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第十章 虜囚燎原
226.ひろい草原にも
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アイカが眉間にしわを寄せた。
「えっ? 死ぬんですか?」
「ええ……、死にますね。というか、殺さないと意味ないですよ?」
「……どうして?」
「這い上がってきますから。人間ですので……」
「あ、そっか……」
落とし穴を仕掛ければ敵兵を殺さなくて済むと思っていたアイカの考えは、サラナに瞬殺された。
這い上がれない深さの落とし穴など、そうそう掘れるものではない。
落とし穴の底にとがった杭を打っておくか、上から矢を浴びせかけるために掘るのだとサラナに言われ、すこし凹んだ。
「しかし、味方が殺される可能性は下げられます」
「……と、言いますと?」
「直接手をくださなくても、落とし穴がしとめてくれますから」
「あ、なるほど~」
聞いてみれば当たり前の話だが、サラナは呆れることもなく丁寧に教えてくれる。
これまで、ナーシャやカリュがそうしてきてくれたように。
――臣下に恵まれたな。
という、旦那様クリストフの声がよみがえる。
パンッと、カリュが手を打った。
「さあ、アイカ殿下。ここでつまみ食いしてたのでは、いつまでも話が終わりませんわ。長老たちのゲルに、みなを集めておりますので、そちらでまとめてお話しいたしましょう」
それもそうだと頷いたアイカが、ゲルの幕をめくると懐かしい顔があった。
「ニコラエさん!」
「お久しゅうございます、陛下……。いえ、アイカ殿下。といっても、ひと月も経ってはおりませんが」
ザノクリフ王国のプレシュコ太守ニコラエが頭をさげていた。
言われてみれば、一か月経っていない。しかし、ザノクリフの山々を駆けた日々は、ずいぶん遠くに感じる。
「アイカ殿下危急の時と聞きおよび、アイラ殿に頼み込み、精兵200と共に馳せ参じましてございます。どうぞ、いかようなりともお使いくださいませ」
小兵ながら引き締まった体躯の太守が、職人肌の佇まいで膝をつき、となりではアイラが微笑みながら頷いてくれていた。
アイラからの報告はまだだが、その表情から槍の調達も上手くいったのだろう。
さらに、そのとなりには白髪で凛々しい雰囲気をした将が座っていて、力強くうなずいている。
無精ひげが精悍さを増してみえる美形で老境の戦士……。
「え? ……ジョルジュさんですか?」
「……さようですが」
「あっ……、剃りましたね。……ひげ」
《草原の民》の長老たちも交えて車座になり、軍議をはじめる。
まずはサラナを皆に紹介し、サラナに皆を紹介する。
そして――、
「じゅ……、15万ですか……」
カリュの報告に絶句した。
草原の西に展開しているリーヤボルク本軍は、その数15万。国王アンドレアス自らが率いており、ゆるやかに東進をつづけている。
対して、現在訓練中の《草原の民》の兵員は約5万。
その差は歴然としていた。
しかし、地図を見つめるサラナが平然と言い放った。
「なにも真正面から当たる必要はありません。こちらに有利な地形に誘い込めば良いのです」
「左様ですな。……この辺りなど、敵軍を分断させるには絶好の地形」
と、地図を指差して応えたのはニコラエだった。
起伏の激しい山間での戦闘経験が豊富で、地の利を活かす戦いはお手の物である。
「地図をみる限り、こちらなど意外と伏兵を忍ばせておけば西からは死角になっておるはず……」
カリトンやネビも興味深そうにうなずいた。
ひろい草原にも活用できる地形を次々と見出してゆくサラナとニコラエのやり取りに唸らされる。ふたりの話を聞いているだけで、まるで敵軍の動きまで見えるようだ。
カリュが言葉を継いだ。
「数だけは多いリーヤボルク本軍ですが、中味を見ればバラバラです。小隊単位で成果を競わせているようで、互いに疑心暗鬼にさえなっております」
「なるほど、そこを突けば、存外簡単に崩せそうですな」
と、ネビが地図をにらんでうすい眉を寄せ、カリュがつづける。
「しかも、もとは西域諸国からかき集めた兵のようで、互いの信頼関係もうすい」
「……つけ入るスキがおおいにありそうですな」
「ですので、一度混乱すれば数が多い分、手をつけられなくなるはずです。……また、すでに敵中に間諜を仕込んでおります。戦線が崩壊すれば、彼らは寝返って後ろから攻めかかります」
「さすがの手際でございます」
と、サラナが意味ありげに苦笑いした。
バシリオス宮殿に仕込まれた間諜たちの対応に手を焼かされてきたのだ。しかし、味方にすれば心強い。
カリュが、アイカに顔を向けた。
「我らが勝利した後、アイカ殿下には彼らの亡命にご許可をいただければと」
「それは、もちろん!」
「カネを握らせ、ルーファにでも逃がしてやれば、我らの脅威とはなりますまい」
平然と語るカリュだが、みなと同様に、アイカも肝を冷やしていた。
――人を知り、地を知り、天を知る。さすれば、おのずから勝利を手に出来る。
ヒメ様の言葉はこのことかと、気を引き締めなおす。
いま《草原の民》たちは、無法な略奪者に立ち向かおうと気持ちをひとつにしている。しかし、ひとたび疑念が生じればたちまち崩れ落ち、ひろい草原を散りぢりに逃げ惑うことになるだろう。
そうなってはニーナを救うどころではない。
――天、か……。
と、アイカは地図から顔をあげた。
「えっと……。長老さんたち、……霧が濃くなる日って、あらかじめ分かったりします?」
*
天幕の中で、アンドレアスは不機嫌そうに報告書を置いた。
のん気に構えていたが、ここのところ成果に乏しい。自分の親衛隊に命じて、前線の状況を調査させたのだ。
そばに控える親衛隊長マタイスに顔を向けた。
漆黒の鎧に身を包む戦士は、つねに自分の身辺を警護してくれ、内戦で活躍した歴戦の武人でもある。サミュエルが去った後は、側近のひとりとして側に置いている。
「我が軍に使えぬ兵が多く紛れていたことはよく分かった。それで? 草原の者どもらはどこに消えたのだ?」
「おそらく、ここからは北東。あ奴らめが崇める聖地があります」
「ふん。神頼みか」
そばで給仕をさせられていたニーナが、ピクリと反応した。
――コノクリアに集まってる? みんな?
もともと《草原の民》は民族としての結束が堅い方ではない。みなが部族単位で遊牧しながら思い思いに暮らしてきた。
死ねば魂はコノクリアに向かい、そこで祖霊のもとに帰るとされていたが、祭祀も部族単位だ。
定期的な集まりさえ持たない。
それが、コノクリアに集結しているということは、今回の《奴隷狩り》の被害がよほど大規模なのか……。と、暗澹たる気持ちに襲われる。
アンドレアスは椅子から立ち上がり、おおきく伸びをした。
そしてマタイスをチラと見た。
「これだけの兵を動かして、たいした成果もなく帰国しては王の沽券に関わる」
「御意」
「……面倒だが軍を進めて、あ奴らを一網打尽にするか。我が国で奴隷を余らせるようなら、西国に売り払って予算の足しにすればいい」
「それでは、進軍の準備を」
「頼んだ。……さすがに、なにもない草原ばかりに飽きてきた。そろそろ城に帰りたくなってきたわ」
「かしこまりました。急がせるようにいたします」
「やかましい大臣どもの顔を見るのは億劫だが、楽しみも待っているしな」
と、アンドレアスの視線が自分の身体にまとわりつくのを感じ、ニーナは鳥肌を立てる。
単に性欲のはけ口としてだけ見られているのではない、ねばつくような視線。囚われの身となってから何度も浴びせかけられたが、慣れることはない。
しかし――、
――《一網打尽》。
という言葉は、ニーナの心をさらに暗く沈ませた。
――みんな、逃げられればいいけど。
そして、《草原の民》がみんな捕らえられ、滅亡してしまうのではないかと最悪の想像に、首を左右に振った。
草原の向こうで、アイカたちが万全の備えを築きつつあることを、ニーナはまだ知らない――。
「えっ? 死ぬんですか?」
「ええ……、死にますね。というか、殺さないと意味ないですよ?」
「……どうして?」
「這い上がってきますから。人間ですので……」
「あ、そっか……」
落とし穴を仕掛ければ敵兵を殺さなくて済むと思っていたアイカの考えは、サラナに瞬殺された。
這い上がれない深さの落とし穴など、そうそう掘れるものではない。
落とし穴の底にとがった杭を打っておくか、上から矢を浴びせかけるために掘るのだとサラナに言われ、すこし凹んだ。
「しかし、味方が殺される可能性は下げられます」
「……と、言いますと?」
「直接手をくださなくても、落とし穴がしとめてくれますから」
「あ、なるほど~」
聞いてみれば当たり前の話だが、サラナは呆れることもなく丁寧に教えてくれる。
これまで、ナーシャやカリュがそうしてきてくれたように。
――臣下に恵まれたな。
という、旦那様クリストフの声がよみがえる。
パンッと、カリュが手を打った。
「さあ、アイカ殿下。ここでつまみ食いしてたのでは、いつまでも話が終わりませんわ。長老たちのゲルに、みなを集めておりますので、そちらでまとめてお話しいたしましょう」
それもそうだと頷いたアイカが、ゲルの幕をめくると懐かしい顔があった。
「ニコラエさん!」
「お久しゅうございます、陛下……。いえ、アイカ殿下。といっても、ひと月も経ってはおりませんが」
ザノクリフ王国のプレシュコ太守ニコラエが頭をさげていた。
言われてみれば、一か月経っていない。しかし、ザノクリフの山々を駆けた日々は、ずいぶん遠くに感じる。
「アイカ殿下危急の時と聞きおよび、アイラ殿に頼み込み、精兵200と共に馳せ参じましてございます。どうぞ、いかようなりともお使いくださいませ」
小兵ながら引き締まった体躯の太守が、職人肌の佇まいで膝をつき、となりではアイラが微笑みながら頷いてくれていた。
アイラからの報告はまだだが、その表情から槍の調達も上手くいったのだろう。
さらに、そのとなりには白髪で凛々しい雰囲気をした将が座っていて、力強くうなずいている。
無精ひげが精悍さを増してみえる美形で老境の戦士……。
「え? ……ジョルジュさんですか?」
「……さようですが」
「あっ……、剃りましたね。……ひげ」
《草原の民》の長老たちも交えて車座になり、軍議をはじめる。
まずはサラナを皆に紹介し、サラナに皆を紹介する。
そして――、
「じゅ……、15万ですか……」
カリュの報告に絶句した。
草原の西に展開しているリーヤボルク本軍は、その数15万。国王アンドレアス自らが率いており、ゆるやかに東進をつづけている。
対して、現在訓練中の《草原の民》の兵員は約5万。
その差は歴然としていた。
しかし、地図を見つめるサラナが平然と言い放った。
「なにも真正面から当たる必要はありません。こちらに有利な地形に誘い込めば良いのです」
「左様ですな。……この辺りなど、敵軍を分断させるには絶好の地形」
と、地図を指差して応えたのはニコラエだった。
起伏の激しい山間での戦闘経験が豊富で、地の利を活かす戦いはお手の物である。
「地図をみる限り、こちらなど意外と伏兵を忍ばせておけば西からは死角になっておるはず……」
カリトンやネビも興味深そうにうなずいた。
ひろい草原にも活用できる地形を次々と見出してゆくサラナとニコラエのやり取りに唸らされる。ふたりの話を聞いているだけで、まるで敵軍の動きまで見えるようだ。
カリュが言葉を継いだ。
「数だけは多いリーヤボルク本軍ですが、中味を見ればバラバラです。小隊単位で成果を競わせているようで、互いに疑心暗鬼にさえなっております」
「なるほど、そこを突けば、存外簡単に崩せそうですな」
と、ネビが地図をにらんでうすい眉を寄せ、カリュがつづける。
「しかも、もとは西域諸国からかき集めた兵のようで、互いの信頼関係もうすい」
「……つけ入るスキがおおいにありそうですな」
「ですので、一度混乱すれば数が多い分、手をつけられなくなるはずです。……また、すでに敵中に間諜を仕込んでおります。戦線が崩壊すれば、彼らは寝返って後ろから攻めかかります」
「さすがの手際でございます」
と、サラナが意味ありげに苦笑いした。
バシリオス宮殿に仕込まれた間諜たちの対応に手を焼かされてきたのだ。しかし、味方にすれば心強い。
カリュが、アイカに顔を向けた。
「我らが勝利した後、アイカ殿下には彼らの亡命にご許可をいただければと」
「それは、もちろん!」
「カネを握らせ、ルーファにでも逃がしてやれば、我らの脅威とはなりますまい」
平然と語るカリュだが、みなと同様に、アイカも肝を冷やしていた。
――人を知り、地を知り、天を知る。さすれば、おのずから勝利を手に出来る。
ヒメ様の言葉はこのことかと、気を引き締めなおす。
いま《草原の民》たちは、無法な略奪者に立ち向かおうと気持ちをひとつにしている。しかし、ひとたび疑念が生じればたちまち崩れ落ち、ひろい草原を散りぢりに逃げ惑うことになるだろう。
そうなってはニーナを救うどころではない。
――天、か……。
と、アイカは地図から顔をあげた。
「えっと……。長老さんたち、……霧が濃くなる日って、あらかじめ分かったりします?」
*
天幕の中で、アンドレアスは不機嫌そうに報告書を置いた。
のん気に構えていたが、ここのところ成果に乏しい。自分の親衛隊に命じて、前線の状況を調査させたのだ。
そばに控える親衛隊長マタイスに顔を向けた。
漆黒の鎧に身を包む戦士は、つねに自分の身辺を警護してくれ、内戦で活躍した歴戦の武人でもある。サミュエルが去った後は、側近のひとりとして側に置いている。
「我が軍に使えぬ兵が多く紛れていたことはよく分かった。それで? 草原の者どもらはどこに消えたのだ?」
「おそらく、ここからは北東。あ奴らめが崇める聖地があります」
「ふん。神頼みか」
そばで給仕をさせられていたニーナが、ピクリと反応した。
――コノクリアに集まってる? みんな?
もともと《草原の民》は民族としての結束が堅い方ではない。みなが部族単位で遊牧しながら思い思いに暮らしてきた。
死ねば魂はコノクリアに向かい、そこで祖霊のもとに帰るとされていたが、祭祀も部族単位だ。
定期的な集まりさえ持たない。
それが、コノクリアに集結しているということは、今回の《奴隷狩り》の被害がよほど大規模なのか……。と、暗澹たる気持ちに襲われる。
アンドレアスは椅子から立ち上がり、おおきく伸びをした。
そしてマタイスをチラと見た。
「これだけの兵を動かして、たいした成果もなく帰国しては王の沽券に関わる」
「御意」
「……面倒だが軍を進めて、あ奴らを一網打尽にするか。我が国で奴隷を余らせるようなら、西国に売り払って予算の足しにすればいい」
「それでは、進軍の準備を」
「頼んだ。……さすがに、なにもない草原ばかりに飽きてきた。そろそろ城に帰りたくなってきたわ」
「かしこまりました。急がせるようにいたします」
「やかましい大臣どもの顔を見るのは億劫だが、楽しみも待っているしな」
と、アンドレアスの視線が自分の身体にまとわりつくのを感じ、ニーナは鳥肌を立てる。
単に性欲のはけ口としてだけ見られているのではない、ねばつくような視線。囚われの身となってから何度も浴びせかけられたが、慣れることはない。
しかし――、
――《一網打尽》。
という言葉は、ニーナの心をさらに暗く沈ませた。
――みんな、逃げられればいいけど。
そして、《草原の民》がみんな捕らえられ、滅亡してしまうのではないかと最悪の想像に、首を左右に振った。
草原の向こうで、アイカたちが万全の備えを築きつつあることを、ニーナはまだ知らない――。
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