55 / 307
第二章 旧都郷愁
50.日高愛華(1)
しおりを挟む
日高愛華の母に異変が生じたのは、4つ年下の弟が2歳を迎える頃のことだ。
愛華が8歳になる頃には、完全に家事に関心を示さなくなってしまった。弟の世話も全て、家のことは愛華がこなす。家庭菜園が趣味だった母自慢の庭はすっかり荒れ果てた。
仕事で疲れて帰宅した父が、母と怒鳴り合いを始める晩も多かった。
愛華は弟を連れて子供部屋に避難して嵐が過ぎるのを待つ。布団を2人でかぶって聞かせるお伽噺に、弟は目を輝かせた。怒声と罵声を布団で遮る2人だけの宇宙を、微笑みで埋めてやり過ごした。
蒸した温もりは、アイカの心の支えでもあった。
父が趣味の日曜大工で作ってくれた子供椅子が、成長した弟には小さくなる頃、母が突然、愛華に執着を見せ始めた。
いつも眉間に皺を寄せる父は、新しい椅子を作ってくれなかった。
愛華を撫でまわす母を尻目に、買って来いとお金を机に置くだけだった。
母は愛華のことを機嫌よく猫かわいがりする日もあれば、捨てないでと号泣して縋り付く日もある。小学校に行こうとすると、私を捨てるのか、淫らなことがしたいのかと罵声を浴びせることもあれば、満面の笑みで送り出してくれる日もある。
下校後はすぐに帰らないと母が爆発する。
全力でスーパーに駆けて行き、夕飯の食材を買い出すと、また全力で家に駆けて行く。腕に食い込むレジ袋の紐が痛かったが、少しでも早く帰らないと母の中の何かが暴れ出す。
「お母さんに早く会いたかったから!」
と、切れた息で言う愛華を、母は抱き締めて涙を流す日もあれば、嘘を吐くな、この家は嘘吐きばかりだと、自分の部屋に閉じこもる日もある。
猫かわいがりされる日は、弟から向けられる視線が厳しくなることも愛華にはツラい。
母は弟に見向きもしない。まるで存在しないかのように振る舞った。
弟との間に会話はなくなった。冷たい視線で見られるのはまだマシで、目を合わせてもらえないことも多い。
母から夜中に家を追い出される日もある。
電気が明るいコンビニでやり過ごそうとすると警察を呼ばれたので、近所の神社に逃げ込むようになった。
背の高い樹々に囲まれ、小さな裸電球がひとつ照らすだけの夜の社は恐ろしかった。
ただ、誰も訪れず静かな夜の境内は、愛華に奇妙な安息をもたらした。
自分を追い出した母が半狂乱で迎えに来るまで、森に囲まれた境内で過ごす。
運良く父の本棚にある小説か自分のスマートフォンを持ち出せた夜は、物語の中に身を置けた。
下校後すぐに帰らないと母が荒れるので、友達付き合いも出来ず、学校に行かせてもらえない日もある。同級生からも弟からも距離を置かれ、父はいないも同然だった。友達もほしいし、恋人もほしいが、すべては物語の中だけ、妄想の中だけに存在した。
実際の同級生たちは近くにいても遠く、愛華にとっては「眺めるもの」、そして「愛でるもの」になっていった。
仲良く笑い合っている人たちを、愛でるだけで気分が満たされた。
その輪の中に自分が入ることを妄想するのは、現実味がなさすぎてツラくなるので止めた。
「愛華がいなくなったら、生きていけない」
高校2年生17歳になる頃、母の束縛はさらに強くなっていた。
「どこにも行かないよね? ずっと、側にいてね」
と、優しい声音にはそぐわない強い力で、きつく抱き締める日もあれば、
「愛華がいなくなったら耐えられない。お前なんか産むんじゃなかった。私のために死んでよ」
と、しくしく泣き続ける日もある。
産むんじゃなかったと言われた日は、より一層に愛華の心を冷やす。いなくなったら耐えられないから死ねとは、もはや自分の存在する意味も分からない。
夕飯の支度をしても、お弁当を作っても、洗濯をしても、洋服をたたんで箪笥に仕舞っても、母も父も弟も、何も言ってくれない。
愛華の心はいつしか固く冷たく、凍り付いていた。
母に追い出された夜の神社だけが、孤独を感じずに済む時間になっていた。本当に一人でいられる時間と空間は、愛華に悲しい安らぎを与えてくれた。
その晩は、神社が靄に包まれていた。
裸電球に照らされた社の前に、薄く輝く女の人が立っていた。
怖さよりも、ひどく懐かしいものを感じた愛華は、古式和装を身に纏う女の人にふらふらと近寄って行った。
――愛華よ。
と、女の人は音でない声で、話しかけてきた――。
愛華が8歳になる頃には、完全に家事に関心を示さなくなってしまった。弟の世話も全て、家のことは愛華がこなす。家庭菜園が趣味だった母自慢の庭はすっかり荒れ果てた。
仕事で疲れて帰宅した父が、母と怒鳴り合いを始める晩も多かった。
愛華は弟を連れて子供部屋に避難して嵐が過ぎるのを待つ。布団を2人でかぶって聞かせるお伽噺に、弟は目を輝かせた。怒声と罵声を布団で遮る2人だけの宇宙を、微笑みで埋めてやり過ごした。
蒸した温もりは、アイカの心の支えでもあった。
父が趣味の日曜大工で作ってくれた子供椅子が、成長した弟には小さくなる頃、母が突然、愛華に執着を見せ始めた。
いつも眉間に皺を寄せる父は、新しい椅子を作ってくれなかった。
愛華を撫でまわす母を尻目に、買って来いとお金を机に置くだけだった。
母は愛華のことを機嫌よく猫かわいがりする日もあれば、捨てないでと号泣して縋り付く日もある。小学校に行こうとすると、私を捨てるのか、淫らなことがしたいのかと罵声を浴びせることもあれば、満面の笑みで送り出してくれる日もある。
下校後はすぐに帰らないと母が爆発する。
全力でスーパーに駆けて行き、夕飯の食材を買い出すと、また全力で家に駆けて行く。腕に食い込むレジ袋の紐が痛かったが、少しでも早く帰らないと母の中の何かが暴れ出す。
「お母さんに早く会いたかったから!」
と、切れた息で言う愛華を、母は抱き締めて涙を流す日もあれば、嘘を吐くな、この家は嘘吐きばかりだと、自分の部屋に閉じこもる日もある。
猫かわいがりされる日は、弟から向けられる視線が厳しくなることも愛華にはツラい。
母は弟に見向きもしない。まるで存在しないかのように振る舞った。
弟との間に会話はなくなった。冷たい視線で見られるのはまだマシで、目を合わせてもらえないことも多い。
母から夜中に家を追い出される日もある。
電気が明るいコンビニでやり過ごそうとすると警察を呼ばれたので、近所の神社に逃げ込むようになった。
背の高い樹々に囲まれ、小さな裸電球がひとつ照らすだけの夜の社は恐ろしかった。
ただ、誰も訪れず静かな夜の境内は、愛華に奇妙な安息をもたらした。
自分を追い出した母が半狂乱で迎えに来るまで、森に囲まれた境内で過ごす。
運良く父の本棚にある小説か自分のスマートフォンを持ち出せた夜は、物語の中に身を置けた。
下校後すぐに帰らないと母が荒れるので、友達付き合いも出来ず、学校に行かせてもらえない日もある。同級生からも弟からも距離を置かれ、父はいないも同然だった。友達もほしいし、恋人もほしいが、すべては物語の中だけ、妄想の中だけに存在した。
実際の同級生たちは近くにいても遠く、愛華にとっては「眺めるもの」、そして「愛でるもの」になっていった。
仲良く笑い合っている人たちを、愛でるだけで気分が満たされた。
その輪の中に自分が入ることを妄想するのは、現実味がなさすぎてツラくなるので止めた。
「愛華がいなくなったら、生きていけない」
高校2年生17歳になる頃、母の束縛はさらに強くなっていた。
「どこにも行かないよね? ずっと、側にいてね」
と、優しい声音にはそぐわない強い力で、きつく抱き締める日もあれば、
「愛華がいなくなったら耐えられない。お前なんか産むんじゃなかった。私のために死んでよ」
と、しくしく泣き続ける日もある。
産むんじゃなかったと言われた日は、より一層に愛華の心を冷やす。いなくなったら耐えられないから死ねとは、もはや自分の存在する意味も分からない。
夕飯の支度をしても、お弁当を作っても、洗濯をしても、洋服をたたんで箪笥に仕舞っても、母も父も弟も、何も言ってくれない。
愛華の心はいつしか固く冷たく、凍り付いていた。
母に追い出された夜の神社だけが、孤独を感じずに済む時間になっていた。本当に一人でいられる時間と空間は、愛華に悲しい安らぎを与えてくれた。
その晩は、神社が靄に包まれていた。
裸電球に照らされた社の前に、薄く輝く女の人が立っていた。
怖さよりも、ひどく懐かしいものを感じた愛華は、古式和装を身に纏う女の人にふらふらと近寄って行った。
――愛華よ。
と、女の人は音でない声で、話しかけてきた――。
116
あなたにおすすめの小説
魔法が使えない令嬢は住んでいた小屋が燃えたので家出します
怠惰るウェイブ
ファンタジー
グレイの世界は狭く暗く何よりも灰色だった。
本来なら領主令嬢となるはずの彼女は領主邸で住むことを許されず、ボロ小屋で暮らしていた。
彼女はある日、棚から落ちてきた一冊の本によって人生が変わることになる。
世界が色づき始めた頃、ある事件をきっかけに少女は旅をすることにした。
喋ることのできないグレイは旅を通して自身の世界を色付けていく。
巻き込まれて異世界召喚? よくわからないけど頑張ります。 〜JKヒロインにおばさん呼ばわりされたけど、28才はお姉さんです〜
トイダノリコ
ファンタジー
会社帰りにJKと一緒に異世界へ――!?
婚活のために「料理の基本」本を買った帰り道、28歳の篠原亜子は、通りすがりの女子高生・星野美咲とともに突然まぶしい光に包まれる。
気がつけばそこは、海と神殿の国〈アズーリア王国〉。
美咲は「聖乙女」として大歓迎される一方、亜子は「予定外に混ざった人」として放置されてしまう。
けれど世界意識(※神?)からのお詫びとして特殊能力を授かった。
食材や魔物の食用可否、毒の有無、調理法までわかるスキル――〈料理眼〉!
「よし、こうなったら食堂でも開いて生きていくしかない!」
港町の小さな店〈潮風亭〉を拠点に、亜子は料理修行と新生活をスタート。
気のいい夫婦、誠実な騎士、皮肉屋の魔法使い、王子様や留学生、眼帯の怪しい男……そして、彼女を慕う男爵令嬢など個性豊かな仲間たちに囲まれて、"聖乙女イベントの裏側”で、静かに、そしてたくましく人生を切り拓く異世界スローライフ開幕。
――はい。静かに、ひっそり生きていこうと思っていたんです。私も.....(アコ談)
*AIと一緒に書いています*
転生幼女は幸せを得る。
泡沫 呉羽
ファンタジー
私は死んだはずだった。だけど何故か赤ちゃんに!?
今度こそ、幸せになろうと誓ったはずなのに、求められてたのは魔法の素質がある跡取りの男の子だった。私は4歳で家を出され、森に捨てられた!?幸せなんてきっと無いんだ。そんな私に幸せをくれたのは王太子だった−−
30代社畜の私が1ヶ月後に異世界転生するらしい。
ひさまま
ファンタジー
前世で搾取されまくりだった私。
魂の休養のため、地球に転生したが、地球でも今世も搾取されまくりのため魂の消滅の危機らしい。
とある理由から元の世界に戻るように言われ、マジックバックを自称神様から頂いたよ。
これで地球で買ったものを持ち込めるとのこと。やっぱり夢ではないらしい。
取り敢えず、明日は退職届けを出そう。
目指せ、快適異世界生活。
ぽちぽち更新します。
作者、うっかりなのでこれも買わないと!というのがあれば教えて下さい。
脳内の空想を、つらつら書いているのでお目汚しな際はごめんなさい。
異世界に転生したら?(改)
まさ
ファンタジー
事故で死んでしまった主人公のマサムネ(奥田 政宗)は41歳、独身、彼女無し、最近の楽しみと言えば、従兄弟から借りて読んだラノベにハマり、今ではアパートの部屋に数十冊の『転生』系小説、通称『ラノベ』がところ狭しと重なっていた。
そして今日も残業の帰り道、脳内で転生したら、あーしよ、こーしよと現実逃避よろしくで想像しながら歩いていた。
物語はまさに、その時に起きる!
横断歩道を歩き目的他のアパートまで、もうすぐ、、、だったのに居眠り運転のトラックに轢かれ、意識を失った。
そして再び意識を取り戻した時、目の前に女神がいた。
◇
5年前の作品の改稿板になります。
少し(?)年数があって文章がおかしい所があるかもですが、素人の作品。
生暖かい目で見て下されば幸いです。
ペットたちと一緒に異世界へ転生!?魔法を覚えて、皆とのんびり過ごしたい。
千晶もーこ
ファンタジー
疲労で亡くなってしまった和菓。
気付いたら、異世界に転生していた。
なんと、そこには前世で飼っていた犬、猫、インコもいた!?
物語のような魔法も覚えたいけど、一番は皆で楽しくのんびり過ごすのが目標です!
※この話は小説家になろう様へも掲載しています
知識スキルで異世界らいふ
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
他の異世界の神様のやらかしで死んだ俺は、その神様の紹介で別の異世界に転生する事になった。地球の神様からもらった知識スキルを駆使して、異世界ライフ
子育てスキルで異世界生活 ~かわいい子供たち(人外含む)と楽しく暮らしてます~
九頭七尾
ファンタジー
子供を庇って死んだアラサー女子の私、新川沙織。
女神様が異世界に転生させてくれるというので、ダメもとで願ってみた。
「働かないで毎日毎日ただただ可愛い子供と遊んでのんびり暮らしたい」
「その願い叶えて差し上げましょう!」
「えっ、いいの?」
転生特典として与えられたのは〈子育て〉スキル。それは子供がどんどん集まってきて、どんどん私に懐き、どんどん成長していくというもので――。
「いやいやさすがに育ち過ぎでしょ!?」
思ってたよりちょっと性能がぶっ壊れてるけど、お陰で楽しく暮らしてます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる