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35.俺の名前が出来た、特別なあの日。
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十五年前――。
あれは、きっと秋の中頃だった。風が涼しくなりだし、農耕民達が忙しなく働いているのを馬車から見つめながら、今年五歳になったばかりの少年はエヴァイアンへやってきた。
「君はこの地で生まれた」
向かいに座る、自分を買い取った男……アルダルト・エヴァイアンはそう言った。その声はとても穏やかで、とても紳士的だった。今から行くのは、彼の家になるそうだ。
レヂェマシュトルの集会で、少年は同じ歳の子どもに辛勝した。それは決して華々しい勝利ではなかったというのに、男は目玉商品である他の子どもではなく少年を選んだ。
親戚なのだとは聞いている。自身が生まれてすぐレヂェマシュトルに売られたというのも、公然だった。そもそもレヂェマシュトルの三分の一はそういった出自だ。気にする事でもない。
「君の名前も用意しよう」
名前。それは、自分には無い……きっと、特別なものになる。そう信じていた。ずっとずっと。
「とはいっても、考えるのは私ではないがね」
「……?」
「私には子どもが今二人いる。男の子と女の子だ。君の使命は、女の子の方を護る事だ」
君より年上だがね、と彼は薄く笑った。揺れる視力で見た夕焼けの光に照らされた彼の優しい横顔は、今でも鮮烈に覚えている。
大きな屋敷についた。生まれ育ったあの島に、こんな大きな建物は集合住宅しかなかった。アルダルトは少年を馬車から降ろすと、先を歩き出す。察してついていった。
やがて屋敷の中に入り、恭しく挨拶をする使用人達をあしらいながら彼は進む。五歳にしては小柄な自分がついていくには、少し速足だった。やがて、ひとつの扉の前で立ち止まる。
「入るぞ」
数度扉を叩き、男はノブを引いた。中は異様な程、白い。調度品は整っているしベッドも清潔そうだったが、あまりにも白く……どこか、うすら寒さすら覚える程だった。
中には、椅子に座った一人の女が居る。いや、よく見るとベッドにももう一人。
「その子?」
女は少年を見て呟いた。男は頷く。
「オフェリオーネの息子だ。あいつには……まあ、知らせなくてもよかろう。歳もラチカに近い、丁度いい」
「ええ、そうね」
女は立ち上がると、少年に歩み寄ってくる。彼女は屈み、シャイネの目を見る。彼女の目は深い緑色だった。
「私はね、アリャンドラ・トロス・エヴァイアン。よろしくね。名前は……」
「まだだ。ラチカに任せる」
アルダルトの言葉に、アリャンドラは頷いた。少年の背に手を添え、歩く先を傾ける。ベッドだった。
ベッドには、一人の少女が居た。生気の抜けた顔を、天井に向けている。少年に気付いているのかも分からない。ただ、それがどこか……少年にはどこか恐ろしいものに思えた。
まるで、噂に聞く……亡霊に憑かれた患者の様子に、彼女は酷似していた。
「この子はラチカ・エヴァイアン。私達の娘よ。もう一人男の子が居るけれど、あと半年は留学で戻らないわ」
アリャンドラの言葉が入ってこない程、少年は動揺していた。そしてつい、震えた言葉を発する。
「……この、ひとは。いきているんですか」
修業のさなか死んでいった子どもは周りにたくさん居た。皆、死んだらこんな顔だった。それは亡霊に魂がさらわれたから、と皆は噂した。
男は首を振る。
「生きているよ、ただ死んでしまいそうになっているだけで」
「悲しい事件があったの。そのせいよ。本当はもっと元気で、外ではしゃいで……エクソシストとして働きだそうとしている矢先だったわ」
エクソシスト。亡霊退治のプロフェッショナル。そんな彼女が、どうして。
アルダルトはラチカの傍に膝をついた。しかしラチカは一切その気配に反応しない。ただ、天井をぼんやりと見つめているだけだ。その黄金色の目に、光は無い。
「君に最初の命令だ」
少年の肩に、男の手が置かれる。
「私達では駄目だった。この子の兄すらも。だから、君だ。ラチカを、元の明るい姿に戻してくれ。君の名前は彼女が決める」
改めて、ラチカを見る。未だに、彼女は少年を見なかった。
翌日から、少年が完全にラチカの世話をするようになった。齢五歳ゆえ他の使用人が時たま世話を焼いたりしたが、それでも務めはしっかりと果たした。レヂェマシュトルでは戦闘能力しか磨いてこなかったせいで、最初はなかなか苦労した。
ラチカの病室の掃除、着替えの用意、湯浴みの手伝い、彼女の食事の用意……すべて、少年が行った。未だ少年を認識すらしない主人のために、少年は使用人としての技量をひたすら磨き続けた。
生きているのか死んでいるのかすら分からない少女。まるで人形のようだった。
「おじょうさま」
そう呼ぶように躾られた。彼女には、きちんとした名前があるのに。それでも使用人である自分にはその名を呼ぶ資格は無い。
もう一か月は経つが、彼女は未だに少年を認識しない。少年だけでなく、誰の事も。時たま見舞いに来る彼女の師匠にあたる男の事すらも、ラチカは認識出来なかった。
……一生、このままなのか。自分は、主人の声すら聞く事なく彼女を終わらせるのか。
庭を歩く。あと一時間すれば、彼女の髪を拭くために戻らねばならない。束の間の休息だった。朝は戦闘訓練のためにこの広い庭で訓練をしているが、今はただ椅子に腰かけぼんやりと空を見るだけでもいい。
レヂェマシュトルでは睡眠と食事の時間以外、すべてが訓練だった。人種、それどころか生命であればひたすらに肉体を戦闘向きに仕上げるための環境。こんな風に何もせずにいるのも、どこか落ち着かない。
「……ん?」
ふわり、といい匂い。何かと思い顔を傾けると、ひとりの女性使用人が歩いてくるのが見えた。彼女から、甘い花のような匂いが漂ってくるのが分かる。彼女は少し足早に歩いていた。笑顔で。
……甘い花の香り。鼻孔から脳を揺するような、どこか虜になる香り。
そうか。
少年は立ち上がり、走る。女性使用人の前に立つと、彼女は少し驚いたようにして足を止めた。
「あ、あの。その、すごくいいにおいですね」
ひとまずそう言ってみる。すると彼女はきょとんと顔を傾けるとすぐに微笑んだ。
「ありがとう。これはね、香水なのよ。今日お給金で買ってきたの」
「こうすい?」
「うーん、お子様にはまだ分からないわよねぇ……」
彼女は思いついたように、少年の手を取った。
「丁度いいわ。そこに座りなさい」
言われるがまま、先程の椅子に座る。少年の服の袖をめくり、手首をさらけ出させた。彼女は自らの懐から、小さな瓶を取り出す。中にはうっすらと黄色がかった液体が入っていた。瓶を開き、彼女は中指の先を液体に漬けると少年の手首に塗りつけた。手首同士を擦り合わさせる。
「嗅いでみなさい」
言われるがまま、鼻を近づける。確かに彼女と同じ匂いがする。ぱぁっと顔が明るくなっていく少年を見ながら、女性使用人は首を傾げた。
「君、お嬢様に最近ついた子よね。何してたのこんなところで」
「あ……ちょっと、きゅうけいを。でもそろそろかえらないと」
それを聞き、女性使用人は頷いた。彼女は自分が洗濯所を受け持っている事を伝えると、足早に去っていった。もしかすると何か用事があるところを呼び止めてしまったのか。
ラチカの病室に戻るまで、少年はずっと手首の匂いを嗅いでいた。初めて嗅ぐ香りではあるが、まるで花や果実の香りを凝縮させたものに感じる。甘く、濃い。
病室に入ると、ラチカは未だぼんやりと天井を見上げていた。そんな彼女に、濡らした布を持って近付く。
「おじょうさま、かみをふかせていただきます」
彼女の髪に触れようと、手を伸ばす。その時だった。
ラチカの黄金色の瞳が、動いた。少年の瞳と、ぶつかった。はじめてだ。彼女が、初めて自分の力でこちらを見た。その事に、胸が震える。
「おじょ、うさま」
恐る恐る、声をかける。その声は、何故か震えていた。
……まさか。
手首を、ラチカの鼻へそっと近付ける。彼女の鼻が、ゆるく……しかし小刻みに動いた。そして、彼女は微笑んだ。
