お試し派遣は、恋の始まり。

狭山雪菜

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前編

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ある3月頃の3連休の初日。


「今日の予定は、この1階の箱の中にある部品のバラを数えてもらいます、2人1組になってーー」

ひょろっと背の高い痩せ型の紺色の制服を着た男性社員が、異物混入を防ぐため髪をしまう白い帽子と支給されたポケットが付いているデニムのエプロンを身につけている30人ほどの女性達に向かって今日から行う棚卸しについての説明を始めた。

その中の1人、私ーー川上未宇かわかみみうは、男性社員の話を聞き流しながら、昨日の夜派遣会社の顔見知りの営業さんから泣きつかれて日雇いの派遣に入る事になった経緯を思い出していた。
すでに社会人として働く23歳の未宇は、派遣の仕事で出費のかさむ大学生時代の金欠を救ってくれた派遣会社の白髪混じりの白石さんに恩を返そうと、今日出勤する事に決めたのだった。

「ーーという事で、今からペアを決めますーーペア決めは事前にもらったヘルプの方の名簿と、うちのベテランパートさんとーー」
まだ話す男性社員は、隣にいるパートのリーダーのおばちゃんを軽く紹介して今日の流れに入った。
昨今世界中で大流行している感染症対策のためにマスク必須となった今は人々の表情が見えず、人付き合いが苦手な未宇からしたら有難い世の中にはなったけどーー
ーー今日から3日間とはいえ、仲良しグループって、絶対に出来るよね…
とため息をそっと吐いたのだった。



**********************


「棚番号Wの1の5、JANコードはーー」

ベテランパートの増田ますださんが、棚に6つ並ぶ箱から1つの箱を取り出しコンテナに入れて、空箱に数えながら戻していく。JANコードとはバーコードの下にある数字が印刷されていて、バーコードリーダーでスキャンする時に品物を認識するコードだ。
棚ごとに分かれたリストの中にある増田さんが言っている数字を探し、チェックマークを付けて増田さんが品物を数えるのを待つ。

ーーこの待ち時間にもお給料でるとは…新生活始まったばかりで助かる

この春一人暮らしを始めたばかりで、一人暮らしの電気代もバカにならないと知ったこの冬。何もかも初めての生活は、会社から貰うお給料でなんとか生活出来ていたが、突然始まった外出自粛で水道光熱費が去年よりも、1.5倍くらいになってしまったのだ。
少しボーナス貯金を切り崩そうと思っていた矢先にきたヘルプの連絡も、今思うとありがたい。


「増田さん、どう?」
「あらやだ大丈夫よ、そんな何回も来なくても川上さんも手際がいいし、助かってるわ」
先程朝礼で棚卸しの説明をしていた男性社員ーー岸谷きしたにさんが私を見下ろしていた。
ーーこの岸谷さん、1時間に1回くらい来てる気がする…腕時計装備等禁止だから正確な時間は分からないけど…
見られてる気がするが、彼に視線を向けず手元にある黒いボードに挟んである在庫リストの表に視線を下ろした。
きっとこの柔らかな雰囲気のおばちゃんは慕われているのね、と思っていたら、個数を言う増田さんに我に返り在庫数を紙に記入した。



お昼ご飯の時間になり、手洗いのちにマスクをとりご飯を食べる。約20帖の休憩室には、ポッドや電子レンジと空の食器棚、ゴミ箱、壁際に派遣会社ごとのロッカーが並び、長机が2つで1つに固まり10列ほど置かれ、それぞれのひとつのテーブルに3つの椅子。感染予防のための段ボールの枠の中にアクリルプレートがついた仕切りが、全てのテーブルの上に固定されている。
そして派遣会社ごとに分かれていたテーブルとベテランパートさんのテーブルがあり、休憩室を出るには小さな廊下を歩かなければいけない。
出入口から1番近いテーブルの私が所属する派遣会社のスペースには、私と仕切りの向こう側に並ぶ2人のおばさんしかいなく、この2人は顔見知りなのかずっと世間話をしている。
壁際の椅子に座った私は、スマホを取り出しサブスクから映画をチョイスして音がない字幕の映像をつけて、コンビニで購入した鮭おにぎりを食べる。私の席の隣ひとつ分を空けて椅子を引いて誰かが座る。
特に気にせず食べていると、隣から咳が聞こえ条件反射で顔を向けた。
「!」
隣に座ったのは男性社員の岸谷さんだった。マスクを外して横に座り、蒸せたのかブラックコーヒーを飲んでいる所だった。
ーーなんだ咳き込んだだけか
と興味を無くした私はまたサイレントモードの字幕映画を見始めた。ーーのだが、この時チラチラと私を盗み見る岸谷さんに、私は気がつかなかった。


お昼休憩も終わり棚卸し業務に戻って、増田さんと作業を始めた。



「川上さんこっち」

「川上さーん!」

増田さんは人見知りをしないタイプで、終業間際になると私を気軽に呼び寄せ棚卸し以外の業務を手伝うようにと言ってきた。
「棚卸しは明日も明後日も、この3連休を使うんだからあとは明日!明日!」
とマスクしていてもニコニコと笑う雰囲気は、ハツラツとしたおばちゃんだ。
私よりも少し背の低い増田さんが、いつもは高くて取れないと言っている棚の箱は、身長168センチある私なら楽々と取れるので、いいパートナーだ。

「川上さん明日も来るの?」
明日も派遣で来るのか聞いてくる増田さんに、
「はい、明日も明後日も来ますよ」
とだいぶ増田さんと言う人に慣れた私は、すんなりと心を開いた。
「なら、明日も一緒になるように言っとくから!」
あはは、と笑う増田さんに、人見知りで他の人と一から付き合うのが憂鬱だった私は、ホッとしたのだった。




派遣2日目の日。

今日も頑張ろうと出勤すると、お友達とお喋りしていたマスクをした増田さんが私に気がついて、
「おはよう」
と近寄ってきた。
「おはようございます、今日もよろしくお願いします」
朝の挨拶をしていたら、紺色の制服を着た女性社員が従業員の集まる休憩室に入ってきた。
「まもなく朝礼始めまーす!準備できた方は倉庫にいらして下さーい!」
よく通る声が休憩室に響き渡り、私は仕事が始まったと手袋をして、派遣会社から貰った帽子を手に取り被った。


「今日も一日頑張ろうね」
増田さんはそう言ってにこにこと笑い、私とマスク越しに笑顔になる。
「はい、今日もよろしくお願いします!」

2人が棚卸しの場所に指示されたのは、2階の倉庫だった。
「この倉庫の棚卸し方法は、上の階と違って大きな箱に書いてあるーー」
私と増田さんペアの他に3組程のペアが、昨日と同じ社員の岸谷さんが棚卸しについての説明をする。

説明も終わり各自バインダーに付いた紙のリストを元に、それぞれの割り振られた場所へと向かった。
そして4つ並ぶダンボールを、私が一度全て床に置いて棚を空にしてから、増田さんが棚番号とJANコードを読み上げ個数を数えて、私が紙に載っているリストにチェック印を付ける。そしてまた私が戻す作業をすると、今度は次の棚へと移動する。そうして5つほどの棚を進むと、
「増田さん、どう?」
と岸谷さんが経過を知りたくてやってきた。
「そうねぇ、この調子なら午前中にはこの列が、終わってーー」
と増田さんが大体の終わる時間を、岸谷さんに伝える。私は黙って増田さんの言う事を聞いていると、
「…じゃあ…この列終わったら、川上さん借りていいかな?棚卸し手伝って貰いたいし、増田さんは他の列遅れてるから補佐をお願いします」
「補佐…?わかったわ、ねっ川上さん」
「あ、はい…終わったら岸谷さんに声を掛ければいいですか?」
「うん、お願い」
「はい、わかりました」
この列終了まであと4つ分の棚のみなので、すぐに終わるだろうと、そう言って岸谷さんは行ってしまった。
さて、棚卸しの続きを…と振り返ると、増田さんの目がなんだか笑っている気がしたのだが、
「さっ、始めちゃいましょう」
と、急かされ有耶無耶になったのだった。



**************


「ここの在庫を調べるから、読み上げた番号をリストと照らし合わせてチェックマークつけてくれ」
「はい」
呼ばれたのは同じ2階の倉庫だったけど、倉庫の隅の奥の棚がある場所だった。同じ棚の大きさだったけど、段ボールの大きさが先程まで増田さんと作業していた場所よりも大きくて、2人掛かりで下ろして個数を数えていく。2人で黙々と作業していたら、程なくして終わったので私達の近くに置いた大きな段ボール3箱を棚へと順に戻していく。最後のひと箱を一緒に棚へと戻したあと、うしろへと足をさげようとしてバランスを崩してしまい、
「きゃっ…!」
うしろへと倒れながら手が伸びていた私の左手首を岸谷さんが掴み、私の手首が彼の方へと引き寄せられた。
「っ!」
勢い余って彼の胸の中へと倒れ込んだ私は、しばらく放心状態となっていた。
「…大丈夫か?」
彼の低い声が私の頭上から聞こえ、今自分の状況をやっと把握した。彼の手が私の左手首と背後に回され、まるで抱きしめられている錯覚に陥る。
「あっ、すいません」
と慌てて彼の腕の中から抜けようと身体を起こそうとするが、私の背に回った彼の腕がぴくりとも動かない。
「…あ…の…?」
顔を上げると、彼の顔が思いの外近くにあった事を知る。
「…川上さん」
と、彼の声が聞こえたと思ったら、彼の顔が私の顔に近寄ったと思ったら、
「!?」
マスク越しに口に彼の口が重なった。何が起こったのか分からないまま、金縛りに合ったみたいに身体が動かなくなってしまう。押し付けられた口は少しすると離れてまた重なり、喰む、と一度マスクごと食べられそうになる。今度は長い時間口が触れていて、はむはむ、と甘噛みされると、自然と彼の胸に空いた右手を置いた。そうすると、彼が掴んでいた私の左手首を離すと、私の背に回り完全に抱きしめられた。
彼の口が私の口から離れると、お互いの視線が絡まり見つめ合う。
無言で私の耳に掛けたマスクのゴムを外すと、私の顔が彼の前に全部見られる。私も彼のマスクを外すと、また顔が近寄り、今度は直接唇に触れた。重なった唇から甘噛みされた唇、彼の舌が私の唇のラインをなぞり、開けるように舌先で突かれる。薄く口を開けると彼の舌が私の口内へと入り、歯列をなぞり、上顎をくすぐられ、内頬に下を這わす。私の舌を強く吸われて、頭がぼうっとしてしまう。何度も何度も顔の角度を変えて口づけをすると、私の首に移動した彼の手の力が強くなり引き寄せられた。
「っ、ん、っ…ん」
ねっとり絡まる舌に拙いながら自分からも舌を絡めると、動いた口の隙間から私の声が漏れてしまう。
夢中でお互いの舌を追いかけ、追いかけられ、絡まり吸われるキスに溺れていたら、彼の手が私の肩を掴み突然身体が離れた。
はぁ、はぁっ、と肩で息をしていると、ガヤガヤとパートのおばちゃんの話し声が聞こえ始めた。
ーー私っ、ココ職場だっ
急に派遣先だと思い出し、どれほどキスに夢中になっていたかを知り、恥ずかしくて赤面する。
「少し顔の火照りを冷ましてからきて…その顔このまま連れ出したくなる程凶悪だから」
「~っ!」
私の耳元に囁いた彼は、そう言って私の右肩に手を置くと、私の頬にちゅぅっとキスをして、マスクをつけた。
「…仕事終わったら、一緒に帰ろう」


そう告げて、声のする方へと行ってしまったのだった。
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