43 / 50
【3‐7】乗り越える者たち
存在の意味
しおりを挟む
ミティアは耳を塞ぎ、石床に蹲った。これは明らかに異常だ。目の前で起きていることもじゅうぶんに異常である。
目の前には始祖の邪神龍。これはフィラノスの地下で封印されているのを見たもので間違いなさそうだ。うしろには髪の毛の長い女性。少なくともジェフリーは顔馴染みではないが、女性の容姿は亡き母親に酷似している。ケーシスは彼女を何とかしようと説得を試みていた。幸いにも、邪神龍はまだ襲って来る様子はない。
だが、始祖の邪神龍が出てきた以上、何もないままではいかないだろう。ジェフリーは剣を抜いたが、戦うべきではないのではないかと思っていた。争って傷つけることは可能だろう。それで解決するような敵ではない。そんな簡単な存在ではない。
ミティアは耳を塞ぎながら、寒さを感じていた。頭での処理が追い付かない。それは『声』による精神攻撃を受けていたせいだ。頭の中の処理で体が追い付いていない。いくら耳を塞いでも、『声』はずっと鳴りやまない。
目の前に邪神龍がいる。ジェフリーは自分を守ろうとしているだろう。そこまではミティアでも予想がついた。でも、違うと言いたい。これは自分が聞き入れて、受け止めないといけないものだ。
覚えているだろうか。
「ジェフリーは手伝って、くれる?」
ミティアはゆっくりとその質問をした。ジェフリーの答えは、頷くだけで言葉ではなかった。
また、言葉にはしてくれなかった。ミティアの心の隙間に闇が生まれる。
ケーシスはエリーシャと向かい合って違和感を覚えた。自分の娘が成長したら、こんなに綺麗かもしれない。亡き妻のシルビナにもよく似ている。だが、もしかしたら、まったくの他人なのではないかという疑いも抱いていた。ケーシスは疑問を抱きながら、言葉でエリーシャとの距離を縮める。
「エリーシャ、これで神様の真似事か? あの男、ルーのせいか!?」
まずは探る。これは基本だ。聞き出せる情報は多い方がいい。
エリーシャは興味を抱かれ、ケーシスに好感を持っているようだ。
「あの男? あぁ、彼には『器』になってもらいました。私を陥れようとした。けれど、そんなことはさせません。彼も優れた魔導士です。天空都市を地上に落とせるだけの力はあるはずですから、ね?」
ケーシスは眉をひそめた。
「お前、エリーシャの姿をした、本当のエリーシャか? 天空都市の……」
同じ名前だから紛らわしい。
地上で暮らす人たちの中では天空都市は『おとぎ話』であり、天空都市の神様がエリーシャという名前だったと伝えられている。だが、天空都市の存在など信じるはずもなく、やがて人々の中で消えつつある話だった。
ローズのように長寿であり、情報に触れていたら知り得る情報かもしれない。なぜなら、年月とともに本当だった話も一緒に薄れてしまったからだ。地上の人間は自分たちにとって都合の悪い情報を隠したり抹消したり。その断片や痕跡は大図書館での情報や子どもたちが学ぶ教科書も対象だった。
サキがフィラノスの歴史や、必要な情報が探し出せないことに疑問を持ったこともある。中にはあるはずの情報がないと気が付く人もいるのだ。
大図書館に縁のある魔導士は、もしかしたらその『おとぎ話』に興味を抱くかもしれない。ケーシスの妻、シルビナはそうだった。地上の人間が知っている情報など、『おとぎ話』の程度。その話に憧れを抱いていたのが、シルビナだった。身籠った女の子どもにエリーシャと名付けた。ただ、それだけだったはずなのに。
ケーシスの問いに答えたのは意外にもショコラだった。
「中身だけ本当のエリーシャじゃよぉ……」
エリーシャ本人は優しい笑みを浮かべている。その笑みには心の底からの慈悲が感じられない。憎悪が見え隠れしている。いつ発狂してもおかしくはない。
ケーシスは自分で話を整理した。やはり疑問を抱く。
「ルーの野郎は何のために本物のエリーシャを俺の子どもに入れたんだ? あの実験は姉ちゃんでやっと成功したんだぞ。まさか、その前から……」
本物のエリーシャが存在する理由はここにいる誰も知らない。傍から見たら彼女は悪のような存在だ。自分語りなど、してくれないものだと思っていた。だが、エリーシャは語り出す。
「この都市はもともと女人と獣人しか存在しない特殊な都市でした。もともと島国として独立していたのです。それこそ文明の発達した都市。何もしなくても、干渉して来る神族などいませんでした。人間だけは強欲で技術を求めて来ましが、かの種族は特殊ですね。何も力もない私を神と崇めました。それこそ、『女神』と……」
ケーシスは眉をひそめた。言ってしまえば、愛娘の姿と形だけをした中身はまったく別の人と対立しているのだ。いつもの調子なら、『何だ、この茶番』くらい吐き捨てるかもしれない。これでは何のためにケーシスが赴いたのかわからなくなってしまう。
「あの男も私を本当の神だと信じていたようです。でも、魔界を荒らし、神降ろしの真似事までして空っぽだった赤子に宿らせたのに、何の力も持たないただの女人と知って一度は失望したようです。ですが、あらゆる手を尽くしてくれました。本当に感謝しかありませんね。私は望み通り、神になれたのですから」
エリーシャは鼻で笑った。つられるようにケーシスも笑っている。
ケーシスは乾いた笑いから天を仰ぎ、腹を抱えて馬鹿みたいに大笑いに変えた。途端にエリーシャがぴたりと笑いを止め、表情を渋めた。
「何が、そんなにおかしいのでしょう? 神を愚弄しますか?」
エリーシャはケーシスに対し、殺意が芽生えたようだ。憎しみが込められた表情へ変貌する。
ケーシスは天を仰いでいた状態から大きく頷いた。まだ笑っている。
「思いっきり悩んでたのが馬鹿馬鹿しくなった! てっきり俺に対して、恨み節でも聞かせてくれるのかと思ったが、そうじゃないらしいからな?!」
「恨む? 所詮あなたは私にとって他人です。あぁでも、この器の『おとうさん』でしたね。恨むどころか感謝しています」
「聞いても無駄だと思うが、世界の統合をして何を望む?」
ケーシスの方が笑いを通り越して気が狂いそうだ。あれだけ責任を感じ、思い詰めていたのがとんだ見当違いで無駄になったのだ。気も狂う。そしてこの答え次第で自分の抱えていた不満を開放するつもりだ。
「種族と世界の浄化です。アリューン界が手強く、あの男が病気を撒いたそうですが、封鎖的な種族の浄化は追々すればいいでしょう。同じ種族のままで共存していればよかったものを……」
「浄化って、ぶっ壊すって意味だろう?」
「そうですよ。そして私は本当の神、創造主となる」
「あぁ、そうかい!! ンなこと、させるわけねぇだろうッ!!」
話がわかって吹っ切れた。ケーシスは背中に手を回したが小太刀が二本ともないのに今さら気が付いた。すぐに切り替えて拳を振り上げた。もしかしたらこの方がよかったかもしれない。あれだけ覚悟を背負って来たと言うのに。二重の意味でとんだ肩透かしだ。失くした愛娘の体で好き勝手をはたらこうなんて、一発殴らないと腹の虫が治まらない。だが、美しい顔に触れることは許さなかった。
ケーシスは突然、爆風でも食らったように弾き飛ばされた。石床を転がり、浅瀬に身を浸した。幸いにも、水は何の害もなさそうだ。
「クソが……」
ケーシスは地に伏せられてしまった。重力がかかっているような感覚が襲う。体は重く、なかなか起き上がらせてはくれない。
エリーシャは満面の笑みで怯え切っているミティアに歩み寄った。次のターゲットのようだ。
当然だが、ジェフリーは庇いに入る。何かできるわけではないが、ミティアにも危害を加えるならば、黙ってはいられない。だが、エリーシャはミティアに対して語り掛ける。
「聞こえるでしょう? 悲しみや憎悪、ありとあらゆる負の声が。あなたがなかなか抱いてくれない感情の数々が。受け入れなさい。そしてあなたが世界を滅ぼすのです」
エリーシャが言う『受け入れる』意味は、ミティアがしなくてはならない『受け入れる』とは違う意味だった。『本当の神』の言葉を忘れてはいなかった。だが、『声』による精神攻撃は、ミティア自身が自我を保つのに精いっぱいだった。
エリーシャはジェフリーを凝視する。だがその目は邪魔をするのかと、ゴミでも見るように蔑んでいる。
「邪魔です」
「ミティアに近寄るな! 世界を滅ぼすことなんて、絶対にさせない!!」
剣を向けるが、この人に剣を向けてもいいのだろうか。ジェフリーの中で迷いがあった。だが、この抜いた剣を邪神龍に向けるわけにもいかない。
「では忌み子……この体の恨みを知っていますか?」
「…………」
ジェフリーは何が始まるのかと身構えてしまった。
エリーシャは胸に手を当てながら微笑む。
「あなたが生まれたから、この体のおかあさんは亡くなった。そうでしたよね?」
何かと思えば、家庭の事情の掘り返しだ。ジェフリーはくだらないと思った。父親のケーシスではないが、悪態をつきそうになった。だが、このエリーシャは何を知っているのかは気になった。
「直接的な理由ではなかったけれど、あなたが生まれたせいで体調は一気に悪くなったと聞いています。お気の毒に……生まれて何も知らず、のうのうと生きて来たのでしょう? ただ何となく、生まれた奇跡も知らず、いい加減で、自分だけがいいと自分勝手に。そして生きていることに感謝など、したこともなかったでしょう?」
「否定はしない……」
「ここに生きたくても生きることのできなかった人がいるのですよ? あなたのおねえさんです。どんな気持ちですか?」
「…………」
答えられない。答える権利はない。何を言ってもきっと無駄だ。ジェフリーは額に手を着く。鈍い頭痛を感じた。
エリーシャはジェフリーも精神面で追い詰めようとしていた。
ミティアはびくりと反応しながら顔を上げた。ジェフリーの背中にしがみ付き、顔を埋めながら激しく震えている。
「だめ、この人の言葉を聞いちゃ……」
ミティアの頭の中で憎悪が渦巻く。必死に堪えながら、ジェフリーを気遣った。
ジェフリーの心が闇に染まるのを食い止めようとするのは、ケーシスもそうだった。
「ジェフリー!! そいつは、エリーシャの器に居座る悪魔だ!! 本当のエリーシャだったらそんなこと、絶対に言わねぇ!!」
都合がいいことはわかっている。ジェフリーもケーシスの言葉を信じたかった。
エリーシャは、せっかく立ち上がろうとするケーシスを再び地に伏せさせる。ノーモーションで相手を地に伏せる力、魔法だろうか。その正体は定かではない。
「おとうさん、おとなしくしていてね。感謝しているんだから、最後に殺してあげる。だからこれから起きること、ちゃんと見ていてね?」
見るだけで魔法でも使えるのだろうか。掛かった重力に骨の軋む音がした。普通ならあり得ない。不可能な能力はきっとルッシェナがもたらしたものだ。
高度な技術をとんでもない奴に注ぎ込んだものだ。ケーシスはチャンスを待った。まだ何か打つ手はあるはずだ。科学と魔法を併せた力。だが、それは人がもたらしたもの。ならば、人の手で何とかなるはずだ。
「クソ……」
うつ伏せで何とか顔だけ上げるも、眼鏡がないせいで視界がぼやけていた。ケーシスの視界にグレーの塊が見えた。しっとりと柔らかいものが手の甲に触れる。
「のぉん、お前さんは元気そうじゃのぉん……」
たいたいの正体がわかった。しっとりと柔らかい感覚は肉球だ。そしてもう一つ、肉球からカランと大振りの石が転がった。
「へぇ、気が利くな……」
ケーシスはショコラを小馬鹿にもした。それでも導きだけはしてくれるらしい。素早く手に握って、エリーシャに見付からないようにコソコソと作戦会議をする。幸いにも今はミティアとジェフリーにご執着だ。傲岸不遜な中身であるがゆえ、視野は狭そうで助かった。
ケーシスは信じながら黙って耳を傾ける。
エリーシャの狙いはジェフリーの存在を崩すことだ。今、彼の存在がどれほど邪魔なのか、実力行使に出るのは簡単だ。だが、どうもルッシェナから嫌な部分を受け継いだようだ。いたぶるようにも思える。ただ殺す、消すではなく、嬲り、いたぶり、苦しみもがく様を見たいようだ。
「生まれなければよかったのではありませんか? 世界の生贄に希望を与えたつもりですか? いくらいい行いをしても、あなたの生まれながらの罪は消えません」
不敵な笑みだ。陥れるつもりでいることはわかっていても、指摘を受けた今まで何をして来たのか疑問に思える。
確かにエリーシャが言う、生まれながらの罪は誰よりも重いだろう。生きていることに感謝などしなかった。何も知らなかったとは言え、世界の生贄であるミティアに希望を与えたかもしれない。要らない思わせぶりもしたかもしれない。助けて一方的にいい気になって、正義の味方みたいなこともした。好きになってしまった。愛してしまった。未来のことまで考えてしまって……図々しいかもしれない。
今まさに、心が砕かれようとしていたときだ。ジェフリーの心はミティアの声で救われた。
「罪なんて、感じる必要ないよ!!」
ジェフリーのぎゅっと掴まれたままの服が一層強く引っ張られた。ミティアは涙声だが、抑え込もうと必死になりながらジェフリーをじっと見上げる。
エリーシャは声を荒げながら美しい容貌を崩す。
「馬鹿な。なぜあなたは『哀しみの声』を聴いて、正気を保っていられるのですか?」
その疑問に、ミティアが直々に答えた。涙を拭い、かぶりを振って前に出た。
「これ、『哀しみの声』って言うんだね。聞いたよ、たくさん。そしてあなたの哀しみも届いた。だけど、全部が悪いことじゃない!! 乗り越えたその先に立っている人だっているよ。大袈裟だけど、世界はもっとよくなれる、これから変われるはずなのに、その可能性を潰す権利はあなたにないッ!!」
ミティアにしては信じられない声量だ。力強く、どこか気高く、揺るぎない、誰にも負けない勇気を与えてくれる。ジェフリーは心を強く持てた。
エリーシャはミティアを睨みつけた。
「何の能力もない私が、ただ文明の発達したこの都市に存在するだけで、皆の代表になっただけで、勝手に神として崇められた理不尽を誰が理解できましょう?」
「わたしだって、ただの一人の女の子でいたかった!! 勝手に世界の生贄にされて、これだって理不尽だよ!! だけど、わたしは築いたものがある!! その理不尽があってからこそ得た大切なものがある。どうして絶望しちゃったの!?」
ミティアは振り返って邪神龍を見上げた。
「これは、あなたなのでしょう? 女神エリーシャ……」
ハッとするジェフリー。始祖の邪神龍と一緒に封じられていたのは女の子だった。どこかセティのように気高く、綺麗な子だった。女神と崇められても納得がいく。あれが本当のエリーシャだとしたら彼女は相当な哀しみを背負っている。この傲慢な性格は、何も特別でないのに特別扱いを受けた反動。何も持っていないと知った人間が、実は何でもないただの女の子に何をしただろうか。いくらでも悪い想像はできる。そして憎しみは積み重なった。
ジェフリーには理解が難しかった。だが、ミティアはどうだろうか。その慈悲深い心はエリーシャを救えるだろうか。
エリーシャはミティアの顔をじっと見る。
「では、選んでいただきましょうか?」
含みのある笑い、どこか竜次のお得意にも似た笑みだが器だけは肉親。変にデジャヴュを感じるのも仕方がない。それよりも、エリーシャの不穏な言葉が気になる。ミティアに向けられたものだ。
ジェフリーは心を乱す。ミティアは邪神龍に歩み寄り肩を落とした。落胆しているのかと思ったが、どうも様子が違う。嫌な予感がした。
「ミティア、まさか……やめろッ!!」
ジェフリーが手を伸ばそうにも、駆け寄ろうにも、背後からエリーシャに馬乗りになられた。もの凄い力でジェフリーを叩き伏せる。
ジェフリーは鷲掴みされ、顔を上げられた。
「何も絶望することはありません。これから、この世で最も美しい滅びが見られるのだから……」
「やめろ!! ミティアッ!!」
声はもう届かないのか。エリーシャが言う『哀しみの声』で精神をやられたのかと思ったくらいだ。人を憎むことができないとミティアは言っていた。実際、一緒に行動をともにして彼女が誰かを憎むことはほとんどなかった。心優しいミティアが何を選択するなど、もうわかり切っていたものだった。もっとつなぎ止めておけばよかったと、激しく後悔した。
「世界の生贄、そんなもの、わたしで終わりにしたい……」
「姉ちゃん、ヤケを起こすな!! 何のためにここへ来たのか思い出してくれ!!」
ギリギリと歯を食いしばり、体を起こそうと試みるケーシス。掛けられた重力魔法に屈して、何もできないことがもどかしい。
これだけの危機が迫っているのに、ショコラだけは妙に落ち着いている。警戒をしているのか、出方を窺っているのかは読めない。そう言えばいつもギリギリまで肝心なことを話さないのがこの猫の気質だった。こののんびりも、何か意味があるのだろうか。
ミティアは振り返った。可愛らしく、うしろで手を組み、弾ける笑顔を見せる。
「わたしは、待っているから……」
二人が見ている目の前で、ミティアは笑ったまま黒い瘴気に覆われ、呑まれた。始祖の邪神龍が動き出す。もうこうなっては絶望の始まりだ。
エリーシャも動き出した。ジェフリーとケーシスの呪縛を解き、反応を見ていた。
「悲しまなくてもすぐ彼女に会えます。違う存在だと思いますが」
高笑いでもしそうなエリーシャが、ショコラの一言で機嫌を悪くした。
「それはどうかのぉん?」
ショコラは耳を立てながら尻尾をパタパタとさせる。耳を立てている。この点を、エリーシャは不審がった。
そう遠くない場所で爆発音に似た大きな音と、大きく跳ねる水の音がした。時差で雨のようなものが降り掛かった。思わずエリーシャも警戒する。彼女が次に見たものは、光の柱を抜けた黒く大きな真球体だった。轟速でこちらに向かって来る。
「な、何……!?」
始祖の邪神龍に直撃した。そのまま薙ぎ倒し、水飛沫を経てこちらへ抜ける。瘴気の渦の横を削り、まるでエリーシャを狙った様に突き抜けた。
ジェフリーは今がチャンスだと見た。
「ミティア!!」
無我夢中で自分の身の危険など一切考えていなかった。ジェフリーはミティアをまだ助けられると信じて瘴気の渦に飛び込んだ。
そこは、想像などしていなかった深い闇だった。
落ちて、冷たい空気に曝された。それはまるで、凍り付くように……。
退いたエリーシャは通り抜けて消えた方角を眺める。
「大魔法……どこから?!」
エリーシャにとっては、とんだ邪魔が入ったと言うところか。この気の緩みが反撃の機会だった。
ケーシスは疾走し、エリーシャの脇に回し蹴りを入れた。
「つああッ!!」
