショッピングの目的は、渋撥が好みそうな服装を知ること。生まれて初めてできた恋人の嗜好、ましてや年上で無口で無感動、思考回路は突発的で理解不能、これだけの条件が揃えば禮ひとりで最適解を導き出すのは困難。そこで、稀有な渋撥をよく知る人物であり、異性の視点からの意見を述べてくれる鶴榮に白羽の矢が立った。
こんな可愛い子がお前の為に心を砕いてくれるなんて幸せ者め。と、鶴榮は少々渋撥を妬みたくなった。
「あ。撥」
上りのエスカレータに乗る直前、鶴榮が突然そのようなことを言い出した。
禮はキョロキョロと周囲を見回した。当該ショッピングビルは大半がレディスのアパレルショップで占められており、渋撥がひとりでフラリとやってくるとは思えないのだけれど。
渋撥は長身だから、エスカレータで運ばれてくる買い物客から頭ひとつ分飛び出ており見つけやすかった。あの三白眼の横顔は確かに見紛おうことなき自分の彼氏だ。
「ほんまにハッちゃ……」と言いかけて禮は言葉を呑んだ。
渋撥と、知らない若い女性が一緒にいた。それも腕を組んで何やら会話をしながら親しげに。この情況で禮の知識と経験から導き出される結論はひとつ――――浮気現場だ。
禮は咄嗟に鶴榮のシャツの袖をギュッと抓んだ。
「ハッちゃんがめっちゃキレエな女の人とおる……」
「ああ、おるな」
鶴榮は禮の表情を見て何を唖然としているかピンと来た。禮は渋撥とは対照的に顔色に感情がすぐ出る。察しのよろしい鶴榮に係れば脳内が透けて見えるようだ。
「カレシが女とおるとこを目撃したら、カノジョとしてどうする?」
「どっ、どうするって……とりあえず隠れる?」
「何でや。禮ちゃんは歴としたカノジョやで。堂々としといてええんや」
「えっ! ええ~っ?」と禮は声を上げて見るからにオロオロした。
人並みから飛び出した頭がエスカレータに運ばれて徐々に近づいてくる。このままでは鉢合わせだ。
エスカレーターに飛び乗ってこの場から逃げだそうとした禮の腕を、鶴榮が素早く捕まえた。禮は腰を低くして「う~、う~」と唸って腕を引っ張るが離してくれなかった。
「何で逃げんねんな」
「今日は心の準備がでけてへんからっ💦」
「こういうことはいきなり出会すもんや。禮ちゃんが逃げることあれへん」
「鶴ちゃんの意地悪~~……」
(何かちょっと、目覚めさせたらあかん快感を知ってまいそうやな)
禮は眉をなだらかな八の字にして少し涙目。幼気な少女を腕一本で容易く困らせ、妙な嗜虐心が沸々と沸いてきた。肋骨の上や奥歯の辺りがムズムズする。いけない、いけない。これは育ててはいけない感覚だ。
(女イジメて喜ぶ趣味はあれへんが。ええ機会やから禮ちゃんには練習しといてもらわんと。撥と付き合うてくなら、他の女との鉢合わせは今後もあるかもしれんからな)
――否、十二分に有り得る、あの男ならば。
鶴榮は心の中で苦笑を漏らした。澤木曜至という飛び抜けた好色男には及ばないまでも、異性関係に於ける渋撥の素行は、お世辞にもよろしいとは言い難い。
「よう、撥」
禮の脳内はプチパニックだった。鶴榮は堂々としていろと言うが、このような情況に耐性がない弱気な感情は早く逃げろとせっつく。駆けっこは得意だが、スタートピストルの前に完全に封じられた。逃れたいのに逃れられない。
あまつさえ鶴榮は此方から存在を渋撥に気づかせた。
ふたりに気づいた渋撥は、鶴榮が禮の手首を握っていることを見逃さなかった。エスカレーターのステップをダンダンダンッとけたたましく踏みつけて早足で禮と鶴榮がいるフロアに辿り着いた。
渋撥は鶴榮の眼前に立った瞬間から不穏な空気を放っていた。これも鶴榮の予想の範疇。
「俺の禮と何しとる、モミアゲヤロー」
「ショッピングや」
「何で鶴とふたりでいてんねん」
渋撥から威圧的に問い質された禮は、鶴榮の後ろにササッと隠れた。この期に及んでまだ渋撥と顔を合わせたくなかった。
渋撥は禮が不安げに鶴榮の服を抓んで頼っているのが気に食わなかった。禮の白い手をぱちんっとはたき落とした。
「禮ちゃん叩くとか鬼か、お前は」
「オマエが庇うな」
「こんなカワイイ子が怯えとったら庇うやろ。カノジョ怯えさすてカレシ甲斐のない男や」
「あァッ💢」
「禮ちゃん、禮ちゃん」と鶴榮は自分の背中に隠れている少女に声をかけた。
「撥に直接訊いてみたらええで」
落ち着いた雰囲気でまた難儀なことを言う。鶴榮は何が何でも禮と渋撥を直接対決させたいようだ。
渋撥は不機嫌な表情で禮を見下ろして「何やねん」と放言した。
鶴榮は堂々とぶつかることを奨励し、渋撥は待ち構えている態度。これはもう逃げ出す道はないらしい。禮は言うしかないのだと腹をくくった。
「ハッちゃん、浮気してる……?」
「あァッ?」と渋撥は直ぐさま不快そうに鼻の頭に皺を寄せた。
「俺がいつ浮気した」
禮は鶴榮の後ろから、先ほどまで渋撥と親しげに腕を組んで密着していた女性を指差した。クリーミーなブロンド混じりの淡い褐色の長い髪を肩にかけ、渋撥と並んでバランスが取れる長身かつ、豊満な肉付きでありながら均整の取れたスタイルの、魅力的な美女。
禮は、自分とは比較にならない大人の女性だと思った。
「アレは俺のおかんや」
「えええええええッ‼」
その華奢な体のどこからそんな声量が出るのだ。このような往来で大声を張り上げるものだから、通りすがりの買い物客が何事かと四人に視線を注いだ。
「禮、音量の調節せえ」