「……いいにおい」
初めて聞く声だった。
どんな食事にも、石鹸にも、彼女はこんな感想を口に出す事はなかった。少年はじわりと胸が温かくなっていくのを感じながら、何度も頷いた。
少年はすぐさまこの事をアルダルトに報告した。彼は大変喜び、すぐに例の女性使用人を呼びつけた。彼女……ディアは、自身の購入した香水を購入した店を告げると少年を連れてその店へ向かう事になった。
二人で馬車に乗る。そこで、ディアはまた何か思いついたように手を叩いた。
「お嬢様、連れていけないかしら」
「えっ」
「ほら、車椅子を使えば……どうせなら、お嬢様自身に選んでもらった方がいいわよ、ねっ」
御者を説得し待たせている間に、アルダルトにも相談した。すると彼は快諾し、車椅子を出してくれた。ラチカを乗せ、進む。彼女はずっとディアを見つめている。ディアが言うには、前回と香水を変えたらしい。
「もしかすると、こういうのがお好きなのかもしれないわね。女の子ねぇ」
……当然のことなのだが、そうか。彼女は、少女なのだ。もっと早くに気付いてもよかったかもしれない。
再び馬車に乗り、走り出す。風景をぼんやりと眺めながら、ラチカは何も発さなかった。そもそも今回の香水の時点でもかなり奇跡に等しい。彼女を店へ連れて行き、更なる奇跡は起きるのだろうか。
ディアが話していた香水店に到着した。ディアが店員に事情を説明し、その間に少年がラチカを馬車から降ろし車椅子へ乗せた。年齢のせいもあるが、ラチカの方が背が高い。いつか抜かせるといいのだが。
ディアが戻ってきた。
「一つ部屋を空けてくださったわ。そこでゆっくり見てくださいって」
ラチカがこうなっているのは、基本的に世間に伏せられている。丁度いい。
通された部屋に入った瞬間、様々な芳香が混じった匂いが漂ってきた。ラチカを見ると、目が一瞬にして輝いたのが分かる。どこか微笑ましかった。
「さあ、お嬢様。お好きなのをお選びくださいな」
ディアは心底楽しそうにラチカにいくつも香水を嗅がせた。ラチカは口こそきかないものの、ディアがすすめてくる瓶をすべて嗅いでいる。その度顔を綻ばせたりしかめさせたりを繰り返した。反応が、戻ってきている。少年からすれば、どれも初めて見るものではあるのだが。
しかしそれがたまらなく、嬉しい。
「ねえ、君」
ディアに呼ばれ、近付く。ディアは少年の肩を叩いた。
「君も何かめぼしい物、見繕ってきて。こんなにあったら、日が暮れても終わらないわ」
確かに、ざっと見るだけで数百は種類がある。頷くと、二人が未だ見ていないであろう棚へと向かった。すべて低い位置に瓶を置いているので、身長が低い少年の手でも届く。
色とりどりの液体の入った瓶をひとつずつ開き、鼻を近づける。どれも匂いが一切違っていて、どうも楽しい。レヂェマシュトルとして訓練している中で嗅覚もかなり鍛えられているせいか少し効きが強い気もするが。
七つ目の瓶を手に取ろうとすると、背を叩かれた。振り向くと、ディアより少し年下と思われる少女が立っていた。十三、四歳くらいだろうか。彼女は豊かな緑色の髪を揺らしながら、少年を見て微笑んだ。
「ふふ、それ嗅いでみて」
言われるがままに、嗅いでみる。他のものよりも少し爽やかな、しかし全体的に嫌味のない甘い香りだった。強い香りを嗅ぎ過ぎたせいで少し頭痛を感じていた少年からすればとても心地いい。
「……いいにおい、です」
「三種類のお花のエキスに、柑橘の皮を混ぜているの。私が作ったんだけど、そう言ってもらえてよかった」
彼女は蠱惑的な微笑みをたたえながら、何度も匂いを嗅ぐ少年の前から姿を消した。一体、何だったのだろうか。
しかし、本当にいい匂いだ。穏やかで、甘たる過ぎず。何度でも嗅いでいられる。瓶の蓋を一度しめ、ディア達の元へと向かった。ディアはすぐに気づくと、まず自身が嗅ぎ始める。すぐに笑顔で頷き、ラチカに嗅がせた。
ラチカはぱぁっと顔を輝かせる。そして、何度も頷いた。
「決まりね。お会計しましょうか」
「あ、あの」
「ん?」
少年は懐から、一つの袋を出した。中には、一か月分の給金がすべて入っている。
「ぼくが、かいます。おじょうさまにあげたいです」
ディアはぽかん、と口を開いて少年を見る。しかしすぐに笑顔で少年の頭をぐりぐりと撫でた。
「あらあらー、いいじゃない! じゃあお任せしようかなぁ。私達は先に馬車に戻ってるから」
本当はお金もらってるけど、と呟くディアを置いて、少年は店員を探した。それか、もしくは先程の少女がいれば。
あちこちうろついていると、先程の少女が見つかった。彼女の前に立ち、「これ、ください」と告げる。すると彼女は嬉しそうに微笑みながら、瓶を受け取った。金額を聞き、少年は袋からその分の銀貨を手渡す。
「せっかくだしリボンで包んであげるわ。少し待ってね」
待つ程の時間もなく、瓶は美しくリボンで彩られた。受け取り、少女に頭を下げる。彼女は再びゆたりと笑うと、姿を消した。
馬車へと走る。早く、手渡したい。
馬車に乗り込むと、すでに二人が居た。ラチカは少年を見つけた瞬間、目をこちらに向けてきた。これは、いい兆候かもしれない。
「お嬢様、プレゼントがあるんですって」
ディアの言葉にどこか照れくささが生まれるも、ラチカに向き合う。そして片膝をつき、瓶を見せた。
「さっきの、こうすいです。どうぞ」
ラチカはぼんやりと少年を見ている。しかし恐る恐る、手が伸ばされる。ラチカの手が、瓶を掴んだ。そっと手を離すと、ラチカは瓶を抱きしめた。そして、精一杯の……笑顔で。
「ありがとう」
ああ、よかった。笑ってくれた、やっと。
何度も首を振る。ディアはうっすら涙ぐみながら、ラチカとシャイネを同時に抱きしめた。
馬車が、進みだす。がたりがたりと、音を立てて。
ラチカは四苦八苦しながら、リボンを解こうとしていた。それを手伝おうとしたが、制される。自分でやりたいらしい。
「……ところで君、名前まだないんだっけ」
ふとディアは言った。少年は頷く。
「おじょうさまにつけてもらいなさい、と。こくしゅさまはおっしゃってました」
「そうなのね。じゃあ、お嬢様ぜひ」
ラチカは頷いた。どうやら、口がきけないだけできちんと会話の内容などは分かっているらしい。
「シャイネ」
「え?」
ラチカは、瓶のラベルを指さした。そこには、確かにそう書いてある。香水の名称らしい。ディアは「ああ」と呟く。
「古代語であるのよ、意味。確か『心』とか『想い』とか、そんな意味」
「こころ」
ラチカは何度も「シャイネ、シャイネ」と笑っている。少年は微笑み、告げた。
「……ありがとうございます。いまから、おれはシャイネです。あなただけの、シャイネになります」
ラチカは、また笑った。
あれは、きっと秋の中頃だった。風が涼しくなりだし、農耕民達が忙しなく働いているのを馬車から見つめながら、今年五歳になったばかりの少年はエヴァイアンへやってきた。
「君はこの地で生まれた」
向かいに座る、自分を買い取った男……アルダルト・エヴァイアンはそう言った。その声はとても穏やかで、とても紳士的だった。今から行くのは、彼の家になるそうだ。
レヂェマシュトルの集会で、少年は同じ歳の子どもに辛勝した。それは決して華々しい勝利ではなかったというのに、男は目玉商品である他の子どもではなく少年を選んだ。
親戚なのだとは聞いている。自身が生まれてすぐレヂェマシュトルに売られたというのも、公然だった。そもそもレヂェマシュトルの三分の一はそういった出自だ。気にする事でもない。
「君の名前も用意しよう」
名前。それは、自分には無い……きっと、特別なものになる。そう信じていた。ずっとずっと。
「とはいっても、考えるのは私ではないがね」
「……?」
「私には子どもが今二人いる。男の子と女の子だ。君の使命は、女の子の方を護る事だ」
君より年上だがね、と彼は薄く笑った。揺れる視力で見た夕焼けの光に照らされた彼の優しい横顔は、今でも鮮烈に覚えている。
大きな屋敷についた。生まれ育ったあの島に、こんな大きな建物は集合住宅しかなかった。アルダルトは少年を馬車から降ろすと、先を歩き出す。察してついていった。
やがて屋敷の中に入り、恭しく挨拶をする使用人達をあしらいながら彼は進む。五歳にしては小柄な自分がついていくには、少し速足だった。やがて、ひとつの扉の前で立ち止まる。
「入るぞ」
数度扉を叩き、男はノブを引いた。中は異様な程、白い。調度品は整っているしベッドも清潔そうだったが、あまりにも白く……どこか、うすら寒さすら覚える程だった。
中には、椅子に座った一人の女が居る。いや、よく見るとベッドにももう一人。
「その子?」
女は少年を見て呟いた。男は頷く。
「オフェリオーネの息子だ。あいつには……まあ、知らせなくてもよかろう。歳もラチカに近い、丁度いい」
「ええ、そうね」
女は立ち上がると、少年に歩み寄ってくる。彼女は屈み、シャイネの目を見る。彼女の目は深い緑色だった。
「私はね、アリャンドラ・トロス・エヴァイアン。よろしくね。名前は……」
「まだだ。ラチカに任せる」
アルダルトの言葉に、アリャンドラは頷いた。少年の背に手を添え、歩く先を傾ける。ベッドだった。
ベッドには、一人の少女が居た。生気の抜けた顔を、天井に向けている。少年に気付いているのかも分からない。ただ、それがどこか……少年にはどこか恐ろしいものに思えた。
まるで、噂に聞く……亡霊に憑かれた患者の様子に、彼女は酷似していた。
「この子はラチカ・エヴァイアン。私達の娘よ。もう一人男の子が居るけれど、あと半年は留学で戻らないわ」
アリャンドラの言葉が入ってこない程、少年は動揺していた。そしてつい、震えた言葉を発する。
「……この、ひとは。いきているんですか」
修業のさなか死んでいった子どもは周りにたくさん居た。皆、死んだらこんな顔だった。それは亡霊に魂がさらわれたから、と皆は噂した。
男は首を振る。
「生きているよ、ただ死んでしまいそうになっているだけで」
「悲しい事件があったの。そのせいよ。本当はもっと元気で、外ではしゃいで……エクソシストとして働きだそうとしている矢先だったわ」
エクソシスト。亡霊退治のプロフェッショナル。そんな彼女が、どうして。
アルダルトはラチカの傍に膝をついた。しかしラチカは一切その気配に反応しない。ただ、天井をぼんやりと見つめているだけだ。その黄金色の目に、光は無い。
「君に最初の命令だ」
少年の肩に、男の手が置かれる。
「私達では駄目だった。この子の兄すらも。だから、君だ。ラチカを、元の明るい姿に戻してくれ。君の名前は彼女が決める」
改めて、ラチカを見る。未だに、彼女は少年を見なかった。
翌日から、少年が完全にラチカの世話をするようになった。齢五歳ゆえ他の使用人が時たま世話を焼いたりしたが、それでも務めはしっかりと果たした。レヂェマシュトルでは戦闘能力しか磨いてこなかったせいで、最初はなかなか苦労した。
ラチカの病室の掃除、着替えの用意、湯浴みの手伝い、彼女の食事の用意……すべて、少年が行った。未だ少年を認識すらしない主人のために、少年は使用人としての技量をひたすら磨き続けた。
生きているのか死んでいるのかすら分からない少女。まるで人形のようだった。
「おじょうさま」
そう呼ぶように躾られた。彼女には、きちんとした名前があるのに。それでも使用人である自分にはその名を呼ぶ資格は無い。
もう一か月は経つが、彼女は未だに少年を認識しない。少年だけでなく、誰の事も。時たま見舞いに来る彼女の師匠にあたる男の事すらも、ラチカは認識出来なかった。
……一生、このままなのか。自分は、主人の声すら聞く事なく彼女を終わらせるのか。
庭を歩く。あと一時間すれば、彼女の髪を拭くために戻らねばならない。束の間の休息だった。朝は戦闘訓練のためにこの広い庭で訓練をしているが、今はただ椅子に腰かけぼんやりと空を見るだけでもいい。
レヂェマシュトルでは睡眠と食事の時間以外、すべてが訓練だった。人種、それどころか生命であればひたすらに肉体を戦闘向きに仕上げるための環境。こんな風に何もせずにいるのも、どこか落ち着かない。
「……ん?」
ふわり、といい匂い。何かと思い顔を傾けると、ひとりの女性使用人が歩いてくるのが見えた。彼女から、甘い花のような匂いが漂ってくるのが分かる。彼女は少し足早に歩いていた。笑顔で。
……甘い花の香り。鼻孔から脳を揺するような、どこか虜になる香り。
そうか。
少年は立ち上がり、走る。女性使用人の前に立つと、彼女は少し驚いたようにして足を止めた。
「あ、あの。その、すごくいいにおいですね」
ひとまずそう言ってみる。すると彼女はきょとんと顔を傾けるとすぐに微笑んだ。
「ありがとう。これはね、香水なのよ。今日お給金で買ってきたの」
「こうすい?」
「うーん、お子様にはまだ分からないわよねぇ……」
彼女は思いついたように、少年の手を取った。
「丁度いいわ。そこに座りなさい」
言われるがまま、先程の椅子に座る。少年の服の袖をめくり、手首をさらけ出させた。彼女は自らの懐から、小さな瓶を取り出す。中にはうっすらと黄色がかった液体が入っていた。瓶を開き、彼女は中指の先を液体に漬けると少年の手首に塗りつけた。手首同士を擦り合わさせる。
「嗅いでみなさい」
言われるがまま、鼻を近づける。確かに彼女と同じ匂いがする。ぱぁっと顔が明るくなっていく少年を見ながら、女性使用人は首を傾げた。
「君、お嬢様に最近ついた子よね。何してたのこんなところで」
「あ……ちょっと、きゅうけいを。でもそろそろかえらないと」
それを聞き、女性使用人は頷いた。彼女は自分が洗濯所を受け持っている事を伝えると、足早に去っていった。もしかすると何か用事があるところを呼び止めてしまったのか。
ラチカの病室に戻るまで、少年はずっと手首の匂いを嗅いでいた。初めて嗅ぐ香りではあるが、まるで花や果実の香りを凝縮させたものに感じる。甘く、濃い。
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「おじょ、うさま」
恐る恐る、声をかける。その声は、何故か震えていた。
……まさか。
手首を、ラチカの鼻へそっと近付ける。彼女の鼻が、ゆるく……しかし小刻みに動いた。そして、彼女は微笑んだ。
「……いいにおい」
初めて聞く声だった。
どんな食事にも、石鹸にも、彼女はこんな感想を口に出す事はなかった。少年はじわりと胸が温かくなっていくのを感じながら、何度も頷いた。
少年はすぐさまこの事をアルダルトに報告した。彼は大変喜び、すぐに例の女性使用人を呼びつけた。彼女……ディアは、自身の購入した香水を購入した店を告げると少年を連れてその店へ向かう事になった。
二人で馬車に乗る。そこで、ディアはまた何か思いついたように手を叩いた。
「お嬢様、連れていけないかしら」
「えっ」
「ほら、車椅子を使えば……どうせなら、お嬢様自身に選んでもらった方がいいわよ、ねっ」
御者を説得し待たせている間に、アルダルトにも相談した。すると彼は快諾し、車椅子を出してくれた。ラチカを乗せ、進む。彼女はずっとディアを見つめている。ディアが言うには、前回と香水を変えたらしい。
「もしかすると、こういうのがお好きなのかもしれないわね。女の子ねぇ」
……当然のことなのだが、そうか。彼女は、少女なのだ。もっと早くに気付いてもよかったかもしれない。
再び馬車に乗り、走り出す。風景をぼんやりと眺めながら、ラチカは何も発さなかった。そもそも今回の香水の時点でもかなり奇跡に等しい。彼女を店へ連れて行き、更なる奇跡は起きるのだろうか。
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ディアが戻ってきた。
「一つ部屋を空けてくださったわ。そこでゆっくり見てくださいって」
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通された部屋に入った瞬間、様々な芳香が混じった匂いが漂ってきた。ラチカを見ると、目が一瞬にして輝いたのが分かる。どこか微笑ましかった。
「さあ、お嬢様。お好きなのをお選びくださいな」
ディアは心底楽しそうにラチカにいくつも香水を嗅がせた。ラチカは口こそきかないものの、ディアがすすめてくる瓶をすべて嗅いでいる。その度顔を綻ばせたりしかめさせたりを繰り返した。反応が、戻ってきている。少年からすれば、どれも初めて見るものではあるのだが。
しかしそれがたまらなく、嬉しい。
「ねえ、君」
ディアに呼ばれ、近付く。ディアは少年の肩を叩いた。
「君も何かめぼしい物、見繕ってきて。こんなにあったら、日が暮れても終わらないわ」
確かに、ざっと見るだけで数百は種類がある。頷くと、二人が未だ見ていないであろう棚へと向かった。すべて低い位置に瓶を置いているので、身長が低い少年の手でも届く。
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七つ目の瓶を手に取ろうとすると、背を叩かれた。振り向くと、ディアより少し年下と思われる少女が立っていた。十三、四歳くらいだろうか。彼女は豊かな緑色の髪を揺らしながら、少年を見て微笑んだ。
「ふふ、それ嗅いでみて」
言われるがままに、嗅いでみる。他のものよりも少し爽やかな、しかし全体的に嫌味のない甘い香りだった。強い香りを嗅ぎ過ぎたせいで少し頭痛を感じていた少年からすればとても心地いい。
「……いいにおい、です」
「三種類のお花のエキスに、柑橘の皮を混ぜているの。私が作ったんだけど、そう言ってもらえてよかった」
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「決まりね。お会計しましょうか」
「あ、あの」
「ん?」
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ディアはぽかん、と口を開いて少年を見る。しかしすぐに笑顔で少年の頭をぐりぐりと撫でた。
「あらあらー、いいじゃない! じゃあお任せしようかなぁ。私達は先に馬車に戻ってるから」
本当はお金もらってるけど、と呟くディアを置いて、少年は店員を探した。それか、もしくは先程の少女がいれば。
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馬車へと走る。早く、手渡したい。
馬車に乗り込むと、すでに二人が居た。ラチカは少年を見つけた瞬間、目をこちらに向けてきた。これは、いい兆候かもしれない。
「お嬢様、プレゼントがあるんですって」
ディアの言葉にどこか照れくささが生まれるも、ラチカに向き合う。そして片膝をつき、瓶を見せた。
「さっきの、こうすいです。どうぞ」
ラチカはぼんやりと少年を見ている。しかし恐る恐る、手が伸ばされる。ラチカの手が、瓶を掴んだ。そっと手を離すと、ラチカは瓶を抱きしめた。そして、精一杯の……笑顔で。
「ありがとう」
ああ、よかった。笑ってくれた、やっと。
何度も首を振る。ディアはうっすら涙ぐみながら、ラチカとシャイネを同時に抱きしめた。
馬車が、進みだす。がたりがたりと、音を立てて。
ラチカは四苦八苦しながら、リボンを解こうとしていた。それを手伝おうとしたが、制される。自分でやりたいらしい。
「……ところで君、名前まだないんだっけ」
ふとディアは言った。少年は頷く。
「おじょうさまにつけてもらいなさい、と。こくしゅさまはおっしゃってました」
「そうなのね。じゃあ、お嬢様ぜひ」
ラチカは頷いた。どうやら、口がきけないだけできちんと会話の内容などは分かっているらしい。
「シャイネ」
「え?」
ラチカは、瓶のラベルを指さした。そこには、確かにそう書いてある。香水の名称らしい。ディアは「ああ」と呟く。
「古代語であるのよ、意味。確か『心』とか『想い』とか、そんな意味」
「こころ」
ラチカは何度も「シャイネ、シャイネ」と笑っている。少年は微笑み、告げた。
「……ありがとうございます。いまから、おれはシャイネです。あなただけの、シャイネになります」
ラチカは、また笑った。
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