普通の人間なら、骨の一本も折れるような強烈な一撃だ。感触はあったが、エリーシャはびくともしない。睨み合った刹那にケーシスは足を引き、身を反らす勢いでパンチまで繰り出した。また踏みとどまるかと思いきや、今度は激しく吹っ飛んだ。
所謂少年漫画のぶっ飛びにも似ている。
沙蘭の武神とは言ったものだ。武器だけではなく、体術もどこに決まればダメージとなるかを計算して放っている。ケーシスは手応えを感じた。
「へっ、やっぱり有限なんだな!? マジモンの神様だったら人間の攻撃なんて受け付けねぇだろうからよぉ!!」
腹を抱えて蹲るエリーシャ。髪の毛が逆立つように風を受けた。
「死に急ぎますか、おとうさん……」
エリーシャの一段と声質が低い。
ケーシスは見下すように仁王立ちをする。
「おとうさん、だぁ!? ふざけんな!! 俺ぁそんな娘を持った覚えはねぇんだよ!!」
「そうですか。この体に躊躇しない。可哀そうに……」
「ウチのガキは融通の利かない王様崩れの野郎、お転婆でじゃじゃ馬だがしっかりした娘、それから……」
ケーシスは言い掛けて目線だけ瘴気の渦に向ける。
「俺にそっくりで不器用な生き方しかできないが、何事にも一生懸命な馬鹿野郎。それが俺の大切な家族だ!!」
自信満々で言い切った。ケーシスの腹はもう決まっている。自分の子どもには誇りを持っている。親としての誇りはこれから築いて行こうと心に誓った。
エリーシャはケーシスに殺意を向ける。
「人間は……自分勝手ですね」
「特大ブーメランだな、神様を名乗るペテン師が!!」
「そこまで言うのなら、偽りの神ではないことを証明しましょう。浄化を、始めます」
エリーシャは光の柱に向かって手をかざした。
ズシンと重力を感じる揺れが発生した。この地震は天空都市の急降下を意味する。今回は強く、立っているのが危うい。石床には亀裂が走り、浅瀬の水を乱した。おかしな話だが、空に見える月は小さく、空が遠い。視界がぼやけているケーシスも把握できたくらいだ。
「は、はぁッ!? 浄化だと?!」
「むぅ、マズいのぉん」
揺れが収まったと思ったら、今度は光の柱が消えた。一気に辺りが暗くなった。夜闇が広がる。
ケーシスはフェアリーライトよりも一層明るいホーリーライトを放つ。辺りは明るくなっても、気持ちは明るくならない。
目の前でエリーシャは瘴気の渦を見つめていた。狂おしい満面の笑みに、寒気を感じた。これで、瘴気が大きくなっているのだから、恐怖が芽生える。
「さぁ、いらっしゃい、最後の……世界の生贄」
仕掛けるにも、ケーシスだって人間だ。恐怖に一瞬足が竦んだ。足も手も止まっている間に、信じられないことが起きた。目の前の水たまりから大きな影が上がった。雨よりもひどい水を被る。ケーシスはこれで我に返った。止まっている場合ではない。大きな影は薙ぎ倒された邪神龍かと思ったがもう少し小さい。
ケーシスは正体を把握する前に、水とは違う生温かいものを顔に被った。ケーシスの視界が塞がれる。こうも連続だと不快極まりない。
「目に入りやがった、クソが!! 何が起こっ……」
ケーシスは目元を擦った手を離して言葉を詰まらせた。自分の手が真っ赤だ。冷たい水と混ざって生温い。血だ。どこも痛くないし、少なくとも自分のものではない。
ケーシスは視線を上げる。すると、残った皆が戦っていたルッシェナが目の前にいた。大きな翼が夜闇に染まって不気味だ。いや、逆かもしれない。
エリーシャが絶叫した。
「ああああああっ!! さい、ご、に、裏切ります……かっは……ごっ……」
ケーシスは我が目を疑った。傷を負ったルッシェナが、エリーシャを鷲掴みにしている。鋭い爪を立て、たくさんの返り血を浴びながら握り潰そうとしていたのだ。理性はとっくに失われているはずなのに、理由がわからない。
血まみれのエリーシャは血を吐きながら逃れようと抵抗している。
「渡さ、ぬ……私が、神に……」
女性とは思えない低く、唸るような声だ。思想が一致していたからこそ、利用し利用され、最後のぶつかり合いと言うところなのだろうか。欲望のぶつかり合いから殺し合いに発展など、よくある話だが今は世界や神など壮絶な条件が揃っている。
ショコラはこの好機を見逃さなかった。
「何をしているのぉ!! チャンスなのよぉ!?」
「け、けど、あいつに何が利くんだ?!」
「お主、『歪み』を使えるのではないのかなぁん?」
ケーシスはショコラに差し入れられた魔石を手に詠唱する。ケーシスは眼鏡を掛けていない。ゆえに、正確にはどんな状況なのかを把握していない。ぼんやりと見える視界、ルッシェナはこちらを向いて言うようにも見えたし、どう解釈するのが正しいのかわからない。もしかしたら、純粋に欲望に忠実なだけで『助け』など本当に考えていないかもしれない。理性が残っているのなら、何か言ってくれればいいものを。
ケーシスは魔石を弾き、大魔導士に匹敵する魔導士の端くれらしい魔法をお見舞いする。
「閻魔様に裁いてもらえッ!! カオス・ゲートッ!!」
ケーシスが唱えたのは強制魔界転送魔法だ。非現実かつ、闇の上級魔法。なぜ彼がこんな魔法を使えるのかと言うと、力押しよりも単純ですぐに勝負が付くからだ。
ジリッっと導火線に火が点いたように、一瞬だけ電気が走った感覚を腕に覚える。舞い起きるつむじ風、正確な範囲はわからない。放つ瞬間にスペルコストを考慮してホーリーライトは消してしまった。辺りはほとんどが真っ暗だが、ケーシスは指先に感覚を研ぎ澄ます。何かに触れる感触は魔法のせいかもしれない。だが、大きく走った亀裂に開かれた魔界への誘い。魔界への門があったのなら、この魔法の相性は抜群にいいはずだ。
暗闇の中でエリーシャの声がこだまする。
「は、なせ……貴様……」
恨めしい声だ。初めに聞いた声とはほど遠い。エリーシャの憎悪の声は続いた。
「後悔、なさい!! 最も……汚いのは、にんげ……」
かまわずケーシスは放った手を振り上げる。すると、風が大きく渦を巻く。竜巻でも起きているのかと思うくらいだ。それほどの大きな魔法を熟すケーシスもただ者ではない。
「あばよっ!! 今度は、争いのない時代に生まれてくれッ!!」
断末魔だけは女性の声だった。厳密には葬っただけなので、断末魔にはならないのかもしれない。ケーシス自らが殺めたわけではない。
ケーシスはあまりの風に足元を崩しそうになったがこれを耐えた。足場はもう脆くなっている。革靴が水に沈むのを前に、ケーシスは振り上げた手を握り、力いっぱい振り下ろした。その勢いで膝を着いて座り込んだ。
都合のいい持病だ、こんな所で咳き込んで噎せ返す。口の中は血の臭いでいっぱいだが、これが自分の血なのかはわからない。とにかく必死でわからなかった。
「のぉ……」
ショコラの情けない鳴き声だ。
ケーシスはゼーゼーと呼吸し、苦しそうにしながら鳴き声のした方に手を探らせる。やっとつかんだ感覚は生き物の温かさだった。ケーシスは確信をもってショコラを摘まみ上げる。
「おい、クソ猫! 俺に何を使わせたんだ? 魔石じゃねぇな? 強化魔石、ブーストか?」
「ほむぅ……」
ショコラは悪びれる様子はないようだ。だが、あの状況でケーシスの体に負荷を掛けさせた。目の前で体の不調を訴え、咳き込むケーシスを見て、少しは悪く思ったようだ。背を丸くし、しょげている。
「クソが。俺じゃなかったら体バラバラだぞ」
「むむぅ、す、すまんのぉん」
「ったく……」
ブースト石は魔法の効果を高めるだけではない。当然魔力の消費も増える。体の負担もそうだ。学生や慣れない人が上級魔法でブースト石を使うなど、命を捨てる行為に等しい。神族の禁忌の魔法だってそうなのだ。ある程度、術主のタフさは必要とされる。
ケーシスが呼吸を整えるのも待ってくれず、さらに大きな揺れが襲った。さすがに焦るも、状況は確認したい。重力に逆らうのを諦め、膝を着いたままホーリーライトを放った。明るくなった辺りに照らされたのは、そこにある血だまりと魔法による亀裂。そして大きな瘴気の渦と真っ黒い壁だ。壁の正体はすぐに気が付いた。
「あぁ、そうか。まだテメェが残っていやがったか……」
体が悲鳴を上げていると言うのに、水面から這い上がってこちらを見下している黒い龍がいた。黒い壁の正体に、ケーシスは中身のない笑いを浮かべる。
「はは……もう、俺にそんな元気はねぇんだよ。クソが……」
せっかく放った光も一瞬だった。ケーシスは揺れと重力に身を任せるように気絶してしまった。初老を過ぎたケーシスにはもう立ち上がる気力はない。手に水の冷たい感触を受けながら、意識は落ちた。
「のぉ、ダメなのぉ!!」
ショコラが必死でケーシスの頭、頬を叩く。暗がりで正確には頬なのかわからないが、ケーシスを叩いていることは確かだ。
邪神龍は主を失い、今にも暴走をしそうだ。もう誰の命令で動かなくてもいい。溜め込んだ哀しみを解き放つのみ。
「そんな……エリーシャを討伐したのに、こんな、こんなのぉ……」
ショコラの悲痛な声に応える者はない。そのはずだった。ショコラの背後に冷たい気配を感じた。毛が逆立つ。震える。あとは、恐怖が襲う。
「……?」
これ以上は悪いことが起こらないと思っていたが、悪いことではないらしい。
魔界への門があった道から明るい光がする。彷徨える魂達がこちらへ流れ込んで来たのだ。
奇妙な光景だ。魂にも意思があるのだろうか。数多くの魂の中からやたらとケーシスに近付く魂が彼の手に光を灯らせる。ショコラは黙って見ていた。気を失っているケーシスが手に何か握らされている。
「そいつが『門』を開いた人間か?」
ショコラは尻尾を立て、過剰な反応をした。気配がまったくない。魂たちの光で姿を捉えたと思ったら、ショコラは全身の毛が逆立つ悪寒を感じた。
黒っぽい髪に身軽な格好、そして猫のような尻尾。赤い目の人がショコラをじっと見下ろしている。
ショコラはただならぬ威圧感を覚えた。うまく言葉にあらわせられないが、体はこの『人』をただ者ではないと反応していた。
「よぉ、元番人。オレを覚えているか?」
ショコラは立てた尻尾を下ろし、パタパタとさせる。声でやっと思い出した。
「まさか、『神様』なのぉん?!」
ショコラが『神様』と呼んだのは、魔界に身を置いていたユーリィだ。現世に降り立ったことにも驚いたが、通常なら神に遭遇するなどありえない。
ユーリィはここが天空都市であったことを把握している様子だった。理解の上でこの場に赴いたということだろう。反応のないケーシスに歩み寄り、ケーシスに寄り添う光を指さした。
「さっき、一瞬だけ『門』が開いた。そのときに、世界を滅ぼそうとしていた奴が葬られた。だが、その少し前に、硝子の魂たちが悲しみや苦しみといった理不尽の重い鎖から解放された。そいつはその一つ。どうしてもこいつに礼が言いたいそうだ」
ショコラは黙って聞いていたが、思い返せば辻褄は合っている。
門が開いた点は、ケーシスが放った歪みを生み出す魔法のことだろう。
世界を滅ぼそうとしていた奴が葬られた点、これはエリーシャの断末魔を聞いた。おそらくキメラ化したルッシェナも該当すると思われる。
その少し前に、『硝子の魂たちが悲しみや苦しみといった理不尽の重い鎖から解放された』とユーリィは言っていた。つまり、ミティアが自分の役目を忠実に果たした。もっと言うと、ミティアは邪神龍を構成する負の感情を取り込んだか、浄化したのだろう。
では、このぼんやりと光る魂は……
ユーリィは八重歯を見せて笑う。
「じゃあな、元番人。お前はこれから大変だろうが、それも役目であり運命だ」
ショコラはびくりと反応した。ただならぬ威圧に翻弄される。
「これから……?」
「あぁそうだ。廃れたとはいえ、元々は文明が発達していた名残もあるだろう。これを管理しないと地上の奴ら、次は兵器を作るかもしれないぞ。それこそ、自分たちの手で自分たちが住む世界を壊すことに、なぁ?」
漠然とした導きだが、ユーリィの言葉には納得がいく。これが神の言葉なら重いものだ。ショコラは自分のもう一つの役目を思い出した。
ユーリィの言葉が耳に残る。交わした少ない言葉の中には、『未来』へのキーワードがあった。
ユーリィは言葉を残し、去ろうと足を引いた。ショコラは思わず反応する。
「にゃっ!? 神様が今度は何を?」
ショコラの質問にユーリィはまた八重歯を見せて笑う。
「ちょっと背中を押してやろうと思ってな」
「?」
「こっちの話だ」
ショコラは首を傾げる。神様と会話を交わせているだけで不思議だが、神がこれから何をしようというのかは気になった。
ユーリィはそれでもここを去ろうとしている。
「あぁ、オレがここに来たのは内緒だ。わかったな?」
これ以上の言及を避けるような言い方だ。ユーリィは目の前の瘴気の渦に消えた。
まるで嵐のような存在だった。ショコラは呆然としてしまった。
ケーシスの手に灯った光と魂はまるでケーシスに語り掛けるように、命の吐息のようなものを感じる。
ケーシスの手に小さい金属のようなものが見えた。
魂はショコラの前を抜けスッと魂の群れを抜けた。もう一つ、明らかに動きのおかしな魂が瘴気の渦に近寄った。ショコラにとって、わけがわからない。いや、誰もわからないだろう。だが、この魂がケーシスに寄り添っていたところで勘付いた。
「まさか、本物の……」
瘴気の渦の前で魂が女性の姿に変わった。エリーシャに似ている。いや、本当にそうかもしれない。青白い光を放っている『彼女』は目線だけケーシスに向け、微笑んだ。先ほどまで神になろうと憎しみをぶつけていたエリーシャではない。もっと優しい笑みを浮かべている。
ショコラは名前を呼んだ。
「エリーシャ?」
身近な誰かと似ている。そうだ。ミティアの慈愛に満ちた微笑みに酷似していた。ショコラが名前を呼ぶも、その魂は眩い光を放った。たちまち視界が真っ白になった。ショコラが目を開けていたれないほど眩しいものだった。どこまでこの光は広がったのか、想像ができない。
ジェフリーは瘴気の中に身を投じた。どこかにミティアがいると信じて。
真っ暗だ。何も見えない。
空気は冷たく、自分が生きているのか、死んでしまったのかもわからない。だが、手も足も動く。感覚はあった。自分の手は温かい。だが、地に足が着いている感覚はなかった。やはり死んだのかもしれない。
いや、何か聞こえる。まだ生きているならきっと使えるはずだ。
「頼む!!」
指先に心許ない光が灯った。魔法は使えるらしいが、開けた視界には目を疑うものが入った。青いコートを着た赤髪の……ミティアが蹲って腕を抱え、声を殺して泣いているのだ。黒い瘴気を身に纏いながら。
「ミティアッ!!」
ジェフリーが手を伸ばすも、足は動かない。まるで引き摺られているような感覚だ。それもそのはず、心許ない光が照らしたのは、無数の手だ。真っ黒で、瘴気を纏っている。わかりやすくて助かった。ここは現実ではない。ほとんど意識だけだ。
ミティアは『哀しみの声』に身を投じて何も聞こえていないという解釈が正しいだろう。ならば、呼び続けるしかない。
「ミティア、俺だ!! 頼む……応えてくれ!! そっちに行かないで欲しい。戻って来てくれ!! 俺の声を聞いてくれッ!!」
瘴気のせいか頭が痛い。熱を帯びた喉が焼けるように痛んだ。それでも足は動かない。無駄な抵抗はやめろと言わんばかりに足を引かれた。地を這う感覚だが、視覚には瘴気に引き摺り込まれようとしている。
「ふ……ざけるな!!」
枯れかけの声が震えた。掠れて、泣いているのは自分でもわかっている。それでも諦めたくなかった。
「一緒に生きようって、約束したじゃないかッ!!」
「……!?」
何に反応したのか、ミティアが顔を上げた。目元を真っ赤にした彼女はジェフリーの姿を見付けて首を振った。
「どうして……?」
「お前っていつもそうだよな。どうして一人で抱え込もうとするんだ」
「こうすれば……わたしがこの『声』を聴けば、もう誰も悲しまなくていいんだよ!?」
「いつから聖女になった!? 救世主にでもなったつもりか!?」
応答するも、ミティアは諦めの表情を浮かべたままだ。咽び泣いて、耳を塞いだ。
「これからの未来が救われるなら、わたしはこれでいい!! あなたが生きてさえいてくれればそれでかまわないッ!!」
「馬鹿野郎ッ!! 頼むから、頼むから……そんなこと、言わないでくれ!!」
ジェフリーの悲痛な声。ミティアは聞かないように耳を強く塞いだ。
届かない思いと伸ばしている手。ジェフリーは今、人生で最大の『痛み』を感じている。引き裂かれた想いがこんなに痛いなんて想像もしなかった。こんな経験は初めてだ。
自分勝手に生きて来たから? もっと大切にしなかったから? 大切な人が世界のために消えてしまうなんて信じたくない。確証はないが、ミティアの言葉からそうと捉えられた。ジェフリーはありったけの想いを叫んだ。
「愛してるッ!! ミティアがいない世界で、俺は生きていたくないッ!!」
「……!!」
声は届いた。ミティアは耳を塞ぐ手を解き、顔を覆っている。彼女の周りにあった黒い瘴気がなくなった。
ミティアは立ち上がって身動きが取れないジェフリーに歩み寄った。彼女は動けるらしい。優しくジェフリーの手を握った。彼女の手は一層暖かい。涙で濡れてしまっているのが残念だ。
「ミティア……?」
「わたしを愛してくれてありがとう」
優しい笑顔、頬を伝う涙を拭ってやりたい思いだった。言葉なんて多くはいらない。
ミティアは暖かい手を解く。そして一歩下がった。
「でも、もう……遅いんだ。ごめんね、ジェフリー……」
物悲しい表情に変わった。この言葉の意味をすぐに理解出来なかった。
「ミティア……どういう……」
「わたし、もっとジェフリーの口からたくさんの言葉を聞きたかった。そうしたら、もっと『未来』を歩めたのかもしれないね」
意識だけの世界、そのはずだった。この手の感覚を忘れない。再び視界は真っ暗になった。最後に見たミティアの笑顔が眩しくて、眩しくて悲しい。
深い闇に引きずり込まれた。落ちるような感覚。まだ落ちるのかと、呆れてしまう。
そんなことよりも、自分は愛する人を助けられなかったのだろうかと失意の中だ。離してしまったこの手が、寒さを訴えるように震える。
「助けに……?」
何も見えない中で耳に残ったミティアの声と言葉が救いだった。だが、どうやって助けたらいいのだろう。何をしたら、彼女は泣かずに済んだのだろう。女々しいが、ミティアの存在がどれだけ大きいか、あらためて理解した。わかっていたはずなのに、一緒にいることが当たり前で、離れて愛しい思いが一層強まった。
一緒にいたい。ずっと、離れないでほしい。何でもない男女が、当たり前のように望むことが叶わないのがもどかしかった。このまま何も考えずに死んでしまおうか?
