身代わり閨係は王太子殿下に寵愛される

雨宮里玖

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 マリクの領地は中央の城から少し離れた場所にある。馬車で揺られること数時間、周りの景色がすっかりのどかな畑ばかりの風景に変わってきたころ、ベルトルト家の屋敷が見えてきた。

「ようこそおいでくださいました」

 馬車を降り、フィンが招待状を見せると、すぐにふたりは中へ案内された。
 歴史のある建物ながら、造りはしっかりしているレンガ造りの屋敷だ。
 入り口を入ってすぐのところに大広間がある。そこではたくさんのテーブルが並べられていて、すでに大勢の人々で賑わっていた。

 ラルスはフィンの隣の決められた席に座り、出てくる料理と悪戦苦闘する。
 スープは音を立てずにゆっくり飲む。パンはカブリとかぶりついてはいけない。千切って食べる。
 カトラリーの使い方、食器の持ち方、ラルスの思考はマナーを守ることでいっぱいいっぱいだ。
 隣にいるフィンは、周りと談笑する余裕すらあるのに。

「フィン殿、お久しぶりですな。お父上の軍務伯は息災であられるか?」

 食事を終え歓談の時間になったとき、ワイングラスを片手にした男がフィンに微笑みかけてきた。
 年は四十手前くらいだろうか。一見すると紳士的に見えるが、目つきが悪い。相当酒を嗜んでいるのか、少しだけ視点がぐらついている。
 ラルスの第一印象は『警戒すべき相手』だ。

「あぁ! これはギルフィード子爵、お久しぶりです」

 フィンは席から立ち上がり、笑顔でギルフィードと話を始めた。
 ラルスはまったく心当たりがない。いったい誰だろう。
 ラルスの疑問符が浮かぶような表情に気がついたフィンは「こちらはギルフィード子爵だよ」とラルスに紹介してくれた。
 ラルスは慌てて席から立ち上がり、頭を下げた。

「子爵は妃陛下の従兄弟のご子息にあたられる方で、王家とも繋がりのある方なんだよ」

 ということは、アルバートから見たら、母方の親戚ということか。関係はひと言で言い表す言葉がないくらいに遠いみたいだが。

「はっは。王家の一員だからといって、そんなに気を遣う必要はない」
「子爵は心が広い御方ですね」

 ギルフィードは周囲の人にも声をかけられ、フィンも含めて複数人で話をしている。その姿は善人そのもの、ラルスの第一印象は間違っていたのだろうか。

「そちらは? 周りをキョロキョロして随分と落ち着かない様子のようだが、フィン殿の知り合いか?」

 ギルフィードは会話が途切れたところでラルスを気にしてこちらに視線を向けてきた。
 唐突に話題にされてラルスはビクッと身体を震わせる。この場にいる自分など、半分空気のような感覚になっていたのに。

「あっ、あの僕はですね……フィンさまの、あの……付き添いでっ……!」
「フィンさまじゃないって、ラルス……」
「あっ、ごめんなさい、えっとフィンの友人ですっ」

 ラルスはしどろもどろだ。失敗しちゃいけないと思えば思うほど、言葉はめちゃくちゃになる。

「フィン殿のご友人でしたか。これはこれは失礼を。今までどこの社交界でも見たことがない。初めてお会いする方でしたから」

 ギルフィードがラルスを見る目は、決して優しくない。見下したような、こいつとは話す必要がない、論外だという目で見ている。
 でもその視線はラルスにだけ。フィンには「素敵なご友人だ」と笑顔を向けている。



 それからもラルスは全然貴族の会話に入っていけない。それでもフィンのため、なんとなく愛想笑いをしてやり過ごす。
 疲れる。本当に疲れる。

「あ、あの、葡萄酒ではなく水をいただけませんか?」

 酔いが回ってきたので、ベルトルト家の使用人の青年を呼び止めた。使用人はすぐに反応してくれたが、忙しなく働いているせいか疲れた表情をしている。

「かしこまりました」

 使用人は丁寧に、ラルスに頭を下げてきた。そのさまは少しふらついている。そしてほんのり頬と首が紅潮している。
 その様子を見てわかった。体調がすぐれないのだ。

「あの、大丈夫ですか?」
「え……」

 使用人はハッと顔を上げた。

「もしかして熱があるんじゃ……」

 ラルスは使用人の顔をじっと覗き込む。熱があるか確認しようと使用人の額に手を伸ばす。
 ラルスが触れた使用人の青年の額は熱い。やっぱり具合が悪いようだ。

「無理しちゃダメだ、休ませてもらわないと。僕が一緒に言ってあげるから」

 ラルスは親切心で言ったのに、使用人は「畏れ多いことですっ」と遠慮してしまった。

「心配してくださっただけで十分ですっ、私のような下っ端の者に触れるなんて……なんて御方だ……」
「あ……」

 同じ空間にいるのに、貴族と使用人のあいだには大きな隔たりがある。貴族は使用人の顔など見ちゃいない。目の前にいる社交相手のことばかり考えて、使用人たちは空気と同じ。そして使用人もそれでいいと、生きる世界が違うのだからと思っている。
 本当はそこに差異などないはずなのに。

「どうされました? うちの使用人が失礼を働きましたか?」

 背後から声をかけてきたのはこの家の当主であるマリク・ベルトルトだった。
 マリクの顔なら知っている。何度か軍務伯の家に出入りしているし、なによりフィンの想い人だ。馬の世話を休んでまでも、どんな男なのかこっそり陰から見ていたこともある。
 マリクは、ラルスのことは知らないかもしれない。ラルスはただの厩係だったから。

「ベルトルト侯爵、そうではなく、この者の体調がすぐれないようでして……」

 ラルスが「高熱があるようです」と説明すると、マリクは「本当ですか」と声色を変えた。

「おい、ニト。仕事はいいから部屋に帰って休みなさい」
「ですが侯爵、今日は祝宴で、もっとも忙しい日で……」
「いいから休みなさい。このグラスは片づけるものだな? 私が持っていく」
「あと、こちらの方にお水をお持ちしないと……」
「わかった。それも私が用意する」

 マリクは使用人のニトの持っていた空のグラスを奪い取り、ラルスに「少々お待ちください」と丁寧に声をかけてきた。
 マリクは爵位を受け継いだばかりとはいえ、侯爵だ。侯爵自らグラスの片づけをするなんて信じられない。
 そしてマリクはニトを退出させ、空のグラスを片づけたあと、水の入ったグラスを持ってラルスのもとに戻ってきた。

「本日は遠路はるばるお越しくださり、ありがとうございます」
「あ、い、いえ、こちらこそお誘いありがとうございますっ」

 マリクのスマートな挨拶に、うまく返事をしなければと焦って言ってしまってから気がついた。ラルスは招待されていない。招待されたのはフィンで、ラルスはフィンの付き添いだったのに。

「はい。お会いできて大変喜ばしく思っております」

 マリクはラルスの失態には何も触れなかった。それを受け止めるようなごく自然な笑顔を返してきた。所作も、相手に負担をかけまいとするところも、マリクはとてもスマートだ。
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