「ハッちゃんの嘘つき! お母はんなワケないやん! 若すぎるもん! こんな若い人に高校生の子どもおるハズないもんっ」
「若ぶっとるだけや。中身はそれなりに歳喰っとる」
「ちゅうか似てなさスギ!」
「俺は見た目だけは親父に似たんや」
信じがたいことを真顔で言う渋撥、それを全力で否定する禮。ふたりはそれぞれに必死だった。
真実を知っている鶴榮は声を殺して肩を震わせていた。普段は何事も無関心で恬然としている渋撥が禮には途端にムキになるのが可笑しかった。説明をする相手が禮でなければ、信じないなら別にそれで構わないと容易に諦めてしまうだろう。
「まあ、嬉しい♪」
渋撥の後方から声。禮はそちらにそろっと目線を向けた。
ファッションやメイクなどの装飾を差し引き、努めて純粋に見積もった年頃は二十代半ば。若ぶっているなどという範疇を超えている。とてもではないが高校生の息子を持つご婦人には見えない。渋撥は母親だと言い張るが、容姿は似ても似つかない。半分は同じ遺伝子で構築されているなど信じられなかった。
「どぉも~、渋撥のママです。よろしくね」
渋撥の実母・撥香は、再び渋撥と腕を組んで明るくニコッと笑った。
「ほんまにハッちゃんのお母はん、ですか……?」
「そうやよ」
本人が肯定しても、禮は何度も撥香と渋撥との間に視線を往復させ、にわかには信じられない様子だった。
渋撥は鶴榮をジロッと睨んだ。
「オイ。オマエ、禮に変な言い方したやろ」
「イヤイヤ、言わんかっただけや」
クリーミーブロンドの美女が渋撥の母親であるという真実。それを鶴榮は敢えて禮に教えなかった。渋撥と顔を突き合わせた鶴榮はニヤニヤしていた。
撥香は禮に顔を近づけてじぃ~っと観察した。
禮は、出会って間もない人物から至近距離でまじまじと観察されて居心地はよくなかったが、眼前の美女に害意は無く、純粋な興味であることは分かった。
(あ。蜂蜜みたいな目)
密集した長い睫毛に縁取られた鼈甲色の瞳。そのようなものは非常に珍しい。禮も撥香をじっと見詰めてしまった。
「このコ、誰? ハッちゃん」
「俺のオンナ」
「へえ~~。ハッちゃんメンクイ~」
「黙れ」
禮はしばらく呆然としていた。とある瞬間、ハッとして撥香に向かって深々と頭を下げた。
「ウチ相模禮言います。はじめまして! ヨロシクお願いします」
「サガミ……?」と聞き返した撥香の顔色が変わった。好奇心混じりの愛想がよい笑みが消え、禮を凝視する表情が固まった。
「相模言うの? お嬢ちゃん。お父はんのお名前は何て言わはるん?」
「父は相模攘之内です」
禮はキョトンとして首を傾げながらも、素直に答えた。
それを聞いた途端、撥香の表情は明らかに豹変した。蜂蜜色の目は大きく見開かれ、少女の顔を映して微動した。
「ジョー――……」
撥香は噛み締めるようにそう呟き、微笑んだ。
何とも言えない表情だった。少なくとも、人生経験の浅い禮には撥香が胸に抱いているであろう感情をどう形容するのが適切か分からなかった。哀しいような、嬉しいような、懐かしいような、辛いような、安堵したような、寂しいような、兎角厖大で様々な感情が入り組んだ複雑なものだと感じた。人が真っ当に生きて獲得しうる大凡の感情が凝縮されて詰めこまれているように思えた。
「ジョーは、元気してる?」
「ジョー……?」
「お父はんをジョーいう人はいてへんの?」
父を「ジョー」という愛称で呼ぶ人間は皆無ではない。それはごく少数の限られた人間だ。自分の知らない人が「ジョー」という合い言葉を使うことが不思議な感じがした。
「あの……ウチのお父はん、知ってはるんですか」
「ジョーはウチが今まで見た男の人のなかで、一等ええ人よ」
撥香は笑顔を取り戻し、渋撥に「ね。ハッちゃん」と問いかけた。
渋撥は釈然としない表情だった。それは分かりにくい表情の変化だけれど。
「禮の親父さんが…………〝ジョー〟なんか」
「ジョーノウチなんて珍しい名前、そうそういてへんよ」
撥香の返答は確信めいていた。記憶のなかの〝ジョー〟と、息子の恋人だという少女は似ても似つかないというのに。
――「ウチ、もうあかんのよ……ジョー」――
渋撥の脳裏を、フラッシュバックのように幼い頃の記憶が巡った。それは気持ちのよいものではなかった。見えない手を筋肉のなかに差し入れられ内臓を鷲掴みにされ、奥歯を噛んで耐えるしか術が無いような、吐き気と無力感。
力ある者だからこそ、自分が何もできないことを突きつけられるのは不快だ。耐えがたい。どうにもできないものならば粉々に打ち壊してやりたい。しかし、過去の事実はどうにもできないことの最たるものだ。
「その反応。ハッちゃん、カノジョちゃんのパパやのにジョーに会うたことあれへんのや」
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パンッ、と撥香が手を打った。渋撥とは異なり、穏やかな笑みを浮かべていた。
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――なんだって⁉
渋撥も禮も、鶴榮も、それは想定していない発言だった。
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正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
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