『まだ、歩けるよね?』
冷たい闇に堕ちそうな感覚を払う声だ。とても澄んだ声で、どこかで聞いたことがあるような錯覚を起こす。手も足も動かないのに、歩けるのだろうか。
『そちらに堕ちてはいけない人……』
ジェフリーは声に反応する。
「誰だ? 俺にはもう、何も残っちゃいない」
言って気落ちした。間違ったことは言っていない。それでも、もう何もすることができない。何も希望なんて抱けない。ひたすら、ミティアに対する謝罪の言葉しか浮かんで来なかった。そんな中で、暖かい光を感じた。
『あなたはまだ生きなくてはいけない』
「生きてどうする?」
『ずっと自分のために生きて来た。そう言いたいのでしょう?』
生きなくてはいけないと言うのだから、本当に死んだのかもしれない。希望を抱けないまま生きるなら、それでもかまわないと思った。
いつだか、魔界で言われていた魂の選択。待てるのなら、何も考えずに愛しい人が来るまで待ち続けるのも悪くない。
だが、声はジェフリーを希望に導こうとしている。
『じゃあ、これからは誰かのために生きようとは思わない?』
「誰か?」
『そう、大切な人なのでしょう?』
「今の俺に助けられなかった」
『まだ間に合うよ。だってあなたはまだ、死んでない。さあ、立って。あなたは一人じゃない』
立つ? 立つとは? 足はあるのだろうか? 一人じゃない?
いや、一人だ。一人になってしまった。かすかな光は消えてしまった。声の主は誰だったのだろうか。
虚無の空間に別の声がこだまする。それは聞き覚えのあるよく通る声だった。
「もういいだろう? そいつはしくじったんだ。せっかく魂を戻してやったというのに。これだから人間は不器用で仕方がない」
聞き覚えのある声だ。ジェフリーは名前が思い出せず、頭に鈍い痛みを感じた。痛みがあるのだから、まだ生きている。意識だけかと思ったが、そうではないようだ。もしくは本当に暗闇なのだろうか。何も見えないまま、ジェフリーは言う。
「その声は、神様、か?」
暗闇に向かって言っているのだから、かなりの怪しい人だと思われるかもしれない。こんな窮地にあらわれるのだから、『神様』らしいものだ。本当の神ならば、また導いてくれるのだろうか。ジェフリーは淡い期待を抱いた。
「直接助けるつもりはない。だって間違ったのはお前だからな」
「間違えた? 俺が何を間違えたんだ?! 希望を与えて、絶望に突き落とすようなことをするのが神様なのか? 俺にわざわざこんなことを言うために、ここへ足を運んだのかよ。ご苦労だな……」
失意の中、ジェフリーが言えることなどこの程度。神を愚弄する言動だ。
さすがのユーリィもこれには呆れた。これくらいの言動で怒りを覚えるほどの器量ではない。なぜなら、神とは生きている者にとって都合のいいものだからだ。罵倒されることも慣れている。
ユーリィは意外な返事をした。
「そうだぞ。このままでは世界が危ないからな」
神様らしい意見だ。世界のことを考えている。だが、もしかしたらミティアもそうだったのかもしれない。それなのに、ジェフリーはミティアのことばかりを考えていた。これが間違ったことだったのだろうか。
ジェフリーはようやく思考が落ち着いてきたのを自身で感じた。視野が狭かったと言うべきかもしれない。それがどう『世界』に作用するのかまでは考えがいたらない。
どこで間違えたのか、何をするべきだったのか。ジェフリーは考え込んだ。
ユーリィは最後の助言をする。
「世界の生贄がお前に言ったことを思い出せ。これが最後のチャンスだからな? 次は世界が滅ぶぞ。言っておくが、脅しじゃないからな?」
声質がやけに低めだ。それだけ真剣に危機を訴えているのかもしれない。だが、ジェフリーはその導きに心当たりがあった。
浅い眠りをしているような感覚だった。遠くで声が聞こえる。
「いた!! ちょっと、早くこっちッ!!」
「ジェフリーさん!! た、大変だ。せ、先生!!」
「お兄ちゃん先生は頼りにならないよ。怪我もしていたし」
「そういう言い方は……って、おじさん!?」
まだ遠いが、やかましい声がする。ジェフリーは聞き覚えがあり、耳を澄ます。この声、喋り方はコーディとサキだ。少しの時間しか離れていなかったのに、妙に懐かしい。
「これは血? はっ、ミティアさんは!?」
「それはあと。まずはお兄ちゃんたちを気付かせないと!!」
「……っつたたた……」
「サキは怪我してるし、無理しないでよ」
「でも、助けないと……」
ジェフリーは体を起こされている感覚を得た。手の主は怪我をしているのかぎこちない引っ張り方だ。服が摘ままれたが、もちろんそれだけで持ち上げることは難しい。
「ぷはっ……のぉんっ!!」
「えぇっ、ショコラさん!? わぁ、くしゃくしゃじゃないですか、大丈夫ですか!?」
「た、大変なのぉ!! 本物のエリーシャが……」
「ぶるぶるしながら話されても……うぅっ、冷たい。どうしてずぶ濡れなんですか?」
遠い声が幾分も近い。そして扱いがもう雑だった。すでにジェフリーなどそっちのけになりつつある。この状況が安易に想像できてしまうのが情けなく思えた。
「それより、ミティアさんはどちらに!?」
「わー、サキったら、この状況でお姉ちゃんを狙ってるの?」
「だ、だからそういう言い方は……」
ジェフリーは謎の怒りを覚えた。俺に何かあったらミティアを頼むとは言った。だが、サキはこれを拒否したはず。都合のいい建前だったのだろうか。何だか少し、イラついて来た。一言、向き合って真正面から言ってやりたい。
「ミティアお姉ちゃんのこと、好きなんでしょう? だってお兄ちゃんがこれならチャンスだもんねぇ?」
「僕はただ、その……」
信じられない。ジェフリーは自分の感覚を確かめながら目を開けた。
コーディとサキが目の前にいる。二人ともボロボロで、大怪我をしているが、なぜか表情は明るい。どちらが先に気が付くかと思ったが、意外にもショコラが先だった。
「のぉん!! ジェフリーさぁんっ!!」
ジェフリーの頬にひんやりとした肉球が触れた。鯖トラ猫、ショコラで間違えない。顔に乗られると物凄い迫力だ。気付かれたならもういいと、ジェフリーは体を起こした。気まずそうなサキと、一応心配している表情を見せるコーディが視界に入った。ジェフリーは深いため息をついた。
「俺がのびていたからって、好き勝手言いやがって……」
起き上がって早々の悪態だ。ジェフリーらしい。眉間にしわも寄り、主にサキに向かって嫌味を向けていた。
サキはぎこちない様子で否定した。
「ジ、ジェフリーさん、無事でよかったです! 僕は心配していただけですよ?」
「……はぁ」
ジェフリーはため息を追加した。ジェフリーにとってサキは、友だち以上に友だちだ。これも含めてなのかもしれないが、どうも煮え切らない。睨み合うようになってさらに気まずくなった。
空気をぶち壊す勢いでコーディが質問をした。
「ねぇ、ミティアお姉ちゃんは?」
本当にジェフリーなど二の次で、薄情さに困惑する。これもコーディの特徴かもしれないが、もう少し心配してくれてもいいものなのに残念である。それに、ミティアの質問をされても、ジェフリーには答えられない。
ジェフリーは俯き、自分の手を見た。どんなに伸ばしても届かなかった手だが、右手に違和感を覚えた。
「ん?」
右手の拳に異物を握っていたようだ。確かめようとする視界にケーシスが入った。頭から血でも被ったのか、ひどい顔をしている。いや、目つきが悪いせいでホラー映画にでも出て来る殺人鬼にすら見える。見下すような視線が刺すようで、父親相手なのに、ジェフリーはビクついてしまった。
「親父?」
「テメェ、しくじりやがったな!?」
「は、はぁ!?」
展開が散らかった。ケーシスは牙を見せながらジェフリーの胸倉に掴み掛かった。その手は血に染まって震えている。
「姉ちゃんを見殺しにするつもりか!?」
「見殺し?」
「このボンクラ野郎が……」
ジェフリーは殴られでもするのかと身構えたが、ケーシスは肩で息をしながらジェフリーを突き放した。勢いからして一発でも食らうのかと思っていた。突き放されて気が付いたが、ケーシスは左手に何か握っていた。銀のチェーンが見える。
「親父、それ……」
ぐるりとつながれたチェーンに指輪が見える。ジェフリーは自分が手に持っていた違和感の正体を確認した。手の平の中にはメモ書きがあった。不器用な子どもの文字。書いてあった文字を目にしたジェフリーが目を潤ませる。
『ありがとう』
ギルドで宛てられた手紙の文字に似ていた。絶望と闇に堕ちそうな自分を励ましてくれたのは、本物のエリーシャだ。
弄ばれた魂たちも、解放されるのをずっと待っていたのだ。自分の魂だけではなかったことに気が付いた。だとしたら、ケーシスは誰から言葉を受け取ったのだろうか。
ケーシスは銀のチェーンを手繰り寄せ、指輪と一緒に握った。もう一つ、手の中に何かを握っている。ケーシスはジェフリーに質問をした。
「俺はやることをやって、あの瘴気の呑まれて死んでもいいかと思った。だけど、俺はシルビナの声を聞いた。まだ生きてくださいって。お前もそうなんだろう? 誰かの声を聞いたんだよな?」
ケーシスの話から推測するに、手にしているのはおそらく懐中時計だ。ジェフリーにとって母親であるシルビナの。
遠き日に、沙蘭で結婚指輪を探す依頼をギルドから出していた。正姫たちから聞いたのを思い出した。きっと、ルッシェナに奪われてしまったのだろう。シルビナの体ごと。それが戻されたことになるのだろうか。何もかもが遅い。
だが、ジェフリーが聞いた言葉はもっと親しみやすい声だった。ケーシスがシルビナの声を聞いたのなら、もしかしたら自分の姉、本物のエリーシャなのかもしれない。言われたことを思い出すと、自分に立ち上がれと励まし、『未来』への希望を託すような言い方だった
もの悲しい思いだ。やるせない。どうして今だったのか。今でなくてはならなかったのか。ジェフリーは自分の存在が何よりも小さく感じてしまった。
「あ、あの……」
サキがこの場の空気を乱した。
ジェフリーはてっきり、まだミティアのことを引っ張り出そうとしているのかと思っての軽蔑の眼差しを向ける。もちろん、ジェフリーだけではなく、コーディも同意見のようだ。変な所で気が合った。だが、サキは物怖じしない持ち前の根性で淡々と語り出した。
「さっき、コーディも見たと思うけど。大きな黒い龍がいましたよね? あれは、何だったんですか? 僕が勝手に推測すると、飛んだ位置からしてフィラノスの地下で見た最初の邪神龍ではないですか? まぁ、僕がどうこう言っても仕方ないことかもしれませんけれど……」
語り半ばで頬を膨らませている。サキは自分に向けられている視線があまりいいものではないと早々に察した。
「あっておるぞぉ。続けなさいなぁん」
いい反応を見せたのはショコラだ。いつもは手厳しく、ヒントだけ放り出して答えを導きなさいと自分の足で歩かせる方針である。
そんな反応をされるとは思わず、サキは一瞬驚いた。控えめな性格を抑え込みながら続ける。
「僕はジェフリーさんとショコラさん、それにセティ王女ともあの邪神龍を見ています。そして僕は封じられた哀しみが鎮まるようにと浄化の魔法を掛けました。覚えていますか? もうだいぶ前だと思いますけれど……」
ジェフリーは思い出しながら何度か瞬いた。なぜサキがこんなことを話すのか。ここにも重大なヒントがあった。
「お前……」
「そういう態度を取られたら、続きを話したくないです」
「ま、待ってくれ! この肝心なときにへそを曲げるな!!」
ジェフリーはサキの肩を掴もうとした。だが、さらりとかわされた。右腕はほとんど動かないのか、左手で負担が掛からないように抱え込んでいる。平気な振りをしているが、サキは重症のようだ。そう言えばコーディも怪我をして左手を吊っていた。飛んだと言っていたが、コーディはサキを引っ張って飛んだのだろう。サキはあまり肉付きがよくないので軽いのは皆が知っている。
それはそうと、どうやったらサキの機嫌がよくなるだろうか。ジェフリーが考えていると、一際大きな声が聞こえた。派手に水を跳ねる音がする。
「おぉーい!! うぉぉぉーいっ!!」
この下品でやかましい声は圭馬だ。声のする方を見ると、懐中電灯を持ったハーターとローズもこちらへ走っていた。あとの三人の姿が見えないが、ここは水場だ。嫌な予感が過った。
ジェフリーは思考からいったん恐怖症組のことを置いておいた。
間もなくして、ハーターと圭馬が到着する。かなり息を切らせていた。
「ぜー、ぜー……無事かい!?」
息を切らせているハーターの頭には圭馬が乗っている。図々しいところがなぜか懐かしい。
「ちょっと、どういうことなのさ!! さっき邪神龍がいたじゃないか!!」
「待ちたまえ、ウサギさん! キミはおいしい所を全部持って行くつもりなのかい?!」
圭馬が指摘をするように、邪神龍は皆には見えていたようだ。夜闇でも確認できたのだからそれもそうかとジェフリーは納得する。圭馬はどんどん話を進めようとしている。
「お姉ちゃんがいないね。ってことは、ボク、嫌な予感がするけど……」
圭馬は勘がいい。そもそも賢人である上に、邪神龍の知識もそこそこある。そして共通するのは、ミティアに好意を抱いている。やはりミティアを気にしていた。
そこへローズが遅れた到着する。怪我はないようだが、疲労の色が顔の具合がうかがえた。どうしても化粧から判断してしまう。
ローズは呼吸を整える前にケーシスの異常なまでの血による汚れに気が付き、ポケットから何か取り出そうとしていた。
ケーシスはローズの世話焼きを拒否した。
「よせ。コイツは俺の血じゃねぇよ」
「んン!?」
人数が増えればそれだけ話が散らかる。だが、これも精神的に追い詰められた状態に安心と言う希望が射す。
できればここに一番いてほしい人がいる。ジェフリーはついに暗い影を落とした。
つられるようにコーディが声質を下げる。さすがに気遣っているようだ。
「あー……ジェフリーお兄ちゃん?」
さすがに冗談を言っている余裕がない。
どこから解決の一口を見付けようかと模索が始まる。
ハーターは具体的な変化を述べた。まずは天空都市がどうなったのかを推理している。
「とりあえず、頻発していた地震は収まったね。何だか、空が遠い気がするよ。潮の香りもするし、この水はもう海だよね。向こうから陸が見えたんだ。方角からしてフィラノスだと思うけど、光の柱もなくなってぼくたちは世界の統合を止められなかったのかな?」
ハーターは困った様子を見せる。何となくの察しが付くが、ここは天空都市だった場所であり、今は地上に落ちてしまったのだろう。無事だったことが奇跡なのかもしれない。今のところ、変化はわからない。ただ、地に足を着いている感覚はずっと強まった。
圭馬は危機感を抱いていた。ジェフリーに対して強めの質問をした。
「それより、追わなくてよかったの!? あの邪神龍、あのままだと世界を壊し始めちゃうんじゃない!?」
「俺だって、追ったさ。でも、ミティアが『こちら側』に戻したんだと思う。邪神龍はどこへ行った? 今のあれは、哀しみを抱え込んだミティアだ」
「おっとっと、ジェフリーお兄ちゃん、冗談言ってるカオじゃないね」
「冗談なんか言っている場合じゃないだろ!? 俺は、あいつを行かせてしまった。その責任を取らないと、俺は一生後悔する」
「もー後悔してるじゃん」
圭馬はなぜかしょげている。耳も尻尾も元気がない。
焦っているのはジェフリーだけだ。先ほどまで熱くなっていたケーシスも、どこか諦めた表情を浮かべている。
さらに追い打ちを掛けたのはサキの推測だった。
「不確かなことを言っても仕方ないのはわかっていて、あえて言いますが、ミティアさんが邪神龍に取り込まれてしまったのなら、彼女は世界を滅ぼすことをしないと思います。僕の知っているミティアさんだったら、自分だけで抱え込んで消えてしまいたいとの望みそうだな、と」
サキの考えはだいたい合っているだろう。だからこそ、ジェフリーは憤慨した。
「そんなことはわかってる!! だから止めたいんだ!!」
「力を貸してほしい思いはわかっています。でも……」
ジェフリーがミティアを救い出したい気持ちは痛いほどわかっている。それでもサキは今この場所にいる人を一人一人見てため息をついた。ほとんど動ける者がいないのだ。
ハーターは元気かもしれないが、彼ができることは少ない。ローズも戦力と言うよりは皆のサポートや手当てをしていた。コーディもサキも怪我をしている。そしてケーシスだって眼鏡もなく、視界が悪そうだ。目を凝らしている。おまけに彼は丸腰だ。他の分野で戦えるかもしれないがそれもどうなのだろうか。
サキは仲間の確認を踏まえてため息をついた。
「はぁ……僕にもっと余力があればよかったのですが、今は考えるだけの余裕もありません」
サキも疲弊している。倒しても倒しても回復してしまうルッシェナとの戦いで、消耗が激しかったせいだ。怪我もしている。大魔法も放った。今、倒れて眠ってもいいのなら躊躇せずにそうする。
ショコラはサキに擦り寄り、ひどく心配している。
「のぉん、主ぃ……」
「魔石もほとんどありません。もう、僕にできることは……」
使い魔として、サキにどれだけの力が残っているのかがわかるのかもしれない。
考え込むサキの横に黒い影が降りた。獲物を見付けたカラスのような下り立ち方だ。この登場の仕方は誰もが驚く。影の主はクディフだ。手負いのせいか髪は乱れ、手負いの身にこの黒いマント、不気味に思える。
「貴殿はそれでいいかもしれぬが、まだ手はあるのだろう?」
「わっ、びっくりした!」
ジェフリーはクディフに目を向ける。クディフは疲弊しているのか、やけに厳しい表情だ。
少し遅れて竜次とキッドが到着した。これで皆が揃った。
竜次は水恐怖症だと騒ぐ余裕がないらしく、キッドに肩を貸してもらいながらやっと到着したと言う感じだ。クディフは手こそ貸さなかったが、二人を見守る形を取っていたのだと状況で察せる。ジェフリーは、恐怖症の二人をくだらなく思ったことを少し後悔した。今日は後悔ばかりが続く。できたらこんな日は続いてほしくない。
クディフがここまで協力的なのも気になったが、サキに向けられた言葉の方がもっと気になった。クディフは何を知っているのだろうか。皆が合流して早々、サキが話の主軸になった。ジェフリーの直感からすると、まだ救える手段は残っている。いや、そうでなければ、こんなに冷静でいられるはずがない。
サキは声を低めに小さく唸った。
「手、かぁ……」
この反応は何か手がある。だが、サキにしては珍しく渋っている。疲労と怪我で思考が動いていない……というわけではなさそうだ。何が引っ掛かっているようだ。よく見れば、サキは左胸にあるユリのブローチをじっと見ていた。
このユリのブローチはフィラノスの前の国、神族が納めていたヒアノスのものだ。意味が深いブローチだが、これは次期王となるはずだったセティが宿っている。魔界で未来を託してくれた一人だ。
