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第九章 山湫哀華
212.時が止まる
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リーヤボルク王アンドレアスの天幕を出たマエルの目に止まる、踊り巫女ニーナの姿。
陽の光に映える小麦色の肌は、若い娘がたたえる生命力を象徴するようであった。
――王都ヴィアナで因縁の踊り巫女と、こんなところで遭うとはな。
ルカスが隠れ宿に所望したラウラとかいう踊り巫女を率いていた者のはずだ。
第3王女の横やりが入り、ことは成せなかったが、マエルにとってはほんの些事に過ぎない。
王都ヴィアナから身を引き、思惑渦巻く策謀の世界から手を引いたマエル。多くの者を巻き込むテノリアの内乱であるが、自分が輝いていた「最後の青春」のようにも思い起こされる。
若き日のアンドレアスに出会い、その将来に賭けた。
賭けはあたり、投資は回収した。自分は史書に名を残すような存在ではないが、歴史を動かしたという自負も得た。
怒涛の歳月をかさね、振り落としてきた者も多い。自分ではそれと気付かぬうちに、傷付けたり、没落させた者も多いことだろう。
奴隷同然の姿で再会したニーナは、その象徴のように映る。
しかし、
――よりにもよって、アンドレアスに目を付けられるとは……。
と、かるく眉をしかめた。
アンドレアスには、女をいたぶることでしか性欲を満たせない悪癖がある。これまで何人もの女を壊してきた。
ほかの奴隷たちとちがい、すぐに本国に送らないのは執着の強さのあらわれ。
王城に連れ帰り、専用の部屋の、専用の道具を使いたいが、それまで自分の目がとどかないところで、ほかの者たちの目に触れさせたくもない。
じっとりとねぶるように眺めては、帰城した後のことを思い恍惚にふけっているはずだ。
――せいぜい、楽に壊してもらえれば良いがの……。
と、西域の神に祈りを捧げながら、マエルは天幕の前から立ち去った。
*
ザノヴァル城のアイカの執務室では、夜更け過ぎまでクリストフが書類に目を通していた。
アイカが旅立ち、すでに数日が過ぎた。
形ばかりの摂政とはいえ、政務をおろそかにはできない。ひとつひとつ丁寧にチェックしてゆく。
「よう! やってるな、摂政さま!」
と、陽気な声に顔をあげると、ヴィツェ太守のミハイが酒瓶片手に立っていた。
「たまには一杯やろうぜ。大隊商メルヴェ様が、ご厚意で差し入れてくださったルーファの酒だそうだ」
「砂の味がするんじゃないだろうな?」
「おっ。イエリナ陛下がいないと思って、口の悪いのが戻ってるんじゃねぇかぁ?」
「なんとでも言えよ」
と笑ったクリストフは客用のソファに腰をおろし、ミハイと杯をかさねた。
若者同士らしく、しばらく馬鹿話をつづけたふたりだったが、やがてしんみりと語り始めた。
「実際……、イエリナ陛下は《精霊の審判》なんざ関係なく、実力だけで俺たちに認めさせちまった。あんな、ちっこい嬢ちゃんが大したもんだ」
自嘲ともとれる笑いを交えたミハイに、クリストフは軽くうなずいた。
「このまま《草原の民》も治めちまうんじゃねぇか?」
「そうなっても、驚きはしないが」
「すげえ嫁さんもらったな、クリストフ」
「ふふっ。自分の立場くらいわきまえてる。俺が摂政なんて柄にもないところに祭り上げられてるのは、所詮は小領の太守にすぎないからだ」
「……まあな。面倒な役を押し付けちまってるよ」
アイカが去ってみれば、のこしたもの大きさに改めて驚嘆する。
あの妙なペースに巻き込まれているうち、太守たちの間で内戦中に積み重なっていたはずの怨念やわだかまりが薄れている。
クリストフとミハイにしても、なんども戦火を交えた間柄だ。
しかし、いまは間にアイカの存在があるというだけで、すべてが過去のことして流され、ふたりの目は将来を向いている。
なかには従前通り自分の利得ばかり考える太守もいないではないが、身勝手な振る舞いを抑制する体制もいつのまにか整っていた。こまかなところまで見逃さず観察していたアイカの目がなせるわざであった。
旅だって数日、いまもアイカの目を意識している自分に、ミハイはふと笑みをこぼした。
ひとり笑いするミハイに、クリストフが怪訝な顔をした。
その視線に気がついて、ミハイは照れ隠しするように笑った。
「なあに、いい女王様を戴いたなって思っただけだ」
「そうか……」
「ところで、プレシュコ太守のニコラエだが……」
「ん?」
「旅行中のイエリナ陛下から求められれば、すぐに出せる部隊を整えたってことだ」
「それは……、ありがたいな」
「兵は200程度のようだが、選りすぐりの精鋭でいつでも出せるってことだ。とはいえ、兵を動かすとなると摂政様の裁可なしでは、余計な疑念を招きかねない。まあ……、頭の片隅に置いておいてくれ」
寡黙でいつも職人のような気配を漂わせる小兵の太守。
なにも言わずに備えをしているあたりがニコラエらしいと、クリストフも頼もしく思った。
「分かった。そのときがくれば、すばやく対応する」
「……今頃、我らの女王陛下はヴィスタドルを抜けて、草原に出たころかな?」
狼にまたがり草原を駆ける桃色髪の女王陛下の姿を思い浮かべ、ふたりはしばらく黙ったまま盃を重ねた――。
*
ザノクリフ王国の北端、ヴィスタドルで最後の補給をしたアイカたちは、山奥の森の中で焚火を囲んで野営していた。
聞いている話では、明日にも《山々の民》の領域をぬけ、《草原の民》が住む草原地帯に入るはずである。
パチパチと音を立てる焚火を囲んで夜の番をしているのは、アイカとナーシャ、それにカリュである。
ほかの者たちは天幕で休んでいる。
夜の静かな森。アイカは、かつてリティアと一緒に焚火を囲んだ晩のことを思い出していた。
のちに「孤児の館」となった《子ども食堂》の提案をした晩。あのとき贈った青い滴型のイヤリングは、アイカがルーファを旅立つときにも身に付けてくれていた。
きっと今もリティアの可愛らしい耳を飾ってくれているはずである。
焚火を見つめるナーシャが、ふと口をひらいた。
「……他国の事情にあれこれ言うものではないけど」
「はい……」
アイカが、ナーシャに顔を向ける。
いろいろあったザノクリフ王国を去ることだけではない、さみしげな表情にドキッとした。
「王と王弟が、王妃をめぐって刺し違えるなんて悲惨な話よねぇ……」
「そうですね……」
アイカには当然面識はないが、イエリナの祖父とその弟の話である。
ましてイエリナとしての父である王太子マリウスは、祖母である王妃カミレアに毒殺されたという。
異世界からきた自分ではなく、イエリナ自身であったら、どれほど苦悩したか分からない悲惨な生い立ちであった。
母である王太子妃ミレーナが、娘イエリナの身体にアイカの魂を容れざるを得なくなった事情は判然としない。ただ、そうしなければイエリナの命が失われていたことだけは間違いない。
そのことを思うたび、アイカは、
――イエリナちゃんの分も……。
と、ヒメ様の言葉を思い出す。
ナーシャが苦しげに、眉を寄せた。
「……息子、バシリオスの手にかかったファウロス陛下は、まだ幸せだったんじゃないかって思ってしまうわ」
「ええっ!?」
と、カリュが大きく見開いた目をナーシャに向けた。
「……そうよね、ごめんなさい。バシリオスの母親である私が口にしていいことじゃないわよね。我が子可愛さの戯言だと思って許してね」
アイカは、そっとナーシャの隣に座り直す。
そして、肩を寄せつぶやくように言う。
「……リティア義姉様も言ってましたから。偉大な王様の人生を閉じたバシリオス殿下も偉大だって」
「そうね……。リティアちゃんも、優しい子……」
「い、いえ……、そうではなく……」
と、目を泳がせたカリュが言った。
アイカとナーシャが不思議そうな顔をしてカリュを見た。
間諜の《奥義》としてのオドオドした表情ではなく、ほんとうに動揺したカリュをふたりは初めて目にした。
「……ファウロス陛下に手をかけたのは、……バシリオス殿下ではありませんよ?」
一瞬、時が止まったかのように、ナーシャはカリュを見つめ続けた――。
陽の光に映える小麦色の肌は、若い娘がたたえる生命力を象徴するようであった。
――王都ヴィアナで因縁の踊り巫女と、こんなところで遭うとはな。
ルカスが隠れ宿に所望したラウラとかいう踊り巫女を率いていた者のはずだ。
第3王女の横やりが入り、ことは成せなかったが、マエルにとってはほんの些事に過ぎない。
王都ヴィアナから身を引き、思惑渦巻く策謀の世界から手を引いたマエル。多くの者を巻き込むテノリアの内乱であるが、自分が輝いていた「最後の青春」のようにも思い起こされる。
若き日のアンドレアスに出会い、その将来に賭けた。
賭けはあたり、投資は回収した。自分は史書に名を残すような存在ではないが、歴史を動かしたという自負も得た。
怒涛の歳月をかさね、振り落としてきた者も多い。自分ではそれと気付かぬうちに、傷付けたり、没落させた者も多いことだろう。
奴隷同然の姿で再会したニーナは、その象徴のように映る。
しかし、
――よりにもよって、アンドレアスに目を付けられるとは……。
と、かるく眉をしかめた。
アンドレアスには、女をいたぶることでしか性欲を満たせない悪癖がある。これまで何人もの女を壊してきた。
ほかの奴隷たちとちがい、すぐに本国に送らないのは執着の強さのあらわれ。
王城に連れ帰り、専用の部屋の、専用の道具を使いたいが、それまで自分の目がとどかないところで、ほかの者たちの目に触れさせたくもない。
じっとりとねぶるように眺めては、帰城した後のことを思い恍惚にふけっているはずだ。
――せいぜい、楽に壊してもらえれば良いがの……。
と、西域の神に祈りを捧げながら、マエルは天幕の前から立ち去った。
*
ザノヴァル城のアイカの執務室では、夜更け過ぎまでクリストフが書類に目を通していた。
アイカが旅立ち、すでに数日が過ぎた。
形ばかりの摂政とはいえ、政務をおろそかにはできない。ひとつひとつ丁寧にチェックしてゆく。
「よう! やってるな、摂政さま!」
と、陽気な声に顔をあげると、ヴィツェ太守のミハイが酒瓶片手に立っていた。
「たまには一杯やろうぜ。大隊商メルヴェ様が、ご厚意で差し入れてくださったルーファの酒だそうだ」
「砂の味がするんじゃないだろうな?」
「おっ。イエリナ陛下がいないと思って、口の悪いのが戻ってるんじゃねぇかぁ?」
「なんとでも言えよ」
と笑ったクリストフは客用のソファに腰をおろし、ミハイと杯をかさねた。
若者同士らしく、しばらく馬鹿話をつづけたふたりだったが、やがてしんみりと語り始めた。
「実際……、イエリナ陛下は《精霊の審判》なんざ関係なく、実力だけで俺たちに認めさせちまった。あんな、ちっこい嬢ちゃんが大したもんだ」
自嘲ともとれる笑いを交えたミハイに、クリストフは軽くうなずいた。
「このまま《草原の民》も治めちまうんじゃねぇか?」
「そうなっても、驚きはしないが」
「すげえ嫁さんもらったな、クリストフ」
「ふふっ。自分の立場くらいわきまえてる。俺が摂政なんて柄にもないところに祭り上げられてるのは、所詮は小領の太守にすぎないからだ」
「……まあな。面倒な役を押し付けちまってるよ」
アイカが去ってみれば、のこしたもの大きさに改めて驚嘆する。
あの妙なペースに巻き込まれているうち、太守たちの間で内戦中に積み重なっていたはずの怨念やわだかまりが薄れている。
クリストフとミハイにしても、なんども戦火を交えた間柄だ。
しかし、いまは間にアイカの存在があるというだけで、すべてが過去のことして流され、ふたりの目は将来を向いている。
なかには従前通り自分の利得ばかり考える太守もいないではないが、身勝手な振る舞いを抑制する体制もいつのまにか整っていた。こまかなところまで見逃さず観察していたアイカの目がなせるわざであった。
旅だって数日、いまもアイカの目を意識している自分に、ミハイはふと笑みをこぼした。
ひとり笑いするミハイに、クリストフが怪訝な顔をした。
その視線に気がついて、ミハイは照れ隠しするように笑った。
「なあに、いい女王様を戴いたなって思っただけだ」
「そうか……」
「ところで、プレシュコ太守のニコラエだが……」
「ん?」
「旅行中のイエリナ陛下から求められれば、すぐに出せる部隊を整えたってことだ」
「それは……、ありがたいな」
「兵は200程度のようだが、選りすぐりの精鋭でいつでも出せるってことだ。とはいえ、兵を動かすとなると摂政様の裁可なしでは、余計な疑念を招きかねない。まあ……、頭の片隅に置いておいてくれ」
寡黙でいつも職人のような気配を漂わせる小兵の太守。
なにも言わずに備えをしているあたりがニコラエらしいと、クリストフも頼もしく思った。
「分かった。そのときがくれば、すばやく対応する」
「……今頃、我らの女王陛下はヴィスタドルを抜けて、草原に出たころかな?」
狼にまたがり草原を駆ける桃色髪の女王陛下の姿を思い浮かべ、ふたりはしばらく黙ったまま盃を重ねた――。
*
ザノクリフ王国の北端、ヴィスタドルで最後の補給をしたアイカたちは、山奥の森の中で焚火を囲んで野営していた。
聞いている話では、明日にも《山々の民》の領域をぬけ、《草原の民》が住む草原地帯に入るはずである。
パチパチと音を立てる焚火を囲んで夜の番をしているのは、アイカとナーシャ、それにカリュである。
ほかの者たちは天幕で休んでいる。
夜の静かな森。アイカは、かつてリティアと一緒に焚火を囲んだ晩のことを思い出していた。
のちに「孤児の館」となった《子ども食堂》の提案をした晩。あのとき贈った青い滴型のイヤリングは、アイカがルーファを旅立つときにも身に付けてくれていた。
きっと今もリティアの可愛らしい耳を飾ってくれているはずである。
焚火を見つめるナーシャが、ふと口をひらいた。
「……他国の事情にあれこれ言うものではないけど」
「はい……」
アイカが、ナーシャに顔を向ける。
いろいろあったザノクリフ王国を去ることだけではない、さみしげな表情にドキッとした。
「王と王弟が、王妃をめぐって刺し違えるなんて悲惨な話よねぇ……」
「そうですね……」
アイカには当然面識はないが、イエリナの祖父とその弟の話である。
ましてイエリナとしての父である王太子マリウスは、祖母である王妃カミレアに毒殺されたという。
異世界からきた自分ではなく、イエリナ自身であったら、どれほど苦悩したか分からない悲惨な生い立ちであった。
母である王太子妃ミレーナが、娘イエリナの身体にアイカの魂を容れざるを得なくなった事情は判然としない。ただ、そうしなければイエリナの命が失われていたことだけは間違いない。
そのことを思うたび、アイカは、
――イエリナちゃんの分も……。
と、ヒメ様の言葉を思い出す。
ナーシャが苦しげに、眉を寄せた。
「……息子、バシリオスの手にかかったファウロス陛下は、まだ幸せだったんじゃないかって思ってしまうわ」
「ええっ!?」
と、カリュが大きく見開いた目をナーシャに向けた。
「……そうよね、ごめんなさい。バシリオスの母親である私が口にしていいことじゃないわよね。我が子可愛さの戯言だと思って許してね」
アイカは、そっとナーシャの隣に座り直す。
そして、肩を寄せつぶやくように言う。
「……リティア義姉様も言ってましたから。偉大な王様の人生を閉じたバシリオス殿下も偉大だって」
「そうね……。リティアちゃんも、優しい子……」
「い、いえ……、そうではなく……」
と、目を泳がせたカリュが言った。
アイカとナーシャが不思議そうな顔をしてカリュを見た。
間諜の《奥義》としてのオドオドした表情ではなく、ほんとうに動揺したカリュをふたりは初めて目にした。
「……ファウロス陛下に手をかけたのは、……バシリオス殿下ではありませんよ?」
一瞬、時が止まったかのように、ナーシャはカリュを見つめ続けた――。
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