圭馬やショコラのように魔力の開放で実体化し、力を貸してくれる。だが、セティは朽ちた身をルッシェナによって利用されていた。命を弄ばれたガラスの魂だった彼女の魂も、束縛から解放された一つとして該当している可能性が高い。
サキはこのことを懸念していた。
「セティさんのお力なら、邪神龍の暴走を鎮めることができるかもしれません。ミティアさんを『こちら側』に引き戻すことも可能だと思います。でも、開放してしまったら、もしかしたらもう二度とセティさんに会えないかもしれません。彼女は、その……」
「未来を見たがっていた。そうだったな」
クディフは話の流れを把握するのが早かった。おそらく邪神龍も解放された魂たちもここへ向かい途中で見たのだろう。一行の目的を把握していれば、見たものだけで情報の推測は可能だ。
ジェフリーは黙ったまま考え込んだ。確かにセティなら浄化の力で邪神龍の討伐は可能かもしれない。可能なら今すぐにでもすがりたい可能性だ。だが、サキがそうしないのは疲労以外にも理由がある。あえて黙って聞いていた。
サキはジェフリーに向かって言う。
「浄化のタイミングを間違えば、ミティアさんを助けられなくなってしまいます。彼女ごと、その存在を消してしまうのですから」
ジェフリーはびくりと反応し、顔を上げた。サキの言葉が重い。血の気が引く。
サキはジェフリーの目を見て声を張った。
「判断を誤らない自信はありますか?!」
「なっ!?」
疲弊しきっている中で、体を張って大袈裟に反応できるのはジェフリーだけだ。まだやれるはずなのに、ここで己の無力さを知った。今までを思い返しても、一人で何かを成し遂げたのは少ない。気持ちだけが焦っている。
逃げるわけにはいかない。「どうして俺が」とは言えない。失敗しない保証はどこにもない。自信満々には言えなかった。
「失敗したくない。もうしくじりたくはない。でも……」
「ジェフリーさんの気持ちはわかっていますが、今の僕も……」
ミティアを助けたい気持ちは誰だって同じだ。疲弊した体に鞭を討つか、それこそサキまで命を落とすかもしれない。
こんなとき、一歩下がった場所から手を差し伸べてくれる人がいるのも、この一行の特徴だった。ローズがサキに歩み寄り、白衣のポケットからフラスコを差し出した。
「ほい……」
しっかりとゴム栓がされ、この変な青汁にも似た色に見覚えがある。サキは嫌な予感がしつつ、眉を歪ませた。
「えっ?」
「サキ君は、これがあれば頑張れるデス?」
ローズのお手製、魔力回復のマナドリンクだ。ミグミ火山でご馳走になった、いや、それだけではない。思い起こされる思い出に涙しそうになった。確信を持って言えるのは、ローズの行為は『わかっていて』やっている。
サキはフラスコを受け取って恨めしく眺めた。
「はぁ、しょうがないなぁ……」
腹は決まった。サキは皆の顔を見て、最後にジェフリーに向き合って深く頷いた。
「お付き合いします。一応、友だちですからね」
仕方がない、と心から滲み出ている表情だ。サキはゴム栓を乱暴に弾いて一気飲みをしている。
その様子を見て、コーディも行動に出た。何を思ったのか、立っているのもやっとの竜次に右手を差し出した。
「お兄ちゃん先生、『アレ』ちょうだい!!」
「……アレ?」
竜次は重傷のせいかもしれないが、すっとんきょうな反応を見せた。いや、疲弊しているのとは別に、竜次はもともと転機が利かない気質だ。コーディは大きなため息をつきながら手を出し直して強調した。
「ドリンク!! 私、サキの足になるから、ちょーだいって言ってるの!」
疲弊している割には元気かもしれない。竜次はようやく理解した。だが、すでにキッドが腰のカバンを漁っている。キッドも怪我をしているがこれくらいはできるようだ。
キッドは勝手にドリンク剤を取り出し、コーディに渡していた。
「これかしら?」
「えぇっ、クレア?」
「こういうときに使ったらいいじゃないですか?」
「そ、そうですけど……」
たびたび思うのだが、医者のくせにこんなものを持ち歩くなんてどうかしている。皆は旅の道中で持っているのを知っているからいいようなものだが、普通ではないだろう。
何も知らないケーシスとクディフは眉をひそめている。知らなかったら奇妙な光景だ。
受け取ったコーディは首を傾げていた。
「あれ、いつもこんな箱に入ってたっけ? ま、いいか」
コーディはバリバリと品もなく、雑にパッケージを剥いでさらに首を傾げた。
「なんか小さいね。つか、いつもより苦くない?」
飲んでから感想を言った。コーディの品のなさはお墨付きだ。礼儀もほとんどなっていなかったくらいなのだ。皆と行動をともにして少しはマシになったものだが。
コーディは飲んでゴミだけ突き返す。すると礼も言わずにパタパタと羽ばたいた。そんなにすぐ効くとは思えないのだが、気持ちも問題もあるようだ。
コーディのドーピングが終えた頃、サキもお手製のマナドリンクを飲み終えた。
「うぷっ……こんなにおいしくなかったのですね。ごちそうさまでした」
気分悪そうに空のフラスコを返却するサキ。以前、ミティアと間接キスした思い出のある飲み物だが、緊張した今は味がしっかりとわかった。こんな味ではなかったような気がするが、もしかしたら改良したのかもしれないので深くは触れずにいた。
サキは鳥肌を押さえるように腕をさすっている。こちらのドリンクはドーピングではないので、体調はそのままだ。体力の前借りはできない。右腕が痛そうだが、準備が整ったと合図した。ショコラが肩に乗り、圭馬がカバンに潜り込んだ。ハッキリ言って、かなり重い。
サキの準備がやけに重々しい。ここまでされると、ジェフリーは悪く思った。
「な、何だか、これじゃあ、嫌々お前を強引に引き摺り出そうとしているみたいじゃないか!?」
熱意とは裏腹に、一応はサキの心配もしていたジェフリー。ジェフリーは自分の足で歩けるし走れる。サキはコーディに引っ張ってもらうのが主流になりそうだ。妙なコンビになったものだ。
サキはジェフリーに対し、不快感を示していた。
「だってそうでしょう? 自分に利がないんですから、もう少し僕のことも考えてくださいよね?」
「お前なぁ……」
「僕が力を貸す理由はミティアさんのためなんですから」
「……っ!!」
些細なことだが、激しく言い合いになりそうになった。サキを信頼していないわけではないが、遂に利がないとまで言い出した。何か機嫌を取らないと歩調が乱れるかもしれない。ジェフリーは喧嘩腰になりそうな感情と態度に自制をかけた。
サキはカバンの中の圭馬と魔石の確認をしていた。残りはほんの数個。その中から、緑色の魔石を握っていた。
ジェフリーはここで待ったをかけた。意味のない震えが襲う。
「ま、待ってくれ!! 俺はまだ、その……」
ジェフリーの声が震えている。やっと実感が湧いたと言うところだろうか。手も膝も震えた。
それでもサキの態度は厳しい。態度だけではない。ジェフリーへの眼差しもまるで蔑むようだった。
「やるんですか? やらないんですか?」
まるで挑発するような煽り。サキはジェフりーの答えを待った。
サキだけではない、皆の視線もジェフリーに刺さるようだ。ジェフリーはやっと覚悟を決めた。なぜここまでするのかというと、誰もジェフリーの答えを聞いていないからだ。覚悟が足りていない。どんなに重要なことかも、サキがやっと問い詰めて、ジェフリーは自覚を持った。
「や、やるに決まってるだろ!! 今度は、絶対にしくじらない!!」
ジェフリーのこの言葉は震えてはいなかった。そう、言って震えは止まった。
この反応を見たサキは表情を緩めた。
「ジェフリーさんが覚悟を決めてくれてよかったです。始祖の邪神龍なら、行き先はフィラノスでしょう。少なくとも僕はそう思います」
サキの準備は整った。ジェフリーも頷いて整ったことを知らせる。
「最後になったら嫌なので、行って来ますは言いません!! テレポートッ!!」
強引な手段を取ったものだ。サキは挨拶をしないまま、ジェフリーとコーディ、使い魔二匹とともに姿を消した。
もう少し色々話してもよかった気がするが、こうも慌ただしいと一気に静かになったことに誰もが違和感を覚える。
だからと言って、言い合えるような元気を持ち合わせている者は少ない。
沈黙を破ったのはケーシスだ。
「そーか、ガキンチョだと思ってたのによぉ……」
銀の懐中時計をコートのポケットに突っ込み、首を垂れる。
これがきっかけでハーターが懐中電灯を振り回す。気でも紛らわせるように。落ち着きがなく、だが一応辺りの様子を見ている。
「あの子たち、行き先はフィラノスだよね? ぼくたちは追わなくていいのかい?」
ハーターはそわそわと皆の顔色をうかがい、この中で一番元気そうなローズに視線を向けた。
ローズはやけに落ち着いている。
「ワタシたちが行って、何ができるでしょうかネ?」
「いや、その、うーん……」
力になりたいのに何もできないのがもどかしい。それはここにいる誰もが同じ思いだった。ハーターだけではないのだ。
竜次もぽつぽつと言葉を発す。
「私もジェフに何か言ってあげればよかったかもしれない……」
口に滲んだ血を拭っている竜次。気の利いたことができなかっただけではなく、話すことも少なかった。彼も後悔をしていた。
ケーシスはそんな竜次に言う。
「メンタルがクソガキなんだよ。ジェフリーの野郎、あの姉ちゃんがいねぇと、この先どんなに前向きに生きようとしても道を誤るだろうな。それこそ、俺みたいに……」
「決めつけはどうでしょう?」
竜次は弟、ジェフリーの味方だ。動ける体だったら、確実に追い駆けた。支えてもらってばかりなのに、肝心なときに戦力になれないのが心苦しかった。自力で立って歩くのも支えがないとつらいほど、身体にダメージを受けている。自分には支えてくれる人がいる。今は肩を貸してくれているキッド。寄り添ってくれている大切さをあらためて知った。
「そうか。一度だってつらかったのに、二度は……」
「竜次さん?」
竜次はキッドに寄り添った。凭れ掛かったが正しいのかもしれないが、キッドは受け止めてくれた。
「失ったら道を外すかもしれない。再起不能になって、それこそ私みたいに……」
「あいつ、絶対大丈夫ですよ、ね?」
想像しただけで胸が苦しい。ジェフリーはその運命を辿るかもしれない。信じたくなかった。いや、ジェフリーは信じてあげたい。竜次は無性に込み上げてくる感情に目を潤ませた。
キッドは竜次を気遣う。
「泣いたら体、悪くしちゃいますよ。肋骨、折れてるんでしょう?」
キッドに抱え込まれ、背中を摩られている。そのまま膝を着いて崩れるように座り込んだ。水が跳ねたが、もうかまっている余裕すらなさそうである。どちらにしろ、竜次はあまり動かさない方がよさそうだ。
いまだに去ることもせず、しかめた表情のクディフ。
ケーシスに用事があるようだ。当然ケーシスは向かい合って話すのも嫌そうだが、一応相手にはするらしい。それは貸しがあるからである。そして、クディフが沙蘭の剣士にして、ケーシスは武神だからでもある。
「問おう。神は存在したのか?」
ケーシスは眉を崩し、怪訝な表情だ。小馬鹿にでもして払おうとも思った。だが、珍しくやり取りをする相手に対する礼儀ぐらいあってもいいだろう。ケーシスは大真面目に答えた。
「私は神だと言うペテン師ならいた。理屈は知らねぇが、俺の死んだ娘の体を器に、太古の昔に朽ちて滅んだはずの、天空の民の方のエリーシャを突っ込んだのはマジらしい。ルーの技術だから、詳しくはわからねぇがな?」
「ほぅ、王女と同じようなことをしたのだな」
「そうなるらしい。ところがだ、そいつは神でも何でもねぇ、ただの天空の民の代表だったってわけだ。文明が進んだこの島の地を、地上の人間はひどく珍しがった。獣人と女しか存在しないなんて、人間にとっちゃハーレムだ」
「…………」
ハーレムがどうのこうのはケーシスの私情として、求めていたものではなかった結末にクディフは落胆した。自分が貫いて来た『神など存在しない』がよもや現実であったとは嘆かわしい。
ケーシスは呆れるように両手を上げた。
「ひた隠しにしていた実は何でもない、すこーし見目美しい女の代表。文明の流出、人間による支配、ンなのを避けようとしてあのクソ猫は世界の分離を選んだってところだな。これは推測でしかないが、空に浮かんだ都市に美女がいたら、女神だの何だの尾鰭も付いて派手な話になるんじゃねぇのか?」
ケーシスは憶測と言っていたが、かなりいい線をいっているかもしれない。のちにショコラと答え合わせをしてもいいくらいだ。
クディフの落胆は激しいものだった。普段は感情に乏しいはずだ。だが、今は明らかに肩を落とし、機嫌が悪いのがうかがえる。
「つまり、いくら奮起したところで茶番だった、と?」
「つまんねぇ言い方すんなよ。クソ白狼が……」
実際つまらない結末だった。疲労と呆れの混在する絶妙な表情とため息だ。
「その『神』は討ったのか?」
「あぁ!?」
まだ質問があるのかと、ケーシスは嫌悪感を抱く。だが、いつの間にか注目の的になっていた。話の主軸だったサキもジェフリーもいない。答えを待つ視線に耐えるように顔をしかめ、近くの血だまりを指さした。
「そいつは女神様の血だ。この世からご退場してもらった。今頃魔界では伝承の凄腕が狩って閻魔大王にでも差し出してるだろうなぁ!?」
ケーシスは説明しながら少しずつ偉そうになって行った。
話が妙に大きい。そして、ケーシスはそんなことができるのかと、疑問に思う。
「お父様が、そんな大技を?」
瀕死の竜次も、頭の回転の速いローズも疑っている。
「フーム……」
まるでケーシスが一人で手柄を立てた言い方だった。
この場にいる中で、魔界にいる伝承の凄腕はローズしか見ていない。話がややこしくなりそうなのでいったん伏せた。もう行くことはないと思っている魔界でのできごとだからだ。
ケーシスは、刺す視線と疑いの視線に耐えかねて事実を述べた。
「ルーの野郎が割り込んで来た。お前らの方で始末をつけたんじゃないのか? でっけぇ魔法は飛んで来たし。コッチも混乱はしていた。だが、安心しろ。ルーの野郎が女神様を鷲掴みにしている間に一緒に魔法の中にぶち込んでやったんだからな!?」
偉そうな言い方だ。性格が滲み出ている。
クディフがケーシスの話の内容に疑いも持った。偉そうな態度は慣れてしまえば涼しく流せる。
「戦ったときは、ルッシェナ・エミルト・セミリシアは理性など保っていなかったが、なぜ女神を束縛などしたのだ? 我々の剣戟も大魔導士の魔法も食らっているはずだが?」
ケーシスは吐き捨てるように言う。
「ンなこたぁ知らねぇよ! ただ、俺が魔界に葬ったのは本当だからな!?」
いい歳の大人がこれではチンピラと変わらない。
「そっから先は何があったのか知らねぇ。気が付いたら邪神龍と姉ちゃんはいなかった。ざっとこんな所だ」
この場の状況を見れば、間違いではなさそうだ。ケーシスも怪我をして魔力消費で疲弊している。
ほしい情報は得た。クディフは一歩、また一歩と退く。
ハーターとローズは困惑した。
「と、父さん?」
「えっ、オトーチャン!?」
クディフは血も水も吸って重たいマントを翻した。
「もうよかろう。俺のしてきたことの大半は無駄だったのだ。これ以上馴れ合う必要もあるまい?」
クディフから離脱と別れを切り出されたことになる。当然、子ども二人は納得がいくはずがない。食い下がろうとする。
「やっと数十年ぶりに会えたっていうのに、こんな大事のときじゃなくたって一緒にいればいいじゃないか!? 本当はもっと話したいんだ!!」
「あんなに協力してくれたじゃない!!」
ローズに至っては語尾まで崩している。クディフは自分の子どもに呼び止められても意思を曲げるつもりはないらしい。
家族の話に黙っているつもりが、ケーシスが口を挟んだ。
「放っておけ。大人のガキどもが、どうせ白狼は誰かと内緒の約束でも交わしているんだろう?」
クディフが冷めた眼差しをケーシスに向けた。約束を交わしてあると言うのは間違いではない。ゆえに、読心術でもやられたのかと怪訝に思ったくらいだ。
ローズもハーターもまとめて『大人のガキ』と称された。これには頭に来たようだ。兄妹揃ってケーシスを睨み付けている。仲間割れでも始まりそうな空気の中、クディフは背中を向けたまま肩を震わせた。
「くくくっ……はははっ……大人のガキとは、趣のある例えだな、ケーシス・レイヴィノ・セーノルズよ」
何かと思えば、クディフは笑っている。この場の誰もが目を点にした。
無関係な家族の話だが、キッドも竜次も軽く引いていた。
「えっ、何? こいつ、笑うんだ」
「クレア、しーっ……」
小声でひそひそと話す二人。それでもクディフは箍が外れたようにニにやりと笑った。キャラの崩壊と言う言葉を使っていいなら、今が当てはまる。
「何かあれば会うこともあるだろう。できれば、あまり世話になりたくないみたいなので、な?」
世話になりたくないのはクディフの方ではないだろうか。誰もが指摘を入れたくなる。クディフはどうしても去り行くらしい。
「シャーリーにいい話ができそうだ」
聞き間違いかと思ったくらいには兄妹が動きを停止している。クディフはカラスが飛ぶように黒いマントをはためかせ、怪我人とは思えないスピードで姿をくらませた。
呆気に取られている兄妹のうち、先に我を取り戻したのはローズだった。
「シャーリーって、オカーチャン?」
「ってことは、つまり、父さんは、墓参りでも行くのかい?」
少し遅れてハーターも徐々に現実に引き戻されて行った。
まだぼんやりとしている二人に対し、ケーシスが無精髭を弄りながら提案した。
「あいつらの力になれるかどうかはとにかく、俺たちもフィラノスに向かった方がよさそうだな。行く末くらいは見届けてやらないと」
ケーシスはもう少し付き合ってくれるようだ。相談した結果、海域が統合のせいで混ざっているので、比較的元気なハーターとローズが先に行って船を拾って来る流れのようだ。確かに竜次を連れ回すのは負担が大きい。キッドとケーシスも待つことになった。さすがにクディフのように、さっさと自分のやり残した道に戻ることはしない。
水恐怖症で騒ぐ余裕もない竜次、もう海の上で高所恐怖症などどこかへ行ってしまったキッド。励ますように寄り添う二人。
ケーシスは、呆れながら空を仰いだ。
「墓参り、か」
ポケットの中の懐中時計と結婚指輪を探りながら、実はケーシスもクディフと同じことを考えていた。ケーシスの意識が落ちていたとき、亡き妻の声を確かに聴いた。
こんな出来損ないに『生きろ』と言ったあの声は忘れない。
目の前には始祖の邪神龍。これはフィラノスの地下で封印されているのを見たもので間違いなさそうだ。うしろには髪の毛の長い女性。少なくともジェフリーは顔馴染みではないが、女性の容姿は亡き母親に酷似している。ケーシスは彼女を何とかしようと説得を試みていた。幸いにも、邪神龍はまだ襲って来る様子はない。
だが、始祖の邪神龍が出てきた以上、何もないままではいかないだろう。ジェフリーは剣を抜いたが、戦うべきではないのではないかと思っていた。争って傷つけることは可能だろう。それで解決するような敵ではない。そんな簡単な存在ではない。
ミティアは耳を塞ぎながら、寒さを感じていた。頭での処理が追い付かない。それは『声』による精神攻撃を受けていたせいだ。頭の中の処理で体が追い付いていない。いくら耳を塞いでも、『声』はずっと鳴りやまない。
目の前に邪神龍がいる。ジェフリーは自分を守ろうとしているだろう。そこまではミティアでも予想がついた。でも、違うと言いたい。これは自分が聞き入れて、受け止めないといけないものだ。
覚えているだろうか。
「ジェフリーは手伝って、くれる?」
ミティアはゆっくりとその質問をした。ジェフリーの答えは、頷くだけで言葉ではなかった。
また、言葉にはしてくれなかった。ミティアの心の隙間に闇が生まれる。
ケーシスはエリーシャと向かい合って違和感を覚えた。自分の娘が成長したら、こんなに綺麗かもしれない。亡き妻のシルビナにもよく似ている。だが、もしかしたら、まったくの他人なのではないかという疑いも抱いていた。ケーシスは疑問を抱きながら、言葉でエリーシャとの距離を縮める。
「エリーシャ、これで神様の真似事か? あの男、ルーのせいか!?」
まずは探る。これは基本だ。聞き出せる情報は多い方がいい。
エリーシャは興味を抱かれ、ケーシスに好感を持っているようだ。
「あの男? あぁ、彼には『器』になってもらいました。私を陥れようとした。けれど、そんなことはさせません。彼も優れた魔導士です。天空都市を地上に落とせるだけの力はあるはずですから、ね?」
ケーシスは眉をひそめた。
「お前、エリーシャの姿をした、本当のエリーシャか? 天空都市の……」
同じ名前だから紛らわしい。
地上で暮らす人たちの中では天空都市は『おとぎ話』であり、天空都市の神様がエリーシャという名前だったと伝えられている。だが、天空都市の存在など信じるはずもなく、やがて人々の中で消えつつある話だった。
ローズのように長寿であり、情報に触れていたら知り得る情報かもしれない。なぜなら、年月とともに本当だった話も一緒に薄れてしまったからだ。地上の人間は自分たちにとって都合の悪い情報を隠したり抹消したり。その断片や痕跡は大図書館での情報や子どもたちが学ぶ教科書も対象だった。
サキがフィラノスの歴史や、必要な情報が探し出せないことに疑問を持ったこともある。中にはあるはずの情報がないと気が付く人もいるのだ。
大図書館に縁のある魔導士は、もしかしたらその『おとぎ話』に興味を抱くかもしれない。ケーシスの妻、シルビナはそうだった。地上の人間が知っている情報など、『おとぎ話』の程度。その話に憧れを抱いていたのが、シルビナだった。身籠った女の子どもにエリーシャと名付けた。ただ、それだけだったはずなのに。
ケーシスの問いに答えたのは意外にもショコラだった。
「中身だけ本当のエリーシャじゃよぉ……」
エリーシャ本人は優しい笑みを浮かべている。その笑みには心の底からの慈悲が感じられない。憎悪が見え隠れしている。いつ発狂してもおかしくはない。
ケーシスは自分で話を整理した。やはり疑問を抱く。
「ルーの野郎は何のために本物のエリーシャを俺の子どもに入れたんだ? あの実験は姉ちゃんでやっと成功したんだぞ。まさか、その前から……」
本物のエリーシャが存在する理由はここにいる誰も知らない。傍から見たら彼女は悪のような存在だ。自分語りなど、してくれないものだと思っていた。だが、エリーシャは語り出す。
「この都市はもともと女人と獣人しか存在しない特殊な都市でした。もともと島国として独立していたのです。それこそ文明の発達した都市。何もしなくても、干渉して来る神族などいませんでした。人間だけは強欲で技術を求めて来ましが、かの種族は特殊ですね。何も力もない私を神と崇めました。それこそ、『女神』と……」
ケーシスは眉をひそめた。言ってしまえば、愛娘の姿と形だけをした中身はまったく別の人と対立しているのだ。いつもの調子なら、『何だ、この茶番』くらい吐き捨てるかもしれない。これでは何のためにケーシスが赴いたのかわからなくなってしまう。
「あの男も私を本当の神だと信じていたようです。でも、魔界を荒らし、神降ろしの真似事までして空っぽだった赤子に宿らせたのに、何の力も持たないただの女人と知って一度は失望したようです。ですが、あらゆる手を尽くしてくれました。本当に感謝しかありませんね。私は望み通り、神になれたのですから」
エリーシャは鼻で笑った。つられるようにケーシスも笑っている。
ケーシスは乾いた笑いから天を仰ぎ、腹を抱えて馬鹿みたいに大笑いに変えた。途端にエリーシャがぴたりと笑いを止め、表情を渋めた。
「何が、そんなにおかしいのでしょう? 神を愚弄しますか?」
エリーシャはケーシスに対し、殺意が芽生えたようだ。憎しみが込められた表情へ変貌する。
ケーシスは天を仰いでいた状態から大きく頷いた。まだ笑っている。
「思いっきり悩んでたのが馬鹿馬鹿しくなった! てっきり俺に対して、恨み節でも聞かせてくれるのかと思ったが、そうじゃないらしいからな?!」
「恨む? 所詮あなたは私にとって他人です。あぁでも、この器の『おとうさん』でしたね。恨むどころか感謝しています」
「聞いても無駄だと思うが、世界の統合をして何を望む?」
ケーシスの方が笑いを通り越して気が狂いそうだ。あれだけ責任を感じ、思い詰めていたのがとんだ見当違いで無駄になったのだ。気も狂う。そしてこの答え次第で自分の抱えていた不満を開放するつもりだ。
「種族と世界の浄化です。アリューン界が手強く、あの男が病気を撒いたそうですが、封鎖的な種族の浄化は追々すればいいでしょう。同じ種族のままで共存していればよかったものを……」
「浄化って、ぶっ壊すって意味だろう?」
「そうですよ。そして私は本当の神、創造主となる」
「あぁ、そうかい!! ンなこと、させるわけねぇだろうッ!!」
話がわかって吹っ切れた。ケーシスは背中に手を回したが小太刀が二本ともないのに今さら気が付いた。すぐに切り替えて拳を振り上げた。もしかしたらこの方がよかったかもしれない。あれだけ覚悟を背負って来たと言うのに。二重の意味でとんだ肩透かしだ。失くした愛娘の体で好き勝手をはたらこうなんて、一発殴らないと腹の虫が治まらない。だが、美しい顔に触れることは許さなかった。
ケーシスは突然、爆風でも食らったように弾き飛ばされた。石床を転がり、浅瀬に身を浸した。幸いにも、水は何の害もなさそうだ。
「クソが……」
ケーシスは地に伏せられてしまった。重力がかかっているような感覚が襲う。体は重く、なかなか起き上がらせてはくれない。
エリーシャは満面の笑みで怯え切っているミティアに歩み寄った。次のターゲットのようだ。
当然だが、ジェフリーは庇いに入る。何かできるわけではないが、ミティアにも危害を加えるならば、黙ってはいられない。だが、エリーシャはミティアに対して語り掛ける。
「聞こえるでしょう? 悲しみや憎悪、ありとあらゆる負の声が。あなたがなかなか抱いてくれない感情の数々が。受け入れなさい。そしてあなたが世界を滅ぼすのです」
エリーシャが言う『受け入れる』意味は、ミティアがしなくてはならない『受け入れる』とは違う意味だった。『本当の神』の言葉を忘れてはいなかった。だが、『声』による精神攻撃は、ミティア自身が自我を保つのに精いっぱいだった。
エリーシャはジェフリーを凝視する。だがその目は邪魔をするのかと、ゴミでも見るように蔑んでいる。
「邪魔です」
「ミティアに近寄るな! 世界を滅ぼすことなんて、絶対にさせない!!」
剣を向けるが、この人に剣を向けてもいいのだろうか。ジェフリーの中で迷いがあった。だが、この抜いた剣を邪神龍に向けるわけにもいかない。
「では忌み子……この体の恨みを知っていますか?」
「…………」
ジェフリーは何が始まるのかと身構えてしまった。
エリーシャは胸に手を当てながら微笑む。
「あなたが生まれたから、この体のおかあさんは亡くなった。そうでしたよね?」
何かと思えば、家庭の事情の掘り返しだ。ジェフリーはくだらないと思った。父親のケーシスではないが、悪態をつきそうになった。だが、このエリーシャは何を知っているのかは気になった。
「直接的な理由ではなかったけれど、あなたが生まれたせいで体調は一気に悪くなったと聞いています。お気の毒に……生まれて何も知らず、のうのうと生きて来たのでしょう? ただ何となく、生まれた奇跡も知らず、いい加減で、自分だけがいいと自分勝手に。そして生きていることに感謝など、したこともなかったでしょう?」
「否定はしない……」
「ここに生きたくても生きることのできなかった人がいるのですよ? あなたのおねえさんです。どんな気持ちですか?」
「…………」
答えられない。答える権利はない。何を言ってもきっと無駄だ。ジェフリーは額に手を着く。鈍い頭痛を感じた。
エリーシャはジェフリーも精神面で追い詰めようとしていた。
ミティアはびくりと反応しながら顔を上げた。ジェフリーの背中にしがみ付き、顔を埋めながら激しく震えている。
「だめ、この人の言葉を聞いちゃ……」
ミティアの頭の中で憎悪が渦巻く。必死に堪えながら、ジェフリーを気遣った。
ジェフリーの心が闇に染まるのを食い止めようとするのは、ケーシスもそうだった。
「ジェフリー!! そいつは、エリーシャの器に居座る悪魔だ!! 本当のエリーシャだったらそんなこと、絶対に言わねぇ!!」
都合がいいことはわかっている。ジェフリーもケーシスの言葉を信じたかった。
エリーシャは、せっかく立ち上がろうとするケーシスを再び地に伏せさせる。ノーモーションで相手を地に伏せる力、魔法だろうか。その正体は定かではない。
「おとうさん、おとなしくしていてね。感謝しているんだから、最後に殺してあげる。だからこれから起きること、ちゃんと見ていてね?」
見るだけで魔法でも使えるのだろうか。掛かった重力に骨の軋む音がした。普通ならあり得ない。不可能な能力はきっとルッシェナがもたらしたものだ。
高度な技術をとんでもない奴に注ぎ込んだものだ。ケーシスはチャンスを待った。まだ何か打つ手はあるはずだ。科学と魔法を併せた力。だが、それは人がもたらしたもの。ならば、人の手で何とかなるはずだ。
「クソ……」
うつ伏せで何とか顔だけ上げるも、眼鏡がないせいで視界がぼやけていた。ケーシスの視界にグレーの塊が見えた。しっとりと柔らかいものが手の甲に触れる。
「のぉん、お前さんは元気そうじゃのぉん……」
たいたいの正体がわかった。しっとりと柔らかい感覚は肉球だ。そしてもう一つ、肉球からカランと大振りの石が転がった。
「へぇ、気が利くな……」
ケーシスはショコラを小馬鹿にもした。それでも導きだけはしてくれるらしい。素早く手に握って、エリーシャに見付からないようにコソコソと作戦会議をする。幸いにも今はミティアとジェフリーにご執着だ。傲岸不遜な中身であるがゆえ、視野は狭そうで助かった。
ケーシスは信じながら黙って耳を傾ける。
エリーシャの狙いはジェフリーの存在を崩すことだ。今、彼の存在がどれほど邪魔なのか、実力行使に出るのは簡単だ。だが、どうもルッシェナから嫌な部分を受け継いだようだ。いたぶるようにも思える。ただ殺す、消すではなく、嬲り、いたぶり、苦しみもがく様を見たいようだ。
「生まれなければよかったのではありませんか? 世界の生贄に希望を与えたつもりですか? いくらいい行いをしても、あなたの生まれながらの罪は消えません」
不敵な笑みだ。陥れるつもりでいることはわかっていても、指摘を受けた今まで何をして来たのか疑問に思える。
確かにエリーシャが言う、生まれながらの罪は誰よりも重いだろう。生きていることに感謝などしなかった。何も知らなかったとは言え、世界の生贄であるミティアに希望を与えたかもしれない。要らない思わせぶりもしたかもしれない。助けて一方的にいい気になって、正義の味方みたいなこともした。好きになってしまった。愛してしまった。未来のことまで考えてしまって……図々しいかもしれない。
今まさに、心が砕かれようとしていたときだ。ジェフリーの心はミティアの声で救われた。
「罪なんて、感じる必要ないよ!!」
ジェフリーのぎゅっと掴まれたままの服が一層強く引っ張られた。ミティアは涙声だが、抑え込もうと必死になりながらジェフリーをじっと見上げる。
エリーシャは声を荒げながら美しい容貌を崩す。
「馬鹿な。なぜあなたは『哀しみの声』を聴いて、正気を保っていられるのですか?」
その疑問に、ミティアが直々に答えた。涙を拭い、かぶりを振って前に出た。
「これ、『哀しみの声』って言うんだね。聞いたよ、たくさん。そしてあなたの哀しみも届いた。だけど、全部が悪いことじゃない!! 乗り越えたその先に立っている人だっているよ。大袈裟だけど、世界はもっとよくなれる、これから変われるはずなのに、その可能性を潰す権利はあなたにないッ!!」
ミティアにしては信じられない声量だ。力強く、どこか気高く、揺るぎない、誰にも負けない勇気を与えてくれる。ジェフリーは心を強く持てた。
エリーシャはミティアを睨みつけた。
「何の能力もない私が、ただ文明の発達したこの都市に存在するだけで、皆の代表になっただけで、勝手に神として崇められた理不尽を誰が理解できましょう?」
「わたしだって、ただの一人の女の子でいたかった!! 勝手に世界の生贄にされて、これだって理不尽だよ!! だけど、わたしは築いたものがある!! その理不尽があってからこそ得た大切なものがある。どうして絶望しちゃったの!?」
ミティアは振り返って邪神龍を見上げた。
「これは、あなたなのでしょう? 女神エリーシャ……」
ハッとするジェフリー。始祖の邪神龍と一緒に封じられていたのは女の子だった。どこかセティのように気高く、綺麗な子だった。女神と崇められても納得がいく。あれが本当のエリーシャだとしたら彼女は相当な哀しみを背負っている。この傲慢な性格は、何も特別でないのに特別扱いを受けた反動。何も持っていないと知った人間が、実は何でもないただの女の子に何をしただろうか。いくらでも悪い想像はできる。そして憎しみは積み重なった。
ジェフリーには理解が難しかった。だが、ミティアはどうだろうか。その慈悲深い心はエリーシャを救えるだろうか。
エリーシャはミティアの顔をじっと見る。
「では、選んでいただきましょうか?」
含みのある笑い、どこか竜次のお得意にも似た笑みだが器だけは肉親。変にデジャヴュを感じるのも仕方がない。それよりも、エリーシャの不穏な言葉が気になる。ミティアに向けられたものだ。
ジェフリーは心を乱す。ミティアは邪神龍に歩み寄り肩を落とした。落胆しているのかと思ったが、どうも様子が違う。嫌な予感がした。
「ミティア、まさか……やめろッ!!」
ジェフリーが手を伸ばそうにも、駆け寄ろうにも、背後からエリーシャに馬乗りになられた。もの凄い力でジェフリーを叩き伏せる。
ジェフリーは鷲掴みされ、顔を上げられた。
「何も絶望することはありません。これから、この世で最も美しい滅びが見られるのだから……」
「やめろ!! ミティアッ!!」
声はもう届かないのか。エリーシャが言う『哀しみの声』で精神をやられたのかと思ったくらいだ。人を憎むことができないとミティアは言っていた。実際、一緒に行動をともにして彼女が誰かを憎むことはほとんどなかった。心優しいミティアが何を選択するなど、もうわかり切っていたものだった。もっとつなぎ止めておけばよかったと、激しく後悔した。
「世界の生贄、そんなもの、わたしで終わりにしたい……」
「姉ちゃん、ヤケを起こすな!! 何のためにここへ来たのか思い出してくれ!!」
ギリギリと歯を食いしばり、体を起こそうと試みるケーシス。掛けられた重力魔法に屈して、何もできないことがもどかしい。
これだけの危機が迫っているのに、ショコラだけは妙に落ち着いている。警戒をしているのか、出方を窺っているのかは読めない。そう言えばいつもギリギリまで肝心なことを話さないのがこの猫の気質だった。こののんびりも、何か意味があるのだろうか。
ミティアは振り返った。可愛らしく、うしろで手を組み、弾ける笑顔を見せる。
「わたしは、待っているから……」
二人が見ている目の前で、ミティアは笑ったまま黒い瘴気に覆われ、呑まれた。始祖の邪神龍が動き出す。もうこうなっては絶望の始まりだ。
エリーシャも動き出した。ジェフリーとケーシスの呪縛を解き、反応を見ていた。
「悲しまなくてもすぐ彼女に会えます。違う存在だと思いますが」
高笑いでもしそうなエリーシャが、ショコラの一言で機嫌を悪くした。
「それはどうかのぉん?」
ショコラは耳を立てながら尻尾をパタパタとさせる。耳を立てている。この点を、エリーシャは不審がった。
そう遠くない場所で爆発音に似た大きな音と、大きく跳ねる水の音がした。時差で雨のようなものが降り掛かった。思わずエリーシャも警戒する。彼女が次に見たものは、光の柱を抜けた黒く大きな真球体だった。轟速でこちらに向かって来る。
「な、何……!?」
始祖の邪神龍に直撃した。そのまま薙ぎ倒し、水飛沫を経てこちらへ抜ける。瘴気の渦の横を削り、まるでエリーシャを狙った様に突き抜けた。
ジェフリーは今がチャンスだと見た。
「ミティア!!」
無我夢中で自分の身の危険など一切考えていなかった。ジェフリーはミティアをまだ助けられると信じて瘴気の渦に飛び込んだ。
そこは、想像などしていなかった深い闇だった。
落ちて、冷たい空気に曝された。それはまるで、凍り付くように……。
退いたエリーシャは通り抜けて消えた方角を眺める。
「大魔法……どこから?!」
エリーシャにとっては、とんだ邪魔が入ったと言うところか。この気の緩みが反撃の機会だった。
ケーシスは疾走し、エリーシャの脇に回し蹴りを入れた。
「つああッ!!」
普通の人間なら、骨の一本も折れるような強烈な一撃だ。感触はあったが、エリーシャはびくともしない。睨み合った刹那にケーシスは足を引き、身を反らす勢いでパンチまで繰り出した。また踏みとどまるかと思いきや、今度は激しく吹っ飛んだ。
所謂少年漫画のぶっ飛びにも似ている。
沙蘭の武神とは言ったものだ。武器だけではなく、体術もどこに決まればダメージとなるかを計算して放っている。ケーシスは手応えを感じた。
「へっ、やっぱり有限なんだな!? マジモンの神様だったら人間の攻撃なんて受け付けねぇだろうからよぉ!!」
腹を抱えて蹲るエリーシャ。髪の毛が逆立つように風を受けた。
「死に急ぎますか、おとうさん……」
エリーシャの一段と声質が低い。
ケーシスは見下すように仁王立ちをする。
「おとうさん、だぁ!? ふざけんな!! 俺ぁそんな娘を持った覚えはねぇんだよ!!」
「そうですか。この体に躊躇しない。可哀そうに……」
「ウチのガキは融通の利かない王様崩れの野郎、お転婆でじゃじゃ馬だがしっかりした娘、それから……」
ケーシスは言い掛けて目線だけ瘴気の渦に向ける。
「俺にそっくりで不器用な生き方しかできないが、何事にも一生懸命な馬鹿野郎。それが俺の大切な家族だ!!」
自信満々で言い切った。ケーシスの腹はもう決まっている。自分の子どもには誇りを持っている。親としての誇りはこれから築いて行こうと心に誓った。
エリーシャはケーシスに殺意を向ける。
「人間は……自分勝手ですね」
「特大ブーメランだな、神様を名乗るペテン師が!!」
「そこまで言うのなら、偽りの神ではないことを証明しましょう。浄化を、始めます」
エリーシャは光の柱に向かって手をかざした。
ズシンと重力を感じる揺れが発生した。この地震は天空都市の急降下を意味する。今回は強く、立っているのが危うい。石床には亀裂が走り、浅瀬の水を乱した。おかしな話だが、空に見える月は小さく、空が遠い。視界がぼやけているケーシスも把握できたくらいだ。
「は、はぁッ!? 浄化だと?!」
「むぅ、マズいのぉん」
揺れが収まったと思ったら、今度は光の柱が消えた。一気に辺りが暗くなった。夜闇が広がる。
ケーシスはフェアリーライトよりも一層明るいホーリーライトを放つ。辺りは明るくなっても、気持ちは明るくならない。
目の前でエリーシャは瘴気の渦を見つめていた。狂おしい満面の笑みに、寒気を感じた。これで、瘴気が大きくなっているのだから、恐怖が芽生える。
「さぁ、いらっしゃい、最後の……世界の生贄」
仕掛けるにも、ケーシスだって人間だ。恐怖に一瞬足が竦んだ。足も手も止まっている間に、信じられないことが起きた。目の前の水たまりから大きな影が上がった。雨よりもひどい水を被る。ケーシスはこれで我に返った。止まっている場合ではない。大きな影は薙ぎ倒された邪神龍かと思ったがもう少し小さい。
ケーシスは正体を把握する前に、水とは違う生温かいものを顔に被った。ケーシスの視界が塞がれる。こうも連続だと不快極まりない。
「目に入りやがった、クソが!! 何が起こっ……」
ケーシスは目元を擦った手を離して言葉を詰まらせた。自分の手が真っ赤だ。冷たい水と混ざって生温い。血だ。どこも痛くないし、少なくとも自分のものではない。
ケーシスは視線を上げる。すると、残った皆が戦っていたルッシェナが目の前にいた。大きな翼が夜闇に染まって不気味だ。いや、逆かもしれない。
エリーシャが絶叫した。
「ああああああっ!! さい、ご、に、裏切ります……かっは……ごっ……」
ケーシスは我が目を疑った。傷を負ったルッシェナが、エリーシャを鷲掴みにしている。鋭い爪を立て、たくさんの返り血を浴びながら握り潰そうとしていたのだ。理性はとっくに失われているはずなのに、理由がわからない。
血まみれのエリーシャは血を吐きながら逃れようと抵抗している。
「渡さ、ぬ……私が、神に……」
女性とは思えない低く、唸るような声だ。思想が一致していたからこそ、利用し利用され、最後のぶつかり合いと言うところなのだろうか。欲望のぶつかり合いから殺し合いに発展など、よくある話だが今は世界や神など壮絶な条件が揃っている。
ショコラはこの好機を見逃さなかった。
「何をしているのぉ!! チャンスなのよぉ!?」
「け、けど、あいつに何が利くんだ?!」
「お主、『歪み』を使えるのではないのかなぁん?」
ケーシスはショコラに差し入れられた魔石を手に詠唱する。ケーシスは眼鏡を掛けていない。ゆえに、正確にはどんな状況なのかを把握していない。ぼんやりと見える視界、ルッシェナはこちらを向いて言うようにも見えたし、どう解釈するのが正しいのかわからない。もしかしたら、純粋に欲望に忠実なだけで『助け』など本当に考えていないかもしれない。理性が残っているのなら、何か言ってくれればいいものを。
ケーシスは魔石を弾き、大魔導士に匹敵する魔導士の端くれらしい魔法をお見舞いする。
「閻魔様に裁いてもらえッ!! カオス・ゲートッ!!」
ケーシスが唱えたのは強制魔界転送魔法だ。非現実かつ、闇の上級魔法。なぜ彼がこんな魔法を使えるのかと言うと、力押しよりも単純ですぐに勝負が付くからだ。
ジリッっと導火線に火が点いたように、一瞬だけ電気が走った感覚を腕に覚える。舞い起きるつむじ風、正確な範囲はわからない。放つ瞬間にスペルコストを考慮してホーリーライトは消してしまった。辺りはほとんどが真っ暗だが、ケーシスは指先に感覚を研ぎ澄ます。何かに触れる感触は魔法のせいかもしれない。だが、大きく走った亀裂に開かれた魔界への誘い。魔界への門があったのなら、この魔法の相性は抜群にいいはずだ。
暗闇の中でエリーシャの声がこだまする。
「は、なせ……貴様……」
恨めしい声だ。初めに聞いた声とはほど遠い。エリーシャの憎悪の声は続いた。
「後悔、なさい!! 最も……汚いのは、にんげ……」
かまわずケーシスは放った手を振り上げる。すると、風が大きく渦を巻く。竜巻でも起きているのかと思うくらいだ。それほどの大きな魔法を熟すケーシスもただ者ではない。
「あばよっ!! 今度は、争いのない時代に生まれてくれッ!!」
断末魔だけは女性の声だった。厳密には葬っただけなので、断末魔にはならないのかもしれない。ケーシス自らが殺めたわけではない。
ケーシスはあまりの風に足元を崩しそうになったがこれを耐えた。足場はもう脆くなっている。革靴が水に沈むのを前に、ケーシスは振り上げた手を握り、力いっぱい振り下ろした。その勢いで膝を着いて座り込んだ。
都合のいい持病だ、こんな所で咳き込んで噎せ返す。口の中は血の臭いでいっぱいだが、これが自分の血なのかはわからない。とにかく必死でわからなかった。
「のぉ……」
ショコラの情けない鳴き声だ。
ケーシスはゼーゼーと呼吸し、苦しそうにしながら鳴き声のした方に手を探らせる。やっとつかんだ感覚は生き物の温かさだった。ケーシスは確信をもってショコラを摘まみ上げる。
「おい、クソ猫! 俺に何を使わせたんだ? 魔石じゃねぇな? 強化魔石、ブーストか?」
「ほむぅ……」
ショコラは悪びれる様子はないようだ。だが、あの状況でケーシスの体に負荷を掛けさせた。目の前で体の不調を訴え、咳き込むケーシスを見て、少しは悪く思ったようだ。背を丸くし、しょげている。
「クソが。俺じゃなかったら体バラバラだぞ」
「むむぅ、す、すまんのぉん」
「ったく……」
ブースト石は魔法の効果を高めるだけではない。当然魔力の消費も増える。体の負担もそうだ。学生や慣れない人が上級魔法でブースト石を使うなど、命を捨てる行為に等しい。神族の禁忌の魔法だってそうなのだ。ある程度、術主のタフさは必要とされる。
ケーシスが呼吸を整えるのも待ってくれず、さらに大きな揺れが襲った。さすがに焦るも、状況は確認したい。重力に逆らうのを諦め、膝を着いたままホーリーライトを放った。明るくなった辺りに照らされたのは、そこにある血だまりと魔法による亀裂。そして大きな瘴気の渦と真っ黒い壁だ。壁の正体はすぐに気が付いた。
「あぁ、そうか。まだテメェが残っていやがったか……」
体が悲鳴を上げていると言うのに、水面から這い上がってこちらを見下している黒い龍がいた。黒い壁の正体に、ケーシスは中身のない笑いを浮かべる。
「はは……もう、俺にそんな元気はねぇんだよ。クソが……」
せっかく放った光も一瞬だった。ケーシスは揺れと重力に身を任せるように気絶してしまった。初老を過ぎたケーシスにはもう立ち上がる気力はない。手に水の冷たい感触を受けながら、意識は落ちた。
「のぉ、ダメなのぉ!!」
ショコラが必死でケーシスの頭、頬を叩く。暗がりで正確には頬なのかわからないが、ケーシスを叩いていることは確かだ。
邪神龍は主を失い、今にも暴走をしそうだ。もう誰の命令で動かなくてもいい。溜め込んだ哀しみを解き放つのみ。
「そんな……エリーシャを討伐したのに、こんな、こんなのぉ……」
ショコラの悲痛な声に応える者はない。そのはずだった。ショコラの背後に冷たい気配を感じた。毛が逆立つ。震える。あとは、恐怖が襲う。
「……?」
これ以上は悪いことが起こらないと思っていたが、悪いことではないらしい。
魔界への門があった道から明るい光がする。彷徨える魂達がこちらへ流れ込んで来たのだ。
奇妙な光景だ。魂にも意思があるのだろうか。数多くの魂の中からやたらとケーシスに近付く魂が彼の手に光を灯らせる。ショコラは黙って見ていた。気を失っているケーシスが手に何か握らされている。
「そいつが『門』を開いた人間か?」
ショコラは尻尾を立て、過剰な反応をした。気配がまったくない。魂たちの光で姿を捉えたと思ったら、ショコラは全身の毛が逆立つ悪寒を感じた。
黒っぽい髪に身軽な格好、そして猫のような尻尾。赤い目の人がショコラをじっと見下ろしている。
ショコラはただならぬ威圧感を覚えた。うまく言葉にあらわせられないが、体はこの『人』をただ者ではないと反応していた。
「よぉ、元番人。オレを覚えているか?」
ショコラは立てた尻尾を下ろし、パタパタとさせる。声でやっと思い出した。
「まさか、『神様』なのぉん?!」
ショコラが『神様』と呼んだのは、魔界に身を置いていたユーリィだ。現世に降り立ったことにも驚いたが、通常なら神に遭遇するなどありえない。
ユーリィはここが天空都市であったことを把握している様子だった。理解の上でこの場に赴いたということだろう。反応のないケーシスに歩み寄り、ケーシスに寄り添う光を指さした。
「さっき、一瞬だけ『門』が開いた。そのときに、世界を滅ぼそうとしていた奴が葬られた。だが、その少し前に、硝子の魂たちが悲しみや苦しみといった理不尽の重い鎖から解放された。そいつはその一つ。どうしてもこいつに礼が言いたいそうだ」
ショコラは黙って聞いていたが、思い返せば辻褄は合っている。
門が開いた点は、ケーシスが放った歪みを生み出す魔法のことだろう。
世界を滅ぼそうとしていた奴が葬られた点、これはエリーシャの断末魔を聞いた。おそらくキメラ化したルッシェナも該当すると思われる。
その少し前に、『硝子の魂たちが悲しみや苦しみといった理不尽の重い鎖から解放された』とユーリィは言っていた。つまり、ミティアが自分の役目を忠実に果たした。もっと言うと、ミティアは邪神龍を構成する負の感情を取り込んだか、浄化したのだろう。
では、このぼんやりと光る魂は……
ユーリィは八重歯を見せて笑う。
「じゃあな、元番人。お前はこれから大変だろうが、それも役目であり運命だ」
ショコラはびくりと反応した。ただならぬ威圧に翻弄される。
「これから……?」
「あぁそうだ。廃れたとはいえ、元々は文明が発達していた名残もあるだろう。これを管理しないと地上の奴ら、次は兵器を作るかもしれないぞ。それこそ、自分たちの手で自分たちが住む世界を壊すことに、なぁ?」
漠然とした導きだが、ユーリィの言葉には納得がいく。これが神の言葉なら重いものだ。ショコラは自分のもう一つの役目を思い出した。
ユーリィの言葉が耳に残る。交わした少ない言葉の中には、『未来』へのキーワードがあった。
ユーリィは言葉を残し、去ろうと足を引いた。ショコラは思わず反応する。
「にゃっ!? 神様が今度は何を?」
ショコラの質問にユーリィはまた八重歯を見せて笑う。
「ちょっと背中を押してやろうと思ってな」
「?」
「こっちの話だ」
ショコラは首を傾げる。神様と会話を交わせているだけで不思議だが、神がこれから何をしようというのかは気になった。
ユーリィはそれでもここを去ろうとしている。
「あぁ、オレがここに来たのは内緒だ。わかったな?」
これ以上の言及を避けるような言い方だ。ユーリィは目の前の瘴気の渦に消えた。
まるで嵐のような存在だった。ショコラは呆然としてしまった。
ケーシスの手に灯った光と魂はまるでケーシスに語り掛けるように、命の吐息のようなものを感じる。
ケーシスの手に小さい金属のようなものが見えた。
魂はショコラの前を抜けスッと魂の群れを抜けた。もう一つ、明らかに動きのおかしな魂が瘴気の渦に近寄った。ショコラにとって、わけがわからない。いや、誰もわからないだろう。だが、この魂がケーシスに寄り添っていたところで勘付いた。
「まさか、本物の……」
瘴気の渦の前で魂が女性の姿に変わった。エリーシャに似ている。いや、本当にそうかもしれない。青白い光を放っている『彼女』は目線だけケーシスに向け、微笑んだ。先ほどまで神になろうと憎しみをぶつけていたエリーシャではない。もっと優しい笑みを浮かべている。
ショコラは名前を呼んだ。
「エリーシャ?」
身近な誰かと似ている。そうだ。ミティアの慈愛に満ちた微笑みに酷似していた。ショコラが名前を呼ぶも、その魂は眩い光を放った。たちまち視界が真っ白になった。ショコラが目を開けていたれないほど眩しいものだった。どこまでこの光は広がったのか、想像ができない。
ジェフリーは瘴気の中に身を投じた。どこかにミティアがいると信じて。
真っ暗だ。何も見えない。
空気は冷たく、自分が生きているのか、死んでしまったのかもわからない。だが、手も足も動く。感覚はあった。自分の手は温かい。だが、地に足が着いている感覚はなかった。やはり死んだのかもしれない。
いや、何か聞こえる。まだ生きているならきっと使えるはずだ。
「頼む!!」
指先に心許ない光が灯った。魔法は使えるらしいが、開けた視界には目を疑うものが入った。青いコートを着た赤髪の……ミティアが蹲って腕を抱え、声を殺して泣いているのだ。黒い瘴気を身に纏いながら。
「ミティアッ!!」
ジェフリーが手を伸ばすも、足は動かない。まるで引き摺られているような感覚だ。それもそのはず、心許ない光が照らしたのは、無数の手だ。真っ黒で、瘴気を纏っている。わかりやすくて助かった。ここは現実ではない。ほとんど意識だけだ。
ミティアは『哀しみの声』に身を投じて何も聞こえていないという解釈が正しいだろう。ならば、呼び続けるしかない。
「ミティア、俺だ!! 頼む……応えてくれ!! そっちに行かないで欲しい。戻って来てくれ!! 俺の声を聞いてくれッ!!」
瘴気のせいか頭が痛い。熱を帯びた喉が焼けるように痛んだ。それでも足は動かない。無駄な抵抗はやめろと言わんばかりに足を引かれた。地を這う感覚だが、視覚には瘴気に引き摺り込まれようとしている。
「ふ……ざけるな!!」
枯れかけの声が震えた。掠れて、泣いているのは自分でもわかっている。それでも諦めたくなかった。
「一緒に生きようって、約束したじゃないかッ!!」
「……!?」
何に反応したのか、ミティアが顔を上げた。目元を真っ赤にした彼女はジェフリーの姿を見付けて首を振った。
「どうして……?」
「お前っていつもそうだよな。どうして一人で抱え込もうとするんだ」
「こうすれば……わたしがこの『声』を聴けば、もう誰も悲しまなくていいんだよ!?」
「いつから聖女になった!? 救世主にでもなったつもりか!?」
応答するも、ミティアは諦めの表情を浮かべたままだ。咽び泣いて、耳を塞いだ。
「これからの未来が救われるなら、わたしはこれでいい!! あなたが生きてさえいてくれればそれでかまわないッ!!」
「馬鹿野郎ッ!! 頼むから、頼むから……そんなこと、言わないでくれ!!」
ジェフリーの悲痛な声。ミティアは聞かないように耳を強く塞いだ。
届かない思いと伸ばしている手。ジェフリーは今、人生で最大の『痛み』を感じている。引き裂かれた想いがこんなに痛いなんて想像もしなかった。こんな経験は初めてだ。
自分勝手に生きて来たから? もっと大切にしなかったから? 大切な人が世界のために消えてしまうなんて信じたくない。確証はないが、ミティアの言葉からそうと捉えられた。ジェフリーはありったけの想いを叫んだ。
「愛してるッ!! ミティアがいない世界で、俺は生きていたくないッ!!」
「……!!」
声は届いた。ミティアは耳を塞ぐ手を解き、顔を覆っている。彼女の周りにあった黒い瘴気がなくなった。
ミティアは立ち上がって身動きが取れないジェフリーに歩み寄った。彼女は動けるらしい。優しくジェフリーの手を握った。彼女の手は一層暖かい。涙で濡れてしまっているのが残念だ。
「ミティア……?」
「わたしを愛してくれてありがとう」
優しい笑顔、頬を伝う涙を拭ってやりたい思いだった。言葉なんて多くはいらない。
ミティアは暖かい手を解く。そして一歩下がった。
「でも、もう……遅いんだ。ごめんね、ジェフリー……」
物悲しい表情に変わった。この言葉の意味をすぐに理解出来なかった。
「ミティア……どういう……」
「わたし、もっとジェフリーの口からたくさんの言葉を聞きたかった。そうしたら、もっと『未来』を歩めたのかもしれないね」
意識だけの世界、そのはずだった。この手の感覚を忘れない。再び視界は真っ暗になった。最後に見たミティアの笑顔が眩しくて、眩しくて悲しい。
深い闇に引きずり込まれた。落ちるような感覚。まだ落ちるのかと、呆れてしまう。
そんなことよりも、自分は愛する人を助けられなかったのだろうかと失意の中だ。離してしまったこの手が、寒さを訴えるように震える。
「助けに……?」
何も見えない中で耳に残ったミティアの声と言葉が救いだった。だが、どうやって助けたらいいのだろう。何をしたら、彼女は泣かずに済んだのだろう。女々しいが、ミティアの存在がどれだけ大きいか、あらためて理解した。わかっていたはずなのに、一緒にいることが当たり前で、離れて愛しい思いが一層強まった。
一緒にいたい。ずっと、離れないでほしい。何でもない男女が、当たり前のように望むことが叶わないのがもどかしかった。このまま何も考えずに死んでしまおうか?
『まだ、歩けるよね?』
冷たい闇に堕ちそうな感覚を払う声だ。とても澄んだ声で、どこかで聞いたことがあるような錯覚を起こす。手も足も動かないのに、歩けるのだろうか。
『そちらに堕ちてはいけない人……』
ジェフリーは声に反応する。
「誰だ? 俺にはもう、何も残っちゃいない」
言って気落ちした。間違ったことは言っていない。それでも、もう何もすることができない。何も希望なんて抱けない。ひたすら、ミティアに対する謝罪の言葉しか浮かんで来なかった。そんな中で、暖かい光を感じた。
『あなたはまだ生きなくてはいけない』
「生きてどうする?」
『ずっと自分のために生きて来た。そう言いたいのでしょう?』
生きなくてはいけないと言うのだから、本当に死んだのかもしれない。希望を抱けないまま生きるなら、それでもかまわないと思った。
いつだか、魔界で言われていた魂の選択。待てるのなら、何も考えずに愛しい人が来るまで待ち続けるのも悪くない。
だが、声はジェフリーを希望に導こうとしている。
『じゃあ、これからは誰かのために生きようとは思わない?』
「誰か?」
『そう、大切な人なのでしょう?』
「今の俺に助けられなかった」
『まだ間に合うよ。だってあなたはまだ、死んでない。さあ、立って。あなたは一人じゃない』
立つ? 立つとは? 足はあるのだろうか? 一人じゃない?
いや、一人だ。一人になってしまった。かすかな光は消えてしまった。声の主は誰だったのだろうか。
虚無の空間に別の声がこだまする。それは聞き覚えのあるよく通る声だった。
「もういいだろう? そいつはしくじったんだ。せっかく魂を戻してやったというのに。これだから人間は不器用で仕方がない」
聞き覚えのある声だ。ジェフリーは名前が思い出せず、頭に鈍い痛みを感じた。痛みがあるのだから、まだ生きている。意識だけかと思ったが、そうではないようだ。もしくは本当に暗闇なのだろうか。何も見えないまま、ジェフリーは言う。
「その声は、神様、か?」
暗闇に向かって言っているのだから、かなりの怪しい人だと思われるかもしれない。こんな窮地にあらわれるのだから、『神様』らしいものだ。本当の神ならば、また導いてくれるのだろうか。ジェフリーは淡い期待を抱いた。
「直接助けるつもりはない。だって間違ったのはお前だからな」
「間違えた? 俺が何を間違えたんだ?! 希望を与えて、絶望に突き落とすようなことをするのが神様なのか? 俺にわざわざこんなことを言うために、ここへ足を運んだのかよ。ご苦労だな……」
失意の中、ジェフリーが言えることなどこの程度。神を愚弄する言動だ。
さすがのユーリィもこれには呆れた。これくらいの言動で怒りを覚えるほどの器量ではない。なぜなら、神とは生きている者にとって都合のいいものだからだ。罵倒されることも慣れている。
ユーリィは意外な返事をした。
「そうだぞ。このままでは世界が危ないからな」
神様らしい意見だ。世界のことを考えている。だが、もしかしたらミティアもそうだったのかもしれない。それなのに、ジェフリーはミティアのことばかりを考えていた。これが間違ったことだったのだろうか。
ジェフリーはようやく思考が落ち着いてきたのを自身で感じた。視野が狭かったと言うべきかもしれない。それがどう『世界』に作用するのかまでは考えがいたらない。
どこで間違えたのか、何をするべきだったのか。ジェフリーは考え込んだ。
ユーリィは最後の助言をする。
「世界の生贄がお前に言ったことを思い出せ。これが最後のチャンスだからな? 次は世界が滅ぶぞ。言っておくが、脅しじゃないからな?」
声質がやけに低めだ。それだけ真剣に危機を訴えているのかもしれない。だが、ジェフリーはその導きに心当たりがあった。
浅い眠りをしているような感覚だった。遠くで声が聞こえる。
「いた!! ちょっと、早くこっちッ!!」
「ジェフリーさん!! た、大変だ。せ、先生!!」
「お兄ちゃん先生は頼りにならないよ。怪我もしていたし」
「そういう言い方は……って、おじさん!?」
まだ遠いが、やかましい声がする。ジェフリーは聞き覚えがあり、耳を澄ます。この声、喋り方はコーディとサキだ。少しの時間しか離れていなかったのに、妙に懐かしい。
「これは血? はっ、ミティアさんは!?」
「それはあと。まずはお兄ちゃんたちを気付かせないと!!」
「……っつたたた……」
「サキは怪我してるし、無理しないでよ」
「でも、助けないと……」
ジェフリーは体を起こされている感覚を得た。手の主は怪我をしているのかぎこちない引っ張り方だ。服が摘ままれたが、もちろんそれだけで持ち上げることは難しい。
「ぷはっ……のぉんっ!!」
「えぇっ、ショコラさん!? わぁ、くしゃくしゃじゃないですか、大丈夫ですか!?」
「た、大変なのぉ!! 本物のエリーシャが……」
「ぶるぶるしながら話されても……うぅっ、冷たい。どうしてずぶ濡れなんですか?」
遠い声が幾分も近い。そして扱いがもう雑だった。すでにジェフリーなどそっちのけになりつつある。この状況が安易に想像できてしまうのが情けなく思えた。
「それより、ミティアさんはどちらに!?」
「わー、サキったら、この状況でお姉ちゃんを狙ってるの?」
「だ、だからそういう言い方は……」
ジェフリーは謎の怒りを覚えた。俺に何かあったらミティアを頼むとは言った。だが、サキはこれを拒否したはず。都合のいい建前だったのだろうか。何だか少し、イラついて来た。一言、向き合って真正面から言ってやりたい。
「ミティアお姉ちゃんのこと、好きなんでしょう? だってお兄ちゃんがこれならチャンスだもんねぇ?」
「僕はただ、その……」
信じられない。ジェフリーは自分の感覚を確かめながら目を開けた。
コーディとサキが目の前にいる。二人ともボロボロで、大怪我をしているが、なぜか表情は明るい。どちらが先に気が付くかと思ったが、意外にもショコラが先だった。
「のぉん!! ジェフリーさぁんっ!!」
ジェフリーの頬にひんやりとした肉球が触れた。鯖トラ猫、ショコラで間違えない。顔に乗られると物凄い迫力だ。気付かれたならもういいと、ジェフリーは体を起こした。気まずそうなサキと、一応心配している表情を見せるコーディが視界に入った。ジェフリーは深いため息をついた。
「俺がのびていたからって、好き勝手言いやがって……」
起き上がって早々の悪態だ。ジェフリーらしい。眉間にしわも寄り、主にサキに向かって嫌味を向けていた。
サキはぎこちない様子で否定した。
「ジ、ジェフリーさん、無事でよかったです! 僕は心配していただけですよ?」
「……はぁ」
ジェフリーはため息を追加した。ジェフリーにとってサキは、友だち以上に友だちだ。これも含めてなのかもしれないが、どうも煮え切らない。睨み合うようになってさらに気まずくなった。
空気をぶち壊す勢いでコーディが質問をした。
「ねぇ、ミティアお姉ちゃんは?」
本当にジェフリーなど二の次で、薄情さに困惑する。これもコーディの特徴かもしれないが、もう少し心配してくれてもいいものなのに残念である。それに、ミティアの質問をされても、ジェフリーには答えられない。
ジェフリーは俯き、自分の手を見た。どんなに伸ばしても届かなかった手だが、右手に違和感を覚えた。
「ん?」
右手の拳に異物を握っていたようだ。確かめようとする視界にケーシスが入った。頭から血でも被ったのか、ひどい顔をしている。いや、目つきが悪いせいでホラー映画にでも出て来る殺人鬼にすら見える。見下すような視線が刺すようで、父親相手なのに、ジェフリーはビクついてしまった。
「親父?」
「テメェ、しくじりやがったな!?」
「は、はぁ!?」
展開が散らかった。ケーシスは牙を見せながらジェフリーの胸倉に掴み掛かった。その手は血に染まって震えている。
「姉ちゃんを見殺しにするつもりか!?」
「見殺し?」
「このボンクラ野郎が……」
ジェフリーは殴られでもするのかと身構えたが、ケーシスは肩で息をしながらジェフリーを突き放した。勢いからして一発でも食らうのかと思っていた。突き放されて気が付いたが、ケーシスは左手に何か握っていた。銀のチェーンが見える。
「親父、それ……」
ぐるりとつながれたチェーンに指輪が見える。ジェフリーは自分が手に持っていた違和感の正体を確認した。手の平の中にはメモ書きがあった。不器用な子どもの文字。書いてあった文字を目にしたジェフリーが目を潤ませる。
『ありがとう』
ギルドで宛てられた手紙の文字に似ていた。絶望と闇に堕ちそうな自分を励ましてくれたのは、本物のエリーシャだ。
弄ばれた魂たちも、解放されるのをずっと待っていたのだ。自分の魂だけではなかったことに気が付いた。だとしたら、ケーシスは誰から言葉を受け取ったのだろうか。
ケーシスは銀のチェーンを手繰り寄せ、指輪と一緒に握った。もう一つ、手の中に何かを握っている。ケーシスはジェフリーに質問をした。
「俺はやることをやって、あの瘴気の呑まれて死んでもいいかと思った。だけど、俺はシルビナの声を聞いた。まだ生きてくださいって。お前もそうなんだろう? 誰かの声を聞いたんだよな?」
ケーシスの話から推測するに、手にしているのはおそらく懐中時計だ。ジェフリーにとって母親であるシルビナの。
遠き日に、沙蘭で結婚指輪を探す依頼をギルドから出していた。正姫たちから聞いたのを思い出した。きっと、ルッシェナに奪われてしまったのだろう。シルビナの体ごと。それが戻されたことになるのだろうか。何もかもが遅い。
だが、ジェフリーが聞いた言葉はもっと親しみやすい声だった。ケーシスがシルビナの声を聞いたのなら、もしかしたら自分の姉、本物のエリーシャなのかもしれない。言われたことを思い出すと、自分に立ち上がれと励まし、『未来』への希望を託すような言い方だった
もの悲しい思いだ。やるせない。どうして今だったのか。今でなくてはならなかったのか。ジェフリーは自分の存在が何よりも小さく感じてしまった。
「あ、あの……」
サキがこの場の空気を乱した。
ジェフリーはてっきり、まだミティアのことを引っ張り出そうとしているのかと思っての軽蔑の眼差しを向ける。もちろん、ジェフリーだけではなく、コーディも同意見のようだ。変な所で気が合った。だが、サキは物怖じしない持ち前の根性で淡々と語り出した。
「さっき、コーディも見たと思うけど。大きな黒い龍がいましたよね? あれは、何だったんですか? 僕が勝手に推測すると、飛んだ位置からしてフィラノスの地下で見た最初の邪神龍ではないですか? まぁ、僕がどうこう言っても仕方ないことかもしれませんけれど……」
語り半ばで頬を膨らませている。サキは自分に向けられている視線があまりいいものではないと早々に察した。
「あっておるぞぉ。続けなさいなぁん」
いい反応を見せたのはショコラだ。いつもは手厳しく、ヒントだけ放り出して答えを導きなさいと自分の足で歩かせる方針である。
そんな反応をされるとは思わず、サキは一瞬驚いた。控えめな性格を抑え込みながら続ける。
「僕はジェフリーさんとショコラさん、それにセティ王女ともあの邪神龍を見ています。そして僕は封じられた哀しみが鎮まるようにと浄化の魔法を掛けました。覚えていますか? もうだいぶ前だと思いますけれど……」
ジェフリーは思い出しながら何度か瞬いた。なぜサキがこんなことを話すのか。ここにも重大なヒントがあった。
「お前……」
「そういう態度を取られたら、続きを話したくないです」
「ま、待ってくれ! この肝心なときにへそを曲げるな!!」
ジェフリーはサキの肩を掴もうとした。だが、さらりとかわされた。右腕はほとんど動かないのか、左手で負担が掛からないように抱え込んでいる。平気な振りをしているが、サキは重症のようだ。そう言えばコーディも怪我をして左手を吊っていた。飛んだと言っていたが、コーディはサキを引っ張って飛んだのだろう。サキはあまり肉付きがよくないので軽いのは皆が知っている。
それはそうと、どうやったらサキの機嫌がよくなるだろうか。ジェフリーが考えていると、一際大きな声が聞こえた。派手に水を跳ねる音がする。
「おぉーい!! うぉぉぉーいっ!!」
この下品でやかましい声は圭馬だ。声のする方を見ると、懐中電灯を持ったハーターとローズもこちらへ走っていた。あとの三人の姿が見えないが、ここは水場だ。嫌な予感が過った。
ジェフリーは思考からいったん恐怖症組のことを置いておいた。
間もなくして、ハーターと圭馬が到着する。かなり息を切らせていた。
「ぜー、ぜー……無事かい!?」
息を切らせているハーターの頭には圭馬が乗っている。図々しいところがなぜか懐かしい。
「ちょっと、どういうことなのさ!! さっき邪神龍がいたじゃないか!!」
「待ちたまえ、ウサギさん! キミはおいしい所を全部持って行くつもりなのかい?!」
圭馬が指摘をするように、邪神龍は皆には見えていたようだ。夜闇でも確認できたのだからそれもそうかとジェフリーは納得する。圭馬はどんどん話を進めようとしている。
「お姉ちゃんがいないね。ってことは、ボク、嫌な予感がするけど……」
圭馬は勘がいい。そもそも賢人である上に、邪神龍の知識もそこそこある。そして共通するのは、ミティアに好意を抱いている。やはりミティアを気にしていた。
そこへローズが遅れた到着する。怪我はないようだが、疲労の色が顔の具合がうかがえた。どうしても化粧から判断してしまう。
ローズは呼吸を整える前にケーシスの異常なまでの血による汚れに気が付き、ポケットから何か取り出そうとしていた。
ケーシスはローズの世話焼きを拒否した。
「よせ。コイツは俺の血じゃねぇよ」
「んン!?」
人数が増えればそれだけ話が散らかる。だが、これも精神的に追い詰められた状態に安心と言う希望が射す。
できればここに一番いてほしい人がいる。ジェフリーはついに暗い影を落とした。
つられるようにコーディが声質を下げる。さすがに気遣っているようだ。
「あー……ジェフリーお兄ちゃん?」
さすがに冗談を言っている余裕がない。
どこから解決の一口を見付けようかと模索が始まる。
ハーターは具体的な変化を述べた。まずは天空都市がどうなったのかを推理している。
「とりあえず、頻発していた地震は収まったね。何だか、空が遠い気がするよ。潮の香りもするし、この水はもう海だよね。向こうから陸が見えたんだ。方角からしてフィラノスだと思うけど、光の柱もなくなってぼくたちは世界の統合を止められなかったのかな?」
ハーターは困った様子を見せる。何となくの察しが付くが、ここは天空都市だった場所であり、今は地上に落ちてしまったのだろう。無事だったことが奇跡なのかもしれない。今のところ、変化はわからない。ただ、地に足を着いている感覚はずっと強まった。
圭馬は危機感を抱いていた。ジェフリーに対して強めの質問をした。
「それより、追わなくてよかったの!? あの邪神龍、あのままだと世界を壊し始めちゃうんじゃない!?」
「俺だって、追ったさ。でも、ミティアが『こちら側』に戻したんだと思う。邪神龍はどこへ行った? 今のあれは、哀しみを抱え込んだミティアだ」
「おっとっと、ジェフリーお兄ちゃん、冗談言ってるカオじゃないね」
「冗談なんか言っている場合じゃないだろ!? 俺は、あいつを行かせてしまった。その責任を取らないと、俺は一生後悔する」
「もー後悔してるじゃん」
圭馬はなぜかしょげている。耳も尻尾も元気がない。
焦っているのはジェフリーだけだ。先ほどまで熱くなっていたケーシスも、どこか諦めた表情を浮かべている。
さらに追い打ちを掛けたのはサキの推測だった。
「不確かなことを言っても仕方ないのはわかっていて、あえて言いますが、ミティアさんが邪神龍に取り込まれてしまったのなら、彼女は世界を滅ぼすことをしないと思います。僕の知っているミティアさんだったら、自分だけで抱え込んで消えてしまいたいとの望みそうだな、と」
サキの考えはだいたい合っているだろう。だからこそ、ジェフリーは憤慨した。
「そんなことはわかってる!! だから止めたいんだ!!」
「力を貸してほしい思いはわかっています。でも……」
ジェフリーがミティアを救い出したい気持ちは痛いほどわかっている。それでもサキは今この場所にいる人を一人一人見てため息をついた。ほとんど動ける者がいないのだ。
ハーターは元気かもしれないが、彼ができることは少ない。ローズも戦力と言うよりは皆のサポートや手当てをしていた。コーディもサキも怪我をしている。そしてケーシスだって眼鏡もなく、視界が悪そうだ。目を凝らしている。おまけに彼は丸腰だ。他の分野で戦えるかもしれないがそれもどうなのだろうか。
サキは仲間の確認を踏まえてため息をついた。
「はぁ……僕にもっと余力があればよかったのですが、今は考えるだけの余裕もありません」
サキも疲弊している。倒しても倒しても回復してしまうルッシェナとの戦いで、消耗が激しかったせいだ。怪我もしている。大魔法も放った。今、倒れて眠ってもいいのなら躊躇せずにそうする。
ショコラはサキに擦り寄り、ひどく心配している。
「のぉん、主ぃ……」
「魔石もほとんどありません。もう、僕にできることは……」
使い魔として、サキにどれだけの力が残っているのかがわかるのかもしれない。
考え込むサキの横に黒い影が降りた。獲物を見付けたカラスのような下り立ち方だ。この登場の仕方は誰もが驚く。影の主はクディフだ。手負いのせいか髪は乱れ、手負いの身にこの黒いマント、不気味に思える。
「貴殿はそれでいいかもしれぬが、まだ手はあるのだろう?」
「わっ、びっくりした!」
ジェフリーはクディフに目を向ける。クディフは疲弊しているのか、やけに厳しい表情だ。
少し遅れて竜次とキッドが到着した。これで皆が揃った。
竜次は水恐怖症だと騒ぐ余裕がないらしく、キッドに肩を貸してもらいながらやっと到着したと言う感じだ。クディフは手こそ貸さなかったが、二人を見守る形を取っていたのだと状況で察せる。ジェフリーは、恐怖症の二人をくだらなく思ったことを少し後悔した。今日は後悔ばかりが続く。できたらこんな日は続いてほしくない。
クディフがここまで協力的なのも気になったが、サキに向けられた言葉の方がもっと気になった。クディフは何を知っているのだろうか。皆が合流して早々、サキが話の主軸になった。ジェフリーの直感からすると、まだ救える手段は残っている。いや、そうでなければ、こんなに冷静でいられるはずがない。
サキは声を低めに小さく唸った。
「手、かぁ……」
この反応は何か手がある。だが、サキにしては珍しく渋っている。疲労と怪我で思考が動いていない……というわけではなさそうだ。何が引っ掛かっているようだ。よく見れば、サキは左胸にあるユリのブローチをじっと見ていた。
このユリのブローチはフィラノスの前の国、神族が納めていたヒアノスのものだ。意味が深いブローチだが、これは次期王となるはずだったセティが宿っている。魔界で未来を託してくれた一人だ。
圭馬やショコラのように魔力の開放で実体化し、力を貸してくれる。だが、セティは朽ちた身をルッシェナによって利用されていた。命を弄ばれたガラスの魂だった彼女の魂も、束縛から解放された一つとして該当している可能性が高い。
サキはこのことを懸念していた。
「セティさんのお力なら、邪神龍の暴走を鎮めることができるかもしれません。ミティアさんを『こちら側』に引き戻すことも可能だと思います。でも、開放してしまったら、もしかしたらもう二度とセティさんに会えないかもしれません。彼女は、その……」
「未来を見たがっていた。そうだったな」
クディフは話の流れを把握するのが早かった。おそらく邪神龍も解放された魂たちもここへ向かい途中で見たのだろう。一行の目的を把握していれば、見たものだけで情報の推測は可能だ。
ジェフリーは黙ったまま考え込んだ。確かにセティなら浄化の力で邪神龍の討伐は可能かもしれない。可能なら今すぐにでもすがりたい可能性だ。だが、サキがそうしないのは疲労以外にも理由がある。あえて黙って聞いていた。
サキはジェフリーに向かって言う。
「浄化のタイミングを間違えば、ミティアさんを助けられなくなってしまいます。彼女ごと、その存在を消してしまうのですから」
ジェフリーはびくりと反応し、顔を上げた。サキの言葉が重い。血の気が引く。
サキはジェフリーの目を見て声を張った。
「判断を誤らない自信はありますか?!」
「なっ!?」
疲弊しきっている中で、体を張って大袈裟に反応できるのはジェフリーだけだ。まだやれるはずなのに、ここで己の無力さを知った。今までを思い返しても、一人で何かを成し遂げたのは少ない。気持ちだけが焦っている。
逃げるわけにはいかない。「どうして俺が」とは言えない。失敗しない保証はどこにもない。自信満々には言えなかった。
「失敗したくない。もうしくじりたくはない。でも……」
「ジェフリーさんの気持ちはわかっていますが、今の僕も……」
ミティアを助けたい気持ちは誰だって同じだ。疲弊した体に鞭を討つか、それこそサキまで命を落とすかもしれない。
こんなとき、一歩下がった場所から手を差し伸べてくれる人がいるのも、この一行の特徴だった。ローズがサキに歩み寄り、白衣のポケットからフラスコを差し出した。
「ほい……」
しっかりとゴム栓がされ、この変な青汁にも似た色に見覚えがある。サキは嫌な予感がしつつ、眉を歪ませた。
「えっ?」
「サキ君は、これがあれば頑張れるデス?」
ローズのお手製、魔力回復のマナドリンクだ。ミグミ火山でご馳走になった、いや、それだけではない。思い起こされる思い出に涙しそうになった。確信を持って言えるのは、ローズの行為は『わかっていて』やっている。
サキはフラスコを受け取って恨めしく眺めた。
「はぁ、しょうがないなぁ……」
腹は決まった。サキは皆の顔を見て、最後にジェフリーに向き合って深く頷いた。
「お付き合いします。一応、友だちですからね」
仕方がない、と心から滲み出ている表情だ。サキはゴム栓を乱暴に弾いて一気飲みをしている。
その様子を見て、コーディも行動に出た。何を思ったのか、立っているのもやっとの竜次に右手を差し出した。
「お兄ちゃん先生、『アレ』ちょうだい!!」
「……アレ?」
竜次は重傷のせいかもしれないが、すっとんきょうな反応を見せた。いや、疲弊しているのとは別に、竜次はもともと転機が利かない気質だ。コーディは大きなため息をつきながら手を出し直して強調した。
「ドリンク!! 私、サキの足になるから、ちょーだいって言ってるの!」
疲弊している割には元気かもしれない。竜次はようやく理解した。だが、すでにキッドが腰のカバンを漁っている。キッドも怪我をしているがこれくらいはできるようだ。
キッドは勝手にドリンク剤を取り出し、コーディに渡していた。
「これかしら?」
「えぇっ、クレア?」
「こういうときに使ったらいいじゃないですか?」
「そ、そうですけど……」
たびたび思うのだが、医者のくせにこんなものを持ち歩くなんてどうかしている。皆は旅の道中で持っているのを知っているからいいようなものだが、普通ではないだろう。
何も知らないケーシスとクディフは眉をひそめている。知らなかったら奇妙な光景だ。
受け取ったコーディは首を傾げていた。
「あれ、いつもこんな箱に入ってたっけ? ま、いいか」
コーディはバリバリと品もなく、雑にパッケージを剥いでさらに首を傾げた。
「なんか小さいね。つか、いつもより苦くない?」
飲んでから感想を言った。コーディの品のなさはお墨付きだ。礼儀もほとんどなっていなかったくらいなのだ。皆と行動をともにして少しはマシになったものだが。
コーディは飲んでゴミだけ突き返す。すると礼も言わずにパタパタと羽ばたいた。そんなにすぐ効くとは思えないのだが、気持ちも問題もあるようだ。
コーディのドーピングが終えた頃、サキもお手製のマナドリンクを飲み終えた。
「うぷっ……こんなにおいしくなかったのですね。ごちそうさまでした」
気分悪そうに空のフラスコを返却するサキ。以前、ミティアと間接キスした思い出のある飲み物だが、緊張した今は味がしっかりとわかった。こんな味ではなかったような気がするが、もしかしたら改良したのかもしれないので深くは触れずにいた。
サキは鳥肌を押さえるように腕をさすっている。こちらのドリンクはドーピングではないので、体調はそのままだ。体力の前借りはできない。右腕が痛そうだが、準備が整ったと合図した。ショコラが肩に乗り、圭馬がカバンに潜り込んだ。ハッキリ言って、かなり重い。
サキの準備がやけに重々しい。ここまでされると、ジェフリーは悪く思った。
「な、何だか、これじゃあ、嫌々お前を強引に引き摺り出そうとしているみたいじゃないか!?」
熱意とは裏腹に、一応はサキの心配もしていたジェフリー。ジェフリーは自分の足で歩けるし走れる。サキはコーディに引っ張ってもらうのが主流になりそうだ。妙なコンビになったものだ。
サキはジェフリーに対し、不快感を示していた。
「だってそうでしょう? 自分に利がないんですから、もう少し僕のことも考えてくださいよね?」
「お前なぁ……」
「僕が力を貸す理由はミティアさんのためなんですから」
「……っ!!」
些細なことだが、激しく言い合いになりそうになった。サキを信頼していないわけではないが、遂に利がないとまで言い出した。何か機嫌を取らないと歩調が乱れるかもしれない。ジェフリーは喧嘩腰になりそうな感情と態度に自制をかけた。
サキはカバンの中の圭馬と魔石の確認をしていた。残りはほんの数個。その中から、緑色の魔石を握っていた。
ジェフリーはここで待ったをかけた。意味のない震えが襲う。
「ま、待ってくれ!! 俺はまだ、その……」
ジェフリーの声が震えている。やっと実感が湧いたと言うところだろうか。手も膝も震えた。
それでもサキの態度は厳しい。態度だけではない。ジェフリーへの眼差しもまるで蔑むようだった。
「やるんですか? やらないんですか?」
まるで挑発するような煽り。サキはジェフりーの答えを待った。
サキだけではない、皆の視線もジェフリーに刺さるようだ。ジェフリーはやっと覚悟を決めた。なぜここまでするのかというと、誰もジェフリーの答えを聞いていないからだ。覚悟が足りていない。どんなに重要なことかも、サキがやっと問い詰めて、ジェフリーは自覚を持った。
「や、やるに決まってるだろ!! 今度は、絶対にしくじらない!!」
ジェフリーのこの言葉は震えてはいなかった。そう、言って震えは止まった。
この反応を見たサキは表情を緩めた。
「ジェフリーさんが覚悟を決めてくれてよかったです。始祖の邪神龍なら、行き先はフィラノスでしょう。少なくとも僕はそう思います」
サキの準備は整った。ジェフリーも頷いて整ったことを知らせる。
「最後になったら嫌なので、行って来ますは言いません!! テレポートッ!!」
強引な手段を取ったものだ。サキは挨拶をしないまま、ジェフリーとコーディ、使い魔二匹とともに姿を消した。
もう少し色々話してもよかった気がするが、こうも慌ただしいと一気に静かになったことに誰もが違和感を覚える。
だからと言って、言い合えるような元気を持ち合わせている者は少ない。
沈黙を破ったのはケーシスだ。
「そーか、ガキンチョだと思ってたのによぉ……」
銀の懐中時計をコートのポケットに突っ込み、首を垂れる。
これがきっかけでハーターが懐中電灯を振り回す。気でも紛らわせるように。落ち着きがなく、だが一応辺りの様子を見ている。
「あの子たち、行き先はフィラノスだよね? ぼくたちは追わなくていいのかい?」
ハーターはそわそわと皆の顔色をうかがい、この中で一番元気そうなローズに視線を向けた。
ローズはやけに落ち着いている。
「ワタシたちが行って、何ができるでしょうかネ?」
「いや、その、うーん……」
力になりたいのに何もできないのがもどかしい。それはここにいる誰もが同じ思いだった。ハーターだけではないのだ。
竜次もぽつぽつと言葉を発す。
「私もジェフに何か言ってあげればよかったかもしれない……」
口に滲んだ血を拭っている竜次。気の利いたことができなかっただけではなく、話すことも少なかった。彼も後悔をしていた。
ケーシスはそんな竜次に言う。
「メンタルがクソガキなんだよ。ジェフリーの野郎、あの姉ちゃんがいねぇと、この先どんなに前向きに生きようとしても道を誤るだろうな。それこそ、俺みたいに……」
「決めつけはどうでしょう?」
竜次は弟、ジェフリーの味方だ。動ける体だったら、確実に追い駆けた。支えてもらってばかりなのに、肝心なときに戦力になれないのが心苦しかった。自力で立って歩くのも支えがないとつらいほど、身体にダメージを受けている。自分には支えてくれる人がいる。今は肩を貸してくれているキッド。寄り添ってくれている大切さをあらためて知った。
「そうか。一度だってつらかったのに、二度は……」
「竜次さん?」
竜次はキッドに寄り添った。凭れ掛かったが正しいのかもしれないが、キッドは受け止めてくれた。
「失ったら道を外すかもしれない。再起不能になって、それこそ私みたいに……」
「あいつ、絶対大丈夫ですよ、ね?」
想像しただけで胸が苦しい。ジェフリーはその運命を辿るかもしれない。信じたくなかった。いや、ジェフリーは信じてあげたい。竜次は無性に込み上げてくる感情に目を潤ませた。
キッドは竜次を気遣う。
「泣いたら体、悪くしちゃいますよ。肋骨、折れてるんでしょう?」
キッドに抱え込まれ、背中を摩られている。そのまま膝を着いて崩れるように座り込んだ。水が跳ねたが、もうかまっている余裕すらなさそうである。どちらにしろ、竜次はあまり動かさない方がよさそうだ。
いまだに去ることもせず、しかめた表情のクディフ。
ケーシスに用事があるようだ。当然ケーシスは向かい合って話すのも嫌そうだが、一応相手にはするらしい。それは貸しがあるからである。そして、クディフが沙蘭の剣士にして、ケーシスは武神だからでもある。
「問おう。神は存在したのか?」
ケーシスは眉を崩し、怪訝な表情だ。小馬鹿にでもして払おうとも思った。だが、珍しくやり取りをする相手に対する礼儀ぐらいあってもいいだろう。ケーシスは大真面目に答えた。
「私は神だと言うペテン師ならいた。理屈は知らねぇが、俺の死んだ娘の体を器に、太古の昔に朽ちて滅んだはずの、天空の民の方のエリーシャを突っ込んだのはマジらしい。ルーの技術だから、詳しくはわからねぇがな?」
「ほぅ、王女と同じようなことをしたのだな」
「そうなるらしい。ところがだ、そいつは神でも何でもねぇ、ただの天空の民の代表だったってわけだ。文明が進んだこの島の地を、地上の人間はひどく珍しがった。獣人と女しか存在しないなんて、人間にとっちゃハーレムだ」
「…………」
ハーレムがどうのこうのはケーシスの私情として、求めていたものではなかった結末にクディフは落胆した。自分が貫いて来た『神など存在しない』がよもや現実であったとは嘆かわしい。
ケーシスは呆れるように両手を上げた。
「ひた隠しにしていた実は何でもない、すこーし見目美しい女の代表。文明の流出、人間による支配、ンなのを避けようとしてあのクソ猫は世界の分離を選んだってところだな。これは推測でしかないが、空に浮かんだ都市に美女がいたら、女神だの何だの尾鰭も付いて派手な話になるんじゃねぇのか?」
ケーシスは憶測と言っていたが、かなりいい線をいっているかもしれない。のちにショコラと答え合わせをしてもいいくらいだ。
クディフの落胆は激しいものだった。普段は感情に乏しいはずだ。だが、今は明らかに肩を落とし、機嫌が悪いのがうかがえる。
「つまり、いくら奮起したところで茶番だった、と?」
「つまんねぇ言い方すんなよ。クソ白狼が……」
実際つまらない結末だった。疲労と呆れの混在する絶妙な表情とため息だ。
「その『神』は討ったのか?」
「あぁ!?」
まだ質問があるのかと、ケーシスは嫌悪感を抱く。だが、いつの間にか注目の的になっていた。話の主軸だったサキもジェフリーもいない。答えを待つ視線に耐えるように顔をしかめ、近くの血だまりを指さした。
「そいつは女神様の血だ。この世からご退場してもらった。今頃魔界では伝承の凄腕が狩って閻魔大王にでも差し出してるだろうなぁ!?」
ケーシスは説明しながら少しずつ偉そうになって行った。
話が妙に大きい。そして、ケーシスはそんなことができるのかと、疑問に思う。
「お父様が、そんな大技を?」
瀕死の竜次も、頭の回転の速いローズも疑っている。
「フーム……」
まるでケーシスが一人で手柄を立てた言い方だった。
この場にいる中で、魔界にいる伝承の凄腕はローズしか見ていない。話がややこしくなりそうなのでいったん伏せた。もう行くことはないと思っている魔界でのできごとだからだ。
ケーシスは、刺す視線と疑いの視線に耐えかねて事実を述べた。
「ルーの野郎が割り込んで来た。お前らの方で始末をつけたんじゃないのか? でっけぇ魔法は飛んで来たし。コッチも混乱はしていた。だが、安心しろ。ルーの野郎が女神様を鷲掴みにしている間に一緒に魔法の中にぶち込んでやったんだからな!?」
偉そうな言い方だ。性格が滲み出ている。
クディフがケーシスの話の内容に疑いも持った。偉そうな態度は慣れてしまえば涼しく流せる。
「戦ったときは、ルッシェナ・エミルト・セミリシアは理性など保っていなかったが、なぜ女神を束縛などしたのだ? 我々の剣戟も大魔導士の魔法も食らっているはずだが?」
ケーシスは吐き捨てるように言う。
「ンなこたぁ知らねぇよ! ただ、俺が魔界に葬ったのは本当だからな!?」
いい歳の大人がこれではチンピラと変わらない。
「そっから先は何があったのか知らねぇ。気が付いたら邪神龍と姉ちゃんはいなかった。ざっとこんな所だ」
この場の状況を見れば、間違いではなさそうだ。ケーシスも怪我をして魔力消費で疲弊している。
ほしい情報は得た。クディフは一歩、また一歩と退く。
ハーターとローズは困惑した。
「と、父さん?」
「えっ、オトーチャン!?」
クディフは血も水も吸って重たいマントを翻した。
「もうよかろう。俺のしてきたことの大半は無駄だったのだ。これ以上馴れ合う必要もあるまい?」
クディフから離脱と別れを切り出されたことになる。当然、子ども二人は納得がいくはずがない。食い下がろうとする。
「やっと数十年ぶりに会えたっていうのに、こんな大事のときじゃなくたって一緒にいればいいじゃないか!? 本当はもっと話したいんだ!!」
「あんなに協力してくれたじゃない!!」
ローズに至っては語尾まで崩している。クディフは自分の子どもに呼び止められても意思を曲げるつもりはないらしい。
家族の話に黙っているつもりが、ケーシスが口を挟んだ。
「放っておけ。大人のガキどもが、どうせ白狼は誰かと内緒の約束でも交わしているんだろう?」
クディフが冷めた眼差しをケーシスに向けた。約束を交わしてあると言うのは間違いではない。ゆえに、読心術でもやられたのかと怪訝に思ったくらいだ。
ローズもハーターもまとめて『大人のガキ』と称された。これには頭に来たようだ。兄妹揃ってケーシスを睨み付けている。仲間割れでも始まりそうな空気の中、クディフは背中を向けたまま肩を震わせた。
「くくくっ……はははっ……大人のガキとは、趣のある例えだな、ケーシス・レイヴィノ・セーノルズよ」
何かと思えば、クディフは笑っている。この場の誰もが目を点にした。
無関係な家族の話だが、キッドも竜次も軽く引いていた。
「えっ、何? こいつ、笑うんだ」
「クレア、しーっ……」
小声でひそひそと話す二人。それでもクディフは箍が外れたようにニにやりと笑った。キャラの崩壊と言う言葉を使っていいなら、今が当てはまる。
「何かあれば会うこともあるだろう。できれば、あまり世話になりたくないみたいなので、な?」
世話になりたくないのはクディフの方ではないだろうか。誰もが指摘を入れたくなる。クディフはどうしても去り行くらしい。
「シャーリーにいい話ができそうだ」
聞き間違いかと思ったくらいには兄妹が動きを停止している。クディフはカラスが飛ぶように黒いマントをはためかせ、怪我人とは思えないスピードで姿をくらませた。
呆気に取られている兄妹のうち、先に我を取り戻したのはローズだった。
「シャーリーって、オカーチャン?」
「ってことは、つまり、父さんは、墓参りでも行くのかい?」
少し遅れてハーターも徐々に現実に引き戻されて行った。
まだぼんやりとしている二人に対し、ケーシスが無精髭を弄りながら提案した。
「あいつらの力になれるかどうかはとにかく、俺たちもフィラノスに向かった方がよさそうだな。行く末くらいは見届けてやらないと」
ケーシスはもう少し付き合ってくれるようだ。相談した結果、海域が統合のせいで混ざっているので、比較的元気なハーターとローズが先に行って船を拾って来る流れのようだ。確かに竜次を連れ回すのは負担が大きい。キッドとケーシスも待つことになった。さすがにクディフのように、さっさと自分のやり残した道に戻ることはしない。
水恐怖症で騒ぐ余裕もない竜次、もう海の上で高所恐怖症などどこかへ行ってしまったキッド。励ますように寄り添う二人。
ケーシスは、呆れながら空を仰いだ。
「墓参り、か」
ポケットの中の懐中時計と結婚指輪を探りながら、実はケーシスもクディフと同じことを考えていた。ケーシスの意識が落ちていたとき、亡き妻の声を確かに聴いた。
こんな出来損ないに『生きろ』と言ったあの声は忘れない。
0
あなたにおすすめの小説
極限効率の掃除屋 ――レベル15、物理だけで理を解体する――
銀雪 華音
ファンタジー
「レベル15か? ゴミだな」
世界は男を笑い、男は世界を「解体」した。
魔力も才能も持たず、万年レベル15で停滞する掃除屋、トワ。
彼が十年の歳月を費やして辿り着いたのは、魔法という神秘を物理現象へと引きずり下ろす、狂気的なまでの**『極限効率』**だった。
一万回の反復が生み出す、予備動作ゼロの打撃。
構造の隙間を分子レベルで突く、不可視の解体。
彼にとって、レベル100超えの魔物も、神の加護を受けた聖騎士も、ただの「非効率な肉の塊」に過ぎない。
「レベルは恩恵じゃない……。人類を飼い慣らすための『制限(リミッター)』だ」
暴かれる世界の嘘。動き出すシステムの簒奪者。
管理者が定めた数値(レベル)という鎖を、たった一振りのナイフで叩き切る。
これは、最弱の掃除屋が「論理」という名の剣で、世界の理(バグ)を修正する物語。気になる方は読んでみてください。
※アルファポリスで先行で公開されます。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完】あの、……どなたでしょうか?
桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー
爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」
見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は………
「あの、……どなたのことでしょうか?」
まさかの意味不明発言!!
今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!!
結末やいかに!!
*******************
執筆終了済みです。
出来損ない貴族の三男は、謎スキル【サブスク】で世界最強へと成り上がる〜今日も僕は、無能を演じながら能力を徴収する〜
シマセイ
ファンタジー
実力至上主義の貴族家に転生したものの、何の才能も持たない三男のルキウスは、「出来損ない」として優秀な兄たちから虐げられる日々を送っていた。
起死回生を願った五歳の「スキルの儀」で彼が授かったのは、【サブスクリプション】という誰も聞いたことのない謎のスキル。
その結果、彼の立場はさらに悪化。完全な「クズ」の烙印を押され、家族から存在しない者として扱われるようになってしまう。
絶望の淵で彼に寄り添うのは、心優しき専属メイドただ一人。
役立たずと蔑まれたこの謎のスキルが、やがて少年の運命を、そして世界を静かに揺るがしていくことを、まだ誰も知らない。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる